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第50話


 翌朝、真壁悠は窓辺の紐を見ていた。


 揺れてはいない。


 昨日、茶袋を縛っていた細い紐に小さな木片を結び、窓の金具から吊るしただけのものだ。四畳半の蛍光灯の紐とは違う。長さも違うし、重さも違う。揺れ方も少し軽い。けれど、そこに紐があるというだけで、部屋の空気は少しだけ真壁のものになった。


 寝台。机。椅子。石壁。窓。扉に貼られた接触禁止の紙。そして紐。


 昨日までただの騎士団宿舎の一室だった場所が、ほんの少しだけ、自分の部屋になっていく。


「……私物設置権」


 真壁は小さく呟いた。


 ララ・バーンが言っていた正式表現だ。休息用の紐を設置する権利、では評議会文書としてあまりにも直球すぎるので、「精神安定用の私物設置権」と整えられるらしい。整えすぎて、もはや何のことか分からない。だが、補足には紐と書くと言っていた。


 それを想像すると、少し笑える。


 評議会の偉い人間たちが、真壁悠の協力条件を読みながら「精神安定用の私物設置権……補足、紐」と確認するのだ。


 かなり嫌な勝ち方だ。


 だが、勝ちは勝ちだとヴォルフは言った。


「……勝ちなのか、これ」


 自分でもよく分からない。


 だが、少なくとも線は増えている。


 扉から勝手に入るな。


 窓から勝手に入るな。


 扉の下から勝手に資料を入れるな。


 見る範囲を決めろ。


 見ない権利を認めろ。


 休む権利を認めろ。


 戻るための紐を置かせろ。


 どれも、前世の真壁なら言えなかったことだ。嫌なら黙る。無理なら閉じる。部屋へ逃げる。それしか知らなかった。


 今は、嫌なものに対して条件を書いている。


 それが成長なのか、追い詰められた結果なのかは分からない。


 ただ、少しだけ息がしやすい。


 紐を指で軽く弾く。


 ゆらり、と揺れる。


 真壁はそれを追わない。追えば遅れる。追えば引っ張られる。紐がどこへ行くかではなく、どこへ戻るかを見る。いや、見るというより、待つ。


 戻る場所。


 それだけを待つ。


 ――パツン。


 指先が木片に触れる。


 木片は大きく跳ねず、小さく震え、元の位置へ戻った。


「……よし」


 今日は半休。


 午前は休み。


 午後に、未整理墓籍庫へ入る前の確認をする。


 見る名前は三名以内。


 いや、今回はエリオ・ノートを中心に、関連候補を最大三名まで絞る。真壁本人はまだ未整理墓籍庫へ入らない。ララと墓籍保管庫長ミルドが先に範囲を削る。真壁はその結果だけを見る。


 見なくていいものを減らす。


 昨日、ララがそう言った。


 真壁はその言葉が気に入っていた。


 全部を見てから耐えるのではない。


 見る前に、見なくていいものを減らす。


 それは、自分一人ではできないことだった。


 コン、と扉が一度だけ鳴った。


 続いて、若い騎士の声がする。


「朝食を置きます。返事は不要です」


 また完璧だった。


 足音が遠ざかるのを待って、真壁は扉を開けた。廊下には誰もいない。盆だけが置かれている。


 パン、スープ、肉三切れ、卵料理、焼き菓子。


 肉三切れが定着しつつある。


「……食事改善、強い」


 真壁は盆を持ち上げ、机へ運んだ。


 朝食を食べる。味は近い。体調は悪くない。昨日、墓籍保管庫へ行った負荷はまだ少し残っているが、王都共鳴術式を止めた後のような頭痛はない。むしろ、昨日は途中で止められたという感覚が残っている。


 全部見なかった。


 それが身体にも効いている。


 食事を終えると、真壁は机の紙を見た。


『今日は考えないこと一覧』


 昨日書いたものだ。


 エリオ・ノートの別名。


 未整理墓籍庫の中身。


 王都の底。


 アルゴの居場所。


 ガレウスの目的。


 墓籍保管庫の地下構造。


 自分が普通かどうか。


 昨日はこれを考えないと決めた。


 今日はどうするか。


 少し考えて、真壁は一つだけ丸をつけた。


『エリオ・ノートの別名』


 今日、午後に見る可能性があるものだ。


 全部ではない。


 一つだけ。


「……一個なら、まあ」


 自分へ許可を出すように言う。


 それ以外は、まだ考えない。


 その線引きができるだけで、頭の中の騒がしさが少し減った。


   ◇


 同じ頃、王都墓籍保管庫の地下入口前には、ララ・バーンとミルド・カーウェンが立っていた。


 真壁はいない。


 条件通りだ。


 未整理墓籍庫へ入る前に、見る必要のある名前を三名以内へ絞る。そのための事前確認は、真壁抜きで行う。ララはその判断に迷いがなかった。


 ただ、実際に地下入口を前にすると、少しだけ真壁を連れてこなかった意味が分かった。


 空気が違う。


 地上の墓籍保管庫も重い場所だった。壁一面に棚があり、死者の名が静かに保管されている。だが、そこには秩序があった。戻るべき場所へ戻された名前。墓所へ繋がる記録。家族へ渡された写し。公的に確認された名。


 地下入口の向こうにあるのは、違う。


 未整理墓籍庫。


 返されなかった名前。


 戻る場所を持たない記録。


 照合不能、身元不明、抹消、移記、仮名、重複、戦時混乱、意図的削除。


 そうしたものが溜まった場所。


 扉の向こうから漂ってくる空気は、冷たい紙の匂いの奥に、言葉にしづらい濁りを含んでいた。


「真壁を連れてこなくて正解だったな」


 ララは静かに言った。


 隣のミルドは頷く。


「ええ。あの方は、おそらくここを深く読みすぎる」


「そうだろうな」


「ただ、必要になる時は来るでしょう」


「分かっている」


 ララは扉を見た。


 重い鉄扉。


 表面には古い王都文字で『未整理』とだけ刻まれている。


 整えられた言葉ではない。


 未整理。


 それは、この場所に対する正直な名だった。


 ミルドが鍵を取り出す。


「本日は、エリオ・ノートに関する移記先の候補を確認します。ただし、全帳簿は開きません。移記痕跡の残る棚、弔鐘管周辺の音響記録、そして旧軍務局関連の未整理束だけです」


「候補は三名以内にできるか」


「努めます」


「真壁の条件だ」


「承知しています」


 ミルドは鍵を差し込んだ。


 鉄扉が低く鳴る。


 開いた瞬間、ララは無意識に剣の柄へ指を寄せた。


 敵がいるわけではない。


 だが、何かがいるような気配がした。


 人ではない。


 名の気配。


 呼ばれなかったもの。


 返されなかったもの。


 ララは、それを真壁ならどう読むのだろうと思い、すぐに考えるのをやめた。


 今日は、自分が先に見る日だ。


 見なくていいものを減らす日。


 真壁へ渡す前に、刃を通すように情報を削る。


 ララは一歩、地下へ降りた。


   ◇


 未整理墓籍庫は、地上の保管庫よりも低く、狭く、そして広かった。


 矛盾しているが、実際にそうだった。


 通路は狭い。天井も低い。古い石壁には湿り気があり、ところどころに古い補修跡がある。棚と棚の間は人が一人通るのがやっとだ。だが、その棚が奥へ奥へと続き、枝分かれし、いくつもの小部屋へ分かれている。まるで地下そのものが、整理されなかった記録に合わせて増殖したかのようだった。


 ミルドは小さな灯りを持ち、迷わず進む。


「こちらです」


 ララは周囲を見すぎないようにした。


 真壁ほどではないが、ララも最近、空間のズレを見るようになっていた。真壁の感覚を剣へ落とし込む中で、情報の濁りにも少し敏感になっている。ここでは、それが少し邪魔だった。


 棚の隙間に、空白がある。


 誰も触れたくない束。


 誰も開きたくない箱。


 書かれているのに読まれていない名。


 それらが、空間の流れを歪ませている。


「……真壁は、ここに長くいられないな」


 ララは言った。


「ええ」


 ミルドは静かに答える。


「ですから、長くいさせてはなりません」


 その言い方が、ララには少し信頼できた。


 この老人は、真壁を便利な目として扱う気がない。


 名前と同じように、真壁の限界も丁寧に扱おうとしている。


 やがて二人は、低い天井の小部屋へ入った。


 中央に石の机。


 壁には古い金属管が通っている。


 管の端には、使われなくなった小さな鐘が吊られていた。


「弔鐘管か」


「はい」


 ミルドは灯りを掲げる。


「かつて、未整理の名が正式な墓籍へ移された際、この鐘を一度鳴らしました。地上の慰霊鐘へ音が伝わり、記録完了を知らせるためです」


「今は使っていない」


「はい」


「だが、導音管と繋がっている可能性がある」


「あります」


 ミルドは認めた。


 ララは管を見る。


 古い金属管。


 表面には緑青が浮き、ところどころに新しい傷がある。


 新しい。


 それだけで、ララの目が細くなった。


「これは最近の傷か」


「おそらく」


 ミルドの声が低くなる。


「私どもも昨日確認しました。管の外側に、何者かが触れた痕跡があります」


「侵入者か」


「あるいは、管の中から」


 ララは剣へ手を伸ばした。


 管の中。


 音が通る場所。


 そこから何かが触れる。


 銀糸。


 針。


 あるいは声。


「開けられるか」


「ここでは開けません。名簿への影響が出る可能性があります」


「分かった」


 ララは視線を戻す。


「エリオ・ノートの移記先は」


 ミルドは石机の上に、三つの薄い帳簿を置いた。


「現時点で候補は三つです」


「三名以内か」


「はい。ただし、これは名前というより、移記先の記録束です。それぞれに一名、中心となる名があります」


 ララは頷く。


 ミルドが一冊目を開く。


「第一候補。『エリオ・ノート』の別名照合欄から最も近い移記痕跡がある束。中心名は、エル・ノーウェル」


「エル・ノーウェル」


「戦時孤児名簿に一度だけ記載があります。出生不明。死亡記録なし。墓籍なし。後年、記録束ごと未整理へ移されています」


「エリオと音が近いな」


「はい」


 ミルドは二冊目を開く。


「第二候補。旧軍務局補助員名簿から移された可能性のある束。中心名は、リオン・ノートン」


「ノートン」


「姓が似ています。こちらは軍務局仮名の可能性があります。年齢、所属は削除。北方戦役末期に記録が途絶えています」


「第三は」


 ミルドは三冊目を開く前に、少しだけ間を置いた。


「第三候補は、名前ではありません」


「何?」


「記録束の中心に、名ではなく記号が置かれています」


 ララの目が鋭くなる。


「記号」


 ミルドは三冊目を開いた。


 そこには、名前ではなく、短い符号が書かれていた。


『第零名』


 ララは眉をひそめた。


「第零名」


「はい。通常の墓籍では使われない表記です。未整理墓籍庫にも、これ一つしかありません」


「意味は」


「不明です。ただ、この束にだけ、弔鐘管の微細な振動記録が残っています」


「音と繋がっている」


「そう考えています」


 ララは三冊の帳簿を見た。


 エル・ノーウェル。


 リオン・ノートン。


 第零名。


 三つ。


 条件内ではある。


 だが、どれも重い。


 特に第三。


 名前ではない名前。


 第零名。


 それは、真壁に見せるべきなのか。


 ララは少し考えた。


 見せなければ、危険を見落とす可能性がある。


 見せれば、真壁に負荷がかかる。


 そこで、ララは真壁の条件を思い出した。


 戻る場所が分からない名前を無理に読まない。


 名前を急がせない。


 第零名は、名前なのか。


 それすら分からない。


「ミルド殿」


「はい」


「真壁に見せる順番を決めたい」


「承知しています」


「第一、第二候補まで。第三は、存在だけ伝える。読むかどうかは次回判断にする」


 ミルドは少し考え、頷いた。


「妥当です」


「第零名という表記は、今回は見せない」


「負荷が大きいと?」


「名前でないものを名前として扱うのは危険だ。今の真壁には」


「そうですね」


 ミルドは三冊目を閉じた。


「では、真壁殿へは、第三候補あり、ただし本日非開示。理由は、名称形式が不安定であるため。そう伝えましょう」


 ララは頷く。


「そうする」


 その時、弔鐘管の奥で、小さな音がした。


 カン。


 二人は同時に動きを止めた。


 小さな鐘は揺れていない。


 だが、管の奥から音が来た。


 カン。


 もう一度。


 遠く。


 深く。


 まるで誰かが、王都の底から管を叩いたような音。


 ララは剣を抜いた。


「下がれ」


 ミルドは灯りを持ったまま、帳簿を抱えて下がる。


 管の表面に、細い震えが走る。


 銀糸ではない。


 針でもない。


 音だ。


 音そのものが、管を通っている。


 ララは真壁ではない。


 音をほどくことはできない。


 だが、彼の言葉を覚えている。


 追うな。


 全体を見る。


 音がどこへ行くかではなく、どこへ戻ろうとしているかを見る。


 ララは剣を構えたまま、管の振動を見た。


 音は小部屋へ入ろうとしているのではない。


 逆だ。


 小部屋の名簿から、何かを引き出そうとしている。


「……名を拾いに来たか」


 ララは低く言った。


 そして、剣の柄ではなく、鞘の金具を管へ軽く当てた。


 斬らない。


 壊さない。


 振動の戻りをずらす。


 真壁が水路でやったことの、ごく小さな真似。


 カン、と乾いた音が返る。


 管の震えが乱れた。


 奥から来ていた音が、一瞬だけ途切れる。


 ミルドが息を呑む。


「今のは」


「真壁なら、もっと綺麗に止める」


 ララは剣を収めずに言った。


「だが、今は呼ばない」


 真壁の休息日だ。


 真壁が見る前に、見なくていいものを減らす。


 今日の役目はそれだ。


 管の震えは消えた。


 しかし、石机の上に置いていた三冊目の帳簿――第零名の束だけが、わずかに開いていた。


 ミルドがすぐに閉じる。


 ララはその動きを見て、静かに言った。


「第三候補は、しばらく見せない方がいいな」


「同意します」


「保管を強化できるか」


「できます。ただ、これで分かりました」


「何がだ」


 ミルドは閉じた帳簿へ手を置いた。


「向こうが最も欲しがっているのは、この第三候補です」


 ララは頷いた。


「なら、なおさら急がせない」


 彼女の声は固かった。


「名前でないものを、名前として返すわけにはいかない」


   ◇


 午後、真壁は小会議室でララを待っていた。


 半休の後半である。


 机の上には水、焼き菓子、紙、そして小さな紐が置かれている。部屋の窓にも一時的に紐を吊るす許可が出た。精神安定用の私物設置権は、早速活用されている。


 ヴォルフは扉側の椅子に座っていた。


 ちゃんと椅子に。


 窓ではない。


「最近、扉使いますね」


 真壁が言うと、ヴォルフは不満そうに鼻を鳴らした。


「条件だからな」


「守ってる」


「俺だって守る時は守る」


「普段から守ってください」


「努力する」


「信用度低め」


 そんなやり取りをしていると、扉が開いた。


 ララが入ってくる。


 その後ろにミルドもいた。


 真壁は思わず姿勢を正す。


「お疲れ様です」


 ミルドが丁寧に頭を下げる。


「真壁殿。本日の確認範囲を絞ってまいりました」


「ありがとうございます」


 本心だった。


 真壁は、今日自分が地下へ行かずに済んだことの重みを分かっていた。ララとミルドが先に嫌な場所へ入ったのだ。見なくていいものを減らすために。


 ララは椅子に座り、紙を一枚だけ机へ置いた。


「今日はこれだけ見る」


「一枚」


「ああ」


「すごい。少ない」


「少なくした」


 ミルドが補足する。


「候補は三つありました。ただし、本日真壁殿に確認いただくのは二つまで。第三候補は存在のみ伝え、名称は伏せます」


 真壁は少し緊張した。


「伏せるってことは、かなり嫌なやつですか」


「負荷が高いと判断しました」


「なら伏せてください」


 即答だった。


 以前なら気になっていただろう。いや、今も気にはなる。だが、知りたいより、壊れたくないが勝った。


 それでいい。


 ララが紙を指差す。


「第一候補。エル・ノーウェル」


 真壁は名前を見る。


 エル・ノーウェル。


 エリオ・ノートと音が近い。


 だが、違う。


「戦時孤児名簿に一度だけ記載。出生不明。死亡記録なし。墓籍なし。後年、記録束ごと未整理へ移送」


 ララが読み上げる。


 真壁は紙を見すぎないようにしながら、名前だけを口の中で転がした。


 エル・ノーウェル。


 エリオ・ノート。


「……似てるけど、隠すために作った名前っぽくないですね」


 ララが問う。


「どういう意味だ」


「隠すためなら、もっと離すと思います。近すぎる。これは、誰かが元の名前を忘れたくなくて、少しだけ形を変えた感じがします」


 ミルドが静かに頷く。


「我々も同じ印象を受けました」


「誰がつけたんですかね」


「不明です」


 真壁は眉をひそめる。


「本人か、保護した人か、記録係か」


「可能性はあります」


 ララが第二候補を示す。


「リオン・ノートン。旧軍務局補助員名簿から移された可能性あり。年齢、所属削除。北方戦役末期に記録途絶」


「これは……」


 真壁は少し顔をしかめた。


「こっちの方が隠す名前っぽいです」


「なぜ」


「ノートをノートンにしてる。近いけど、書類上は別人にしやすい。リオンもエリオを並べ替えた感じがする」


 言ってから、真壁は自分で嫌な気持ちになった。


 名前を並べ替える。


 隠す。


 移す。


 別人にする。


「こっち、軍務局が作った仮名じゃないですかね」


 ミルドが頷く。


「その可能性が高いと見ています」


 真壁は二つの名前を見比べた。


 エル・ノーウェル。


 リオン・ノートン。


 どちらもエリオ・ノートに似ている。


 だが、温度が違う。


 エル・ノーウェルは、少し人間らしい。


 リオン・ノートンは、書類らしい。


「……第一が、誰かが守ろうとした名前。第二が、誰かが隠そうとした名前」


 真壁は言った。


 部屋が静かになる。


 ララが静かに問う。


「どちらがエリオの移記先だと思う」


「両方です」


 自分で言って、嫌になる。


「たぶん、最初にエル・ノーウェルへ逃がされた。その後、軍務局が見つけて、リオン・ノートンとして回収した」


 ミルドの目が鋭くなる。


「根拠は」


「流れです」


 真壁は紙を指差す。


「エル・ノーウェルは戦時孤児名簿。誰かが子供を逃がすためにつけた感じがする。リオン・ノートンは軍務局補助員名簿。軍務局が使うためにつけた感じがする」


「つまり、エリオ・ノートは一度隠され、後に軍務局へ連れ戻された」


 ララが言う。


「はい」


 真壁は口の中が乾くのを感じた。


「それで、収容所地下の中心に組み込まれた」


 誰もすぐには言わなかった。


 重い沈黙。


 ヴォルフが低く呟く。


「胸糞悪いな」


「はい」


 真壁は即答した。


 かなり悪い。


 エリオ・ノートが本当にガレウスの息子だったとして。


 誰かが彼をエル・ノーウェルとして守ろうとした。


 だが軍務局が彼をリオン・ノートンとして回収した。


 そして、アルゴの実験の中心に置かれた。


 その流れは、あまりにも嫌だった。


「第三候補は」


 真壁は言いかけて、止まった。


 今日は見ない。


 名前も聞かない。


 存在だけ。


「……やっぱりいいです。今日は聞きません」


 ララは頷いた。


「それでいい」


 ミルドも静かに頷いた。


「真壁殿は、すでに十分な違和感を掴まれました」


「十分ですかね」


「ええ」


 ミルドは紙を伏せた。


「これ以上は、急がせることになります」


 名前を急がせない。


 真壁は、自分で書いた条件を思い出した。


 その条件が今、自分を止めている。


 止まれた。


 それが少しだけ嬉しかった。


 その時、ララが口を開いた。


「地下で一つ、事象があった」


 真壁は少し身構える。


「聞いて大丈夫なやつですか」


「簡潔に伝える。弔鐘管から音が来た」


「……音」


「名簿から何かを引き出そうとする振動だった。私は一度だけ逸らした。詳細は今日は伝えない」


 真壁は目を閉じた。


 聞いただけで、少し背筋が冷える。


 だが、詳細を省いてくれたおかげで、深く引っ張られずに済んだ。


「ありがとうございます。詳細は明日以降で」


「そうする」


 ヴォルフがララを見る。


「お前が止めたのか」


「ああ」


「真壁なしで?」


「真似事だ」


 ララは淡々と言った。


「彼ならもっと綺麗に止める」


 真壁は少し驚いた。


 ララが、紐の感覚を使っている。


 水路でも使った。


 今回も、弔鐘管の音を逸らした。


「……ララさん」


「何だ」


「それ、危なくないですか」


「危険はある」


「俺の変な感覚、ララさんに移して壊れたら嫌なんですけど」


 ララは少し黙った。


 それから静かに答える。


「お前一人に持たせる方が危険だ」


 真壁は言葉に詰まった。


「全部をお前一人が読まなくていいように、私も覚える」


 ララは真っ直ぐ言った。


「ただし、私も条件を作る。無制限には使わない」


「ララさんも?」


「ああ」


 ヴォルフがにやりと笑う。


「条件書ブームだな」


「必要だ」


 ララは即答する。


 真壁は少しだけ胸が熱くなった。


 ララも、自分のためだけではなく、真壁の負担を減らすために線を引こうとしている。


 セイルも昨日、見ない権利を書こうとしていた。


 真壁が始めた条件が、少しずつ周囲へ広がっている。


「……なんか、変ですね」


「何がだ」


「俺、逃げるために線を引いたのに、みんなも線を引き始めてる」


 ミルドが静かに微笑んだ。


「よい線は、他者にも必要になります」


 真壁は困ったように笑った。


「俺の線、よい線なんですかね」


「少なくとも、名前を急がせないという線は、よいものです」


 その言葉は素直に受け取れた。


「ありがとうございます」


   ◇


 確認は二十分で終わった。


 条件通りだった。


 真壁は少し疲れたが、倒れるほどではない。医務官の診断では軽度負荷。追加確認禁止。夕食は肉三切れ維持。休息用の紐使用可。


 かなり順調だった。


 夕方、自室に戻った真壁は、窓辺の紐を軽く揺らした。


 ゆらり。


 木片が揺れる。


 戻る場所を見る。


 ――パツン。


 止まる。


 今日は、昨日より少し落ち着いていた。


 エル・ノーウェル。


 リオン・ノートン。


 そして、伏せられた第三候補。


 その存在は気になる。


 だが、今日は見ない。


 名前を急がせない。


 真壁は机に紙を出し、新しく一行を書き足した。


『誰かが守ろうとした名前と、誰かが隠そうとした名前を分ける』


 書いてから、少し考える。


 これは条件というより、方針だ。


 でも、大事だ。


 エル・ノーウェルとリオン・ノートン。


 同じエリオに繋がるかもしれない二つの名前でも、意味は違う。


 守るための名前。


 隠すための名前。


 使うための名前。


 戻すための名前。


 それらを混ぜてはいけない。


 名前は部品ではない。


 名前にも、経緯がある。


「……難しいな」


 真壁は呟いた。


 その時、扉が鳴った。


 コン、コン。


「ララだ」


「どうぞ」


 ララが入ってくる。


 真壁の紙を見て、尋ねる。


「追加か」


「方針です」


 ララは読んだ。


「誰かが守ろうとした名前と、誰かが隠そうとした名前を分ける」


「はい」


「良い」


 短い評価だった。


 でも、十分だった。


「ララさんも条件作るんですか」


「ああ」


「見せてもらえます?」


「まだ作成中だ」


「そうですか」


「一つは決めた」


「何ですか」


 ララは少しだけ考え、それから言った。


「真壁の真似をする時は、真壁の代わりになるためではなく、真壁を休ませるためにする」


 真壁は黙った。


 言葉がすぐに出なかった。


 それは条件というより、誓いに近い気がした。


「……重いですね」


「そうか」


「でも、ありがたいです」


「ああ」


 ララは頷く。


 真壁は少し視線を逸らした。


 照れくさかった。


 ララは机の上に小さな紙袋を置いた。


「食堂からだ」


「焼き菓子?」


「ああ」


「神」


「食堂だ」


 二人で少し笑った。


 その夜、真壁は久しぶりに、寝る前に考えないこと一覧を更新しなかった。


 考えないのではなく、今日は十分に考えた。


 そして止まった。


 それでいい。


 窓辺の紐は揺れていない。


 扉には紙がある。


 机には条件と方針が増えている。


 明日は、伏せられた第三候補について、少しだけ話を聞くかもしれない。


 聞かないかもしれない。


 どちらにしても、自分で決める。


 真壁は寝台に横になり、目を閉じた。


 エリオ・ノート。


 エル・ノーウェル。


 リオン・ノートン。


 三つの名前が、遠くで静かに並んでいる。


 急がせない。


 戻る場所を探す。


 その線の内側で、真壁はゆっくり眠りへ落ちた。

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