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その黒猫は、夜の港で待っている。  作者: 幸円一


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第18話 思い出は、勘違い。

「私、言おうとしたんだけど」


 柑奈は、震える声でそう言った。

 目元を手の甲でこすっている。こぼれる涙を隠そうとしているのだろう。けれどその意図とは逆に、こすればこするほど頬は赤くなって、涙の跡は余計にはっきり見えた。


 蓮は、それをまっすぐ見ることができない。見たら、自分が柑奈を泣かせているという事実を、もっとはっきり突きつけられる気がして。


「でも、どうしても言えなくて……」

 柑奈の声は、波の音に混じりそうなくらい小さかった。

「私、とんでもないことしてるって、分かってた。分かってたんだよ。罪悪感とか、後悔とか、焦りとか、そういうのがぐちゃぐちゃになって、自分でも、何やってんのって思って」

 蓮は何も言わなかった。


「だから、この前……蓮くんに言おうとして」

「この前?」

 思わず聞き返していた。


 柑奈は、ほんの少しだけ顔を上げた。

「うん。ほら、ここで」

 ここ。

 渡船場のベンチ。

 柑奈のリュックからこぼれ落ちた、あのテープを見た日。

 そして、蓮が柑奈の恋愛相談を聞いた日。


 ――言わなきゃいけないことがある時って、どうする?


 ――言わないと、心が苦しくなって、耐えられないようなこと。


 ――それを言ったら、その人との関係が変わっちゃうかもしれなくても?


 あれは……

 あれは、本当に恋愛相談だったのか?


 蓮の頭の中で、何かが鈍い音を立てて崩れた。


「あの時」

 柑奈は、ひとつひとつ言葉を選ぶように続けた。

「蓮くんには、私がやっちゃったことを言おうと思ってた。タイムカプセルを一人で掘り返して、隠したこと。ちゃんと言わなきゃって思って」


 やっぱり。

 違った。

 蓮が勝手に、そう思っていただけだった。

 恋愛相談だと。

 弥太郎に告白するかどうかを迷っているのだと。

 そう決めつけて、分かったような気になって、全然違う方向を見ていた。

 馬鹿丸出しじゃないか。

 怒りが湧いた。

 もちろん柑奈にではない。自分に。

 怒りと、恥ずかしさと、情けなさと、今さらどうにもならない後悔が、一度に頭の中へ押し寄せてくる。胸の中でさっきまで冷たく固まっていたものが音もなく溶け、今度は熱を持ってぐらぐらと揺れ始めた。


 何を聞いていたんだ、俺は。

 あの時、柑奈は言おうとしていたのに。

 自分は、何を聞いた気になって、勝手に分かったつもりになっていたんだ。


「だけど」

 柑奈はもう、涙を隠そうともしなかった。ぽろぽろと、大粒の涙が頬を伝って落ちていく。

「どうしても、勇気が出なかった。ちゃんと言って、謝らなきゃって思ってるのに。でも、具体的なこと、なんにも言えない私に、優しい言葉をかけてくれて、そんな蓮くんに、嫌われちゃうかもしれないって思ったら……どうしても、どうしても言い出せなくって……」

 涙でつかえてしまう言葉を、必死につないでいく。

「今日だって、結局、蓮くんに言わせちゃって……!」


 蓮は、奥歯を噛んだ。

 謝るべきなのは、自分の方かもしれない。

 そう思ったのに、その言葉は喉で止まった。

 今ここで謝ったら、柑奈の話をまた遮ってしまう気がした。

 今度こそ、聞かなければいけない。

 柑奈が言おうとしていることを。


「……私、思い出したの」

 柑奈が言った。

「タイムカプセルに入れたもの」

 蓮は顔を上げた。

「それを、今のみんなにはどうしても見られたくなくて」

 柑奈の声が、また小さくなる。

「あの日、弥太が言ったでしょ。見つかったら、その場で開けて中身を見てみようって」


 蓮は覚えていた。

 山の中で、五人で休憩していた時。

 タイムカプセルの中身の話になった。二十歳の自分たちへの手紙。珠美の五万円。三咲の貝殻。弥太郎のよく分からないカード。蓮自身が何を入れたのかは、覚えていなかった。


 そして弥太郎が、見つかったらその場で開けるんだよな、と言った。

 あの時、柑奈は。

 柑奈は、何を思い出していたのだろう。


「それを聞いて、どうしようって思った」

 柑奈は、ぎゅっと両手を握りしめた。

「わけわかんないくらい焦って、頭の中が真っ白になって。でも、それを今のみんなに見られるのだけは、どうしても嫌で……」


「……そんな」

 蓮は、ようやく声を出した。自分の声なのに、どこか遠くから聞こえたような気がした。

「一体、何を入れたんだよ」


 柑奈は、しばらく黙っていた。

 海の光が、頬を伝った涙の跡に反射している。

 それから、消えそうな声で言った。


「手紙」

「手紙って……みんな書いた、二十歳の自分へのやつだろ」

 柑奈は首を振った。

「それとは別」

「別?」

 聞き返した蓮に、柑奈は一度、唇を結んだ。

 言うべきかどうか、まだ最後に迷っているように見えた。けれど、ここまで来てもう戻れないことも、たぶん分かっていた。

 柑奈は、涙で濡れた目を伏せる。

 頬が、さらに赤くなったように見えた。


「……ラブレター」


 蓮は、すぐには意味が分からなかった。


「ら、ラブレター?」

「……うん」

 柑奈は小さく頷いた。

「ラブレターを書いて、入れたの」


 風が吹いた。

 柑奈の短い髪が、頬にかかる。

 蓮は頭の中で、その言葉を何度も繰り返した。


 ラブレター。

 柑奈が。

 小学三年生の時に。

 タイムカプセルに。

 そこまで考えて、蓮の頭は、ほとんど反射みたいに一つの名前へ飛んだ。

 あの日。勘違いをした、あの日に出た名前。

 柑奈が相談したかったのは、そのことなのだと決めつけていた相手の名前。


「弥太郎に、か?」


 柑奈が、顔を上げた。

 その表情を見て、蓮は息を止めた。


 悲しそうだった。

 怒っているようにも見えた。

 呆れているようにも、泣きたいのをこらえている表情にも見えた。

 その全部が、ぐちゃぐちゃに混ざった顔だった。


 柑奈は、ほんの少しだけ目を細めた。

 それから、蓮の目をしっかりと見て、震える声で、だけどはっきりと言った。


「蓮くんに、だよ」


 蓮の頭は、もう一度、完全に止まった。

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