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第4話

「ちょっと遊ぼうぜ」


 軽い声だった。


 軽いのに、逃げ場がなかった。


 真壁悠は、手の中の小さな銅貨袋を握りしめたまま、目の前の男を見ていた。くたびれた外套。寝癖のついた髪。眠そうな目。気の抜けた立ち姿。見た目だけなら、真壁と同じく社会から少しこぼれた人間に見えなくもない。だが、その印象は最初の一秒だけだった。


 近い。


 ただ距離が近いのではない。相手が一歩分の間合いにいるというだけではない。どこへ逃げても、すでにそこを塞がれているような圧迫感があった。右へ抜けられる。左も空いている。後ろへ下がることもできる。頭ではそう分かるのに、身体が動こうとしない。踏み出した瞬間、自分から相手の手の中へ入っていく未来だけが、妙にはっきり見える。


「嫌です」


 真壁は即答した。


 迷う余地はなかった。腹が減っている。疲れている。ギルドの中の音と匂いと視線で、すでに頭は限界に近い。ようやく銅貨を手に入れたのだ。今やるべきことは一つしかない。屋台へ戻って肉を買う。それだけだ。知らない男と遊ぶ予定は、人生のどこにも入っていない。


 男は、拒絶されたことが楽しいとでも言いたげに笑った。


「いいね。ちゃんと嫌がる」


「嫌がりますよ。普通に」


「だいたいの奴はさ、俺が近づくと固まるか、強がるか、どっちかなんだよ。お前、ちゃんと迷惑そうにするじゃん」


「迷惑なので……」


 真壁は一歩、横へずれた。目の前の男を避けて、通りへ戻る。屋台はたしか、この道を少し戻ったところだ。甘辛いタレの匂いはまだ残っている。売り切れていなければいい。できれば二本買いたい。銅貨が足りるなら三本でもいい。


 そう考えながら動いたはずなのに、足が止まった。


 通れない。


「……え」


 真壁は思わず声を漏らした。


 男は動いていない。道も空いている。真壁の右側には、人ひとりが十分に通れる幅がある。それなのに、そこへ体を滑り込ませようとした瞬間、首筋の奥が冷たくなった。そこは空いているようで空いていない。踏み出せば、ぶつかる。いや、ぶつかるだけならまだいい。もっと嫌なことになる。


 四畳半の部屋で二十年、揺れる紐を見続けた身体が、言葉より早く拒絶していた。


「どうした?」


 男が首を傾げる。


「行かねえの?」


「……行きます」


「うん。行けば?」


 軽い返事。だが足は出ない。


 真壁はもう一度、違う方向へ抜けようとした。今度は左。さっきより大きく回る。相手の身体には触れない。十分に余裕がある。そう見える。


 だが、やはり止まる。


 相手の中心が分からない。立っている位置と、重さのある位置が一致しない。肩の線、腰の向き、足裏の置き方、そのすべてがだらしないのに、どこにも隙がない。いや、隙だらけに見えるからこそ、どこが隙なのか分からない。紐なら揺れの先が見える。水滴なら落ちる場所が分かる。魔物の死体ならほどける線が見える。


 だが、この男には、線がない。


「(……なんだこれ)」


 怖い。


 剣を向けられているわけではない。怒鳴られているわけでもない。ただ立たれているだけだ。それなのに、ギルドで見た魔物の死体よりも、さっきの解体場の血の匂いよりも、ずっと嫌な感じがする。


「なあ」


 男が一歩だけ前に出た。


 その一歩で、距離が潰れた。


「さっきの、もう一回見せてよ」


「無理です」


「なんで?」


「分かんないんで」


「分かんないのにやれるから面白いんだろ」


「面白くないです。俺は困ってます」


「そっか。困ってんのか」


 男はますます楽しそうに笑う。


 真壁は銅貨袋を握る手に力を入れた。銅貨が小さく鳴る。その音だけが、今の彼にとって現実だった。これがある。これで飯が買える。だから、この変な男に付き合っている場合ではない。


「……飯、食うんで」


 真壁はそう言って、半歩だけ後ろへ下がった。


 今度は下がれた。


 逃げるなら今だ。そう判断した瞬間、真壁は相手に背を向けた。危ない。背中を向けるべきではない。分かっている。だが、向かい合っている方がもっと危ない。背後から何かされる可能性よりも、このまま正面で絡まれ続ける方が確実に面倒だ。


 男は追ってこなかった。


「まあいいや」


 背中に声だけが届く。


「どうせまた会うし」


 その一言が、妙に嫌だった。


 真壁は振り返らない。振り返ったら負けだと思った。何の勝負かは分からないが、とにかく負ける気がした。早足で通りを戻り、さっきの屋台を探す。


 あった。


 鉄板の上で肉が焼かれている。甘辛いタレの匂い。焦げた脂の香ばしさ。店主の声。さっきは金がなくて離れるしかなかった場所に、今は戻れる。真壁は袋の口を開き、銅貨を確認した。


「(……買える)」


 それだけで、世界の色が少し変わった。


「お、兄ちゃん。また来たな」


 屋台の店主が笑う。


 覚えられていた。少し恥ずかしい。だが今はそれどころではない。


「……一本ください」


「一本でいいのか?」


「銅貨、これで足りますか」


 真壁が恐る恐る銅貨を差し出すと、店主はちらりと見て頷いた。


「一本なら十分だ。腹減ってる顔してるし、少し肉多めにしといてやるよ」


「ありがとうございます……」


 本気でありがたかった。


 串が鉄板の上で返される。肉の表面にタレが塗られ、じゅう、と音を立てる。その音はうるさくなかった。むしろ待てる音だった。四畳半でカップ麺の湯が沸くのを待っていた時の、あのどうしようもなく小さな期待に少し似ている。


「ほらよ。熱いぞ」


 串を受け取る。


 温かい。


 重みがある。


 真壁はしばらくそれを見つめてから、恐る恐るかじった。


 うまい。


 思考が止まった。


 肉の脂が舌に広がる。甘辛いタレが濃い。塩気がある。香草の匂いがする。たぶん安い肉なのだろう。筋もあるし、少し硬い。だが今の真壁には、前世で食べたどんなカップ麺よりも強烈にうまかった。


「(……生きてる)」


 大げさではなく、そう思った。


 異世界に放り出され、城から捨てられ、金もなく、寝る場所もなく、ギルドで魔物の死体を触らされ、変な男に絡まれた。その全てが、この一口で少しだけ遠くなる。飯はすごい。社会は嫌いだが、飯だけは偉大だ。


 真壁は無言で食べ続けた。人の声も、荷車の音も、露店の呼び込みも、少しだけ遠ざかる。食べるという行為に意識が集まるだけで、世界は少し静かになる。


 だが、完全には静かにならない。


 二口目をかじろうとした時、串の先で肉の繊維がわずかに引っかかった。硬い筋。歯に当たれば面倒なやつだ。普通なら噛み切るか、少し引っ張るかするだけのこと。


 なのに、気になった。


「(……そこ、邪魔だな)」


 指が動く。


 ――パツン。


 音は小さかった。


 肉の筋が、綺麗にほどけた。


「……あ」


 真壁は固まった。


 肉は崩れていない。串も折れていない。ただ、噛みにくそうだった繊維だけが自然にほどけ、ありえないほど食べやすい状態になっている。まるで長時間煮込んだ肉のように、余計な抵抗がなくなっていた。


「(またやった)」


 まずい。


 水滴でも埃でも魔物の死体でもなく、今度は自分の飯にまでやった。しかも、正直かなり便利だった。食べやすい。すごく食べやすい。だが便利だからといって、勝手に発動していいわけではない。


「(やめろ。飯にまで変なことするな。普通に食え。普通に)」


 そう思って三口目に進む。


 また筋が気になる。


 ――パツン。


「……」


 真壁は串を見つめた。


 完全に食べやすくなっている。


「(いや、助かるけどさ)」


 助かるのがよくない。便利だと思ってしまうのが一番まずい。このまま無意識に何でもほどいていくようになったら、自分が何を触っていいのか分からなくなる。人にやらなければいい、と思っていた。だが人と物の境界はどこだ。服はいいのか。椅子はいいのか。扉は。金属は。銅貨は。考えるほど、指先が落ち着かなくなる。


 少し離れた建物の影で、ララ・バーンはその一部始終を見ていた。


 彼女は巡回中という名目でそこにいた。だが実際には、真壁を見失わないよう距離を置いて追っていた。監視対象。今の彼を表すなら、その言葉が一番近い。


「(食事中ですら、無意識に出るのか)」


 ララは細く息を吐いた。


 危険だ。


 そう判断するしかない。あの力は攻撃の形をしていない。だからこそ危うい。剣なら抜かなければいい。魔術なら詠唱しなければいい。だが真壁の場合、本人が「邪魔だ」と感じた瞬間、身体が先に処理している。水滴を消す。埃を消す。魔物の関節を外す。肉の繊維をほどく。


 もし、彼が人間の関節を「邪魔だ」と感じたら。


 もし、誰かの剣を「うるさい」と感じたら。


 もし、街の壁や馬車の車軸や、魔術式の要を、無意識に「ほどいて」しまったら。


 被害は、本人の意思とは無関係に発生する。


「(保護すべきか、拘束すべきか)」


 ララは迷った。


 王都の騎士としては、危険人物を放置するわけにはいかない。だが、真壁は今のところ誰も傷つけていない。むしろ腹を空かせ、銅貨一枚の食事に心底ほっとしているだけの男だ。あれを剣で囲んで拘束するのは、正しい判断なのか。


 いや、そもそも拘束できるのか。


 その疑問が、ララの指先を冷たくした。


 あの男の異常性は、腕力や魔力の強さではない。触れたものの「接続」を外す。彼女の理解では、そう表現するしかない。鎖で縛れば、鎖の繋がりを外すかもしれない。檻に入れれば、格子の支点をほどくかもしれない。拘束そのものが成立するか分からない。


「(……厄介だな)」


 そして、厄介なものがもう一つある。


 視線を横へ流す。


 屋根の上。


 いつの間にか、あの外套の男が腰を下ろしていた。


 ヴォルフ。


 名はまだ知らない。だが、危険性だけなら真壁より分かりやすい。あれは明確に獣だ。眠そうな顔をしていても、芯に飢えがある。面白いものを見つけた時の獣の目だ。


 ヴォルフはララの視線に気づくと、ひらひらと手を振った。


「怖い顔すんなよ。見てるだけだって」


「見ているだけの獣ほど信用できないものはない」


「ひどいな。俺、今日はまだ何もしてねえのに」


「今日は、だろう」


 ヴォルフは笑った。


「いいじゃん。あいつ、面白いぜ。自分で自分の手を怖がってる」


「だから近づくなと言っている」


「無理だな」


 声は軽かったが、答えははっきりしていた。


「俺、ああいうの好きなんだよ。強い弱いじゃなくてさ、変な奴。理屈が後から追いかけてくる奴。しかも本人がめちゃくちゃ嫌がってる。最高だろ」


「お前の最高は、周囲にとって最悪だ」


「かもな」


 ヴォルフは否定しなかった。


 ララは剣に手をかける。だが抜かない。今ここで抜けば、騒ぎになる。真壁が巻き込まれる。いや、巻き込まれるというより、彼が何をするか分からない。


 その真壁は、屋台の前で最後の一口を食べ終え、串だけになった棒を見つめていた。


「(……足りない)」


 空腹は少し収まった。だが、満腹には遠い。もう一本食べたい。できれば三本食べたい。だが銅貨には限りがある。今日の報酬を全部肉に変えたら、夜どうするのかという問題が残る。


 宿。


 そうだ。寝る場所がない。


 真壁は串を持ったまま青ざめた。


「(飯の次は宿かよ……。人生、問題が連続しすぎだろ)」


 四畳半では、寝床の心配などしたことがなかった。布団はあった。畳はあった。カーテンも壁もあった。狭くても、古くても、自分の場所だった。だが今は違う。銅貨数枚を握りしめたまま、夕方の異世界の通りに立っている。


 帰る場所がないという事実は、満腹より先に胸へ落ちてきた。


「なあ」


 また声がした。


 真壁は嫌な予感とともに顔を上げる。


 いた。


 さっきの男が、屋根の上からではなく、いつの間にか隣に立っていた。


「うわっ」


「驚きすぎだろ」


「急に出てこないでください」


「出てきたくなったから」


「やめてください」


 ヴォルフは気にした様子もなく、真壁の手元の串を見る。


「飯、うまかった?」


「うまかったです」


「じゃ、よかったな」


「はい。なので帰ってください」


「冷たいなあ」


 会話が成立しているようで、全く成立していない。こちらの拒絶が相手に届かない。あるいは届いたうえで、気にしていない。


「お前、宿あんの?」


 真壁の肩がびくりと動いた。


 図星だった。


「……あります」


「嘘下手すぎ」


「これから探す予定があるという意味では、未来にあります」


「面白い言い訳すんなよ」


 ヴォルフが笑う。


「なら、いい場所教えてやろうか」


「嫌です」


「まだ何も言ってねえだろ」


「あなたの教える場所、絶対ろくでもないので」


「正解」


「ほら」


 真壁は本気で距離を取りたかった。だが、また通れない。さっきほどではないにせよ、ヴォルフが隣にいるだけで進行方向の選択肢が減る。相手が道を塞いでいるわけではない。むしろだらしなく立っているだけなのに、こちらの動ける場所だけが先回りして潰される。


「ちょっとだけさ」


 ヴォルフの声が、わずかに低くなった。


「俺に触ってみろよ」


 空気が変わった。


 ララが一歩踏み出す。


 真壁の指先が冷える。


「嫌です」


「即答すんなって。さっき肉にやってたやつでいい。俺にできるか試してみろよ」


「人にやらないって決めたんで」


「へえ」


 ヴォルフの目が細くなる。


 初めて、笑みの奥に別の色が見えた。


「決めてんのか」


「はい。危なそうなので」


「自分で危ないって分かってんだ」


「分かってないけど、危なそうなのは分かります」


 沈黙が落ちた。


 一瞬だけ、通りの音が遠ざかる。


 ヴォルフは真壁を見ていた。真壁も、逃げたいのに逃げられず、ヴォルフを見ていた。ララは剣の柄に手をかけたまま、二人の間合いを測っている。


 次の瞬間、ヴォルフが笑った。


「いいね」


「何がですか」


「ちゃんと怖がって、ちゃんと線引いてる。そういう奴、嫌いじゃねえ」


「俺はあなたが苦手です」


「そこもいい」


「よくないです」


 ヴォルフは肩をすくめた。


「今日はやめとくわ。飯食ったばっかの奴を動かすのも悪いしな」


「今後もやめてください」


「それは無理」


「無理なんだ……」


 真壁は絶望した。


 ヴォルフは背を向け、ひらひらと手を振る。


「またな、ほどき屋」


「変なあだ名つけないでください」


「じゃあ、灰色」


「それも嫌です」


「注文多いな」


 言い終える前に、ヴォルフの姿は人混みに紛れていた。追う気にもなれない。追ったところで見失うだろう。そもそも追いたくない。


 ララが近づいてくる。


「真壁、と言ったな」


 真壁は肩を跳ねさせた。


 今度は騎士っぽい人だ。鎧。剣。姿勢が良い。明らかに公的な暴力の気配がする。これはこれで怖い。


「……はい」


「私はララ・バーン。王宮騎士団第三隊長を務めている」


「お世話になっております……?」


「まだ世話はしていない」


「ですよね」


 何を言えばいいのか分からない。


 ララは、真壁の右手を見る。


「お前は、自分が何をしているか理解しているか」


「してないです」


「だろうな」


 即答された。


「だが、理解していないまま放置するには危険すぎる。少なくとも、しばらくは私の目の届くところにいてもらう」


「それは、逮捕ですか?」


「保護に近い」


「保護……」


 嫌な言葉ではない。だが、自由が減りそうな響きがある。


「寝る場所もないのだろう」


 また図星だった。


「……ないです」


「なら、今日のところは騎士団の簡易宿舎を使え。食事も最低限は出る」


 食事。


 その単語に、真壁の心が揺れた。


「……働かなくても?」


「事情聴取は受けてもらう」


「それは働くに含まれますか?」


「含めるな」


 少しだけ、ララの眉間に皺が寄った。


 真壁は真剣に考えた。


 騎士団。怖い。事情聴取。面倒。だが、宿と食事。これは大きい。圧倒的に大きい。野宿よりはましだ。変な外套男に絡まれ続けるよりも、騎士団の方がまだ制度がありそうだ。


「……分かりました。できれば静かな部屋でお願いします」


「善処する」


「あと、布団があると助かります」


「善処する」


「あと、明日以降の労働はなるべく少なめで……」


「それは保証しない」


「ですよね……」


 真壁は深く息を吐いた。


 逃げたい。だが逃げ場はない。


 それでも、少なくとも今夜寝る場所はできた。食事も出るらしい。ならば、今日という日は勝ちでいいのかもしれない。いや、勝ちというには巻き込まれすぎているが、餓死よりは勝ちだ。


 ララに促され、真壁は歩き出す。


 その背後の屋根の上で、ヴォルフが寝転がりながら二人を見送っていた。


「騎士団ねえ」


 面白そうに呟く。


「じゃ、次はそこ行くか」


 誰にも聞こえない声だった。


 真壁悠の望む静かな生活は、異世界に来て二日目にして、すでに複数の厄介な人間に発見されていた。


 本人だけが、それをまだ「一時的な不運」だと思っている。


 そしてその勘違いこそが、彼の平穏をさらに遠ざけていくことになる。

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