第16話 思い出の、真相。
早朝。商店街のシャッターはまだ半分ほど下りたままで、店先ののぼりも、朝の風にゆっくりと揺れていた。観光客が増えるには、まだ少し早い時間だ。
海沿いの道を歩いていると、時々、自転車に乗った地元の人とすれ違った。犬を連れた老人。店を開ける準備をしているらしい人。港の方へ歩いていく作業着姿の男の人。
町はもう起き始めていたが、それでもいつもの昼間に比べれば、まだ眠たげだった。
昨夜はどうせろくに眠れないだろうと思いながらベッドに横になった。実際、その通りになった。布団に入っても、目を閉じても、眠りは浅いところで何度も途切れた。
待ち合わせは八時にしたが、八時まで待っていられなかった。
布団の中で目だけを開けたまま、同じことを何度も考えているうちに、だんだん自分が何を待っているのか分からなくなってきた。時間が経てば経つほど、昨日、受話器を置いた時に胸の奥で固まったものが、少しずつ溶けて、別の言い訳に変わってしまう気がした。
もういい。
そう思って、蓮は家を出た。約束の時間までは、まだ一時間以上あった。
渡船場に着いたのは、七時を少し過ぎたころだった。
この時間でも、船はもう動いている。少し離れたところに、向こう岸から来た渡船がゆっくりと近づいてくるのが見えた。
平日なら、通勤や通学の人がもう少し多い。自転車ごと船に乗り込む人や、鞄を肩にかけた学生たちが利用する住民の足でもあるからだ。
けれど今日は祝日だった。
船が着くたびに数人の人影が動いて、またすぐに途切れる。観光客が増え始めるには、まだ早い。渡船場には、町が完全に目を覚ます前の、薄い静けさが残っていた。
潮の匂い。
桟橋に繋がれた船が、波に合わせて小さく軋む音。
遠くで鳴く鳥の声。
そのどれもが、やけにはっきりと感じられた。
古いベンチが見える位置まで来て、蓮は足を止める。柑奈がいた。約束の時間には、まだ早すぎるはずだ。
ベンチに座って、両手を膝の上で重ねている。小さく背中を丸めて、ぼんやりと海の方を見ていた。
一瞬、声をかけるかどうか迷った。心の準備がまだできていなかった。その逡巡の間に、蓮の気配に気づいたのか、柑奈は顔を上げた。目が合って、少しだけ驚いた表情をすると立ち上がり、右手を小さく上げる。その仕草は、いつもの柑奈と変わらなかった。
「……早いな」
言ってから、自分も同じだと気づく。
柑奈もそれに気づいたのか、少しだけ困ったように笑った。
「蓮くんもね」
「まあ」
蓮は海の方を見た。
「なんか、目が覚めちゃってさ」
「……うん」
柑奈は小さく頷いた。
「私も」
柑奈も同じなのだろう。二人とも、同じような夜を越えて、同じように約束の時間まで待てずに、ここへ来てしまったのだ。
蓮はベンチに腰を下ろした。柑奈も座り直す。間に、少しだけ隙間が空く。それは、普段なら気にもならないくらいの距離だった。けれど今は、その隙間がやけに大きく見えた。
目の前の海は、朝の光を反射してきらきらと揺れている。桟橋の向こうで、渡船の船体がゆっくりと上下している。船が着くたびに、人の気配がふっと近づいて、また遠ざかっていく。
この前ここで話した時は、もっといろんな音がしていた気がする。人の声も、車の音も、船のエンジン音も。けれど今は、そのどれもが少し遠い。
ただ、隣にいる柑奈の息遣いだけが、妙に近かった。
柑奈が、意を決したように口を開いた。
「この前、話そうとしてたことなんだけど」
胸の奥で、何かが動いた。
「やっぱり、ちゃんと――」
「あのさ」
蓮は、ほとんど同時に言った。
柑奈の言葉が止まる。
蓮は立ち上がっていた。自分でも、そうするつもりだったのかどうか分からない。ただ、座ったままでは言えない気がした。隣に並んだまま、同じ方向を向いたままでは、どうしても言えない気がした。
蓮は一歩、二歩と、海の方へ歩いた。
柑奈が小さく息を呑む気配がした。
「その前に」
蓮は海を見たまま言った。
「俺の方から、いいかな」
「……うん」
柑奈の声には、戸惑いが混じっていた。
「なに?」
また、沈黙。
もっときちんと考えておけばよかった、と思った。
昨日の夜、何度も頭の中で繰り返したはずだった。どう切り出すか。どこから話すか。何を言って、何を言わないか。なのに、いざその場になると、用意した言葉はあっさりとどこかへ消えていた。
そして残っているのは、胸の奥にある冷たいものだけだった。
「……蓮くん?」
柑奈の声がした。
心配している声だった。
昨日の昼休み、蓮の顔を覗き込んできた時と、よく似た声。
その声を聞いて、蓮は少しだけ目を閉じた。
朝の光が、まぶたの裏に白く残る。
潮の匂い。
桟橋がきしむ音。
波が、堤防の下で小さく砕ける音。
目を開ける。
海は相変わらずまぶしかった。
蓮は、ゆっくりと振り返った。
柑奈はベンチに座ったまま、蓮を見ていた。膝の上で重ねた手に、少しだけ力が入っている。いつものように笑おうとしているのか、唇の端がほんの少しだけ上がっていた。
蓮は息を吸った。
逃げ道をひとつずつ閉じるみたいに、ゆっくりと吐く。
そして言った。
「タイムカプセルを隠したの、柑奈だろ」
なぜか、その瞬間だけ、周りの音がすべてはっきりと聞こえた。
弱い風の音も。
波が堤防に当たる音も。
船が軋む音も。
その中で蓮の声だけが、やけにまっすぐに、刺すように響いた。




