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その黒猫は、夜の港で待っている。  作者: 幸円一


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第15話 思い出を、裏切らないで。

 その日の夜、蓮は自分の部屋で、ベッドの上に横になっていた。


 天井を見上げたまま、何度も寝返りを打つ。枕の位置を直して、掛け布団を蹴って、また引き寄せて、結局また天井を見る。


 明日からまた連休に入る。タイムカプセル探しの予定は、結局、はっきりとは決まらなかった。昼休み、蓮がぼんやりしていたせいで、みんなに体調を心配させてしまった。そのせいもあって、今日は無理をせず、明日あらためて予定を決めて電話で連絡しよう、ということになった。


 どうすればいいのだろう。


 問いかけは何度も頭の中に浮かんだ。浮かんでは、答えのないまま沈んでいく。

 明日、何事もなかったようにみんなを集めるのか。

 もう一度、常土山へ行くのか。

 それとも、その前に誰かに話すべきなのか。

 いや、誰に。

 何を。

 どこまで。


 そこまで考えるたびに、蓮は行き止まりにぶつかった。言葉にしてしまえば、昨日までの五人には戻れない気がした。

 けれど、言葉にしなければ、もっと戻れなくなる気もした。


「ああ、もう」


 小さく吐き捨てて、蓮は両手で髪をぐしゃぐしゃとかいた。そんなことをしても、頭の中が整理されるわけではない。むしろ余計に散らかるだけだった。それでも、じっとしているよりはましだった。


 漁港の黒猫のことが頭をよぎったそのとき、不意に、一階から電話の音が聞こえた。

 夜の家の中に、乾いた呼び出し音が響く。

 一回。

 二回。

 三回目が鳴る前に、母親が電話を取る気配がした。


 蓮は、なんとなく息を止めていた。胸の奥が勝手に身構えた。

 少し間があり、階段の下から母親の声がした。


「蓮ー」

 蓮はベッドの上で体を起こした。

「菱野さんから電話よ」

 一瞬、部屋の空気が止まった気がした。


 柑奈から。


 蓮は返事をする前に、もうベッドから降りていた。

「すぐ行く」

 自分の声が、思ったより普通に出たことに少し驚く。部屋を出て、階段を下りる。急いでいるつもりはなかった。けれど足は自然と速くなった。廊下の明かりが、やけに白く見える。

 居間の入口で母親と入れ替わるようにして、蓮は受話器を取った。保留ボタンを押す指先が、少しだけ硬い。


「もしもし」

 受話器の向こうで、小さく息を呑むような気配がした。

『あ、蓮くん。私。柑奈』

「うん」

『こんばんは』

「……こんばんは」

 いつもなら、そこで少し笑っていたかもしれない。改まってこんばんはなんて言うなよ、とか。そんなふうに言ったかもしれない。

 柑奈の声は、いつもより少し硬かった。明るくしようとしているのに、その明るさが薄く張った紙のように頼りない。


『あのさ』

 柑奈が言った。

『明日なんだけど、もし体調が大丈夫だったら、ちょっと会えないかな』

「明日?」

『うん』

「俺は別に、大丈夫だけど」

『よかった』

 柑奈は、ほっとしたように言った。


 その声に、蓮の胸の奥がわずかに動く。

 もしかしたら。

 ほんの一瞬、そう思った。

 柑奈が、言ってくれるのかもしれない。

 昨日から蓮の中に引っかかり続けているものを、柑奈が言葉にしてくれるのかもしれない。

 だったら。

 だったら、自分は何を言えばいいのだろう。

 いや、ただ、聞けばいいのかもしれない。

『ほら』

 受話器の向こうで、柑奈が少し言いよどんだ。


『この前、聞いてもらったことの続きっていうか』


 蓮の中で、何かが静かに止まった。


「……ああ」

『やっと、自分の中で言える勇気が出た、というか』

「……そっか」


『まずは蓮くんに、言っておきたくって』


 恋愛相談、か。


 その言葉が頭の中に浮かんだ瞬間、蓮は不思議なくらい冷静になった。いや、冷静になったのとは少し違うのかもしれない。

 もちろん熱くなったわけではない。声を荒げたいわけでもない。怒鳴りたいわけでもない。ただただ、胸の奥にあったものが、すっと冷たい形を持った。

 なんだか、今自分が電話で話しているのが本当にあの菱野柑奈なのか、分からなくなったような気さえした。


 この前の話の続き。


 言える勇気が出た。


 柑奈の言葉をもう一度頭の中で反芻すると、蓮は受話器を握る手に、知らないうちに力が入っていることに気づいた。


 待っていた。

 たぶん、自分は待っていたのだと思う。

 柑奈が、自分から言ってくれることを。

 けれど柑奈は明日、あの日の続きをしようとしている。隠してきた弥太郎への想い。あの話の続きを。


 違うだろ。


 心の中で、声がした。

 それを今、続けるのか。

 その前に、あるじゃないか。

 蓮は目を閉じた。

 受話器の向こうで、柑奈が何かを待っている。


「……わかった」

 蓮は言った。自分でも驚くくらい、声は平らだった。


「じゃあ……明日の朝にしようか。ちょっと早めに。八時とか」

『うん。私は大丈夫だけど、蓮くんも大丈夫?』

「早い方がいいだろ、お前も」

『それは、そうだね』

 うん、と納得したように柑奈が答えた。

『場所はこの前と同じでいい?渡船の前の……』

「あのベンチのとこな」

『うん』


 短い沈黙が挟まった。

 電話線の向こうで、柑奈が息をしている。その気配だけが、やけに近かった。

 蓮は、ゆっくりと息を吸った。


「……ちょうどよかった」

『え?』

「俺も、お前に聞いてほしいことがあったから」

『そうなの?』

「ああ」

『なに?』

 柑奈の声が、ほんの少しだけ柔らかくなる。

 蓮は、その柔らかさを聞きながら、胸の奥にある冷たいものをもう一度確かめた。


 もう待たない。

 柑奈が言い出すのを、待っているだけではだめだ。

 自分から言う。

 言わなければいけない。


「明日言うよ」


 そう、伝えた。


「じゃあ、また明日な」

『あ、うん。ま――』


 柑奈が何かを言いかけた気がした。

 けれど蓮は、その続きを聞く前に受話器を置いた。

 その音が、思ったよりも大きく聞こえた。

 しばらく、蓮は電話の前に立ったままだった。


 居間の明かりが、白く床を照らしている。台所の方から、母親が洗い物をする音が聞こえる。いつもの夜の音だった。

 受話器を置いた右手だけが、まだ少し熱を持っていた。蓮はその手を、ゆっくり握りしめる。


 明日、だ。


 このままにはしない。


 思い出を、そんなふうに終わらせたくなかった。

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