第19話 あのとき。
「蓮くんに、だよ」
その一言を聞いた瞬間、蓮の頭は真っ白になった。
何か言おうとした。けれど、何を言えばいいのか分からなかった。さっき自分の口からこぼれた「弥太郎」という名前が、まだその場に残っている気がした。ひどく間抜けで、場違いで、残酷なことを言ってしまった気がした。
柑奈はまたうつむくと、膝の上でぎゅっと拳を握っていた。頬にはまだ涙の跡が残っている。さっきよりも赤くなった顔を、潮風が撫でていく。
「だから」
柑奈が、かすれた声で言った。
「見られたくなかったの」
蓮は何も返せなかった。
「みんなにも、見られたくなかったし……」
柑奈はそこで一度、言葉を飲み込む。
それから、涙で赤くなった目で、ちらりと蓮を見た。
「蓮くんにだけは、絶対に見られたくなかった」
胸の奥が、きつく締めつけられた。
柑奈は、膝の上の拳を見つめたまま、ぽつりぽつりと話し始めた。
「最初は、私も普通に探してたんだ」
声はまだ震えていた。
「タイムカプセル、見つかればいいなって思ってた。珠の五万円のこともあったし、あの頃のみんなと自分が何を入れたのかも……ちょっと恥ずかしいけど、たぶん楽しいんだろうなって」
* * *
柑奈がまだ何も気づいていなかった、発掘初日。常土山の中腹で、五人は地図を広げていた。
赤いみがある。
大きな石から十歩くらい。
猫の通り道。
六年前の自分たちが描いた宝の地図は、今見ると頼りない目印ばかりだった。けれどそれがなんとも愛おしくも感じられた。
弥太郎が小三の自分たちをポンコツ呼ばわりして、珠美がそれっぽいところをガンガン掘るぞ作戦を発表して、蓮がそれに突っ込んで、三咲が困ったように笑った。
柑奈も笑っていた。笑えていた。
けれど、休憩の時だった。
珠美がみんなに聞いた。
――みんな、自分が何入れたか覚えてる?
最初は、柑奈も本当に覚えていなかった。
二十歳の自分への手紙は、みんなで入れたはずだった。それ以外に、何かを入れたような気もする。けれど、それが何だったのかまでは、うまく思い出せなかった。
弥太郎が言った。
――見つかったら、その場で開けるんだよな。
その瞬間、胸の奥で何かがひっかかった。
見られると恥ずかしいもの、入れてなかったっけ。
…………入れた。
手紙だ。
二十歳の自分への手紙ではない、別の手紙。
蓮くんへ。
そこまで思い出した時、背中の奥が一気に冷たくなった。そのあと、一気に顔が熱くなった。昔の自分を今すぐ止めに行きたくなった。
六年前の自分が、蓮に向けて書いたもの。
そのまっすぐさを、今の蓮に知られることが、何よりも恥ずかしかった。
考えただけで、息が苦しくなった。
その後、作業は再開したが、柑奈は完全に上の空だった。いや、ある意味一番真剣にタイムカプセルを探していたのは柑奈だったかもしれない。
私が見つける。見つけて、一旦黙っておこう。そっと埋め戻して、なんとか解決方法を考えよう。
他の人が先に見つけたら?弥太が見つけて、よっしゃーなんて勢いで珠が開けて、みんなの入れたものを見る流れになって、あれ?柑奈の手紙ひとつじゃないの?なんてなって……だめだ、絶対にだめだ。
そんなことを考えると、シャベルを持つ手にも力が入った。
結局、その日タイムカプセルは柑奈も他のみんなも掘り当てられることなく終わった。一旦町に降りて昼食をとろうという珠美の提案に、内心胸をなでおろした。
昼食を終えて、港のベンチで午後の予定の話になったときに、ひとつ、小さな嘘をついた。午後からは予定を入れてしまった、と。完全に嘘だったわけでもなく、母からの頼まれごとがあったが、今日の発掘作業がどうなるかもわからなかった柑奈は、できたらやるよ、くらいの半ばお断りの返事をして家を出てきていた。
――ごめん。私、午後から予定入れちゃってて。
ひとまず今日のところはこれで作業を中断させよう。そう思ったのだ。その後、蓮が四人で続きをやるかと言ったときには一瞬肝を冷やしたが、仲間のフォローもあってなんとかうまく凌ぐことができた。
帰宅後、当然母からの頼まれごとなど頭から消え去っていた柑奈は、自室でぬいぐるみをきつく抱きしめてベッドに倒れ込んだ。まだ服には何か所か土汚れがついていたかもしれないが、気にしている余裕はなかった。
やばいやばいやばい!どうしよう!?
なんとか解決策を考えないといけないのに、頭の中には「やばい」「恥ずかしい」「読まれたら消えるしかない」といったものしか浮かばない。
このままでは、明日また探すことになる。もしかしたら、明日見つかるかもしれない。いや、今日だって、もうちょっと掘ってたら見つかってたかもしれないのだ。そう思うと、なおさら頭の中には「やばい」しか浮かばなくなった。
しばしの「やばい」の応酬のあと、柑奈は窓の外に目をやった。まだ外は明るい。だが、この季節とはいえ、あと数時間もすれば空は暗くなり始めるだろう。時計を見る。
今からならまだ、間に合うかもしれない。
なんとかしてタイムカプセルをひとりで見つける。
そして、自分の手紙だけ取り出せばいい。
他のものには触らない。誰のものも見ない。ラブレターを抜き取るだけ。
そう何度も自分に言い聞かせた。もちろん、それでもそれが良くないことであることはなんとなくわかっていた。でも、その時の柑奈には、それがぎりぎりの言い訳だった。
柑奈は一人で常土山へ向かった。木々の影は長く伸びて、落ち葉を踏む音だけがやけに大きい。さっきまで五人でいたことが懐かしく思えるほど心細く、遠くでがさりと音がするたびに、柑奈は肩を揺らした。
ひとりでいるあの広場は昼間とは違って、静かだった。
柑奈は考える。わずかに脳裏をかすめた記憶。
「よく考えろ、柑奈……!」
あの時、何が自分の脳裏をかすめたのか。何を思い出しかけたのか。そこに、みんなにはたどり着けない何かが、自分にはたどり着ける何かがあるような気がして、柑奈は自分を急かす。
“赤いみ”
“赤い実”
そうだ、赤い実。
赤い実に手を伸ばしたこと。
足元の土が崩れたこと。
腕を掴まれた感触。
赤い実がなっている木ではなかった。
もっと低いところ。
地面に近い、小さな赤い実。
今、そのあたりに赤い実は見えない。だけど、確信があった。すっかり忘れていた、自分の腕を掴む、力強い手の感触が蘇った。
ここだ、絶対。
小さなスコップを握る手が汗ばんでいた。
何度も周りを見た。
誰もいない。
誰も来ない。
柑奈はしゃがみ込み、土を掘り始めた。
昼間あれだけ掘ったせいで、指も腕もまだ重かった。昼間とは違う、持参した小さなスコップでは思うように掘り進められない。それでも掘った。落ち葉をどけ、土を崩し、木の根を避ける。スコップの先が石に当たるたびに、心臓が跳ねた。
そして、何度目かの手応えで、硬いものに当たった。
木の根ではない。石でもない。土の中の、異質な鈍い感触。
周りの土を夢中でかき出す。
やがて、土にまみれたビニールが見えた。
幾重にも巻かれたテープ。白い四角い顔が、土の下からのぞいていた。
確か……珠美がタイムカプセルの梱包に使おうと持ってきたものだったような気がする。
これなら絶対水が入らないよ、とぐるぐる巻きにして。名前は忘れちゃったけど、このキャラクターが守ってくれるはず、なんて珠美が言ったんじゃなかったっけ。
ふと気づく。辺りは薄暗くなり始めていた。
焦ってテープの端を探す。ようやく見つけたその箇所から、テープを剥がそうとする。六年以上ビニールに張り付き土の中に埋まっていたテープは、簡単には剥がれない。じれったくなり少し強く力を入れると、テープが張り付いたままビニールが裂けてしまった。
やってしまった、と思いつつも、もう仕方がない、とそこを足掛かりに少し乱暴にテープをビニールから引きはがす。何本目かのテープを剥がすと、ようやく半斗缶がビニールから解放された。一息ついて周りを見ると、剥がしたテープが丸まって落ちている。土の付いたテープで、あのキャラクターは変わらず笑顔だった。
柑奈はそれを見て、胸が痛くなった。だが、そうしている間にもあたりはどんどんと夜に向けて暗くなっていく。柑奈はとりあえずテープを拾い集めると、罪悪感にふたをするように、ぐしゃぐしゃに丸める。山に置いていくわけにもいかない。リュックのサイドポケットに押し込んだ。
半斗缶に向き直った柑奈は、泥のついた手でそれを開ける。
中には、袋が五つ入っていた。
防水目的に、ぴっちりと封がされた袋。
濃い灰色で、中身は見えない。
あれ、これ……私のはどれだろう、と中のひとつを手に取る。名前や、誰のものかを示す印などは見当たらなかった。
もうひとつ手に取る。最初のものより少し重い気がした。だが、これにも名前はない。残る三つも同じだった。だめだ、これじゃわからない。 最初に手にした袋の、ぴっちりと閉ざされた開け口に指をかける。
そこで、柑奈の手が止まった。
もし、私のじゃなかったら。
もし、他の誰かのだったら。
珠美の袋かもしれない。弥太郎の袋かもしれない。三咲の袋かもしれない。蓮の袋かもしれない。
幼い仲間の誰かが、袋の中に入れた宝物。それを今、勝手に見てしまうことになるかもしれない。
それだけは、だめだった。
もう十分、ひどいことをしている。
分かっている。
分かっているけれど、これを開けたら、本当に戻れなくなる気がした。
柑奈は袋から手を離した。
どうしよう。
どうすればいい。
隣に置いてあるビニールを見た。破れて、泥がついて、もう元のようには巻けそうになかった。新たに封をするテープだって持ってきていない。これでは、元通りに包み直せない。
このまま無理矢理埋め直しても、明日みんなが見つけたら、すぐに分かる。
誰かがタイムカプセルを掘り返し、開けたと。
夕方の山は、さっきより暗くなっていた。
木々の影が濃くなって、足元の土の色も分かりにくくなっている。風が吹くたびに、葉がざわざわと鳴った。
柑奈の息が浅くなる。
考えなきゃ。
自分の手紙は取り出せない。でも、このまま元に戻すこともできない。
早く。早く、どうにかしなきゃ。
柑奈に浮かんだ選択肢は、ひとつだった。それしか選べなかった。
ふたをして、半斗缶を抱える。思ったよりも重かった。
ビニールをリュックに詰め込み、タイムカプセルを掘り出した穴を急いで埋める。できるだけ元通りに土を戻して、落ち葉をかぶせる。けれど、きれいにできたかどうかなんて分からなかった。手は泥だらけで、膝にも服にも土がついていた。
柑奈は半斗缶を抱えて、山を下りた。
山に置いたものを、土守様が持っていく。
そんな話を、まだこの時の柑奈は知らなかった。
けれどこの日、常土山から大事なものを持っていったのは、神様ではなく柑奈だった。
* * *
「それから」
告白を終えた柑奈は、膝の上で拳を握ったまま言った。
「家に持って帰って、ガレージの隅に置いた」
蓮は黙って聞いていた。
柑奈の声は、もうほとんど泣き疲れたみたいに掠れていた。
「落ち着いたら考えようって思った。明日までに何とかしようって。でも……結局、何もできなかった」
「開けたのか」
蓮は、ようやくそう聞いた。硬さを感じる声だったが、さっきまでよりも幾分優しく響いた。
柑奈はすぐに首を振った。
「開けてない」
その返事だけは、はっきりしていた。
「袋は、ひとつも開けてない。……それだけは、本当」
蓮は、柑奈を見た。
泣き腫らした目。赤くなった頬。膝の上で握りしめた手。
ふと、昔の、それこそ小学三年生くらいの頃の柑奈を思い出した。
小学三年生くらいの頃、柑奈が男子と取っ組み合いの喧嘩をしたことがあった。たしか、三咲のことをからかわれて怒ったのがきっかけだった。先生に叱られて、目に涙を浮かべながら、それでも柑奈は一歩も引かなかった。怪我をさせたことは謝る。でも、三咲をからかったことは、あっちも謝るべきだ。そう言って、最後まで譲らなかった。
そんな幼い柑奈の姿が、目の前の柑奈に重なった。
「でも」
柑奈の声に、蓮はハッと我に返った。
「そんなの、言い訳だよね」
潮風が、二人の間を抜けていく。
「私、みんなの思い出を勝手に持って帰ったんだもん」
「……」
「私が、みんなのタイムカプセルをなくしたんだよ」
蓮は、何も言えなかった。
目の前の海が、朝の光を跳ね返している。
きらきらと眩しいのに、胸の奥だけが重かった。




