第8話
昼飯は、想像していたより少なかった。
真壁悠は、王宮騎士団の食堂の隅で木の皿を前にしながら、深刻な顔で現実を受け止めていた。硬いパンが二切れ。豆と野菜の入った薄いスープ。焼いた肉が小さく一枚。昨日の騒動から考えれば、食事が出るだけでも破格の待遇なのだろう。そもそも、つい昨日まで彼は異世界の路地裏で餓死しかけていた。文句を言える立場ではない。
だが、それと空腹が満たされるかどうかは別問題だった。
「(……足りない)」
切実だった。
午前中いっぱい、ララ・バーンによる制御訓練を受けた。布の揺れを見て我慢し、水面の波紋を見て我慢し、木片のささくれに触れずに我慢し、途中で現れたヴォルフとかいう国際指名手配犯に精神をかき乱され、右手が勝手に動きかけるのを左手で押さえた。肉体的には大して動いていないはずなのに、頭の疲労がひどい。疲れた脳は糖分を欲する。だが目の前の食事には、甘いものがない。
真壁はパンを見つめた。
硬い。
これを普通に噛むと顎が疲れる。触れば、食べやすい大きさにほどけるだろう。昨日も今朝もそうだった。繊維の流れが見える。どこへ指を置けば抵抗が抜けるか分かる。
だが、ララが向かいに座っている。
銀髪の騎士は、食事中でありながら隙がなかった。背筋を伸ばし、スープを口に運ぶ動作にも無駄がない。そして、真壁の右手を見ている。いや、正確には、見ていないふりをしながら見ている。
「……使わないぞ」
ララが言った。
「まだ何もしてません」
「今、パンを見ていただろう」
「パンくらい見ますよ。食事中なんで」
「ほどきたそうな顔だった」
「そんな顔あります?」
「ある」
断言された。
真壁は小さくため息をつき、パンを普通にかじった。
硬い。
「……痛い」
「顎を使え」
「これも訓練に含まれてます?」
「含めてもいい」
「やっぱり労働じゃないですか」
「食事だ」
会話は相変わらず不毛だった。
だが、午前中の最初ほど息苦しくはない。ララは怖い。騎士団長という肩書きも怖い。だが、少なくとも話は通じる。ヴォルフのように、こちらの拒絶を面白がって踏み越えてくるタイプではない。ララは監視する。訓練する。危険だと判断すれば剣も抜くだろう。けれど、真壁を理解しようとはしている。
それが救いなのか、別の面倒の始まりなのかは、まだ分からない。
食堂には騎士たちが何人もいた。彼らは訓練後の昼食を取っているらしく、会話は多いが、ギルドのような荒っぽさはない。笑う時も、怒鳴る時も、どこか規律がある。真壁はその規律が苦手だった。無秩序な騒音も嫌だが、整った集団も別の意味で怖い。全員が同じ方向を向いている感じがするからだ。
「真壁」
ララが食器を置いた。
「午後の予定を変更する」
「嫌な予感しかしません」
「ギルドから連絡が来た」
「ギルド」
昨日、仮登録で雑務をした場所。魔物の死体を触らされ、妙な解体補助をしてしまい、最終的に銅貨をもらった場所だ。真壁にとっては、飯に繋がったありがたい場所であり、血の匂いと視線の記憶が残る嫌な場所でもある。
「昨日の解体処理を見た処理場主任が、お前に追加の補助を頼みたいと言っている」
「嫌です」
「まだ内容を言っていない」
「解体って単語が入った時点で嫌です」
「解体ではない」
ララは紙を一枚、机の上に置いた。
「薬草倉庫の整理だ」
「薬草」
真壁は少しだけ顔を上げた。
魔物の死体よりは、だいぶましに聞こえる。
「ギルドが管理している薬草倉庫で、古い薬草と新しい薬草が混ざったらしい。乾燥の度合い、茎の割れ、葉脈の状態を見て仕分ける必要がある。だが数が多く、職員だけでは手が回らない」
「それ、俺じゃなくてもよくないですか」
「普通ならな」
「普通でいきましょうよ」
「お前は昨日、魔物の関節や筋繊維を正確に見分けた。なら薬草の状態も見分けられる可能性がある」
「可能性で労働を増やさないでください」
「報酬は出る」
真壁は黙った。
報酬。
銅貨。
飯。
宿。
現実。
「……危険は?」
「低い」
「人と戦う可能性は?」
「本来ならない」
「本来なら、という言い方が怖いんですが」
「王都で絶対は言えない」
「帰りたい」
「それは今は不可能だ」
切り捨てられた。
真壁は紙を見る。文字は読める。薬草倉庫整理補助。仮登録者可。日払い。危険度最低。臭気あり。手袋支給。
「手袋支給」
そこだけ、真壁は声に出して読んだ。
「手袋があるんですか」
「薬草を傷めないための薄いものだろうがな」
「ないよりましです」
「行くか」
真壁は深く考えた。
行きたくない。働きたくない。倉庫という単語も不穏だ。だが、危険度最低。日払い。手袋支給。魔物の死体ではない。血の匂いもしないかもしれない。何より、飯代が増える。
「……行きます」
「よし」
「ただし、戦闘になったら帰ります」
「戦闘になった時点で帰れるとは限らない」
「嫌なこと言わないでください」
午後の予定は、それで決まった。
王宮騎士団の宿舎を出ると、昼の王都は朝よりも騒がしかった。真壁はできるだけ人通りの少ない道を選びたいと思ったが、ララが横を歩いている以上、勝手に逃げることはできない。彼女は真壁の少し斜め前を歩いていた。護衛のようでもあり、監視のようでもあり、引率の教師のようでもある。
「なあ、ララさん」
「何だ」
「これ、騎士団長が直々に来るような案件なんですか」
「本来は違う」
「ですよね」
「だが、お前を一人でギルドへ出すわけにはいかない」
「俺、そんなに信用ないですか」
「お前個人の善悪の問題ではない。お前の力が信用できない」
「俺もです」
納得はしてしまう。
通りを歩きながら、真壁はできるだけ視線を足元に置いた。揺れるものを見ない。ひび割れを見ない。吊り看板を見ない。屋台の布を見ない。人の服のほつれを見ない。世界には、見ない方がいいものが多すぎる。
だが、完全には避けられない。
道端の樽の箍がわずかにずれている。露店の木箱の釘が浮いている。荷車の車輪が少しだけぶれて回っている。全部、気になる。全部、触れば整う気がする。
真壁は左手で右手を押さえた。
「……発動しそうか」
ララが即座に気づく。
「街って、思ったよりほつれてますね」
「見るな」
「見るなと言われると、見えるんですよ」
「なら視線を私の背中に置け」
「それはそれで失礼じゃないですか」
「構わん」
真壁は言われた通り、ララの背中を見ることにした。
確かに少し楽だった。ララの歩き方は安定している。揺れが少ない。布の乱れも少ない。剣帯の位置もきっちりしている。見ていて気持ち悪くない。むしろ、街の雑音の中では、彼女の背中だけが異様に整って見えた。
「ララさんの動きって、静かですね」
真壁はぽつりと言った。
ララが少しだけ振り返る。
「そう見えるか」
「はい。うるさくないです」
「褒めているのか」
「たぶん」
「そうか」
ララは前を向いた。
耳の先が、ほんの少し赤くなったように見えた。
「……訓練の成果だ」
「騎士団って、歩く訓練もあるんですか」
「当然だ。移動はすべての基本だ。足音、重心、姿勢、視線。乱れは隙になる」
「じゃあ俺には無理ですね」
「お前は別の意味で乱れていない」
「そうですか?」
「ああ。やる気がない分、余計な力みが少ない」
「褒めてます?」
「一応」
「嬉しくないですね」
そんなことを話しているうちに、冒険者ギルドへ着いた。
昼のギルドは、昨日ほど混んではいなかった。だが静かではない。酒の匂いは薄いが、汗と革と鉄の匂いは残っている。真壁は扉の前で一度深呼吸し、覚悟を決めて入った。
昨日ほど笑われはしなかった。
代わりに、いくつかの視線が妙に真剣だった。
「あいつだ」
「昨日の解体場の」
「素手で素材外したっていう……」
ひそひそ声。
真壁は顔をしかめた。
「(広まってる……)」
嫌だった。
目立ちたくない。注目されたくない。昨日のことは、できれば処理場の隅に埋めておきたかった。それなのに、もう話題になっている。人間は噂が好きすぎる。
受付嬢は真壁を見ると、少しだけ安心したように頷いた。
「真壁さん、来てくださったんですね」
「来たくて来たわけでは……」
「依頼票は確認済みです。薬草倉庫は裏手になります。ララ様も同行されますか」
「ああ。私が監督する」
「助かります。倉庫担当がかなり困っていまして」
「そんなに大変なんですか」
真壁が聞くと、受付嬢は苦笑した。
「薬草そのものは危険ではないんですが、数が多いんです。それに、乾燥しすぎたものと使えるものの見分けが難しくて。誤って悪いものを納品すると、薬師からかなり怒られます」
「怒られるのは嫌ですね」
「はい。なので助けてください」
真壁は、助けるという言葉に弱かった。
頼られるのは嫌だ。期待されるのも嫌だ。だが、誰かが怒られるかもしれないという話を出されると、完全に断りにくくなる。前世でも、配達員が困っているとつい玄関を少しだけ早く開けてしまうタイプだった。
「……できる範囲で」
「ありがとうございます」
倉庫へ向かう。
薬草倉庫は、ギルドの裏手にある石造りの部屋だった。扉を開けた瞬間、強い草の匂いが押し寄せてくる。青臭さ、土の匂い、乾いた葉の粉っぽさ、少し甘い花の香り、薬品のような苦い匂い。それらが積み重なって、鼻の奥に残る。
血の匂いよりはましだ。
真壁は心からそう思った。
部屋の中には、木箱が山のように積まれていた。箱ごとに薬草が詰められているが、いくつかは蓋が開き、中身が混ざっている。葉の色も、茎の太さも、乾き具合も微妙に違う。普通に見れば、ただの草の山だった。
倉庫担当らしい痩せた男が、泣きそうな顔で出迎えた。
「助かります……本当に助かります……」
「まだ何もしてません」
「来てくれただけで助かります。もうどれがどれだか……」
男は机の上に数種類の薬草を並べた。
「こちらが新しいもの。こちらが乾燥が進みすぎたもの。こちらは湿気を吸って駄目になりかけているものです。薬師に納められるのは、この状態のものだけです」
真壁は薬草を見た。
最初は、違いが分からなかった。
だが、じっと見る。
葉脈。茎の繊維。水分の残り方。端の割れ。色の沈み。匂いの重さ。束の中で、使えるものと使えないものの線が見え始める。
「(……あ、これか)」
分かった。
分かってしまった。
魔物の関節や肉の筋と同じではない。もっと細かい。だが構造はある。ほどけそうなもの、まだ繋がっているもの、内側から崩れ始めているもの。草にも、状態がある。
「分かるのか」
ララが横から聞いた。
「たぶん」
「手は出すな。まず言葉で説明しろ」
「これが使えるやつで、こっちはたぶん駄目になりかけで、これは完全に駄目です」
真壁は指差すだけに留めた。
倉庫担当が目を丸くする。
「合っています……合っています! すごい、見ただけで分かるんですか」
「見たら、なんとなく」
「助かります! ではこの箱を……」
「待て」
ララが止めた。
「真壁には手袋を」
「あ、はい。もちろんです」
渡されたのは薄い布手袋だった。薬草を傷めないためのものらしい。真壁はそれを慎重にはめる。
少し安心した。
直接触れない。それだけで、気分がだいぶ違う。
仕分け作業が始まった。
真壁は箱の中を見て、使えるもの、乾燥しすぎたもの、湿気を吸ったものに分けていく。最初は恐る恐るだった。だが、薬草は魔物の死体よりずっとましだった。血は出ない。悲鳴も上げない。せいぜい葉が崩れるくらいだ。
そして、思ったより集中できた。
似ている。
紐を見ていた時に。
違いを見つける。揺れを見る。状態を読む。正しい場所へ分ける。対象は違うが、やっていることは単純だった。
「これは使える。これは駄目。これは……乾燥しすぎだけど、粉にするなら使えるかも」
気づけば、真壁は自然に言葉を出していた。
倉庫担当が慌ててメモを取る。
「粉用! そうか、粉薬用なら……!」
ララは黙って見ていた。
彼女の目には、また別のものが見えていた。
真壁は、触れていない。
少なくとも直接は触れていない。手袋越しで、発動は抑えられている。薬草をほどいてしまうことは何度かあったが、致命的ではない。むしろ、劣化した部分だけが綺麗に外れて、状態の判別が容易になっている。
「(戦闘でなければ、有用性は高い)」
ララは考える。
解体。仕分け。修繕。鑑定。素材処理。真壁の力は、破壊だけではない。むしろ、壊さないように使えば、極めて精密な分離作業になる。問題は本人の意思と制御だ。そこさえ安定すれば、危険物ではなく、技術になる。
その時、倉庫の奥で小さな音がした。
カリ。
木を引っ掻くような音。
真壁の手が止まる。
「……今、何か」
倉庫担当が顔を上げる。
「まさか」
次の瞬間、奥の木箱が内側から揺れた。
ガタン。
薬草の箱ではない。古い納品箱。蓋が閉まったまま、何かが中で動いている。
「下がれ」
ララが即座に前へ出る。
「魔物ですか」
真壁の声が裏返る。
「分からん」
ララは剣に手をかけた。
箱がもう一度揺れる。
そして、蓋の隙間から黒い煙のようなものが漏れた。
煙ではない。
小さな虫の群れだった。
黒く、細く、羽音を立てる虫。薬草の匂いに引かれて入り込んだのか、あるいは薬草の中に卵が紛れていたのか。箱の中から、ぞわぞわと溢れ出してくる。
「薬喰い羽虫……!」
倉庫担当が悲鳴を上げた。
「薬草を食い荒らす害虫です! 早く駆除しないと全部駄目になります!」
「殺虫薬は」
「奥の棚に……でも、取りに行くには虫の群れを抜けないと!」
羽音が増える。
真壁の顔から血の気が引いた。
虫。
小さい。
多い。
無理。
「(無理無理無理無理)」
ゴキブリすら嫌なのだ。羽虫の群れなど論外だった。しかも飛んでいる。不規則に。大量に。視界いっぱいに。
最悪だった。
だが、その最悪が、真壁の中の別の反応を引き起こす。
羽虫の群れは、うるさい。
視覚的に、ものすごくうるさい。
揺れる。乱れる。飛ぶ。ぶれる。重なる。ほどけている。散らかっている。
「真壁、見るな!」
ララの声が飛ぶ。
遅かった。
真壁の右手が、左手を振りほどいて上がった。
――パツン。
音は一つだった。
だが、起きたことは一つではなかった。
真壁の指先の延長線上で、羽虫の群れの動きが一瞬だけ止まる。次の瞬間、群れの中心から外側へ向かって、黒い点がほどけるように消えていった。潰れたのではない。焼けたのでもない。羽と胴と脚と、虫としての形を保っていた細い接続が、まとめて外れたように崩れ、黒い粉となって床へ落ちる。
倉庫は、静かになった。
「……」
真壁は自分の右手を見た。
「……今のは、虫が悪いと思います」
声が震えていた。
ララは剣に手をかけたまま、動かなかった。
倉庫担当も、口を開けたまま固まっている。
しばらくして、彼は震える声で言った。
「……助かりました」
真壁は青い顔で頷いた。
「俺も、できれば二度とやりたくないです」
ララはようやく剣から手を離した。
「真壁」
「はい」
「今のは、意識してやったのか」
「虫が嫌すぎて……気づいたら」
「そうか」
ララの表情は険しかった。
制御訓練の成果はあった。視線を外すことも、左手で止めることも、手袋で抑えることもできるようになっていた。だが、強い不快感や恐怖があれば、反射は一気に飛び越える。
つまり、危機感や嫌悪も発動条件になる。
「(危険度は、まだ下げられない)」
ララはそう判断した。
同時に、別の判断もあった。
「(だが、実地でしか分からないこともある)」
倉庫担当は、半泣きで真壁の両手を握ろうとして、ララに止められた。
「触れるな」
「あ、す、すみません! でも本当に助かりました! あれが広がったら、今月分の薬草が全滅するところでした!」
「全滅……」
真壁は虫より、その言葉の方に反応した。
薬草が全滅すれば、薬が作れない。薬師が怒る。ギルドが困る。誰かが病気や怪我で困るかもしれない。そう考えると、今の行動が完全に悪いとは言い切れない。
「……報酬、増えたりします?」
真壁は恐る恐る聞いた。
倉庫担当は力強く頷いた。
「もちろんです! 害虫駆除分も申請します!」
真壁の目に、ほんの少しだけ光が戻った。
「ララさん」
「何だ」
「初クエスト、成功ってことでいいですか」
ララは少しだけ考えた。
「雑務依頼としては、成功だ」
「よかった……」
真壁は心底ほっとした。
だが、その安堵は長く続かなかった。
倉庫の外。
屋根の上。
誰にも聞こえないほど小さく、男が笑っていた。
「へえ」
ヴォルフは寝転がったまま、薄く目を細める。
「面でほどいたか。やっぱ変だな、あいつ」
彼は起き上がり、ギルドの裏手から離れる。
「次は、ちょっと動くやつ相手に見てみたいねえ」
その呟きは、誰にも届かなかった。
倉庫の中で、真壁は追加報酬の話に少しだけ救われていた。ララは険しい顔で、今後の訓練計画を頭の中で組み直していた。倉庫担当は、薬草が守られたことに涙ぐんでいた。
誰も知らない。
真壁悠の初クエストが、ただの薬草仕分けで終わらなかったように。
次に来る依頼もまた、彼の望む「静かな雑務」では済まないことを。
真壁本人だけが、まだ信じていた。
「(……これなら、雑務だけで生きていけるかも)」
その淡い希望が、どれほど儚いものかも知らずに。




