第6話
朝は、最悪の形で訪れた。
真壁悠は、寝台の上で目を開けた瞬間、自分がまだ四畳半に戻っていないことを理解した。天井が違う。蛍光灯がない。黄ばんだ壁紙もない。天井から垂れる紐もない。代わりにあるのは、灰色の石天井と、窓の外から差し込む硬い朝の光だった。
「……夢オチじゃなかったか」
声に出してみると、余計に現実味が増した。
王宮騎士団の簡易宿舎。昨夜、ララ・バーンに連れてこられ、食事を与えられ、部屋を与えられ、事情聴取を受け、そして窓の外から例の外套男――ヴォルフに話しかけられた場所である。
寝る前には、ほんの少しだけ希望があった。もしかしたら眠って目が覚めれば、畳の上に戻っているのではないか。カップ麺の容器が転がる四畳半で、昨日見た異世界の全部は、紐を打ちすぎて脳が疲れたせいで見た悪夢だったのではないか。
だが、現実は甘くない。
寝台は硬い。布団は薄い。窓は小さい。部屋は静かだが、自分の部屋ではない。そして何より、扉の向こうから規則正しい足音が近づいてくる。
「(……嫌な予感しかしない)」
コン、コン。
ノックは二回。間隔が正確だった。いかにも時間を守る人間の音だ。
「真壁。起きているか」
ララの声だった。
起きていないことにしたかった。だが、昨日の夜に「寝言です」と言って失敗したばかりである。ここで無視しても、彼女はたぶん普通に入ってくる。騎士団の人間に、引きこもりの居留守が通用するとは思えなかった。
「……起きてます」
「入るぞ」
返事とほぼ同時に扉が開いた。
ララは朝から隙がなかった。銀髪をきっちりまとめ、動きやすい訓練用の服に身を包み、腰には細身の剣を佩いている。鎧ではないのに、彼女が部屋に入っただけで、空気がまっすぐになるような圧があった。
「体調はどうだ」
「寝起きです」
「問題なさそうだな」
「今の返事でそう判断するんですか」
「自力で文句が言えるなら十分だ」
合理的だが、納得はできなかった。
ララは机の上に小さな盆を置いた。硬いパンと、薄いスープと、水。朝食らしい。
「食べろ。その後、訓練場へ行く」
真壁はパンへ伸ばしかけた手を止めた。
「……訓練場?」
「ああ」
「俺、今日も働くんですか」
「働くのではない。制御訓練だ」
「それは、俺の感覚だとかなり労働に近いです」
「命を守るための訓練だ」
「言い換えた労働では?」
「違う」
昨日も似たような会話をした気がする。
真壁はパンを手に取った。硬い。硬いが、食べられる。ありがたい。ありがたいのだが、食べ物を与えられた直後に訓練を宣告されると、餌で釣られているような気分になる。
「……拒否権は」
「ある」
「本当ですか」
「拒否した場合、制御不能の危険人物として、より厳重な監視下に置くことになる」
「それは拒否権じゃなくて脅迫では?」
「選択肢はある」
「選択肢の形をした罠ですね」
真壁は小さくため息をついた。
逃げられない。
分かっていたことだ。昨日の時点で、彼はもうララの監視対象になっている。宿と食事を与えられた代わりに、自由は確実に減った。いや、元から自由などほとんどなかったが、減った気がすることが問題だった。
それでもパンは食べる。
腹は減るからだ。
硬いパンをかじろうとして、真壁は一瞬だけ指を止めた。パンの端に、昨日と同じような裂け目がある。そこへ触れれば、食べやすくほどけるのが分かる。
「……」
手を止める。
触らない。
普通に噛む。
硬い。
「……痛い」
「今、あえて使わなかったな」
ララが見ていた。
「使うなって言われそうだったので」
「良い判断だ」
「褒められても嬉しくないですね」
「褒めている」
「余計に嫌です」
真壁は硬いパンを少しずつ噛み砕いた。顎が疲れる。だが、これも訓練なのかもしれない。いや、絶対に違う。ただの朝食だ。
食事を終えると、ララは真壁を宿舎の外へ連れ出した。
朝の騎士団施設は、真壁の予想以上に騒がしかった。鎧を着た騎士たちが廊下を歩き、誰かが遠くで号令をかけ、訓練用の木剣が打ち合わされる音がする。ギルドの喧騒よりは整っている。だが、整っているからこその圧があった。
全員が目的を持って動いている。
それが怖い。
真壁の人生には、目的を持って朝から動く人間がほとんど存在しなかった。彼は二十年間、起きる時間すら曖昧な生活をしてきたのだ。朝から皆が同じ方向へ進んでいるだけで、社会の巨大な歯車が自分を巻き込もうとしているように感じられる。
「(……無理。ここも無理)」
そんなことを考えている間に、訓練場へ着いた。
広い中庭だった。地面は踏み固められ、木剣、槍、盾、的、人形などが整然と並んでいる。周囲には数名の騎士がいたが、ララが視線を向けると、彼らは距離を取った。あらかじめ話が通っているらしい。
「ここなら、多少の事故は対応できる」
「事故前提なんですね」
「お前の場合、前提にするしかない」
「俺、そこまで危険人物扱いなんですか」
「自覚がない分、余計に危険だ」
反論できなかった。
ララは訓練場の端に置かれた机から、いくつかの物を取り出した。小さな布切れ。木片。水を入れた浅い皿。金属の輪。硬い革紐。どれも武器には見えない。
「まずは確認する。お前の力が何に反応し、何に反応しないか」
「実験台みたいですね」
「実験だ」
「言い切った」
「曖昧に言う方が不誠実だろう」
確かにそうだが、言い切られると逃げ場がない。
最初は布切れだった。
ララがそれを木の台に置く。端が少しだけ風で揺れている。
「触れろ」
「普通にですか」
「普通にだ」
真壁は恐る恐る指を伸ばした。
布が揺れる。
気になる。
揺れの中心が見える。どこへ触れれば止まるか分かる。
――パツン。
布の端がほどけた。
細い糸が数本、緊張を失って広がる。
「……発動」
ララが記録する。
「次」
木片。
表面にささくれがある。そこが気になる。真壁が触れる。
――パツン。
ささくれだけが綺麗に外れた。木片そのものは壊れていない。
「次」
水の皿。
表面が揺れている。真壁は、今度こそ我慢しようとした。
「触れずに見ろ」
「見るだけ?」
「ああ」
見る。
水面が揺れる。
気になる。
だが手は出さない。
五秒。
十秒。
額に汗が滲む。
「(うるさい。めちゃくちゃうるさい。止めたい。止めたいけど触るなって言われた。触ったらまた訓練が増える気がする)」
真壁は必死に耐えた。
水面の揺れが、ずっと視界に残る。四畳半の紐なら打てばよかった。今までも、邪魔なら触れればよかった。だが触るなと言われた途端、揺れは倍以上にうるさくなる。
「……止めたいか」
ララが聞いた。
「止めたいです」
「なぜだ」
「うるさいので」
「音はほとんどない」
「見た目がうるさいんです」
ララは少しだけ目を細めた。
「視覚的な揺れに強く反応する、か」
「何か分析されてる……」
「当然だ」
次にララは皿の横へ小さな木板を立てた。水面が真壁の視界から隠れる。
途端に、真壁の肩から力が抜けた。
「楽になったな」
「はい」
「つまり、見えなければ反応しづらい」
「そうかもしれません」
「では次だ」
「まだあるんですか」
「始まったばかりだ」
絶望的な言葉だった。
次は金属の輪だった。真壁が手に取る。輪の継ぎ目が気になる。そこへ指先が行きそうになる。
「待て。力を入れるな。継ぎ目を見るな」
「見るなと言われると見ます」
「では目を閉じろ」
目を閉じる。
金属の冷たさだけが指に残る。
不思議なことに、さっきより少し楽だった。継ぎ目が見えないと、そこまで気にならない。ただ、指先の感触だけで輪の形はぼんやり分かる。
「そのまま、何もせず置け」
真壁は慎重に輪を台へ戻した。
何も起きない。
「……できた」
本人が一番驚いた。
「目を閉じれば抑制できる可能性がある」
ララは記録しながら頷いた。
「戦闘中に目を閉じるのは現実的ではないが、日常での事故防止には使える」
「日常生活が目閉じ生活になるんですか」
「極端に捉えるな」
「でも俺の場合、極端にしないと危なくないですか」
ララは答えなかった。
その沈黙が怖かった。
訓練は続いた。
革紐を触る。ほどける。木剣の刃の欠けを触る。欠けだけが落ちる。石の表面のひびに触れる。ひびの線に沿って、薄く剥がれる。
真壁は、自分の手が嫌になってきた。
便利だ。便利すぎる。邪魔なものを、気になるものを、触れるだけで整えられる。壊すのではなく、ほどく。不要な抵抗を外す。だがそれは、裏を返せば、何がほどけるか自分でも分からないということだった。
「……ララさん」
「何だ」
「俺、手袋とかした方がいいんじゃないですか」
ララの筆が止まった。
「それは考えている」
「できれば分厚いやつで。絶対に何も触れないやつ」
「それでは食事もできんだろう」
「食事の時だけ外します」
「食事中にも発動していた」
「詰んでますね」
「詰んではいない。だから訓練している」
真壁は訓練という言葉に顔をしかめた。
「やっぱり労働じゃないですか」
「違う」
その時、訓練場の壁の上から声がした。
「いやー、朝から真面目だねえ」
空気が変わった。
ララの手が即座に剣へ伸びる。
真壁の肩が跳ねる。
壁の上に、男が座っていた。くたびれた外套。寝癖のついた髪。黄金色の瞳。片膝を立て、まるで散歩の途中で休憩しているだけのような顔で、訓練場を見下ろしている。
ヴォルフだった。
「……お前」
ララの声が低くなる。
「立入禁止だ」
「知ってる」
「なら出ていけ」
「やだ」
昨日と同じ調子だった。
真壁は心底嫌そうに顔を歪めた。
「なんで来るんですか」
「言ったろ。また来るって」
「有言実行しなくていい場面ですよ」
「お前の訓練、面白そうだから見に来た」
「見世物じゃないです」
「そういうとこもいいな」
ヴォルフは楽しそうだった。
ララは剣を抜いた。
金属音が訓練場に響く。
「次に一歩でも踏み込めば斬る」
「怖いねえ」
ヴォルフは笑ったまま、壁の上から飛び降りた。
ララの目が鋭くなる。
真壁は思わず後ずさった。
ヴォルフの着地には音がなかった。普通、あの高さから降りれば足音がする。膝が沈む。地面が鳴る。だが、彼は音も衝撃もほとんど残さず、そこに立っていた。
「踏み込んだぞ」
ララが剣を構える。
「壁から下りただけ」
「詭弁だ」
「じゃ、斬る?」
次の瞬間、ララが動いた。
速い。
真壁の目では、剣筋を追いきれなかった。だが、空気が裂ける位置は分かった。ララの一撃は、ヴォルフの肩口へ向かっていた。
当たる。
そう思った。
だが、当たらない。
ヴォルフの身体が、ありえないほど柔らかく沈んだ。避けたというより、剣が通る空間から身体の方が消えたような動きだった。骨があるのか疑いたくなるほど、上半身がぬるりと流れる。
「おっかねえな」
ヴォルフが笑う。
「騎士ってのは朝から元気だ」
「お前が侵入者だからだ」
ララの二撃目が走る。
ヴォルフはまた避ける。今度はほんの半歩、足をずらしただけだ。だがそれだけで、剣先は届かない。
真壁はそれを見て、嫌な汗をかいた。
「(……この人、やっぱり変だ)」
ララの動きは綺麗だった。速く、鋭く、無駄がない。だがヴォルフは、その「無駄のなさ」すらすり抜けている。真壁のヒモ打ちは、揺れを読んでそこへ置く。だがヴォルフは、そもそも読ませない。動きの中心が毎回ずれる。右にあると思えば左へ沈み、前へ来ると思えば後ろへ抜ける。視線も肩も腰も、全部信用できない。
ララが距離を取る。
ヴォルフは真壁を見た。
「なあ、分かった?」
「何がですか」
「お前の手、俺に当たると思う?」
真壁は即答できなかった。
当たらない。
たぶん当たらない。
紐なら打てる。水滴なら触れる。魔物の関節ならほどける。ララの剣筋も、たぶん何度も見れば少しは分かるかもしれない。
だが、ヴォルフは違う。
当てる場所がない。
「……無理です」
「正直でよろしい」
ヴォルフは笑った。
「でもな、面白いのはここからだぜ。お前のそれ、当てる技じゃないだろ」
「知りません」
「知れよ。自分の手だろ」
「俺も困ってます」
「だろうな」
ヴォルフは一歩、真壁へ近づく。
ララが間に入る。
「近づくな」
「過保護だねえ」
「お前のような者からは守る必要がある」
「守る? それとも囲う?」
ララの表情が少しだけ変わった。
ヴォルフはそこを見逃さなかった。
「なあ騎士さん。そいつを危険物扱いして、訓練して、監視して、飯と寝床で囲って、次は何だ? 武器にでもするのか?」
「黙れ」
「図星?」
「違う」
ララの声には怒りが混じっていた。
真壁は二人の間で小さくなった。
「(俺を挟んで怖い話しないでくれ……)」
だが、ヴォルフの言葉は真壁の中にも残った。
囲われている。
確かに、そういう感じはある。飯と寝床はありがたい。ララは悪人ではない。むしろ助けてくれている。だが、見張りがいて、訓練があって、危険度を測られている。自分の意思でここにいるのか、逃げ場がないからここにいるのか、だんだん曖昧になってきている。
ララは真壁を振り返った。
「真壁。私はお前を利用するつもりはない」
「……はい」
「だが、放置もできない」
「それは、分かります」
真壁は小さく答えた。
分かるのだ。
自分でも、自分を放置していいとは思えない。昨日から今日にかけて、あまりにも色々ほどきすぎている。
ヴォルフはつまらなそうに頭を掻いた。
「真面目だねえ。ま、いいや」
彼は真壁へ視線を戻す。
「ほどき屋。宿題出しとくわ」
「いらないです」
「俺に触る方法、考えとけ」
「考えません」
「考えるって。お前、俺の動き見て気持ち悪かったろ?」
「……はい」
「じゃあ、気になる。気になったら、お前は止めたくなる」
嫌なことを言う。
真壁は反論できなかった。
ヴォルフの動きは、気持ち悪かった。不規則で、中心がなくて、見ているだけで落ち着かない。あれを止められたら、どれだけ静かになるだろうと、ほんの一瞬思ってしまった。
「また来る」
「来るな」
ララが斬りかかる。
だがヴォルフは、いつの間にか訓練場の壁の上に戻っていた。
「朝練、頑張れよ」
ひらひらと手を振る。
次の瞬間、姿が消えた。
音もなく、気配もなく。
訓練場には、朝の冷たい空気だけが残る。
ララは剣を収めず、しばらく壁を睨んでいた。
「……警備を増やす」
「増やして止まる人なんですか」
「止まらないだろうな」
「じゃあ増やしても……」
「何もしないよりはいい」
真壁は深いため息を吐いた。
訓練は、まだ朝のうちに始まったばかりだった。なのに、もう疲れている。
ヴォルフという厄介な男は、また来ると言った。ララは制御訓練を続けるつもりだ。騎士団は監視を強めるだろう。真壁の望む「静かな部屋で飯を食って寝るだけの生活」は、昨日よりさらに遠くなった気がする。
「……ララさん」
「何だ」
「訓練、今日あと何時間くらいありますか」
「午前中いっぱいだ」
「労働じゃないですか」
「違う」
「もうそれでいいです……」
真壁は空を見上げた。
青い空。
四畳半にはなかった広すぎる空。
そこには蛍光灯の紐も、黄ばんだ天井もない。
ただ、逃げ場のない明るさだけがあった。
真壁悠の制御訓練初日は、こうして始まった。
彼が望んだわけではない。
やりたいわけでもない。
だが、彼の指先がこの世界のあらゆる「継ぎ目」をほどいてしまう以上、もう何も知らないまま引きこもることは許されなかった。
もっとも本人は、そんな大げさな運命など知ったことではなく。
「(……昼飯、多めに出ないかな)」
ただそれだけを、かなり真剣に考えていた。




