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第7話

 午前中いっぱい。


 ララ・バーンは、確かにそう言った。


 だが真壁悠にとって、その「午前中」という言葉は、前世で聞いたどんな労働時間よりも重く響いていた。学校に通っていた頃の授業時間。親戚に無理やり連れて行かれかけた職業相談。ネットで見たブラック企業の勤務表。そういう嫌な記憶の断片が、朝の訓練場の冷たい空気と一緒に胸の奥へ沈んでいく。


「(午前中いっぱいって、つまり何時間だ? 三時間? 四時間? いや、騎士団の人って時間感覚おかしそうだし、午前中と言いながら昼過ぎまでやる可能性もあるよな……)」


 真壁は、訓練場の端に置かれた木箱に座りたい衝動を必死に抑えていた。いや、抑えているというより、ララの視線が怖くて座れない。彼女は少し離れた位置に立ち、記録用の紙束を片手に、こちらの一挙手一投足を逃さないよう見ている。


 王宮騎士団第三隊長。


 若き天才剣士。


 その肩書きにふさわしく、ララの立ち姿には無駄がない。背筋は伸び、足裏は地面に吸いつくように安定し、右手はいつでも剣へ届く位置にある。昨日までなら、真壁はその姿を「怖い騎士の人」くらいにしか認識できなかっただろう。だが、ヴォルフの気持ち悪い立ち方を見た後だと、ララの整い方はむしろ分かりやすかった。


 真っ直ぐ。


 強く。


 速く。


 たぶん、普通に戦えば絶対に勝てない。近づかれる前に斬られる。そういう怖さがある。


 だが、ヴォルフの怖さとは違う。


 ララは怖いが、形がある。どこに剣があって、どこに身体の中心があって、どこへ動こうとしているのか、なんとなく見える。だからこそ怖い。対してヴォルフは、形がない。見ようとすると見失う。触ろうとすると、触る場所が消える。


「真壁」


 名前を呼ばれて、真壁は肩を跳ねさせた。


「はい」


「今、何を考えていた」


「帰りたいな、と」


「正直だな」


「嘘ついても訓練が終わらなさそうなので」


「その判断は正しい」


 ララは紙束を木箱の上に置き、代わりに小さな布袋を取り出した。袋の口を開けると、中には木片、小石、金属の輪、乾いた豆のようなもの、短く切った麻紐が入っている。


「昨日からの確認で、お前の反応にはいくつか傾向がある。まず、視界に入った揺れや乱れに強く反応する。次に、接合部、継ぎ目、ひび、繊維の乱れを見つけると、そこへ手が向かう。そして、触れた瞬間に構造がほどける」


「聞けば聞くほど嫌ですね」


「現実だ。嫌がっても変わらん」


「現実って嫌なことばっかりですね」


「同感だが、今は感想を聞いているのではない」


 ララは麻紐を一本取り出し、真壁の前に垂らした。


 細い紐だった。


 前世の蛍光灯の紐とは材質も太さも違う。だが、垂れ下がり、わずかに揺れる姿は、どうしてもあの四畳半を思い出させた。黄ばんだ天井。暗い部屋。畳の匂い。何千日も見続けた、白いプラスチックの先端。


 真壁の指先が、かすかに熱を持つ。


「触れるな」


 ララが言った。


「……はい」


「まず見るだけだ。揺れを止めようとするな。見えていても、手を出さない」


「それが一番つらいんですけど」


「だから訓練になる」


「やっぱり労働じゃないですか」


「違う」


 今日何度目か分からないやり取りだった。


 麻紐は、ララの指先で小さく揺れている。不規則ではない。一定に近い。だが、完全な規則性はない。空気の流れ、ララの呼吸、手首の微細な動きが混ざって、わずかに軌道を変える。


 見える。


 どこへ来るか分かる。


 ここだ。


 いま。


 触れれば止まる。


「……っ」


 真壁は自分の右手を左手で押さえた。


 手が動こうとしている。冗談ではなく、勝手に。四畳半で二十年続けた動作は、意思より先に身体へ刻まれている。紐が来れば打つ。揺れれば止める。そういう反応になっている。


「手が動いたな」


「動きました」


「止められた」


「左手で物理的に」


「それでも止めたことに違いはない」


「勝った気がしないです」


「まずはそれでいい」


 ララは紐の揺れを少し大きくした。


「もう一度だ」


「えぇ……」


 声が漏れる。


 だが、やるしかない。


 真壁は麻紐を見た。揺れる。戻る。少し遅れる。軌道がずれる。右手が出そうになる。左手で押さえる。肩に力が入る。息が浅くなる。額に汗が浮く。


 五秒。


 十秒。


 二十秒。


 ただ紐を見て、触らない。


 それだけのことが、異常に苦しい。


「(なんで俺、紐を殴りたい衝動と戦ってるんだろう……)」


 人生で最も意味不明な我慢かもしれなかった。


「よし。そこまで」


 ララの声で、真壁はようやく息を吐いた。


「……疲れた」


「今のは重要だ。お前は反射を完全に止めることはできないが、別の動作を挟めば発動を遅らせられる」


「左手で右手を押さえる生活になるんですか」


「最初はな」


「だいぶ不審者ですね」


「今さらだ」


「ひどい」


 ララは次に、木片を台へ置いた。


 昨日も似たものを触った。表面に小さなささくれがある。見た瞬間、真壁の視線はそこへ吸い寄せられる。ささくれ。浮いている。邪魔だ。取れる。触れば取れる。


「次は、触れてもいい。ただし、ほどくな」


「無茶では?」


「触れるだけだ。力を入れるな。揺れや継ぎ目を止めようとするな。そこに触れて、何もしない」


「それ、普通の人間なら簡単なんでしょうね」


「普通の人間ならな」


 真壁は木片へ指を伸ばした。


 ささくれを見ないようにする。だが見える。見ないようにすればするほど、そこに意識が吸い込まれる。触れた瞬間、ほどける未来が見える。


「(やるな。やるな。何もしない。ただ触るだけ。触るだけ……)」


 指先が木に触れた。


 何も起きない。


「……お」


 できた。


 そう思った瞬間、気が緩んだ。


 ――パツン。


 ささくれだけが、綺麗に外れた。


「……あ」


「気が緩むと発動する」


 ララが記録する。


「今、できそうだったのに」


「できそう、と思った瞬間に失敗したな」


「人生みたいですね」


「そこまで大きな話ではない」


 ララは淡々としている。


 真壁は外れたささくれを見つめた。綺麗に取れている。正直、木片としては触る前より良い状態になっている。だから余計に困る。失敗した結果が、便利なのだ。


「次は目を閉じて触れろ」


 ララが言う。


 真壁は従った。


 目を閉じると、世界は少し静かになる。視覚の情報が消えるだけで、手の衝動が弱まる。指先で木片の表面を探る。ささくれの位置は、触れば分かる。だが見えていない分、そこまで強く引っ張られない。


 触れる。


 今度は、何も起きなかった。


「できたな」


 ララの声がした。


「目を閉じていれば、多少は抑制できる」


「じゃあ、俺はこれから目を閉じて生きる感じですか」


「極端にするな。だが、発動しそうな時に視線を外すのは有効だ」


「なるほど……」


 嫌な納得だったが、納得ではあった。


 次の訓練は、水だった。


 浅い皿に張った水。表面が揺れている。これが一番つらい。水面は細かく、絶え間なく、視界の中で変化し続ける。紐よりも細かい。埃よりも広い。止めたい場所が無数にある。


「見ろ」


「嫌です」


「見ろ」


「はい……」


 真壁は水面を見た。


 揺れている。


 うるさい。


 止めたい。


 手が動く。


 左手で押さえる。


 しかし、水面は揺れ続ける。


「(あああああ、気持ち悪い。止めたい。止めたい止めたい止めたい)」


「呼吸が浅い」


「だって気持ち悪いんですもん」


「目を外せ」


 真壁は水面から視線を外した。少し楽になる。


「もう一度見ろ」


「鬼ですか」


「訓練だ」


 見る。


 耐える。


 目を外す。


 それを何度も繰り返す。


 五回目あたりで、真壁は気づいた。水面を直接見るとつらい。だが、皿の縁を見ていると多少ましだ。揺れは視界に入るが、中心を捉えない。真正面から受け取らなければ、手は動きにくい。


「……縁を見てると、少し楽です」


「良い発見だ」


 ララが初めて少しだけ表情を緩めた。


「お前の場合、対象を正面から認識しすぎるのが問題だ。視線をずらし、全体ではなく周辺を見る。そうすれば、反射は弱まる」


「俺、今ちゃんと訓練してます?」


「ああ」


「じゃあ今日はもう終わりで」


「まだ始まったばかりだ」


「褒めたら終わる流れじゃないんですか」


「違う」


 真壁は肩を落とした。


 午前中は長かった。


 布、木片、水、金属の輪、革紐、乾いた豆、小石。ララは次々に対象を変えた。真壁は触れたり、触れなかったり、目を閉じたり、視線を逸らしたりした。成功もあれば失敗もある。金属の輪は継ぎ目を見た瞬間に外れた。革紐は見ないようにしたら耐えられた。乾いた豆は、表面のひびが気になって二つに割れた。小石は意外と大丈夫だったが、表面の欠けを見つけた瞬間、欠けだけが剥がれた。


 そのたびにララは記録した。


 真壁は疲れた。


 身体ではなく、頭が疲れた。


「……これ、普通に戦うより疲れません?」


「お前に普通の戦闘経験はないだろう」


「ないですけど、たぶん疲れます」


「慣れろ」


「騎士の人ってすぐ慣れろって言いますよね」


「慣れなければ死ぬことが多いからだ」


「重い」


 真壁は木箱に座り込んだ。


 今度はララも止めなかった。さすがに休憩らしい。


 ララは記録を見直しながら言った。


「少し分かってきた」


「俺のことですか」


「ああ。お前の力は、正確には力ではない。少なくとも、魔力の放出や肉体強化ではない」


「じゃあ何なんですか」


「認識と接触の異常だ」


「嫌な言い方ですね」


「事実だ。お前は対象の揺れ、継ぎ目、ひび、緊張、接続を異常な精度で認識する。そして触れた瞬間、その接続を最小限の力で外す。力で破壊しているのではない。正しい場所へ、正しい角度で、正しい瞬間に触れている」


 ララは少し言葉を切った。


「おそらく、お前が元の世界で続けていたという紐打ちが原因だ」


「原因って言われると、すごく嫌な趣味みたいですね」


「二十年、揺れる紐を打ち続けたのだろう」


「はい」


「十分に異常だ」


「否定はできません」


 真壁は小さく息を吐いた。


「でも、俺は強くなりたかったわけじゃないです」


「分かっている」


 ララの返事は意外に早かった。


「お前の動きには、勝とうとする意思がない。誇示もない。相手を倒そうとする殺気もない。ただ、不快な揺れを止めている。だから危険だ」


「やっぱり危険なんですね」


「意図がない力ほど危険なものはない」


 ララの言葉は厳しかったが、不思議と責めているようには聞こえなかった。


 真壁は少しだけ黙った。


「……俺、誰かにやるつもりはないです」


「知っている」


「本当に嫌なんです。人に触って、何か変になったら」


「だから訓練する」


「労働だけど」


「労働ではない」


 ララはそこで初めて、ほんの少しだけ笑った。


 真壁は目を瞬かせた。


 ララはすぐに表情を戻したが、その一瞬で空気がわずかに柔らかくなった。怖い騎士の人、という印象の奥に、ちゃんと人間がいるのだと分かる程度には。


 その時だった。


「いやー、青春だねえ」


 訓練場の壁の上から、軽い声が降ってきた。


 空気が一瞬で硬くなる。


 ララの手が剣へ伸びる。


 真壁は反射的に木箱の陰へ下がろうとして、木箱の角のささくれが気になり、慌てて目を逸らした。


 壁の上には、ヴォルフが座っていた。


 くたびれた外套。寝癖のついた髪。黄金色の瞳。まるで近所の塀に腰かけているだけのような顔で、訓練場を見下ろしている。


「……お前」


 ララの声が低い。


「ここは王宮騎士団の管理区域だ。立ち入りを許可した覚えはない」


「俺も許可もらった覚えないな」


「なら出ていけ」


「やだ」


 会話が昨日から一歩も進歩していなかった。


 真壁は顔を覆いたくなった。


「なんで来るんですか……」


「お前の朝練、面白そうだったから」


「見世物じゃないです」


「見世物より面白いぜ。地味だけど」


「地味なら帰ってください」


「地味に面白いんだよ」


 ヴォルフは壁の上からひょいと飛び降りた。


 音がしない。


 真壁はそれだけで嫌な汗をかいた。高さがある。普通なら着地音がする。膝が沈む。地面が鳴る。だがヴォルフは、落ちるというより空気の継ぎ目をすり抜けるように、いつの間にか地面に立っていた。


 ララが剣を抜いた。


「次に近づけば斬る」


「近づかなきゃいい?」


「屁理屈を言うな」


「騎士って真面目だねえ」


 ヴォルフは笑ったまま、真壁を見た。


「で、ほどき屋。どう? 俺に触る方法、考えた?」


「考えてません」


「嘘だな」


「嘘じゃないです」


「俺の動き、気持ち悪かったろ」


 真壁は黙った。


 それは、否定できなかった。


 昨日、ヴォルフの立ち方を見た瞬間から、ずっと引っかかっている。中心が分からない。揺れ方が見えない。止める場所がない。不規則というより、規則そのものを見せないような立ち方。


 気持ち悪い。


 止めたい。


 考えたくないのに、気になる。


 ヴォルフはその沈黙を見て、にやりと笑った。


「ほらな」


「……性格悪いですね」


「よく言われる」


 ララが一歩前に出る。


「真壁を挑発するな」


「挑発じゃねえよ。宿題の確認」


「誰も頼んでいない」


「本人は気になってるぜ」


 ヴォルフは真壁を見たまま、ゆるく手を広げた。


「ほら。今なら触っていいぞ」


「嫌です」


「俺がいいって言ってんのに?」


「あなたがよくても俺が嫌です」


「ちゃんとしてんなあ」


 ヴォルフは楽しそうに笑う。


「でもさ、怖いから触らないってのは、怖いまま放置するってことだぜ」


「放置したいです」


「できねえよ。お前は気になるものを止めずにいられない。今日の訓練で分かったろ」


 真壁は目を逸らした。


 分かっている。


 水面。紐。木片。布。気になると、手が動く。止めたいと思う。止めなければ気持ち悪い。それを我慢する訓練をしたばかりだ。


 ヴォルフは、自分自身をその「気になるもの」として差し出している。


 最悪だった。


「お前の動きは気持ち悪いんだよ」


 ヴォルフが言う。


「え」


 真壁は顔を上げた。


「俺の動きがですか」


「ああ。見ててむず痒い。触ったら何か起きそうなのに、触ったらこっちが変な目に遭いそうでさ。そういうの、いいよな」


「よくないです」


「俺はいい」


 ヴォルフが一歩近づく。


 ララの剣が動いた。


 速い。


 だがヴォルフは、上半身を沈めるだけでそれを避けた。骨があるのか疑わしいほど、身体が柔らかく流れる。ララは続けて二撃、三撃と放つ。どれも鋭い。だが、当たらない。


 真壁は見ていた。


 見たくないのに、見てしまった。


 ララの剣筋は綺麗だった。線がある。道がある。だから、ヴォルフがそれをどう外しているかも分かる。分かるから気持ち悪い。ヴォルフは剣を避けているのではない。剣が通る場所から、自分の身体の「当たり判定」を一瞬だけずらしているように見える。


「(何だよ、それ)」


 真壁の指先が、ぴくりと動いた。


 ヴォルフの肩。


 いや、違う。


 肘。


 違う。


 足首。


 そこでもない。


 どこかにあるはずだ。


 止める場所。


 この気持ち悪い揺れを止める一点。


「真壁!」


 ララの声で、真壁は我に返った。


 右手が前に出かけていた。


 慌てて左手で押さえる。


「……っ!」


 止めた。


 ギリギリで。


 ヴォルフが、嬉しそうに笑った。


「今、来かけたな」


「来てません」


「嘘下手だって」


「来てません」


「いいじゃん。次は来いよ」


「来ません」


 真壁は心臓が嫌な速さで鳴っているのを感じた。


 怖い。


 だが、同時に少しだけ分かった。


 ヴォルフは、完全に分からないわけではない。見えないのではなく、見せないようにしている。中心を隠し、揺れを散らし、触る一点を常にずらしている。だから気持ち悪い。


 止められないのではない。


 まだ、止める場所が見つからないだけ。


「(いやいやいや、何考えてるんだ俺)」


 真壁は自分で自分に引いた。


 止める場所を探すな。触る方法を考えるな。あの男に興味を持つな。持ったら終わりだ。絶対に面倒なことになる。


 ララは剣を構えたまま、低く告げた。


「ヴォルフ。次に真壁を刺激すれば、本気で斬る」


「あ、名前バレた?」


「今、そこの見張りが思い出した。国際指名手配犯の名簿にその特徴がある」


 周囲の騎士たちがざわつく。


 真壁は固まった。


「国際指名手配犯?」


 ヴォルフは頭を掻いた。


「昔の話だろ」


「現在進行形だ」


「細かいな」


「帰れ」


「今日は帰るさ。収穫あったし」


 彼は真壁へ視線を向けた。


「またな、ほどき屋。次は、もうちょい近くで遊ぼうぜ」


「遊びません」


「遊ぶって」


 そう言うと、ヴォルフは訓練場の壁へ向かって歩き、何でもないように跳び上がった。踏み込みの音も、着地の音も、ほとんどない。そのまま壁の上に立ち、ひらりと手を振る。


 ララが追おうとしたが、すでに遅い。


 ヴォルフの姿は、屋根の向こうへ消えていた。


 訓練場に沈黙が残る。


 ララは剣を収め、真壁を見た。


「今、発動しかけたな」


「……はい」


 誤魔化せなかった。


「止められた」


「左手で物理的に」


「それでいい。最初の成果だ」


「成果って言われると、なんかすごく嫌です」


「だが成果だ」


 ララは少しだけ表情を和らげた。


「お前は、止められる」


 真壁は自分の右手を見た。


 怖い手。


 勝手にほどく手。


 だが、今は止められた。


 ほんの一瞬、ヴォルフという気持ち悪い揺れに引っ張られた。だが、左手で押さえた。視線を外した。触れずに済んだ。


 それが、成果。


「……でも、あの人また来ますよね」


「来るだろうな」


「最悪だ……」


 真壁は本気でうなだれた。


 ララは真壁の横に立ち、ヴォルフが消えた壁の向こうを見た。


「だが、あの男が言ったことにも一理ある」


「え、どれですか。嫌なことしか言ってませんでしたけど」


「怖いものを怖いまま放置すれば、いずれ制御できなくなる」


「……」


「お前は戦わなくていい。だが、自分の手から逃げ続けることはできない」


 真壁は何も言えなかった。


 逃げたい。


 心の底から逃げたい。


 だが、手は自分についてくる。どこへ行っても、何をしても、この右手は自分のものだ。四畳半に戻れたとしても、きっともう前と同じではいられない。


 訓練場の空は青かった。


 広すぎる空だった。


 真壁は小さく息を吐く。


「……午前中いっぱいって、あとどれくらいですか」


「まだ半分も経っていない」


「絶望だ」


「続けるぞ」


「はい……」


 こうして、真壁悠の制御訓練初日は続いた。


 彼が望んだわけではない。


 彼がやる気を出したわけでもない。


 ただ、怖いから止めたい。危ないから触りたくない。できれば飯を食って寝たい。


 そんな後ろ向きな理由だけで、彼は少しずつ、自分の手の扱い方を覚え始めていた。


 もっとも本人は、成長している自覚などまるでなく。


「(昼飯、多めに出ないかな……)」


 訓練場の真ん中で、かなり真剣にそれだけを考えていた。

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