第50話
翌朝、真壁悠は窓辺の紐を見ていた。
揺れてはいない。
昨日、茶袋を縛っていた細い紐に小さな木片を結び、窓の金具から吊るしただけのものだ。四畳半の蛍光灯の紐とは違う。長さも違うし、重さも違う。揺れ方も少し軽い。けれど、そこに紐があるというだけで、部屋の空気は少しだけ真壁のものになった。
寝台。机。椅子。石壁。窓。扉に貼られた接触禁止の紙。そして紐。
昨日までただの騎士団宿舎の一室だった場所が、ほんの少しだけ、自分の部屋になっていく。
「……私物設置権」
真壁は小さく呟いた。
ララ・バーンが言っていた正式表現だ。休息用の紐を設置する権利、では評議会文書としてあまりにも直球すぎるので、「精神安定用の私物設置権」と整えられるらしい。整えすぎて、もはや何のことか分からない。だが、補足には紐と書くと言っていた。
それを想像すると、少し笑える。
評議会の偉い人間たちが、真壁悠の協力条件を読みながら「精神安定用の私物設置権……補足、紐」と確認するのだ。
かなり嫌な勝ち方だ。
だが、勝ちは勝ちだとヴォルフは言った。
「……勝ちなのか、これ」
自分でもよく分からない。
だが、少なくとも線は増えている。
扉から勝手に入るな。
窓から勝手に入るな。
扉の下から勝手に資料を入れるな。
見る範囲を決めろ。
見ない権利を認めろ。
休む権利を認めろ。
戻るための紐を置かせろ。
どれも、前世の真壁なら言えなかったことだ。嫌なら黙る。無理なら閉じる。部屋へ逃げる。それしか知らなかった。
今は、嫌なものに対して条件を書いている。
それが成長なのか、追い詰められた結果なのかは分からない。
ただ、少しだけ息がしやすい。
紐を指で軽く弾く。
ゆらり、と揺れる。
真壁はそれを追わない。追えば遅れる。追えば引っ張られる。紐がどこへ行くかではなく、どこへ戻るかを見る。いや、見るというより、待つ。
戻る場所。
それだけを待つ。
――パツン。
指先が木片に触れる。
木片は大きく跳ねず、小さく震え、元の位置へ戻った。
「……よし」
今日は半休。
午前は休み。
午後に、未整理墓籍庫へ入る前の確認をする。
見る名前は三名以内。
いや、今回はエリオ・ノートを中心に、関連候補を最大三名まで絞る。真壁本人はまだ未整理墓籍庫へ入らない。ララと墓籍保管庫長ミルドが先に範囲を削る。真壁はその結果だけを見る。
見なくていいものを減らす。
昨日、ララがそう言った。
真壁はその言葉が気に入っていた。
全部を見てから耐えるのではない。
見る前に、見なくていいものを減らす。
それは、自分一人ではできないことだった。
コン、と扉が一度だけ鳴った。
続いて、若い騎士の声がする。
「朝食を置きます。返事は不要です」
また完璧だった。
足音が遠ざかるのを待って、真壁は扉を開けた。廊下には誰もいない。盆だけが置かれている。
パン、スープ、肉三切れ、卵料理、焼き菓子。
肉三切れが定着しつつある。
「……食事改善、強い」
真壁は盆を持ち上げ、机へ運んだ。
朝食を食べる。味は近い。体調は悪くない。昨日、墓籍保管庫へ行った負荷はまだ少し残っているが、王都共鳴術式を止めた後のような頭痛はない。むしろ、昨日は途中で止められたという感覚が残っている。
全部見なかった。
それが身体にも効いている。
食事を終えると、真壁は机の紙を見た。
『今日は考えないこと一覧』
昨日書いたものだ。
エリオ・ノートの別名。
未整理墓籍庫の中身。
王都の底。
アルゴの居場所。
ガレウスの目的。
墓籍保管庫の地下構造。
自分が普通かどうか。
昨日はこれを考えないと決めた。
今日はどうするか。
少し考えて、真壁は一つだけ丸をつけた。
『エリオ・ノートの別名』
今日、午後に見る可能性があるものだ。
全部ではない。
一つだけ。
「……一個なら、まあ」
自分へ許可を出すように言う。
それ以外は、まだ考えない。
その線引きができるだけで、頭の中の騒がしさが少し減った。
◇
同じ頃、王都墓籍保管庫の地下入口前には、ララ・バーンとミルド・カーウェンが立っていた。
真壁はいない。
条件通りだ。
未整理墓籍庫へ入る前に、見る必要のある名前を三名以内へ絞る。そのための事前確認は、真壁抜きで行う。ララはその判断に迷いがなかった。
ただ、実際に地下入口を前にすると、少しだけ真壁を連れてこなかった意味が分かった。
空気が違う。
地上の墓籍保管庫も重い場所だった。壁一面に棚があり、死者の名が静かに保管されている。だが、そこには秩序があった。戻るべき場所へ戻された名前。墓所へ繋がる記録。家族へ渡された写し。公的に確認された名。
地下入口の向こうにあるのは、違う。
未整理墓籍庫。
返されなかった名前。
戻る場所を持たない記録。
照合不能、身元不明、抹消、移記、仮名、重複、戦時混乱、意図的削除。
そうしたものが溜まった場所。
扉の向こうから漂ってくる空気は、冷たい紙の匂いの奥に、言葉にしづらい濁りを含んでいた。
「真壁を連れてこなくて正解だったな」
ララは静かに言った。
隣のミルドは頷く。
「ええ。あの方は、おそらくここを深く読みすぎる」
「そうだろうな」
「ただ、必要になる時は来るでしょう」
「分かっている」
ララは扉を見た。
重い鉄扉。
表面には古い王都文字で『未整理』とだけ刻まれている。
整えられた言葉ではない。
未整理。
それは、この場所に対する正直な名だった。
ミルドが鍵を取り出す。
「本日は、エリオ・ノートに関する移記先の候補を確認します。ただし、全帳簿は開きません。移記痕跡の残る棚、弔鐘管周辺の音響記録、そして旧軍務局関連の未整理束だけです」
「候補は三名以内にできるか」
「努めます」
「真壁の条件だ」
「承知しています」
ミルドは鍵を差し込んだ。
鉄扉が低く鳴る。
開いた瞬間、ララは無意識に剣の柄へ指を寄せた。
敵がいるわけではない。
だが、何かがいるような気配がした。
人ではない。
名の気配。
呼ばれなかったもの。
返されなかったもの。
ララは、それを真壁ならどう読むのだろうと思い、すぐに考えるのをやめた。
今日は、自分が先に見る日だ。
見なくていいものを減らす日。
真壁へ渡す前に、刃を通すように情報を削る。
ララは一歩、地下へ降りた。
◇
未整理墓籍庫は、地上の保管庫よりも低く、狭く、そして広かった。
矛盾しているが、実際にそうだった。
通路は狭い。天井も低い。古い石壁には湿り気があり、ところどころに古い補修跡がある。棚と棚の間は人が一人通るのがやっとだ。だが、その棚が奥へ奥へと続き、枝分かれし、いくつもの小部屋へ分かれている。まるで地下そのものが、整理されなかった記録に合わせて増殖したかのようだった。
ミルドは小さな灯りを持ち、迷わず進む。
「こちらです」
ララは周囲を見すぎないようにした。
真壁ほどではないが、ララも最近、空間のズレを見るようになっていた。真壁の感覚を剣へ落とし込む中で、情報の濁りにも少し敏感になっている。ここでは、それが少し邪魔だった。
棚の隙間に、空白がある。
誰も触れたくない束。
誰も開きたくない箱。
書かれているのに読まれていない名。
それらが、空間の流れを歪ませている。
「……真壁は、ここに長くいられないな」
ララは言った。
「ええ」
ミルドは静かに答える。
「ですから、長くいさせてはなりません」
その言い方が、ララには少し信頼できた。
この老人は、真壁を便利な目として扱う気がない。
名前と同じように、真壁の限界も丁寧に扱おうとしている。
やがて二人は、低い天井の小部屋へ入った。
中央に石の机。
壁には古い金属管が通っている。
管の端には、使われなくなった小さな鐘が吊られていた。
「弔鐘管か」
「はい」
ミルドは灯りを掲げる。
「かつて、未整理の名が正式な墓籍へ移された際、この鐘を一度鳴らしました。地上の慰霊鐘へ音が伝わり、記録完了を知らせるためです」
「今は使っていない」
「はい」
「だが、導音管と繋がっている可能性がある」
「あります」
ミルドは認めた。
ララは管を見る。
古い金属管。
表面には緑青が浮き、ところどころに新しい傷がある。
新しい。
それだけで、ララの目が細くなった。
「これは最近の傷か」
「おそらく」
ミルドの声が低くなる。
「私どもも昨日確認しました。管の外側に、何者かが触れた痕跡があります」
「侵入者か」
「あるいは、管の中から」
ララは剣へ手を伸ばした。
管の中。
音が通る場所。
そこから何かが触れる。
銀糸。
針。
あるいは声。
「開けられるか」
「ここでは開けません。名簿への影響が出る可能性があります」
「分かった」
ララは視線を戻す。
「エリオ・ノートの移記先は」
ミルドは石机の上に、三つの薄い帳簿を置いた。
「現時点で候補は三つです」
「三名以内か」
「はい。ただし、これは名前というより、移記先の記録束です。それぞれに一名、中心となる名があります」
ララは頷く。
ミルドが一冊目を開く。
「第一候補。『エリオ・ノート』の別名照合欄から最も近い移記痕跡がある束。中心名は、エル・ノーウェル」
「エル・ノーウェル」
「戦時孤児名簿に一度だけ記載があります。出生不明。死亡記録なし。墓籍なし。後年、記録束ごと未整理へ移されています」
「エリオと音が近いな」
「はい」
ミルドは二冊目を開く。
「第二候補。旧軍務局補助員名簿から移された可能性のある束。中心名は、リオン・ノートン」
「ノートン」
「姓が似ています。こちらは軍務局仮名の可能性があります。年齢、所属は削除。北方戦役末期に記録が途絶えています」
「第三は」
ミルドは三冊目を開く前に、少しだけ間を置いた。
「第三候補は、名前ではありません」
「何?」
「記録束の中心に、名ではなく記号が置かれています」
ララの目が鋭くなる。
「記号」
ミルドは三冊目を開いた。
そこには、名前ではなく、短い符号が書かれていた。
『第零名』
ララは眉をひそめた。
「第零名」
「はい。通常の墓籍では使われない表記です。未整理墓籍庫にも、これ一つしかありません」
「意味は」
「不明です。ただ、この束にだけ、弔鐘管の微細な振動記録が残っています」
「音と繋がっている」
「そう考えています」
ララは三冊の帳簿を見た。
エル・ノーウェル。
リオン・ノートン。
第零名。
三つ。
条件内ではある。
だが、どれも重い。
特に第三。
名前ではない名前。
第零名。
それは、真壁に見せるべきなのか。
ララは少し考えた。
見せなければ、危険を見落とす可能性がある。
見せれば、真壁に負荷がかかる。
そこで、ララは真壁の条件を思い出した。
戻る場所が分からない名前を無理に読まない。
名前を急がせない。
第零名は、名前なのか。
それすら分からない。
「ミルド殿」
「はい」
「真壁に見せる順番を決めたい」
「承知しています」
「第一、第二候補まで。第三は、存在だけ伝える。読むかどうかは次回判断にする」
ミルドは少し考え、頷いた。
「妥当です」
「第零名という表記は、今回は見せない」
「負荷が大きいと?」
「名前でないものを名前として扱うのは危険だ。今の真壁には」
「そうですね」
ミルドは三冊目を閉じた。
「では、真壁殿へは、第三候補あり、ただし本日非開示。理由は、名称形式が不安定であるため。そう伝えましょう」
ララは頷く。
「そうする」
その時、弔鐘管の奥で、小さな音がした。
カン。
二人は同時に動きを止めた。
小さな鐘は揺れていない。
だが、管の奥から音が来た。
カン。
もう一度。
遠く。
深く。
まるで誰かが、王都の底から管を叩いたような音。
ララは剣を抜いた。
「下がれ」
ミルドは灯りを持ったまま、帳簿を抱えて下がる。
管の表面に、細い震えが走る。
銀糸ではない。
針でもない。
音だ。
音そのものが、管を通っている。
ララは真壁ではない。
音をほどくことはできない。
だが、彼の言葉を覚えている。
追うな。
全体を見る。
音がどこへ行くかではなく、どこへ戻ろうとしているかを見る。
ララは剣を構えたまま、管の振動を見た。
音は小部屋へ入ろうとしているのではない。
逆だ。
小部屋の名簿から、何かを引き出そうとしている。
「……名を拾いに来たか」
ララは低く言った。
そして、剣の柄ではなく、鞘の金具を管へ軽く当てた。
斬らない。
壊さない。
振動の戻りをずらす。
真壁が水路でやったことの、ごく小さな真似。
カン、と乾いた音が返る。
管の震えが乱れた。
奥から来ていた音が、一瞬だけ途切れる。
ミルドが息を呑む。
「今のは」
「真壁なら、もっと綺麗に止める」
ララは剣を収めずに言った。
「だが、今は呼ばない」
真壁の休息日だ。
真壁が見る前に、見なくていいものを減らす。
今日の役目はそれだ。
管の震えは消えた。
しかし、石机の上に置いていた三冊目の帳簿――第零名の束だけが、わずかに開いていた。
ミルドがすぐに閉じる。
ララはその動きを見て、静かに言った。
「第三候補は、しばらく見せない方がいいな」
「同意します」
「保管を強化できるか」
「できます。ただ、これで分かりました」
「何がだ」
ミルドは閉じた帳簿へ手を置いた。
「向こうが最も欲しがっているのは、この第三候補です」
ララは頷いた。
「なら、なおさら急がせない」
彼女の声は固かった。
「名前でないものを、名前として返すわけにはいかない」
◇
午後、真壁は小会議室でララを待っていた。
半休の後半である。
机の上には水、焼き菓子、紙、そして小さな紐が置かれている。部屋の窓にも一時的に紐を吊るす許可が出た。精神安定用の私物設置権は、早速活用されている。
ヴォルフは扉側の椅子に座っていた。
ちゃんと椅子に。
窓ではない。
「最近、扉使いますね」
真壁が言うと、ヴォルフは不満そうに鼻を鳴らした。
「条件だからな」
「守ってる」
「俺だって守る時は守る」
「普段から守ってください」
「努力する」
「信用度低め」
そんなやり取りをしていると、扉が開いた。
ララが入ってくる。
その後ろにミルドもいた。
真壁は思わず姿勢を正す。
「お疲れ様です」
ミルドが丁寧に頭を下げる。
「真壁殿。本日の確認範囲を絞ってまいりました」
「ありがとうございます」
本心だった。
真壁は、今日自分が地下へ行かずに済んだことの重みを分かっていた。ララとミルドが先に嫌な場所へ入ったのだ。見なくていいものを減らすために。
ララは椅子に座り、紙を一枚だけ机へ置いた。
「今日はこれだけ見る」
「一枚」
「ああ」
「すごい。少ない」
「少なくした」
ミルドが補足する。
「候補は三つありました。ただし、本日真壁殿に確認いただくのは二つまで。第三候補は存在のみ伝え、名称は伏せます」
真壁は少し緊張した。
「伏せるってことは、かなり嫌なやつですか」
「負荷が高いと判断しました」
「なら伏せてください」
即答だった。
以前なら気になっていただろう。いや、今も気にはなる。だが、知りたいより、壊れたくないが勝った。
それでいい。
ララが紙を指差す。
「第一候補。エル・ノーウェル」
真壁は名前を見る。
エル・ノーウェル。
エリオ・ノートと音が近い。
だが、違う。
「戦時孤児名簿に一度だけ記載。出生不明。死亡記録なし。墓籍なし。後年、記録束ごと未整理へ移送」
ララが読み上げる。
真壁は紙を見すぎないようにしながら、名前だけを口の中で転がした。
エル・ノーウェル。
エリオ・ノート。
「……似てるけど、隠すために作った名前っぽくないですね」
ララが問う。
「どういう意味だ」
「隠すためなら、もっと離すと思います。近すぎる。これは、誰かが元の名前を忘れたくなくて、少しだけ形を変えた感じがします」
ミルドが静かに頷く。
「我々も同じ印象を受けました」
「誰がつけたんですかね」
「不明です」
真壁は眉をひそめる。
「本人か、保護した人か、記録係か」
「可能性はあります」
ララが第二候補を示す。
「リオン・ノートン。旧軍務局補助員名簿から移された可能性あり。年齢、所属削除。北方戦役末期に記録途絶」
「これは……」
真壁は少し顔をしかめた。
「こっちの方が隠す名前っぽいです」
「なぜ」
「ノートをノートンにしてる。近いけど、書類上は別人にしやすい。リオンもエリオを並べ替えた感じがする」
言ってから、真壁は自分で嫌な気持ちになった。
名前を並べ替える。
隠す。
移す。
別人にする。
「こっち、軍務局が作った仮名じゃないですかね」
ミルドが頷く。
「その可能性が高いと見ています」
真壁は二つの名前を見比べた。
エル・ノーウェル。
リオン・ノートン。
どちらもエリオ・ノートに似ている。
だが、温度が違う。
エル・ノーウェルは、少し人間らしい。
リオン・ノートンは、書類らしい。
「……第一が、誰かが守ろうとした名前。第二が、誰かが隠そうとした名前」
真壁は言った。
部屋が静かになる。
ララが静かに問う。
「どちらがエリオの移記先だと思う」
「両方です」
自分で言って、嫌になる。
「たぶん、最初にエル・ノーウェルへ逃がされた。その後、軍務局が見つけて、リオン・ノートンとして回収した」
ミルドの目が鋭くなる。
「根拠は」
「流れです」
真壁は紙を指差す。
「エル・ノーウェルは戦時孤児名簿。誰かが子供を逃がすためにつけた感じがする。リオン・ノートンは軍務局補助員名簿。軍務局が使うためにつけた感じがする」
「つまり、エリオ・ノートは一度隠され、後に軍務局へ連れ戻された」
ララが言う。
「はい」
真壁は口の中が乾くのを感じた。
「それで、収容所地下の中心に組み込まれた」
誰もすぐには言わなかった。
重い沈黙。
ヴォルフが低く呟く。
「胸糞悪いな」
「はい」
真壁は即答した。
かなり悪い。
エリオ・ノートが本当にガレウスの息子だったとして。
誰かが彼をエル・ノーウェルとして守ろうとした。
だが軍務局が彼をリオン・ノートンとして回収した。
そして、アルゴの実験の中心に置かれた。
その流れは、あまりにも嫌だった。
「第三候補は」
真壁は言いかけて、止まった。
今日は見ない。
名前も聞かない。
存在だけ。
「……やっぱりいいです。今日は聞きません」
ララは頷いた。
「それでいい」
ミルドも静かに頷いた。
「真壁殿は、すでに十分な違和感を掴まれました」
「十分ですかね」
「ええ」
ミルドは紙を伏せた。
「これ以上は、急がせることになります」
名前を急がせない。
真壁は、自分で書いた条件を思い出した。
その条件が今、自分を止めている。
止まれた。
それが少しだけ嬉しかった。
その時、ララが口を開いた。
「地下で一つ、事象があった」
真壁は少し身構える。
「聞いて大丈夫なやつですか」
「簡潔に伝える。弔鐘管から音が来た」
「……音」
「名簿から何かを引き出そうとする振動だった。私は一度だけ逸らした。詳細は今日は伝えない」
真壁は目を閉じた。
聞いただけで、少し背筋が冷える。
だが、詳細を省いてくれたおかげで、深く引っ張られずに済んだ。
「ありがとうございます。詳細は明日以降で」
「そうする」
ヴォルフがララを見る。
「お前が止めたのか」
「ああ」
「真壁なしで?」
「真似事だ」
ララは淡々と言った。
「彼ならもっと綺麗に止める」
真壁は少し驚いた。
ララが、紐の感覚を使っている。
水路でも使った。
今回も、弔鐘管の音を逸らした。
「……ララさん」
「何だ」
「それ、危なくないですか」
「危険はある」
「俺の変な感覚、ララさんに移して壊れたら嫌なんですけど」
ララは少し黙った。
それから静かに答える。
「お前一人に持たせる方が危険だ」
真壁は言葉に詰まった。
「全部をお前一人が読まなくていいように、私も覚える」
ララは真っ直ぐ言った。
「ただし、私も条件を作る。無制限には使わない」
「ララさんも?」
「ああ」
ヴォルフがにやりと笑う。
「条件書ブームだな」
「必要だ」
ララは即答する。
真壁は少しだけ胸が熱くなった。
ララも、自分のためだけではなく、真壁の負担を減らすために線を引こうとしている。
セイルも昨日、見ない権利を書こうとしていた。
真壁が始めた条件が、少しずつ周囲へ広がっている。
「……なんか、変ですね」
「何がだ」
「俺、逃げるために線を引いたのに、みんなも線を引き始めてる」
ミルドが静かに微笑んだ。
「よい線は、他者にも必要になります」
真壁は困ったように笑った。
「俺の線、よい線なんですかね」
「少なくとも、名前を急がせないという線は、よいものです」
その言葉は素直に受け取れた。
「ありがとうございます」
◇
確認は二十分で終わった。
条件通りだった。
真壁は少し疲れたが、倒れるほどではない。医務官の診断では軽度負荷。追加確認禁止。夕食は肉三切れ維持。休息用の紐使用可。
かなり順調だった。
夕方、自室に戻った真壁は、窓辺の紐を軽く揺らした。
ゆらり。
木片が揺れる。
戻る場所を見る。
――パツン。
止まる。
今日は、昨日より少し落ち着いていた。
エル・ノーウェル。
リオン・ノートン。
そして、伏せられた第三候補。
その存在は気になる。
だが、今日は見ない。
名前を急がせない。
真壁は机に紙を出し、新しく一行を書き足した。
『誰かが守ろうとした名前と、誰かが隠そうとした名前を分ける』
書いてから、少し考える。
これは条件というより、方針だ。
でも、大事だ。
エル・ノーウェルとリオン・ノートン。
同じエリオに繋がるかもしれない二つの名前でも、意味は違う。
守るための名前。
隠すための名前。
使うための名前。
戻すための名前。
それらを混ぜてはいけない。
名前は部品ではない。
名前にも、経緯がある。
「……難しいな」
真壁は呟いた。
その時、扉が鳴った。
コン、コン。
「ララだ」
「どうぞ」
ララが入ってくる。
真壁の紙を見て、尋ねる。
「追加か」
「方針です」
ララは読んだ。
「誰かが守ろうとした名前と、誰かが隠そうとした名前を分ける」
「はい」
「良い」
短い評価だった。
でも、十分だった。
「ララさんも条件作るんですか」
「ああ」
「見せてもらえます?」
「まだ作成中だ」
「そうですか」
「一つは決めた」
「何ですか」
ララは少しだけ考え、それから言った。
「真壁の真似をする時は、真壁の代わりになるためではなく、真壁を休ませるためにする」
真壁は黙った。
言葉がすぐに出なかった。
それは条件というより、誓いに近い気がした。
「……重いですね」
「そうか」
「でも、ありがたいです」
「ああ」
ララは頷く。
真壁は少し視線を逸らした。
照れくさかった。
ララは机の上に小さな紙袋を置いた。
「食堂からだ」
「焼き菓子?」
「ああ」
「神」
「食堂だ」
二人で少し笑った。
その夜、真壁は久しぶりに、寝る前に考えないこと一覧を更新しなかった。
考えないのではなく、今日は十分に考えた。
そして止まった。
それでいい。
窓辺の紐は揺れていない。
扉には紙がある。
机には条件と方針が増えている。
明日は、伏せられた第三候補について、少しだけ話を聞くかもしれない。
聞かないかもしれない。
どちらにしても、自分で決める。
真壁は寝台に横になり、目を閉じた。
エリオ・ノート。
エル・ノーウェル。
リオン・ノートン。
三つの名前が、遠くで静かに並んでいる。
急がせない。
戻る場所を探す。
その線の内側で、真壁はゆっくり眠りへ落ちた。




