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その黒猫は、夜の港で待っている。  作者: 幸円一


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第20話 思い出を、受け止めて。

 蓮は、しばらく何も言えなかった。柑奈の声も、波の音も、遠くに聞こえる鳥の鳴き声も、全部が少しだけ遠かった。


 タイムカプセルは、消えたわけではなかった。

 土守様に持っていかれたわけでもない。

 どこかの知らない誰かに盗まれたわけでもない。

 柑奈が掘り返して、持ち帰った。

 そのことは、もう分かった。


 そして、柑奈がどうしてそんなことをしたのかも分かった。少なくとも、誰かを傷つけるような目的でやったわけではないことは分かった。それでも、自分勝手な理由だと言えば、そうかもしれない。けれど、そのことが蓮にとっては救いだった。


「……事情は、分かった」

 ようやく蓮は言った。

 柑奈は膝の上で拳を握ったまま、じっと蓮を見ていた。

「でも、正直、今はまだどうしたらいいか、俺には分からない」

「……うん」

 柑奈は小さく頷いた。

「ただ」

 蓮は、海の方を見た。

 朝の光を受けて、海面がきらきらと揺れている。

「柑奈には悪いけど、これ、俺と柑奈だけで抱えてていい話じゃないと思う」

 柑奈の肩が、ほんの少し揺れた。

 けれど、彼女はすぐに頷いた。

「うん」

 その返事は、思っていたよりもはっきりしていた。

「それは、私もそう思う」

 

 また、沈黙が落ちた。

 タイムカプセルは消えたわけではない。珠美の五万円も、弥太郎の手紙も、三咲の貝殻も、蓮自身の何かも、確かにこの世に存在する。


 でも、それをどうすればいいのか。

 みんなにどう話せばいいのか。

 自分はどうしたいのか。

 考えようとすればするほど、頭の中が絡まっていく。


「あーーもう!」


 蓮は、両手でぐしゃぐしゃと髪をかいた。柑奈がびくりと肩を跳ねさせる。


「なんかもう、分かんねえ!」


 蓮はそのまま海の方を向いた。


「どうしたらいいか、分かんねえよ!」


 それは、まるで古い青春映画みたいだった。

 海に向かって叫んだところで、答えが返ってくるわけではない。波はいつものように堤防へ当たって小さく砕けるだけで、きっとその叫びは渡船乗り場のおじさんにも聞こえてしまっただろう。

 それでも、声にしてみると、朝の光を反射する海が、ほんの少しだけ胸の奥を照らしてくれたような気がした。


 蓮は大きく息を吐いてから、柑奈の方へ振り返った。

「ったく」

 自分でも、少し呆れたような声だった。

「ほんと、勢いで突っ走るよな。柑奈って」

 柑奈が目を瞬かせる。

 蓮は苦笑した。

 許した、というのとは違う。全部もういい、というのでもない。


 けれど、目の前にいるのはもう、知らない誰かではなかった。

 菱野柑奈だった。

 昔から、勢いで走って、転んで、泣きそうになって、それでも変なところで絶対に引かない、蓮たちの知っている柑奈だった。


「しょーがねえな」


 言葉にはしなかった。


 けれど、たぶん顔には出ていた。

 柑奈の表情が、くしゃりと歪む。さっきまで止まっていた涙が、また溢れそうになっているのが分かった。柑奈はそれを必死に押し込めるみたいに、少しだけうつむいて、ぎゅっと目を閉じた。


 数秒。


 それから顔を上げた時、柑奈は笑っていた。

 泣きそうで、申し訳なさそうで、それでも少しだけ安心したような笑顔だった。


「ほんと、ごめん」


 蓮は、小さく、頷いた。


「うん」


 それから二人は、柑奈の家へ向かった。


 菱野家は、港から少し坂を上ったところにある古い家だった。玄関先には鉢植えが並び、ガレージの前には自転車が二台停めてある。

 柑奈は家の中から鍵を持ってくると、ガレージのシャッターの鍵穴に差し込み回す。少しだけ屈んで、シャッターを持ち上げると、金属がこすれる音がしてガレージの中に光が差し込んだ。


「こっち」

 柑奈はそう言うと、ガレージの奥へ入っていく。

 古いタイヤや工具箱、園芸用の土の袋、使わなくなった折りたたみ椅子なんかが置かれている。そんな薄暗いガレージの隅に、それはあった。


 半斗缶。


 六年以上土の中にあったにしては綺麗に見えるが、よく見るとところどころに薄い錆があった。六年前に埋めた時のままではない。けれど確かに、蓮たちが埋めたタイムカプセルだった。


 その横に、破れたビニールが置かれていることに気付く。泥で汚れて、ところどころ裂けている。けれど、できるだけ皺を伸ばすようにして、きれいに折りたたまれていた。

 さらにその隣には、トーフちゃんのテープがあった。くしゃくしゃになって、泥で汚れた透明なテープ。白い四角い顔はところどころ歪み、黒い目も少しかすれている。それでも、できる限りに広げ直し、何かの紙筒に巻き直されていた。


 蓮は、それを見て、胸の奥が少しだけ温かくなるのを感じた。

 やっぱり、柑奈は、そういうやつだ。


「……これ、俺が預かる」


 蓮は半斗缶を見下ろしたまま言った。

 柑奈は少し迷ったように蓮を見た。


「いいの?」

「うん。俺が持って帰る」

「……分かった」

 柑奈は頷いた。


 蓮は半斗缶を持ち上げた。

 思っていたほどの重さはなかった。

 ただ、六年前の五人分の思い出。

 その重さが、腕にかかる。


 ガレージを出ると、外の光が少しまぶしかった。

 柑奈がシャッターを下ろす。がらがらと金属音が響いて、それから二人はしばらく黙って立っていた。


「柑奈」

 蓮は半斗缶を抱え直しながら言った。

「俺は、柑奈のこと、別に怒ってない」

 柑奈は、少しだけ目を伏せた。

「……うん。ありがとう」

「いや」

 蓮はすぐに首を振った。

「怒ってるとしたら、俺たちに何も相談しなかったこと」

 柑奈が顔を上げる。

「言いにくいことがあったっていうのは、分かる。分かるけど、そういうのは、ほら」

 蓮はそこで言葉に詰まった。うまい言い方を探したのに、何も出てこない。

「……別に、三咲にだけとか。それでもよかったわけじゃん」

 柑奈は黙って聞いていた。

「珠は……ちょっと危険かもしれないけど」

 そう付け足した瞬間、柑奈が小さく吹き出した。

 ほんの少し。けれど、それは今日初めて聞く、柑奈らしい笑い方だった。


「そうだね」

 柑奈は笑ったまま、少しだけ肩を落とす。

「ごめん」

「うん」

 蓮は頷いた。

 それから、少しだけ表情を引き締めた。

「ただ」

 柑奈も、すぐに笑みを消した。

「みんなのことは、分かんないから」

「……うん」

「たぶん、俺はこのことをみんなに話すと思う。いや、話さなきゃいけないと思う」

「うん」

 柑奈は、今度もまっすぐ頷いた。


「その時に」

 蓮は言葉を選ぶように続けた。

「俺はみんなに、俺は怒ってない、とは言わない」

 柑奈は表情を変えずに蓮を見ている。

 珠美がどう思うか。

 弥太郎がどう思うか。

 三咲がどう受け止めるか。

 それは蓮が決めていいことではない。

 蓮が怒っていないから、みんなも怒らないでいよう。そんなふうには、言えない。


「みんながどう思うかは、俺には決められない」

「……うん」

 柑奈は小さく頷いた。

「分かってる」


「でも」

 

 また、少しの沈黙。


「俺も受け止めるから」


 朝の町には、少しずつ人の気配が戻り始めていた。坂の下から自転車のブレーキ音が聞こえる。どこかの家で、窓を開ける音がした。


「じゃあ」

 蓮は半斗缶を抱え直した。

「また、連絡するよ」

「うん」

 柑奈は頷いた。

「今日は、ありがと」

「ああ」

 蓮は歩き出した。

 一歩、二歩。

 けれどすぐに、足が止まった。


「柑奈」

 振り返らずに呼ぶ。

「ん?」

 背中の向こうで、柑奈の声がした。

「……泣かせて、ごめん」

 言った瞬間、胸の奥が少しだけ痛んだ。

「俺も、色々、勘違いとか。勢いで突っ走っちゃったみたいで」

 しばらく返事はなかった。

 それから、柑奈が小さく息を吐く気配がした。

「……ううん」

 いつもの柑奈より、少し柔らかい声だった。

「全然大丈夫。気にしないで」

「……ああ」

「あ、でも」

「ん?」


「泣いたことは、みんなには内緒ね」

 蓮は、そこでようやく振り返った。

 柑奈はガレージの前に立っていた。

 目はまだ少し赤い。けれど、口元にはいつもの柑奈らしい、少し強がった笑みが戻っていた。


「約束するよ」


 柑奈は、少しだけほっとしたように笑った。


  * * *


 家に戻ると、蓮は半斗缶を電話台の横に置いた。

 古い木の電話台。その上には、ボタン式の電話機が置かれている。受話器の横には、母親が書いた電話番号のメモや、町内会の連絡網が挟まった小さなノートがあった。

 蓮はしばらく、その電話を見つめた。半斗缶は、足元にある。六年前の五人分の思い出が、すぐそばにある。

 このまま、蓮と柑奈だけで終わらせることもできたのかもしれない。

 けれど、それではだめだ。


「まずは……弥太郎かな」


 蓮は受話器を取った。番号は覚えている。

 何度もかけたことのある番号だった。

 指でボタンを押していく。呼び出し音が、数回続いた。


『はい、木崎です』


 聞き慣れた声が、受話器の向こうから聞こえた。


「あ、俺。蓮」

『おう、どうした?』

「ちょっとさ」

 蓮は足元の半斗缶を見る。

 そこに入っている、五人分の思い出。

「話したいことがあって」

 受話器を握る手に、少しだけ力が入った。

「今日ってこのあと、集まれそうかな」

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