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第5話

 扉が閉まった瞬間、世界の音が一段、低くなった。


 真壁悠は、しばらくその場から動けなかった。背中には厚い木の扉。目の前には、石造りの小さな部屋。壁際の寝台、簡素な机、椅子が一脚、細長い窓、薄い布のカーテン。余計な装飾はなく、使われているものはどれも実用一辺倒だった。豪華ではない。むしろ質素だ。けれど、真壁にとってはそれだけで十分すぎた。


 音が少ない。


 それが、まずありがたかった。


 外の通りの足音も、ギルドの喧騒も、屋台の呼び声も、ここまでは薄くしか届かない。完全な無音ではない。廊下の向こうを歩く騎士の足音や、遠くで誰かが扉を閉める音は聞こえる。それでも、あの暴力的な情報量に比べれば、ここは天国に近かった。


「……静かだ」


 思わず声が出た。


 自分の声が、ちゃんと自分の声として聞こえる。誰かの怒鳴り声に潰されない。笑い声に混ざらない。音が返ってきても、壁に軽く触れて戻るだけだ。真壁は扉にもたれたまま、ゆっくり息を吐いた。


 王宮騎士団の簡易宿舎。


 ララ・バーンにそう説明された時、真壁は正直かなり身構えた。騎士団という響きがよくない。訓練、規律、号令、集団行動。聞くだけで喉が狭くなる単語ばかりだ。だが実際に案内されたこの部屋は、想像よりずっと静かだった。狭いが、汚くない。寝台がある。窓もある。鍵もかかるらしい。これで食事まで出るなら、下手な宿よりも安全かもしれない。


「(……これでいいじゃん)」


 真壁は本気でそう思った。


 広すぎる屋敷も、豪華な部屋もいらない。最低限の飯と、寝る場所と、外から閉ざされた空間。それがあれば、人間はかなり生きていける。四畳半で二十年やってきた男の実感だった。


 ただ、安心したせいなのか、指先が落ち着かなかった。


 視界の端で、カーテンの裾がわずかに揺れている。窓は閉まっている。風は入っていないはずだ。だが、薄い布がほんの少しだけ震えている。建物そのものの振動か、遠くの足音が伝わっているのかもしれない。普通なら気にしない。普通の人間なら、気にする必要もない。


 だが真壁は普通ではなかった。


「(……うるさい)」


 思った瞬間、手が動いていた。


 ――パツン。


 小さな音。


 カーテンの揺れが止まった。


 止まっただけなら、まだよかった。


 布の端の繊維が、ほんのわずかにほどけていた。切れたのではない。破れたのでもない。縫い目の緊張が抜け、張りを保っていた部分が一段だけ緩んだような、奇妙な変化だった。


「……」


 真壁は自分の指先を見た。


「(……何もしてないんだけど)」


 いや、触れた。触れたのは確かだ。だが、それだけだ。力を入れたわけではない。引っ張ったわけでもない。ただ、揺れていたから、そこへ指を置いた。それだけで布が変わる。


 水滴。埃。魔物の関節。肉の筋。そして今度はカーテン。


 対象がどんどん増えている。


「(これ、寝てる時とかに勝手に出ないよな……?)」


 嫌な想像をしてしまった。


 寝返りを打った拍子に寝台がほどける。布団がほどける。壁がほどける。自分の服がほどける。それくらいならまだいい。いや、よくはないが死にはしない。問題は、人間だ。もし誰かに触れた時、同じことが起きたら。


 真壁は指を握り込んだ。


「(人にやらない。絶対に人にやらない)」


 自分に言い聞かせる。


 その時、扉がノックされた。


 真壁の肩が跳ねる。


「入るぞ」


 返事を待つ前に、扉が開いた。現れたのはララ・バーンだった。鎧は外している。だが、身に纏う空気は変わらない。背筋は伸び、視線はまっすぐで、部屋に入っただけで空間が少し硬くなる。


 彼女の手には盆があった。


「食事だ」


「……ありがとうございます」


 真壁は反射的に頭を下げた。


 盆には、黒パンが二切れ、野菜の入ったスープ、薄く焼いた肉が少し、木の杯に入った水が置かれていた。豪華ではない。ギルド前の屋台の肉串のような派手さもない。だが、温かい湯気が立っている。食べられるものが、きちんと用意されている。


 それだけで、胸の奥が少し緩んだ。


 ララは机に盆を置き、部屋を見回した。カーテンの端で、視線が止まる。


「……もう何かしたのか」


「してないです」


 真壁は即答した。


 だが、ララの目が細くなる。


「では、なぜカーテンの縫い目が緩んでいる」


「……触れただけです」


「それを、したと言う」


「すいません」


 言い返せなかった。


 真壁は椅子に座り、スープを手に取った。木の器越しに温かさが伝わる。匙で一口すくい、恐る恐る飲む。薄味だった。だが、胃に優しい。さっきの肉串とは別の意味でありがたい味だった。


「ここは一時的な宿舎だ。長く使わせることはできない」


 ララは向かいに立ったまま言う。


「だが、今日の状態でお前を外へ放り出すわけにもいかない。寝床と食事は用意する。その代わり、事情を聞かせてもらう」


「事情……」


「名前、出身、能力の性質、王都に来た経緯」


「能力の性質は、俺も知りたいです」


「だろうな」


 即答だった。


 ララは椅子には座らない。立ったまま、真壁を観察している。その姿勢がまた落ち着かない。真壁はパンに手を伸ばした。


「名前は、真壁悠です」


「マカベ・ユウ。家名が先か」


「たぶん」


「たぶん?」


「いや、出身地の文化的にそういう感じで……」


「出身は」


「日本です」


「ニホン」


 ララは聞き覚えのない音を繰り返す。


「この大陸の国ではないな」


「たぶん、この世界の国じゃないです」


 言ってから、真壁は少しだけ後悔した。いきなり異世界から来ましたと言って信じてもらえるのか。頭がおかしいと思われるのではないか。だが、ここまでの状況を見る限り、隠し通す方が難しい。


 ララは驚かなかった。


「召喚者か」


「……知ってるんですか」


「王城で召喚の儀があったことは知っている。成功したとも、失敗したとも、噂は錯綜していた。まさか失敗扱いされた者が、街に放り出されていたとはな」


 真壁はスープを飲む手を止めた。


「戻れますか?」


「王城へか」


「いや、元の部屋へ」


 ララは少し黙った。


「私は召喚術の専門家ではない」


「ですよね」


 分かっていた。だが聞かずにはいられなかった。


 真壁はパンをかじる。硬い。前世のふわふわした食パンとは違う。噛むほど粉の味がする。少し酸味もある。だが、食べ物だ。ありがたい。


「元の世界では何をしていた」


「何もしてません」


「何も?」


「家から出ずに暮らしてました」


「貴族か?」


「違います」


「では、どうやって生活を」


「親が残した古いアパートの家賃収入で……」


 説明している途中で、ララの眉間に皺が寄った。


「つまり、領地収入のようなものか」


「だいぶ小さいやつです」


「働かず、それだけで暮らしていたと」


「はい」


 ララはしばらく黙った。


「……それで、あの技量か」


「技量っていうか、暇つぶしです」


「暇つぶし」


「天井から紐が垂れてまして」


「紐」


「それを二十年くらい打ってました」


 部屋が沈黙した。


 ララは何か言おうとして、やめたようだった。


「なぜ」


「他にやることがなかったので」


 真壁としては、これ以上ないほど正直な答えだった。


 ララは額に指を当てる。


「……お前の話は、理解できそうで理解できない」


「俺も自分の状況が理解できてないです」


 真壁は水を飲もうとして、杯の表面を見た。水面が揺れている。ほんの少し。手に持った振動が伝わっているだけだ。普通なら気にならない。


 気になった。


「(やめろ)」


 思った時には遅かった。


 ――パツン。


 水面の波紋が消えた。


 不自然なほど平らになる。まるで時間を止めたように、器の中の水だけが静止している。


 真壁とララは、同時に杯を見た。


「……今のも無意識か」


「はい」


「できれば今後、私の前で無意識を減らせ」


「俺も減らしたいです」


「では減らせ」


「できたらやってます」


 会話が不毛だった。


 真壁はパンに目を落とす。今度はパンの繊維が気になった。硬い。噛みにくい。少し裂けている部分があり、そこに指を置けば綺麗に分かれると分かってしまう。


 ――パツン。


 パンが食べやすい大きさにほどけた。


 ララが無言になる。


 真壁も無言になる。


「……便利ではあるな」


 ララが低く言った。


「そういうこと言うと、俺が調子に乗るのでやめてください」


「調子に乗る性格には見えないが」


「楽な方にはすぐ流されます」


「それはよく分かった」


 ララは小さく息を吐き、ようやく椅子に座った。真正面ではなく、斜めの位置。真壁との距離を取りつつ、出入口にも目が届く位置だった。


「現時点で、お前の力は三つの性質を持っているように見える」


「分析されてる……」


「一つ、対象の構造を見抜く。二つ、接合や揺れを正確に捉える。三つ、触れた箇所の結合をほどく。少なくとも、水滴、埃、布、食材、魔物の死体に対しては確認済みだ」


「聞けば聞くほど嫌ですね」


「人間に対して発動するかは不明」


「絶対試さないでください」


「試さない。だが想定はする」


 ララの声が少し硬くなった。


「もし人間に発動するなら、お前は武器を持たずに関節を外し、腱を裂き、骨格を崩すことができる可能性がある。鎧を着ていても、継ぎ目や留め具をほどかれるかもしれない。魔術具も、術式の要を触れられれば破壊される恐れがある」


「やめません? その話」


「やめない。危険性を理解しなければ管理できない」


「管理……」


 嫌な言葉だった。


 ララはそれを察したのか、少し声を落とした。


「拘束と言うつもりはない。少なくとも今はな。お前はまだ誰も傷つけていない。だが、放置すれば誰かが傷つく可能性がある。お前自身も含めて」


 真壁は匙を止めた。


 それは、反論しづらい言い方だった。


 真壁自身も怖かった。自分の手が何をするか分からない。便利だと思ってしまう瞬間があるのが、さらに怖い。楽をしたい。静かにしたい。そのために世界の何かをほどいてしまう。そう考えると、自分が一番信用できなかった。


「……どうすればいいんですか」


 真壁は小さく聞いた。


 ララは少しだけ驚いたように瞬きした。


「まずは、意識して触れるものを選べ。次に、発動の前兆を覚えろ。何を邪魔だと感じた時に手が動くのか。それを知る必要がある」


「訓練ですか」


「そうなる」


「労働ですか」


「命を守る行為だ」


「言い方を変えた労働では?」


「違う」


 ララは即答したが、真壁は完全には納得していない顔だった。


 それでも、布団と食事を提供されている以上、あまり強く拒否はできない。食べ物を前にした人間の尊厳は弱い。


 食事を終える頃には、外はすっかり暗くなっていた。


 ララは盆を片付け、立ち上がる。


「今夜はこの部屋を使え。扉の外に見張りを立てる」


「見張り……」


「逃亡防止ではなく、安全確保だ」


「俺、その違い分かる自信ないです」


「逃げようとしなければ同じだ」


「なるほど……?」


 納得しきれないまま頷くしかなかった。


 ララは扉の前で立ち止まる。


「窓は開けるな。夜間は外に出るな。誰かが訪ねてきても、私か見張りを通せ」


「そんなに危ないんですか」


「この王都には、危ないものはいくらでもいる」


「怖いこと言わないでください」


「怖がっていい。むしろ、お前は怖がっている方が安全だ」


 そう言って、ララは部屋を出た。


 扉が閉まる。


 再び、静かになる。


 真壁は椅子に座ったまま、しばらく動かなかった。腹は落ち着いている。寝床もある。少なくとも今夜は雨風をしのげる。見張りがいるのは嫌だが、変な男に絡まれるよりはましかもしれない。


「(……寝よう)」


 考えるのをやめる。


 考えると疲れる。疲れるとろくなことがない。こういう時は寝るに限る。


 真壁は寝台に腰を下ろした。少し硬い。だが清潔だ。布団も薄いが、ちゃんとある。靴を脱ぎ、横になる。石造りの天井を見上げる。


 天井には、紐がなかった。


「……」


 それが、少し寂しかった。


 ずっと邪魔だと思っていた。うるさいと思っていた。だが、あの揺れる紐は、真壁にとって四畳半そのものだったのかもしれない。


「(帰りたいな)」


 声には出さなかった。


 出したら、少しだけ本当に寂しくなりそうだった。


 その時。


 窓が鳴った。


 ――コツ。


 真壁の目が開く。


 気のせいかと思った。


 だが、もう一度。


 ――コツ。


「……」


 真壁は布団の中で固まった。


 窓は開けるな、と言われた。誰かが訪ねてきても通すな、と言われた。なら無視すればいい。寝たふりをすればいい。見張りが気づくだろう。そう思った。


 窓の外から、軽い声がした。


「おーい。起きてる?」


 最悪だった。


 真壁は布団を頭までかぶった。


「寝てます」


「返事してんじゃん」


「寝言です」


「器用だな」


 笑い声。


 聞き覚えがある。


 ヴォルフだ。


「……なんでいるんですか」


「来ちゃった」


「帰ってください」


「やだ」


 即答だった。


 真壁は布団の中で絶望した。


 この男は、騎士団の宿舎の窓まで来るタイプなのか。常識というものが存在しないのか。いや、そんなことは最初から分かっていたかもしれない。


「窓、開けてよ」


「開けません。ララさんに怒られます」


「怒られんの嫌なんだ」


「嫌です」


「俺は?」


「嫌です」


「同じじゃん」


「同じじゃないです。あなたはもっと嫌です」


 窓の外でヴォルフが笑っている気配がした。


「なあ、ほどき屋」


「その呼び方やめてください」


「じゃあ真壁」


「気安い……」


「お前さ、自分の手が怖いんだろ」


 布団の中で、真壁は黙った。


 声の温度が、さっきまでと少し違った。


「怖いなら、使えるようになった方がいいぜ。怖いままだと、いつか勝手に出る。勝手に出たもんは、自分でも止められねえ」


「……経験談ですか」


「まあな」


 短い答え。


 真壁は布団の隙間から、窓の方を見た。カーテン越しに、外の影が揺れている。見張りはどうしたのか。気づいていないのか。それとももう何かされているのか。考えたくない。


「俺、戦いたくないんですけど」


「知ってる」


「働きたくもないです」


「それも知ってる」


「なら、ほっといてください」


「やだね」


 ヴォルフの声は、笑っていた。


「面白い奴は、ほっとくとつまんねえ方向に丸め込まれる。騎士団とか、ギルドとか、そういう連中にな」


「丸め込まれるって……」


「お前、明日から訓練とか言われたら断れんの?」


 断れない。


 真壁は即答できなかった。


「ほらな」


「……うるさいですね」


「だから、俺が遊びに来てやるよ」


「来なくていいです」


「また来る」


「来なくていいです」


「またな」


 窓の外の気配が薄くなる。


 真壁は布団の中でしばらく固まっていた。


 やがて、廊下側の扉が勢いよく開いた。


「真壁!」


 ララだった。


 剣を抜いている。


 見張りの騎士が慌てた様子でその後ろに立っていた。どうやら無事らしい。ヴォルフがわざと気配を残したのか、今になって発覚したのかは分からない。


「無事か」


「無事ですけど、心は無事じゃないです」


「窓を開けたか」


「開けてないです」


 ララは窓へ近づき、外を確認する。もう誰もいない。だが、窓枠の外側に小さな傷があった。爪で軽く叩いたような、浅い跡。


 ララの表情が険しくなる。


「……侵入者か」


「知り合いではないです」


「だろうな」


 ララは剣を収めないまま、しばらく窓の外を見ていた。


「明日から予定を変える」


「嫌な予感がします」


「お前の制御訓練を始める」


「やっぱり」


「そして、あの男への対策も考える」


「俺、関係あります?」


「大いにある」


 真壁は布団の中で目を閉じた。


 静かな部屋をもらったはずだった。


 食事ももらった。


 寝床もある。


 ようやく、少しだけ落ち着けると思った。


 なのに、もう窓の外には厄介な男が来て、部屋の中には剣を抜いた騎士がいる。


「(……四畳半が恋しい)」


 心の底からそう思った。


 真壁悠の異世界二日目の夜は、静かに終わるはずだった。


 しかし、彼の望む静けさは、この世界に来てから一度も、まともに与えられていない。


 そして翌朝から、彼はララ・バーンによる「保護」という名の監視と、「安全確保」という名の訓練に組み込まれることになる。


 本人が最も避けたかった、規則正しい生活の足音が、すぐそこまで近づいていた。

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