第2話
石畳の音が、やけに大きかった。
コツ、コツ、と乾いた響きが靴底から伝わり、足の裏を通って頭の奥にまで届く。自分が歩いているだけのはずなのに、その一歩一歩が妙に主張してくる。前から来る人間の足音、横を抜ける荷車の軋み、遠くで鳴る金属音、露店の呼び声、誰かの笑い声、子どもの泣き声。それらが全部同時に押し寄せて、真壁悠の頭の中でぐちゃぐちゃに重なっていた。
情報が多すぎる。
真壁は肩をすぼめ、なるべく視線を下げて通りを歩いていた。グレーのスウェットはこの世界の服装の中で明らかに浮いている。伸びた首元、くたびれた袖口、妙に柔らかそうな布地。通行人たちは正面からじろじろ見るほど無遠慮ではないが、一度は必ず彼を見る。見て、眉をひそめる。ある者は視線を逸らし、ある者は笑いを噛み殺し、ある者は薄汚いものを避けるように少しだけ進路をずらす。
「(……無理だろ、これ)」
真壁は心の中で呻いた。
二十年間、四畳半の部屋が彼の世界だった。あの部屋にある音は少ない。古い冷蔵庫の低い唸り。外を通る車の遠い音。たまに聞こえる隣室の生活音。あとは、蛍光灯の紐を打つ時の、乾いた「パツン」という音。それだけで一日は成り立っていた。多すぎるものはなかった。必要以上に見なくていいものもなかった。
だが、この街は違う。すべてが勝手に入り込んでくる。音も、匂いも、視線も、空気の流れさえも、こちらの許可なく神経に触れてくる。
肉を焼く匂いがした。油の甘い匂い、香辛料の刺激、人の体臭、馬の汗、湿った石畳の匂い。それらは混ざり合い、分離できない。鼻が疲れる。頭が重くなる。少しでも立ち止まれば、そのまましゃがみ込んでしまいそうだった。
「(帰りたい……)」
反射のように思う。
けれど、帰る場所はない。あの黄ばんだ天井も、畳のささくれも、カップ麺の空き容器も、天井から垂れる紐も、もうどこにもない。あるのは、青すぎる空と、知らない街と、腹の底からじわじわ広がる不安だけだった。
不思議なことに、身体は軽い。これだけ歩いているのに息は上がらない。心臓も痛くならない。足も重くならない。前世であれば、ネットスーパーの荷物を玄関から台所に運ぶだけでしばらく横になりたくなった。それなのに今は、歩くという動作そのものに負担がない。
「(……なんでこんな動けるんだよ。逆に怖いんだけど)」
身体が自分のものではないような感覚があった。いや、厳密には自分の身体だ。だが、二十年間ほとんど部屋から出なかった人間の身体とは思えないほど、反応が軽い。真壁はそのことを喜ぶより先に、不気味に感じていた。
通りの角を曲がると、建物の影に入った。直射日光が遮られ、視界が少しだけ落ち着く。真壁は壁際に寄り、浅く息を吐いた。
「……はぁ」
それでも、音は消えない。遠くの足音。近くの衣擦れ。荷車の車輪が小石を弾く音。風に吊り看板が揺れる音。すべてが残っている。
「(……うるさいな)」
その時、視界の端で何かが揺れた。
建物と建物の隙間に、蜘蛛の巣が張っている。その細い糸が、風に揺れていた。ほんのわずかな振動。普通なら気にも留めないような動き。だが真壁の視線は、吸い寄せられるようにそこへ向かった。
揺れている。
不規則に。
その不規則さが、どうしようもなく気になった。
「(……あ)」
思考より先に、右手が動いた。
大きく振ったわけではない。肩も上げていない。踏み込んでもいない。ただ、糸の揺れがある一点へ来る瞬間、真壁の指先がそこに置かれていた。
――パツン。
乾いた感触。
蜘蛛の巣の一部が、正確に断たれた。糸の揺れが止まる。小さな、小さなノイズが一つ消える。
「……」
真壁は自分の手を見た。
「(今、何した?)」
分からない。ただ、邪魔だったから触れた。それだけだ。だが、妙にしっくりくる。四畳半で、紐の揺れを止めた時と同じ感覚があった。
「(……まあいいか。静かになったし)」
深く考える気力はなかった。考えたところで、答えは出ない。それよりも腹が減っている。
そう思った瞬間、胃の奥がきゅう、と縮んだ。
空腹は遅れてやってきた。最初はただの違和感だったものが、確かな痛みに変わっていく。腹の中に何も入っていないのに、内側から雑巾のように絞られているような感覚。
「(……腹減ったな)」
当たり前の事実を、わざわざ頭の中で確認する。
通りの端に屋台があった。鉄板の上で肉が焼かれている。薄く切った肉に甘辛いタレを塗り、串に刺して炙っているらしい。油が落ち、火が小さく跳ね、香ばしい匂いが風に乗って真壁の鼻に届いた。
足が止まる。
視線が動かない。
「(……やばい)」
近づいてはいけない。金がない。払えない。この世界の通貨どころか、財布すら持っていない。分かっている。分かっているのに、身体は一歩だけ前に出た。
「いらっしゃい! 焼きたてだぞ、兄ちゃん!」
店主が陽気に声をかけてくる。
「あ、えっと……」
言葉が出ない。真壁は無意識にスウェットのポケットを探った。何もない。あったとしても地球の小銭では意味がないだろう。
「どうした? 買わねぇのか?」
「……すいません」
真壁は小さく頭を下げ、その場を離れた。背中に向けられる視線が痛い。店主が悪いわけではない。買えない自分が悪い。だが、そんな正論を飲み込むには、胃が空きすぎていた。
「(どうすんだよ、これ)」
金がない。食べ物がない。寝る場所もない。誰も自分を養ってくれない。
働く、という言葉が頭に浮かんだ。
「(……無理)」
即座に否定する。
労働。人間関係。責任。命令。失敗。叱責。出勤。退勤。報告。挨拶。考えただけで胸が詰まる。二十年間、そのすべてから逃げることでようやく呼吸してきたのだ。今さら自分が社会に戻れるとは思えない。
だが、現実は変わらない。
このままでは死ぬ。
その時、無骨な看板が目に入った。
冒険者ギルド。
命を売って日銭を稼ぐ場所。
「(いや、命は売りたくないんだけど……)」
それでも、行くしかないのかもしれない。掃除や荷運びくらいならあるかもしれない。受付の人に泣きつけば、何か雑用を回してくれるかもしれない。魔物と戦うのは無理だ。剣を持った人間と向き合うのも無理だ。だが、床を拭くくらいなら、たぶんできる。たぶん。
腹がまた鳴った。
――ギュルルル。
周囲の何人かが振り返る。真壁は反射的に肩を縮め、その場から逃げるように歩き出した。
「(……行くしかない)」
そう決めたはずなのに、足はなかなかギルドへ向かわない。人混みを避け、建物の影を選び、なるべく静かな方へ流れていく。身体が本能的に人の密度を嫌がっている。
屋根の縁から、水滴が落ちた。
今度は、はっきり見えた。
水滴は小さい。だがその輪郭、落下の速度、風にわずかに押される軌道まで、妙に鮮明に分かる。
「(……ここ)」
また、手が動いた。
――パツン。
水滴が消えた。
「……は?」
弾けたのではない。飛び散ったのでもない。水滴という形を保っていたものが、真壁の指先に触れた瞬間、ほどけるように空気へ溶けた。
真壁は眉をひそめた。
今のは変だ。さすがに変だ。
そう思ったのに、視界の中で舞う埃が気になった。光に浮かぶ細かな粒。風に流され、上下し、微妙に揺れている。気になる。うるさい。邪魔だ。
――パツン。
消える。
もう一つ。
――パツン。
消える。
何度か繰り返すうちに、真壁の呼吸が少しだけ落ち着いた。音が減る。視界のざわつきが減る。四畳半で紐を打っていた時の、あの単純な静けさに近づいていく。
「(……同じか)」
やっていることは同じだ。揺れるものに合わせて、そこへ手を置く。対象が紐から水滴や埃に変わっただけ。違うのは結果だ。紐は止まった。水滴と埃は消えた。
「(……人にやらなきゃいいか)」
結論は雑だった。
だが真壁にとって重要なのは、そこではない。静かになる。少し楽になる。それが分かれば十分だった。
「……いいな、これ」
小さく呟く。
その声は通りの喧騒に溶けた。誰も聞いていない。誰も気づいていない。
ただ一人を除いて。
王都の巡回路に面した石造りの回廊。その柱の影に、銀髪の女が立っていた。
ララ・バーン。
王宮騎士団第三隊長。若くして一隊を預かる天才剣士であり、王都の治安維持のためにこの周辺を巡回していた彼女は、偶然、灰色の奇妙な服を着た男を目に留めていた。
最初は、ただの不審者だと思った。
異界の服。猫背。覇気のない顔。動きに自信がない。剣を持つ者でも、魔術師でも、商人でもない。街に迷い込んだ浮浪者。そう判断して終わるはずだった。
だが、終われなかった。
「(……何だ、あれは)」
ララは目を細める。
男の手が動いたように見えた。いや、動いたというにはおかしい。動作の始まりがない。肩の起こりも、肘の走りも、重心移動もない。ただ、結果として手がそこにある。
そして、対象が消える。
水滴。埃。蜘蛛の糸。壊すには小さすぎ、狙うには軽すぎるものばかりだ。だが、ララはそこに戦慄に近い違和感を覚えていた。
攻撃には必ず過程がある。剣ならば、足が動き、腰が回り、肩が通り、腕が走る。魔術ならば魔力が収束し、術式が組まれ、発動の気配が生まれる。だが、あの男にはそれがない。
過程がない。
なのに結果だけがある。
「(成立していない……)」
ララは、無意識に腰の剣へ指を寄せていた。
危険だ、と直感が告げている。
だが同時に、目を離せなかった。
あの男には殺気がない。敵意もない。誇示もない。自分のしていることを理解している様子すらない。危険な武人が己の技を隠している、という印象ではない。もっと奇妙だ。何も考えていない者が、結果だけを成立させている。
「(空白……いや、違う。空白なのに、整っている)」
ララは数多くの剣士を見てきた。力任せの者、速さに頼る者、技巧に溺れる者、才能に驕る者。どの人間にも、動きには癖がある。欲がある。勝ちたい、当てたい、避けたい、守りたい。その感情が身体のどこかに滲む。
だが、あの男にはそれがない。
ただ邪魔なものを止めている。
ただ不快なものを減らしている。
その結果として、異常な精度が発生している。
「(……面白い)」
危険だという判断とほぼ同時に、興味が生まれた。
ララはその場から動かなかった。声をかけることもできた。職務として不審者に事情を聞くこともできる。だが今は、もう少し見ていたかった。あの男の動きが偶然なのか、それとも何らかの積み重ねによるものなのか。それを見極めたかった。
真壁は、そんな視線に気づかない。
彼は相変わらず腹を空かせ、怯え、ギルドへ行くべきか行かざるべきかで人生最大級の葛藤をしていた。
「(……行くか。いや、でも嫌だな。ギルドって絶対うるさいし、怖い人いるし、登録とか書類とかあるだろ。無理だろ。……でも腹減ったしな)」
迷いながら歩く。
そして、ふと足を止めた。
空気が変わった気がした。
音ではない。視線でもない。もっと曖昧なもの。重さ。密度。気配という言葉が一番近いかもしれない。だがそれは一瞬で消えた。
「……?」
真壁は振り返る。
人がいる。荷車がある。店がある。さっきと同じ通りだ。特に変わったものはない。
「(……気のせいか)」
深く考えない。考えても分からない。今はそれより、腹が減っている。
真壁は再び歩き出した。
ギルドへ向かって。
何も知らないまま。
その背後、人の流れの中に、一つだけ濁りがあった。
誰も気に留めない。誰も避けない。そこにいるはずなのに、そこにいないような男だった。くたびれた外套を羽織り、寝癖のついた髪を乱雑に掻きながら、通りの端に立っている。
「……あ?」
黄金色の瞳が、細くなる。
「今の、なんだ?」
低い声だった。興味だけがある声だった。
男は先ほどまで真壁が立っていた場所を見る。蜘蛛の巣の一部が断たれ、水滴の落ちる軌道だけが妙に乱れ、光の中の埃が不自然に欠けている。
普通なら気づかない。
だが、男は気づいた。
「へえ」
口の端がわずかに上がる。
「変な奴、いるじゃん」
男は真壁を追わなかった。
今すぐ確かめてもよかった。だが、焦る必要はない。面白いものは、逃げない。むしろ放っておいた方が、勝手に面白く育つこともある。
「まあいいか。どうせ、そのうち分かる」
男は肩をすくめ、人混みへ溶けた。
音もなく。
気配もなく。
ただ、そこにいた事実だけを薄く残して。
ヴォルフ。
まだ、この街の誰もその名を知らない。
そして真壁悠もまた、自分の背後で、後に最も面倒な悪友となる男が笑っていたことなど、知る由もなかった。
彼の頭にあるのは一つだけだ。
腹が減った。
できれば働きたくない。
それでも、生きるためには、あのうるさそうな冒険者ギルドへ行くしかない。
真壁は深いため息を吐き、木製の大きな看板が揺れる建物へ向かった。剣と盾が描かれた看板の下からは、酒と鉄と汗の匂い、そして荒くれ者たちの笑い声が漏れている。
「(……帰りたい)」
そう思いながら、帰る場所のない男は、扉の前に立った。
取っ手に手をかける。
中から、怒鳴り声が響いた。
真壁は一度だけ目を閉じる。
「……掃除の仕事、ありますように」
祈りにもならない小さな願いを口にして、彼は冒険者ギルドの扉を押した。




