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第3話

 冒険者ギルドの扉を押した瞬間、真壁悠は自分の判断を少しだけ後悔した。


 音が、重い。


 外の通りも十分にうるさかった。石畳を踏む足音、荷車の軋み、露店の呼び声、肉の焼ける匂いに群がる客たちの笑い声。あれだけでも、二十年を四畳半で過ごした真壁には十分すぎる暴力だった。だが、ギルドの中はその比ではない。


 酒場と事務所と兵舎を、無理やり一つの箱に詰め込んだような場所だった。木の卓を叩く音、杯のぶつかる音、笑い声、罵声、鎧の擦れる金属音、床板を踏み鳴らす重い靴音。そこに酒と汗と革と鉄の匂いが混ざり、空気そのものが粘ついている。息を吸うだけで、喉の奥に知らない誰かの生活が貼り付くようだった。


「(……無理だろ、ここ)」


 真壁は反射的に半歩下がった。


 だが、背中にはもう扉がある。外へ戻ったところで、金はない。腹は減っている。寝る場所もない。衛兵に見つかれば、また働けだの牢屋だのと言われるに決まっている。中へ進んでも地獄。外へ戻っても地獄。なら、まだ食い物に繋がる可能性がある分、前の地獄の方がましだった。


 入口で立ち止まった真壁に、いくつもの視線が集まった。


 灰色のスウェット。猫背。無精髭。場違いなほど怯えた目。荒くれ者たちが集うこの空間で、それはあまりにも弱そうで、あまりにも浮いていた。


「なんだ、あいつ」

「旅人か? いや、服が変だな」

「腹減って死にそうな顔してやがる」


 小声のつもりなのだろうが、全部聞こえる。聞きたくないものまで拾ってしまう。真壁は肩をさらに丸め、なるべく自分の輪郭を小さくした。


 その時、腹が鳴った。


 ――ギュルルルル。


 最悪の音だった。


 近くの卓に座っていた男が吹き出す。


「おい、本当に腹減ってんじゃねえか」


 周囲に笑いが広がる。嘲笑というほど刺々しくはない。だが、今の真壁にはそれでも十分すぎた。皮膚の表面がざわつき、耳の奥が熱くなる。逃げたい。だが、逃げれば飯はない。


「(受付……受付だけ行こう。受付に行って、掃除でも皿洗いでも何でも聞いて、それで無理だったら……その時考えよう)」


 その「その時」が一番怖いのだが、今は先延ばしにするしかない。


 真壁は壁際に寄り、なるべく人と目を合わせずに進んだ。人の間をすり抜ける。大きな肩、突き出た肘、床に置かれた荷物、引かれた椅子。それらの位置が、嫌になるほどよく分かった。どこを通ればぶつからないか。誰の足が次に動くか。どの椅子が少し後ろへ下がるか。分かるからこそ、余計に疲れる。


 奥のカウンターにたどり着く頃には、実際にはほとんど息も乱れていないのに、精神だけがひどく消耗していた。


 カウンターの向こうで、若い受付嬢が顔を上げる。淡い栗色の髪を後ろでまとめ、羽ペンを持ったまま真壁を見る。彼女の目には驚きも嫌悪もなかった。ただ、仕事として目の前の相手を確認する目だった。


「はい。ご用件をどうぞ」


 その事務的な声が、真壁には少しだけありがたかった。


「あの……仕事、ありますか」


「依頼を受けたい、ということでしょうか。登録証はお持ちですか?」


「ないです」


「では登録が必要です。初回登録料として銀貨一枚をいただきます」


 即死だった。


 真壁は手元のカウンターを見つめたまま、固まった。銀貨一枚。それがどれほどの価値なのかは分からない。だが、今の自分が銀貨どころか銅貨一枚すら持っていないことだけは、疑いようがなかった。


「……お金、なくて」


 正直に言うしかない。


 受付嬢はわずかに眉を動かしたが、声は変わらなかった。


「正式登録はできません」


「ですよね」


 真壁は死んだように頷いた。


 終わった。


 ここまで来て、完全に終わった。腹は減っている。仕事をするにも金がいる。金を得るための入口に入るのに金がいる。社会というものは、どこの世界でも人間を詰ませるようにできているらしい。


 だが受付嬢は、そこで書類をしまわなかった。


「ただし、雑務依頼の補助であれば、仮登録扱いで参加できます」


「……雑務?」


「清掃、荷運び、解体補助、素材の仕分けなどです。危険手当はありません。報酬も低いですが、日払いです」


「日払い」


 真壁の目が、わずかに上がった。


「はい。作業後に銅貨で支払われます」


「やります」


 返事は早かった。


 戦わなくていい。魔物を倒さなくていい。誰かと組んで命を預け合うとか、そういう怖すぎることをしなくていい。清掃。荷運び。仕分け。聞くだけなら、まだ人間に許された仕事に思えた。


 受付嬢は慣れた手つきで木札を一枚取り出した。


「では、仮札をお渡しします。なくさないでください。作業場所は裏の処理場です。今は解体補助が足りていませんので、そちらへ回ってください」


「解体」


 真壁の返事が、一拍遅れた。


 清掃ではないのか。


 皿洗いでもないのか。


「魔物素材の解体補助です。難しい作業は担当者が行いますので、指示された部位を運ぶ、不要な部分を分ける、作業台を拭く、といった内容です」


「……なるほど」


 なるほどと言いながら、何一つ納得できていない。


 だが、ここで嫌ですと言えるほどの余裕はない。腹は減っている。銅貨が必要だ。銅貨があれば、さっきの屋台の肉が買えるかもしれない。


「行きます……」


 真壁は木札を受け取り、受付嬢に案内された通路へ向かった。


 扉を一枚抜けると、空気が変わった。


 酒と汗の匂いが薄れ、代わりに血と鉄と獣の臭いが濃くなる。鼻の奥がきゅっと縮む。床は石造りで、水を流した跡が残っていた。溝に沿って赤黒い液体が薄く伸びている。見ないようにしようとしても、見えてしまう。


 処理場は広かった。


 中央には作業台がいくつも並び、その上に魔物の死体が置かれている。犬に似たもの、猪に似たもの、鳥に似ているが羽の根元に奇妙な爪を持つもの。どれも地球の生き物とは少しずつ違っていて、少しずつ生々しい。


「新人か」


 太い声がした。


 革の前掛けをした大柄な男が、血のついた鉈を片手にこちらを見る。腕は丸太のように太く、顔には古い傷がある。だがギルドの表にいた冒険者たちと違い、その目は妙に落ち着いていた。人を脅すためではなく、作業を進めるためにそこにいる目だ。


「はい……仮の雑務で」


「ならそこに立つな。邪魔だ。あっちの台の狼牙犬、後ろ脚を押さえろ。皮を剥ぐ」


「お、押さえる?」


「噛みやしねえよ。死んでる」


 それはそうだが、そういう問題ではない。


 真壁は青ざめながら作業台へ近づいた。狼牙犬と呼ばれた魔物は、巨大な犬のような姿をしていた。口からは長い牙がはみ出し、死んでいるはずなのに目が半開きでこちらを睨んでいるように見える。


「(触りたくない。ものすごく触りたくない)」


 だが銅貨のためだ。


 真壁は恐る恐る手を伸ばした。


 その瞬間、視界の中で、魔物の身体が妙に整理されて見えた。


 毛皮の下の筋肉。骨の位置。関節の向き。どこに力が溜まり、どこで支えが切れているか。どこを押さえれば動かず、どこに触れれば自然に分かれるか。


 見える。


 気持ち悪いくらい、分かる。


「……え」


 真壁の指先が、狼牙犬の後ろ脚に触れた。


 ――パツン。


 乾いた音がした。


 後ろ脚の関節が、綺麗に外れた。


 裂けたのではない。砕けたのでもない。骨と骨、腱と腱、筋肉と筋肉の接合が、まるで最初からそうなる予定だったように、余計な抵抗なくほどけた。


 処理場の手が止まる。


「……おい」


 革前掛けの男が、鉈を下ろした。


「今、何した」


「え」


 真壁は自分の手を見た。


「押さえようと……」


「押さえたら脚は外れねえんだよ」


「ですよね」


 真壁にもそれくらいは分かる。


 分かるが、起きてしまった。


「もう一回やってみろ」


「いや、あの、意図的にはちょっと」


「いいから。こっちの前脚だ。関節のとこ、分かるか」


 分かる。


 分かってしまう。


 言われた瞬間、そこが見えた。ここだ、と身体が勝手に判断する。あの紐の先端が、どこに来るか分かった時と同じだった。


 真壁は触れた。


 ――パツン。


 前脚が外れた。


 今度は処理場全体が静かになった。


 水の流れる音だけが聞こえる。


「……魔術か?」


 誰かが呟く。


「魔力感じねえぞ」


「刃物も使ってねえ」


「今、関節だけ抜いたのか?」


 声が増える。


 視線が集まる。


 真壁は一歩下がった。まずい。非常にまずい。静かに雑務をして銅貨をもらう予定だったのに、明らかに面倒な空気になっている。


「あの、すいません。たぶん偶然で」


「偶然で二回やれるか」


 革前掛けの男が近づいてくる。


 怒ってはいない。むしろ目が怖いほど真剣だった。


「お前、解体をどこで覚えた」


「覚えてないです」


「師匠は」


「いません」


「じゃあ何だ」


「俺が聞きたいです」


 本音だった。


 ただ触れただけだ。そうなる場所が見えたから、そこに指を置いただけ。紐を打つ時と同じ。揺れを止める時と同じ。真壁自身には、それ以外の説明がない。


「……次、胴を開けてみろ」


「嫌です」


 即答だった。


「怖いので」


 処理場の数人が、そこで初めて変な顔をした。恐ろしい技術を見せた直後の男が、魔物の腹を開けるのは怖いと言っている。その落差が理解できなかった。


「怖いなら、なんでそんな真似ができる」


「できちゃっただけなので……」


 真壁は本当に困っていた。


 注目されるのが嫌だ。血の匂いも嫌だ。魔物の死体も嫌だ。だが、腹は減っているし、銅貨は欲しい。帰る場所はない。逃げるにしても、どこへ逃げればいいのか分からない。


 仕方なく、真壁は指定された部位に手を伸ばした。


 胴。


 毛皮。筋肉。肋骨。内臓の位置。


「(うわ、見える。見たくないのに見える)」


 見えてしまえば、どこに触れればいいかも分かってしまう。


 ――パツン。


 胴体が、余計な血をほとんど出さずに開いた。


 皮と筋肉が、適切な線で分かれる。内臓を傷つけない。骨にも当たらない。解体職人が長年かけて覚える切開線を、真壁の指先は何のためらいもなくなぞっていた。


 処理場は沈黙した。


 革前掛けの男が、小さく息を吐く。


「……お前、今日からしばらくここ来い」


「嫌です」


「報酬は普通の雑務より上げる」


「来ます」


 即答だった。


 生活は、悲しいほど簡単に信念を曲げる。


 その様子を、処理場の入口近くから見ている者がいた。


 ララ・バーンは、腕を組んだまま目を細めていた。


「(やはり、偶然ではない)」


 水滴や埃を消した時と同じだ。過程が薄すぎる。力の流れが見えない。だが結果だけが成立している。


 しかも今回は、対象が明確に生物の構造だった。


 彼は力で裂いていない。壊していない。切ってすらいない。ただ、接合を見つけ、そこに触れ、ほどいている。


「(武術ではない。魔術でもない。だが、戦闘に転用されたら……)」


 ララは想像してしまった。


 鎧の継ぎ目。関節。腱。骨と骨の接続。人間の身体も、魔物と同じように構造を持つ。もしあの男が、敵意を持って同じことを人間に行ったら。


 背筋に、薄い冷たさが走る。


 危険だ。


 間違いなく危険だ。


 しかし、それ以上に目が離せなかった。


 真壁悠は、自分の危険性を理解していない。誇示もしない。勝とうともしない。ただ嫌々ながら、銅貨のために魔物の死体へ触れている。その欲のなさが、かえって異常性を際立たせていた。


「(何者だ、あの男は)」


 ララがそう考えた時、すぐ近くから軽い声がした。


「へえ。変なのいるじゃん」


 ララは振り向かない。


 だが、右手は自然に剣の柄へ近づいていた。


「……いつからいた」


「さっきから」


 柱にもたれるようにして、一人の男が立っていた。くたびれた外套。寝癖のついた髪。怠そうな立ち姿。だが、その瞳だけが妙に獣じみた黄金色をしている。


 ヴォルフ。


 ララはまだその名を知らない。


 だが、危険だと分かった。


 真壁とは違う。真壁は空白だ。だが、この男は濁りだ。薄く、柔らかく、掴みどころがないのに、奥に何かが沈んでいる。


「近づくな」


 ララは短く言った。


「なんで?」


「あの男は不安定だ」


「だから面白いんだろ」


 ヴォルフは笑った。


 その笑みに悪意は薄い。だが善意もない。ただ、面白いものを見つけた子供のような目をしている。


「お前、騎士か。あれ守ってんの?」


「監視しているだけだ」


「へえ。じゃ、俺も見てよ」


「必要ない」


「そう言うなって。邪魔しねえからさ」


 信用できない言葉だった。


 ララがわずかに身体の向きを変えた瞬間、処理場の奥で声が上がった。


「終わったぞ。新人、受付に報告してこい」


「は、はい」


 真壁は血のついた作業台から距離を取り、明らかにほっとした顔で木札を握り直した。手は汚れていない。何度も魔物に触れたはずなのに、指先にはほとんど血がついていない。必要な場所にしか触れていないからだ。


 受付で、小さな袋を渡される。


「本日の報酬です。解体補助としては破格ですが、処理場主任からの申請です」


「……ありがとうございます」


 袋の中には銅貨が数枚入っていた。たったそれだけ。だが真壁には、それがひどく重く感じられた。


「(飯、食える)」


 涙が出そうだった。


 ギルドの外へ出ると、夕方の光が街を斜めに照らしていた。相変わらず音は多い。匂いも強い。それでも、銅貨の重みがあるだけで、世界の絶望感は少しだけ薄れている。


 真壁は屋台の方へ歩き出そうとした。


 その時、背後から声がした。


「なあ」


 振り返る。


 くたびれた外套の男が、いつの間にかそこに立っていた。


 近い。


 近すぎる。


 真壁の身体が、反射的に警戒した。あの紐とも、水滴とも、魔物の死体とも違う。目の前の男は、立っているだけで軌道が読みにくい。身体の中心がどこにあるのか分からない。力が抜けているのに、いつでも動ける。柔らかすぎて、気持ち悪い。


「いいもん持ってんじゃん、お前」


 男が笑う。


「……何がですか」


「それ」


 ヴォルフは真壁の右手を指した。


「触ったら、ほどけるやつ」


「いや、俺にもよく分かってないんで」


「分かってないのにできるのか」


「できちゃうだけです」


「最高じゃん」


 何が最高なのか、真壁には分からない。


 分からないが、関わってはいけないタイプだということだけは分かった。前世にもいた。こちらの都合を聞かずに距離を詰めてくる人間。面白いという理由で他人を巻き込む人間。だが、目の前の男はそれよりもっと悪い。人間関係の面倒さに、物理的な危険が混ざっている。


「ちょっと遊ぼうぜ」


「嫌です」


 即答だった。


 ヴォルフはきょとんとした顔をし、それから声を出して笑った。


「ははっ、早いな」


「疲れてるんで。あと腹減ってるんで」


「飯より面白いことあるかもしれねえぞ」


「ないです」


 真壁は本気だった。


 飯より優先されるものは、今のところ存在しない。


 ヴォルフは笑みを深める。


「ますますいいな、お前」


 真壁の背中に冷たいものが走った。


 夕方の通りに、人の声が満ちている。だが、その一角だけ、奇妙に静かだった。ララが少し離れた場所からこちらを見ている。手は剣の柄に添えられていた。


 真壁は銅貨の袋を握りしめる。


「(……俺、ただ飯食いたいだけなんだけど)」


 異世界での初仕事は、静かに終わるはずだった。


 だが、真壁悠という男の周囲では、静けさほど遠ざかっていく。


 そして彼はまだ知らない。


 目の前で笑うこの男が、後に自分の安眠と平穏を、何度も何度も面倒な方向へ引きずり回す、最悪の悪友になることを。


 ただその時の真壁は、屋台の焼き肉串がまだ残っているかどうかだけを、真剣に心配していた。

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