第10話 思い出を、覗く黒猫。
「なんだ、久しぶりだな」
人気のない夜の漁港に、その声は不意に響いた。蓮は足を止めて振り返る。
防波堤の上に、一匹の黒猫が座っていた。月明かりを受けた毛並みが、濡れたように艶めいている。
「なんか困ったことでもあったのか、レン」
「……まあ、ちょっとね」
「やっぱりな」
黒猫はフンッ、と鼻を鳴らした。沖から吹いてくる潮風に尻尾を揺らしながら続ける。
「そういう時ばっかり来やがる。たまには雑談でもしに来いよ。煮干しのひとつでも持ってきてくれりゃ、なお歓迎だ」
「猫らしいこと言うな」
「猫だからな」
ひらりと防波堤から飛び降りる。音もなく着地した黒猫は蓮の足元まで歩いてくると、その場で香箱を組んだ。
「まあいいさ」
金色の目が見上げてくる。
「で?」
波音に混じるような静かな声だった。
「今度はどんな話を聞かせてくれるんだい」
蓮は少し迷ってから、地面に片膝を立てるようにして座った。
コンクリートは夜気を含んで冷たかった。服が汚れるかもしれないと思ったが、今さらそんなことを気にする気分でもなかった。
蓮は、この黒猫を探偵と呼んでいる。
彼――と呼んでいいのかどうかは分からないが――との出会いは、蓮が小学六年生だった頃までさかのぼる。軽々しく語れるほど簡単な話ではないのだが、「人の言葉を話す黒猫」という非常識を、蓮が受け入れるようになるだけの出来事があった。
それ以来、蓮は時々、ここへ来る。
黒猫に会えるのは、この漁港の中だけだった。それも、日が落ちてからに限られる。蓮の前では人の言葉を話すくせに、まれに誰かが通りかかると、普通の猫みたいに鳴いてみせる。つまり、少なくとも本人――本猫かもしれない――には、人語を話すところを誰にでも見せるつもりはないらしい。
蓮が知っているのは、それくらいだ。
どうして言葉を話せるのか。
本当に猫なのか。
蓮以外にも、この黒猫のことを知っている人がいるのか。
何も分からない。
黒猫が語らないから、蓮は何も知らない。
でも、不思議とそれでいい気がしていた。この黒猫の正体を暴くことは、たぶん蓮の役目ではない。
「ちょっと長くなるけど、イチから説明するよ。探偵の意見を聞かせてほしい」
「長話か。まあいい、夜は長い。人間の話はだいたい無駄に長いものだしな」
黒猫は悪びれもせず言った。
蓮は小さく息を吐き、それから話し始めた。
小学三年生の時に、五人でタイムカプセルを埋めたこと。
成人式の日に掘り出そうと約束していたこと。
けれど、珠美の都合で予定を早めて掘り出すことになったこと。
当時作った「たからの地図」が、思ったより頼りにならなかったこと。
赤い実。大きな石。猫の通り道。子どもの字で描かれたそれらが、今の常土山ではうまく結びつかないこと。
みんなで掘っても、タイムカプセルは見つからなかったこと。
弥太郎が祖父から聞いてきた、土守様の話。
喫茶店で辰さんから聞いた昔話。
常土山に置いていったものは、土守様が持っていく。
山に押しつけたものは、いつか形を変えて戻ってくる。
話しているうちに、蓮の声は少しずつ重くなっていった。
口に出せば出すほど、自分が何を疑っているのかがはっきりしてしまう。それがどうしようもなく嫌だった。
「……誰かが、先に持っていったのかもしれない」
それでも、蓮は言った。
「状況から考えると……その誰かが、俺たちの中にいる可能性もある」
黒猫は何も言わなかった。ただ、金色の目で蓮を見ていた。
言ってしまってから、蓮は慌てて首を振った。
「いや、もちろん可能性の話だけど。子どもの計画が本当に誰にも知られてなかったかなんて、分かんないし。外から誰かが見てたかもしれないし。たまたま掘り返されたのかもしれないし。だから、まだ決めつけるような――」
「言い訳が長い」
蓮は言い訳と言われた説明を諦め、口を閉じた。
黒猫は、またフンッと鼻を鳴らす。
「俺に嘘をつく必要はない。猫は人間より耳がいいんでな。言葉の端についてる震えくらいは聞こえる。まあ、今のはお前が分かりやすかっただけだけどな」
返す言葉がなかった。
すべての経緯を聞き終えると、黒猫はしばらく黙って海の方を見ていた。
沖の方で、船の小さな灯りが揺れている。防波堤に当たった波が、暗い水音を立てた。
「まず、レン」
黒猫が言った。
「その話をした上で、お前は俺に何を聞きたいんだ?」
「…………」
蓮はすぐには答えられなかった。質問の形を、頭の中で何度も組み直す。
「土守様って、本当にいるのかな?」
「いるわけないだろそんなもん」
頭の整理のための時間稼ぎに口にした質問は、黒猫によって一刀両断される。
「お前もう15歳だろ?いつまでそんな非科学的なものを信じてるんだ」
喋る猫に言われたくない――。と頭に浮かんだが、口にはせず飲み込んだ。
「なんでタイムカプセルは見つからないと思う?」
ようやく絞り出した蓮の問いに、またしても食い気味に探偵は答える。
「そりゃあ、お前が見つけられていないからだ」
「いや、そんな禅問答みたいなことじゃなくて……」
「タイムカプセルを、じゃないぞ」
黒猫は、蓮の言葉を遮った。蓮は眉をひそめる。
「どういう意味だよ」
「そのままの意味だ」
「だから、どういう――」
探偵は香箱を解き、前足を立てて座り直した。
「まったく、不出来な助手だ。いいか、お前が見つけられていないのは、タイムカプセルじゃない」
声が、少しだけ低くなった。
「六年前の出来事だ」
蓮は黙った。
「考えてもみろ。正確な場所を覚えていないタイムカプセルを探す方法なんて、結局はあてずっぽうに掘り続けるくらいしかない。もちろん、それで見つかることもあるだろうさ。運がよけりゃな」
「……」
「だが、それは推理じゃない。穴掘りだ」
まくしたてるように黒猫は続ける。
「六年前のお前たちは、少なくとも何も考えずに埋めたわけじゃないんだろう。場所を選んだ。地図を描いた。稚拙でも、目印を残そうとした」
尻尾で地面を一度叩いた。
「ちょーっと考えてみて、『だめだ、分からん。とりあえず掘ろう』なんてのは、アホのすることだ。六年以上も前の自分たちよりアホなことをしてどうする」
しまった、と蓮は思った。探偵の説教モードに火をつけてしまった。
年長者は説教が好きだから困る。この猫が何歳なのかは知らないけれど。
「分かった、分かったよ。反省してる」
蓮が両手を軽く上げると、黒猫は不満そうに鼻を鳴らした。
「フン。仕方ない。大サービスだ」
きた。
長い説教のあと、黒猫はたまにこう言う。答えそのものを教えてくれるわけではない。投げてくるのはいつも遠回りで、ひねくれていて、すぐには意味を結ばない言葉ばかりだ。けれど、あとから丁寧に噛み砕けば、それはたしかに蓮を答えの近くへ連れていってくれることが多い。
黒猫は前足で耳の後ろを掻いた。
「レン。お前、宝の地図を見てるつもりで、ずっと宝の地図を見てないだろ」
「は?」
「木だの、石だの、赤い実だの。そんなものばかり見てる」
「だって、地図に描いてあるのは――」
「だからだ」
黒猫は蓮の言葉を遮った。
「お前はずっと、“何が描いてあるか”しか見てない」
波が静かに、防波堤へ当たる。
「地図ってのは、本来、場所を記録するためのものだ。でも、お前たちの地図は違う」
探偵の金色の目が、蓮を見上げる。
「違う……?」
「小学三年生が描いた地図だ。正確な縮尺もなければ、方角も怪しい。字だってあやふや。そんなものに、場所を正確に記録する能力なんて、最初からない」
「……」
「じゃあ、あの地図は何を記録してる?」
蓮は答えられなかった。
赤い実。
大きな石。
猫の通り道。
それ以外に、何があるというのだろう。
探偵は、呆れたように小さく息を吐いた。
「赤い実があった。大きな石があった。猫が通った。そんなものは、六年も経てば変わる。消える。なくなる。猫なんて、そもそも目印にする方がどうかしてる」
「……」
「だがな」
探偵は海の方へ顔を向けた。
「人間は、どうでもいいことを、わざわざ地図には描かない」
蓮は顔を上げた。
「描いたってことは、描いた理由がある」
「理由……?」
「そうだ」
黒猫は少し間を置くと、欠伸をひとつした。
「赤い実が大事だったんじゃない。石が大事だったんじゃない。猫が大事だったんじゃない」
ひとつずつ、ゆっくりと切り離すように言う。
「その時のお前たちにとって、なぜそれが目印になったのか」
そこで初めて、黒猫は蓮の目を真っ直ぐ見た。
「探すなら、場所じゃない。六年前のお前たちが、そこを選んだ理由だ」
蓮は、すぐには言葉を返せなかった。探偵の言葉を、頭の中で転がす。
地図の情報そのものではない。
なぜ、それを地図に描いたのか。
なぜ、それを目印にしようと思ったのか。
「……思い出せるかな」
しばらく考えてから、蓮はようやくそう言った。
「人間は忘れる生き物だ。だけど、本当は忘れていない。その記憶を取り出せなくなっているだけだ。ないものを取り出すことはできないが、あるならかならず取り出せる。ましてやお前たちは五人もいるんだろう?」
「簡単に言うなよ」
「簡単じゃないから、やる意味があるんだろう」
黒猫は立ち上がり、体を伸ばした。
細い背中が弓のようにしなる。
「ありがとう、探偵。もう一度よく考えてみるよ」
「不出来な助手なりに努力してみろ」
黒猫は蓮に背を向け、漁港の建屋の方に向き直った。
「さあ、今夜はもう営業終了だ。レンも明日は学校なんじゃないか?未成年が遅くまで出歩くもんじゃない、早く帰れ」
そう言うとゆっくりと歩き出す。
そうだ、明日は学校だ。蓮の頭に、友人たちの顔が順番に浮かんだ。弥太郎、珠美、三咲。そして最後に柑奈の顔が浮かんだのと同時に、もうひとつの『問題』を思い出した。
「あ。もうひとつ!」
蓮が黒猫を呼び止める。
「なんだ、これ以上は煮干しでも貰わなきゃ割に合わないんだが」
態勢はそのままで、顔だけをこちらに向ける。
「次来るときは持ってくるよ」
蓮も立ち上がる。
「タイムカプセルとは別で、ちょっと気になってることがあってさ」
「早く言え」
もったいぶるな、とでも言いたげに、黒猫は不機嫌そうに尻尾を揺らした。蓮は頭をかきながら言った。
「……探偵ってさ、恋愛相談にも乗れたりする?」
見つめ合ったまま、しばしの沈黙が流れる。
「……曲がりなりにも、猫なんだが?」
「……ですよね。なんでもないです」
蓮は素直に頭を下げた。
「おやすみ、探偵」
「煮干しを忘れるなよ」
黒猫はそう言って、今度こそ漁港の暗がりへ歩いていった。黒い影はすぐに、夜の色に溶けて見えなくなる。
蓮はしばらくその場に立ったまま、波の音を聞いていた。
もう一度考えてみよう。地図に書かれた情報がなにを示しているか、ではない。
それを書いた理由。
それを目印に選んだ理由。
六年前の自分たちが、あの山で何を見ていたのかを。




