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第1話

シュッ、という風を切る音はしない。


 あるのはただ、硬化した皮膚とプラスチックが触れた瞬間に生まれる、乾いた「パツン」という音だけだった。


 薄暗い四畳半の部屋に、その一音だけが妙にはっきり残る。


 長年閉め切られた遮光カーテンは端が白く焼け、わずかな隙間から差し込んだ光が、空気中を漂う埃をゆっくり照らしていた。畳はささくれ立ち、踏むたびに乾いた草の匂いを立てる。壁際には空のカップ麺容器と、いつか読むつもりで積んだまま色褪せた雑誌。古いエアコンは低く唸っているが、効いているのかどうかは分からない。


 その中心に、男が一人立っている。


 色褪せたグレーのスウェット。伸びかけの髪。剃り残した無精髭。丸まった背中。


 真壁悠、三十四歳。


 外に出ず、誰とも会わず、ただ死なない程度に生活を続けてきた男の顔には、社会人らしい疲れではなく、社会そのものから乾いて剥がれ落ちたような空白が張り付いていた。


 真壁の正面には、天井から垂れ下がる蛍光灯の紐がある。


 細く、軽く、頼りない。ただのスイッチの紐だ。


 だが、わずかな隙間風やエアコンの振動だけで軌道を変えるそれは、狙って打とうとすればするほど逃げる。指先で触れるだけなら簡単でも、拳で正確に先端を捉えるとなると、話はまるで違った。


 真壁は紐を見ている。


 だが、追ってはいない。


 追えば遅れるからだ。


 紐の先端が、ある一点に来る。


 そう分かった瞬間には、もう拳がそこにあった。


 肩は上がらない。腰も捻らない。踏み込みもない。格闘技の教本に載るような、力を伝えるための動きは何一つない。ただ、そこに拳が置かれる。


 ――パツン。


 紐は大きく揺れない。


 一瞬だけ内側から震え、まるで自分の位置を思い出したように真下へ戻る。


 打たれたのではない。押されたのでもない。


 運動だけが、きれいに抜き取られたように消えていた。


 真壁は、それを何度も繰り返した。


 呼吸は乱れず、表情も変わらない。瞳に熱はない。彼にとってこれは鍛錬ではなく、一日を終わらせるための単純作業だった。


 壁の時計が午後六時を示したところで、真壁は拳を下ろした。


「……終わり」


 誰に聞かせるでもない声が畳に落ちる。


 ヒモ打ち。


 天井から垂れた紐を打つだけの行為に、彼はいつの頃からかそう名前をつけていた。


 競技ではない。武術でもない。勝敗もなければ観客もいない。上達したところで誰も褒めない。ただの暇つぶし。


 それを、二十年続けている。


 真壁が部屋に引きこもったのは、中学二年の春だった。


 理由を聞かれても、うまく説明できない。


 暴力を受けたわけではない。金を取られたわけでもない。劇的ないじめがあったわけでもない。


 ただ、教室の空気が合わなかった。


 朝、決められた時間に起きる。制服を着る。教室へ行く。席に座る。誰かの声に合わせて笑い、相手の顔色を読み、自分がそこにいていい理由を毎日少しずつ支払う。


 その小さな負担が、ある日、支払えない額になった。


 一日休んだ。二日休んだ。


 三日目には、戻る場所が少し遠くなった。


 親は怒った。説得した。泣いた。父の低い声が扉の向こうから聞こえ、母が食事を置き、しばらくして冷めた皿を下げる音がした。


 真壁は布団の中で耳を塞ぎ、やり過ごした。


 やり過ごせば一日が終わる。


 一日が終われば、明日も同じようにやり過ごせる。


 やがて両親は事故で死んだ。


 電話が鳴り、親戚が来て、扉の向こうで怒声が上がった。葬儀の日も、真壁は部屋を出なかった。


 悲しくなかったわけではない。


 ただ、悲しむために外へ出ることすら、その時の真壁には難しかった。


 残されたのは、築四十年を超える木造アパート『コーポ真壁』一棟と、わずかな保険金だった。


 後見人になった弁護士は、真壁を更生させようとはしなかった。家賃収入を口座に入れ、食材配達の手配をし、最低限の書類だけ郵送する。


 そういう仕組みを作ると、あとは距離を置いた。


 真壁は働かなかった。学校にも戻らなかった。外にも出なかった。


 それでも、生きられた。


 家賃収入は多くない。だが贅沢をしなければ足りる。食事は安い乾麺や冷凍食品でいい。服は何年も同じでいい。誰かに会わないなら、見た目を整える必要もない。


 世間から見れば終わっている人生だったが、真壁にとってはそれが楽園だった。


 誰も入ってこない。誰も責めない。返事を間違えて空気が悪くなることもない。


 四畳半は狭かったが、外の世界よりずっと広かった。


 少なくとも、真壁が息をするには十分だった。


 ただ、一つだけ敵がいた。


 退屈である。


 何もしない時間は、想像以上に重い。眠っても目が覚める。起きても予定がない。


 そうして残ったのが、天井の紐だった。


 最初は指で弾いただけだった。


 揺れる。戻る。また揺れる。


 見ていると、少し時間が潰れた。


 次の日も弾いた。その次の日も弾いた。


 やがて拳で打つようになった。


 最初は当たらなかった。


 目の前にあるのに、拳を出すと逃げる。狙えば狙うほど、拳の風圧で紐が先にズレた。


 腹が立った。


 だから、毎日やった。


 一年目、拳はよく空を切った。


 三年目、拳の皮膚が裂けなくなった。


 七年目、真壁は力を抜くことを覚えた。


 十年目、視線で追うのをやめた。


 十二年目、「打とう」と思うのをやめた。


 十五年目には、時間の感覚が消えることが増えた。


 二十年目。


 紐は、ほとんど揺れなくなった。


 真壁はその異常さに気づかなかった。


 比較対象がないからだ。


 誰かと競ったことはない。ジムに通ったこともない。格闘技を研究したこともない。


 彼が求めたのは強さではなく、ただ「疲れずに時間を潰す方法」だった。


 その果てに、真壁悠の身体は、本人の怠惰とは裏腹に、異常な精度へ最適化されていた。


 もちろん、本人は知らない。


 今日もただ、カップ麺を食べて寝るつもりだった。


 台所と呼ぶには狭い一角で、真壁は戸棚を開けた。


「……しょうゆでいいか」


 鍋に水を入れようとして、足元が光っていることに気づいた。


 畳の一角に、青白い線が浮かんでいた。


「……え?」


 最初は漏電かと思った。


 古いアパートだ。どこかが壊れてもおかしくない。


 だが線は火花ではない。


 円を描き、文字のような模様を組み、真壁の足元を中心に広がっていく。


 焦げたような臭いがした。


 空気が硬くなる。


 耳の奥が詰まり、部屋の広さが狂った。


 四畳半のはずなのに、壁が遠い。


 遠いはずのカーテンの布目が、目の前にあるように見える。


「……何これ」


 真壁は逃げようとして、足を止めた。


 分かったからだ。


 この空間に、安全な位置がない。


 右も左も前も後ろも、全部ズレている。


 空間そのものが、歪んでいる。


「……あ、これ無理だ」


 判断は早かった。


 無理なものは無理だ。


 抵抗しても疲れるだけだ。


 真壁はその場にしゃがみ込み、頭を抱えた。


「待ってくれ。明日配達日なんだぞ。今月の家賃もまだ確認してないんだぞ。俺の不労所得を奪うなぁぁぁっ!」


 情けない叫びは、白い光に飲まれた。


   ◇


 次に目を開けた時、最初に分かったのは石の冷たさだった。


 畳ではない。


 手の下にあるのは滑らかな石床。


 顔を上げると、高い天井と、見たこともない装飾があった。


 広い。


 寒い。


 音がよく響く。


 四畳半とは、空気の重さが違った。


「……は?」


 周囲には人がいた。


 煌びやかな法衣を着た老人たちが、円形の台座を囲んでいる。


 奥には玉座らしきものがあり、立派な服を着た男がこちらを見下ろしていた。


「召喚は成功したのか?」


「測定を急げ」


 老人の一人が、光る板を真壁の前にかざした。


 板の上に文字が浮かぶ。


 なぜか読めた。


「魔力……ゼロ」


 老人の声が震えた。


「スキル、なし。職業……むしょく」


 広間が静まり返る。


 真壁はその単語だけに反応した。


「無職……まあ、はい」


 否定はできなかった。


 事実である。


「ふざけるな!」


 玉座の男が立ち上がった。


「我らが求めたのは魔王軍を退ける勇者だ! 魔力もスキルもない、三十過ぎの無職ではない!」


「あの、俺も呼ばれたくて来たわけじゃなくて。できれば帰してもらえると助かるんですけど」


「失敗作に用はない。城外へ放り出せ」


 短かった。


 説明も、補償も、帰還方法もなかった。


 兵士に両腕を掴まれる。


 鎧の匂いが近い。


 金属と汗の混じった臭いに、真壁の胃が縮む。


「ちょ、ちょっと待って。せめて話を」


 聞かれない。


 引きずられる。


 重い扉が開き、廊下を抜け、階段を降りる。


 見知らぬ城の中を運ばれながら、真壁は一つだけ理解していた。


 終わった。


 自分の安全圏は、消えた。


 最後の扉が開き、強い光が差し込んだ。


 次の瞬間、真壁は石畳へ放り出されていた。


 背後で城門が閉まる。


 分厚い音が響く。


 真壁はしばらく起き上がれなかった。


 知らない街だった。


 人が多い。


 音が多い。


 匂いが多い。


 馬の汗、焼いた肉、香辛料、石畳の湿った匂い。


 すべてが近く、強く、逃げ場がない。


 グレーのスウェット姿の真壁は、完全に浮いていた。


 通行人は避け、子供は指をさし、露店の店主は露骨に眉をひそめる。


 真壁は壁際へ逃げ、積まれた木箱の陰にしゃがみ込んだ。


「……帰れない」


 声に出すと、腹の底が冷えた。


 家がない。金がない。ネットもない。食材配達もない。


 腹が鳴る。


 近くの屋台で肉が焼けていた。


 油が落ち、煙が上がり、知らない香草の匂いが混ざる。


「……腹減った」


 その時だった。


 近くを通った兵士の鎧。


 腰当てを固定していた細い留め具が、ふと視界に入る。


 真壁は思わず眉をひそめた。


「……あ」


 ズレている。


 ほんの少しだけ。


 力が片側へ偏っている。


 このまま歩けば、たぶん外れる。


 気持ち悪い。


 妙に気持ち悪かった。


 真壁の右手が、無意識に動く。


 兵士の腰当てへ、軽く触れる。


 ――パツン。


 乾いた音。


 次の瞬間。


 鎧の留め具が、綺麗にほどけた。


「うおっ!?」


 兵士の腰当てが外れ、ガシャリと石畳へ落ちる。


「な、何だ!?」


 兵士が慌てて振り返る。


 真壁は固まっていた。


「……え?」


 今、自分は何をした。


 叩いたわけじゃない。


 壊したわけでもない。


 ただ、“そこ”へ触れた。


 すると、留め具だけが正確に外れた。


 兵士が怒鳴る。


「貴様、何をした!」


「し、知らないです!」


 本当に知らなかった。


 だが兵士は剣へ手をかける。


 真壁は反射的に後ろへ下がった。


 怖い。


 だが、それ以上に。


 自分の手の方が、怖かった。


「……何だよ、これ」


 真壁は震える指先を見た。


 四畳半で紐を打っていた時と、感覚が似ていた。


 ズレる位置。


 揺れる瞬間。


 そこへ合わせる。


 ただ、それだけ。


 なのに結果が違う。


 紐は止まった。


 今は、“ほどけた”。


 兵士が壊れた留め具を見て混乱している隙に、真壁は逃げた。


 人混みへ飛び込む。


 石畳の音が響く。


 知らない街。


 知らない空。


 知らない世界。


 その中で。


 真壁は初めて、自分の中にある違和感をはっきり自覚した。


 自分が壊れているのか。


 それとも、この世界が最初からどこかズレているのか。


 真壁には、まだ分からなかった。


 ただ一つだけ確かなのは。


 腹が減っているということだった。


 そして、このままでは、本当に死ぬかもしれないということだった。


 真壁悠は、重くため息を吐いた。


「……働きたくねぇなぁ」


 その呟きだけが、異世界の喧騒の中でやけに切実だった。

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