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第49話


 翌日は、休みになった。


 少なくとも、書類上はそうだった。


 真壁悠は朝、騎士団宿舎の自室で目を覚まし、扉の外に誰の足音もないことを確認してから、しばらく寝台の上でぼんやりしていた。窓は閉まっている。扉には例の紙が貼ってある。『休息中。緊急時を除き入室・接触禁止』。その下の『窓からの侵入も禁止』という追記も、今日もしっかり効いている。


 静かだった。


 外から訓練場の掛け声が少し聞こえる。廊下を歩く騎士の足音。遠くの食堂で食器が触れる音。古い石壁の中を通る風の低い音。


 それだけだった。


 王都の底から名前が聞こえることもない。


 水路が唸ることもない。


 評議会の封書が扉の下から滑り込んでくることもない。


 アルゴの金属片もない。


 ただの朝だった。


「……休みだ」


 真壁は呟いた。


 その言葉を口にした瞬間、少しだけ不安になった。


 休み。


 前世では、真壁の毎日はある意味でずっと休みだった。学校へ行かない。働かない。外へ出ない。誰にも会わない。決められた予定もなく、社会の流れから外れた場所で、ただ一日をやり過ごす。世間から見れば落伍であり、本人にとっては避難だった。


 だが、この世界で与えられた休みは少し違う。


 何もしなくていい日ではない。


 壊れないために何もしない日だ。


 それは、真壁にはまだ少し難しかった。


 身体は休んでいるのに、頭のどこかが勝手に動こうとする。昨日見た名前が、棚の奥からこちらを見ている気がする。


 エリオ・ノート。


 墓籍なし。


 出生記録なし。


 軍籍なし。


 旧軍務局補助員名簿に『E・ノート』。


 名を返すな。


 未整理墓籍庫へ移された可能性。


 弔鐘管。


 導音管。


 王都の底で、全部の名前を聞いている。


「……休みの日に考える内容じゃない」


 真壁は布団を頭までかぶった。


 暗くなる。


 少しだけ、四畳半の布団の中を思い出した。


 嫌なことがある時、真壁はよく布団をかぶった。学校へ行かなければならない朝。親が扉の向こうで話している夕方。親戚が来ている日。郵便物の催促。電話の音。全部を布団の中に隠れてやり過ごした。


 やり過ごせば、一日は終わる。


 終われば、また次の日が来る。


 その繰り返しだった。


 今も、布団をかぶれば少し安心する。


 だが、完全には戻れない。


 扉の外に、ララがいる世界を知ってしまった。


 窓から勝手に入ってくる迷惑な男を知ってしまった。


 条件を守って廊下越しに話す観測官を知ってしまった。


 名前を急がせない墓籍保管庫長を知ってしまった。


 もう、布団の中だけで全部を終わらせることはできない。


「……面倒だなぁ」


 そう呟いた時、扉が一度だけ鳴った。


 コン。


 続けて、扉の向こうから若い騎士の声がした。


「朝食を置きます。返事は不要です」


 完璧だった。


 真壁は布団の中で小さく親指を立てた。


 しばらくして足音が遠ざかる。


 真壁は布団から顔を出し、少し待ってから扉を開けた。廊下には誰もいない。盆だけが置かれている。パン、スープ、肉三切れ、卵料理、焼き菓子。


「……肉三切れ」


 条件は、今日も効いていた。


 真壁は盆を持ち上げ、机へ運ぶ。


 食べる。


 味は近い。


 肉が三切れあるだけで、世界への信頼度が少し上がる。単純だと思う。だが、単純なものほど頼りになることもある。


 食事を終える頃には、少しだけ頭が動くようになっていた。


 今日は休む。


 ただし、休み方を覚える。


 そう決めた。


   ◇


 午前中、真壁は何もしないことに失敗した。


 寝台に横になる。


 五分後、起きる。


 椅子に座る。


 紙を見る。


 昨日追加した条件を読み返す。


『未整理墓籍庫では、戻る場所が分からない名前を無理に読まない』


『名前を急がせない』


 一度に三名まで。


 帰ったら肉。


 ララ同席。


 セイルは呼ばない。


 ガレウスは論外。


 ヴォルフは廊下待機か必要時のみ。


 条件は増えている。


 増えた線を見ていると、少し落ち着く。


 しかし、落ち着いたことでまた考え始めてしまう。


 エリオ・ノートの名前は、どこへ移されたのか。


 未整理墓籍庫のどの帳簿にあるのか。


 弔鐘管は本当に導音管と繋がっているのか。


 アルゴは本当に名前を聞いているのか。


 ガレウスは、エリオを何として扱ったのか。


 息子か。


 資源か。


 失敗か。


 それとも、戻すべきものか。


「……駄目だ」


 真壁は紙を裏返した。


 見ない。


 今日は見ない。


 だが、考えるなと言われても、考えは勝手に動く。


 そこで、真壁は別の紙を出した。


 そこに大きく書く。


『今日は考えないこと一覧』


 我ながら情けない題名だと思った。


 だが、必要だった。


 その下に書く。


『エリオ・ノートの別名』


『未整理墓籍庫の中身』


『王都の底』


『アルゴの居場所』


『ガレウスの目的』


『墓籍保管庫の地下構造』


『自分が普通かどうか』


 最後の一つを書いてから、真壁は少し止まった。


 自分が普通かどうか。


 これは最近、何度も考えている。


 異世界へ来てから、真壁は何度も普通ではないと言われてきた。魔力なし、スキルなし、無職。なのに剣を消す。水路を止める。王都共鳴術式を切る。壊れ方を読む。名前のズレを見る。


 普通ではない。


 それはもう否定しづらい。


 だが、普通ではないことと、人間ではないことは違う。


 ララは言った。


 真壁悠は人間だ。


 意思を持ち、恐怖を感じ、疲労し、報酬を求め、休息を必要とする。


 それを議場で言ったらしい。


 真壁はその話を聞いた時、かなり変な気持ちになった。


 嬉しいような、恥ずかしいような、申し訳ないような。


 自分が人間であることを、誰かが公式の場で主張してくれた。


 それが、少し重かった。


「……今日は考えない」


 真壁はその項目へ線を引いた。


 考えないこと一覧。


 案外、役に立つかもしれない。


 コン、コン。


 扉が鳴った。


「ララだ」


「どうぞ」


 真壁は反射的に返事をした。


 扉が開き、ララが入ってくる。


 今日のララは完全に軽装だった。鎧なし。剣はある。手には書類ではなく、小さな紙袋。中から焼き菓子の匂いがした。


「差し入れですか」


「食堂からだ」


「神」


「食堂だ」


「そこは騎士じゃないんですね」


「私は運んだだけだ」


 ララは紙袋を机に置いた。


 そして、裏返された紙に視線を落とす。


「何か書いていたのか」


「今日は考えないこと一覧です」


 ララは少しだけ目を瞬かせた。


「見てもいいか」


「まあ……はい」


 真壁は紙を表に戻した。


 ララは一覧を見る。


 読み終えて、静かに頷いた。


「良い」


「本当ですか」


「ああ。考えないものを決めるのも、見ない権利の一部だ」


「なるほど」


「項目を増やしてもいい」


「増やすと、逆に考えそうなんですよね」


「なら、今日はこのままでいい」


 ララは椅子に座った。


 真壁は紙袋から焼き菓子を一つ取り出し、ララへ差し出す。


「どうぞ」


「お前の差し入れだ」


「一人で食べるより、たぶんいいので」


 ララは少し黙り、それから受け取った。


「ありがとう」


「はい」


 二人で焼き菓子を食べる。


 硬い。


 甘い。


 最近、この硬い焼き菓子にも慣れてきた。最初は異世界の保存食のように感じたが、今は温かい茶があればかなりうまいと思える。


「今日は本当に何もないんですか」


 真壁が聞く。


「お前に関しては、何もない」


「お前に関しては」


「南区復旧、バルド聴取、評議会調整、条件書への異議対応、墓籍保管庫との次回調整は進んでいる」


「いっぱいあるじゃないですか」


「お前は休みだ」


「ララさんは?」


「私は後で出る」


「休めないんですね」


「必要な分は休んでいる」


「本当ですか」


「……少しは」


「嘘が下手」


 真壁は焼き菓子をもう一つ取り出し、ララの前に置いた。


「食べてください」


「……分かった」


 ララは素直に受け取った。


 真壁は少し満足した。


 他人の休息を心配するなど、前世の自分では考えられない。自分の生活だけで精一杯だった。いや、生活というほどのものでもなかった。ただ毎日をやり過ごしていた。


 だが今は、ララが疲れていると分かる。


 分かるから、焼き菓子を渡す。


 それだけのことなのに、真壁にとってはかなり大きな変化だった。


「ララさん」


「何だ」


「休むの、難しくないですか」


 ララは少し考えた。


「難しいな」


「ララさんでも?」


「ああ。剣を振るより難しい時がある」


「意外です」


「休むには、任せなければならない。自分が動かない間も、何かが進むことを許さなければならない。それが難しい」


 真壁は黙った。


 分かる気がした。


 自分の場合は、任せる以前に逃げていた。だが今は違う。休んでいる間に、ララが動いている。セイルが報告を整理している。医務官が診断書を書く。墓籍保管庫長が準備する。ヴォルフが外を見ている。


 それを信じて休む。


 確かに、難しい。


「俺、今までは休んでたんじゃなくて、止まってただけかもしれません」


 真壁は言った。


 ララは静かに聞いている。


「四畳半にいた時、毎日休みみたいだったけど、休んでる感じじゃなかったです。何も進まないようにしてただけで。外も、自分も」


 言葉にしながら、少し胸が痛くなる。


「今の休みは、外は進んでるんですよね。俺が止まってる間も」


「ああ」


「それが怖いです」


「だろうな」


「でも、それが休むってことなのかもしれない」


 ララは少しだけ目を細めた。


「そうかもしれないな」


 真壁は焼き菓子をかじった。


 硬い。


 でも甘い。


「……じゃあ今日は、ちゃんと休む練習します」


「ああ」


「ララさんも休んでください」


「努力する」


「信用度低め」


「分かっている」


 ララは少しだけ笑った。


   ◇


 昼過ぎ、真壁は本当に何もしようとした。


 寝台に横になる。


 天井を見る。


 目を閉じる。


 考えないこと一覧を思い出す。


 思い出した時点で考えている気もするが、深追いはしない。


 エリオ・ノート。


 考えない。


 未整理墓籍庫。


 考えない。


 王都の底。


 考えない。


 アルゴの居場所。


 考えない。


 ガレウスの目的。


 考えない。


 自分が普通かどうか。


 考えない。


 ただ、呼吸する。


 意外と難しい。


 数分後、真壁は起き上がった。


「……無理」


 休む練習は難航していた。


 そこで、別のことをすることにした。


 紐がないのが悪いのだ。


 真壁は部屋を見回した。天井には蛍光灯の紐など当然ない。異世界の宿舎にそんなものはない。だが、机の上に茶袋を縛っていた細い紐があった。


 真壁はそれを手に取り、しばらく見つめた。


 吊るす場所がない。


 いや、窓の金具に結べばいける。


 少し迷った。


 ララに見られたら何と言われるか。


 ヴォルフに見られたら絶対に茶化される。


 セイルに見られたら観測される。


 だが、ここは自室だ。


 私的空間だ。


 無断侵入は禁止だ。


 真壁は窓の金具へ紐を結んだ。


 短い。


 軽い。


 先端に小さな木片を結ぶ。


 揺らす。


 ゆらり、と動く。


 真壁はしばらく、それを見ていた。


 四畳半の紐とは違う。


 蛍光灯の紐ではない。


 だが、揺れるものがあるだけで、部屋の空気が少しだけ整う。


「……これだよ」


 真壁は小さく言った。


 拳を上げる。


 打たない。


 今日は休みだ。


 ただ見る。


 いや、見ない。


 揺れを追わない。


 全体をぼんやり見る。


 紐がどこへ行くかではなく、どこへ戻るかを見る。


 それだけで、呼吸が落ち着いていく。


 ――パツン。


 気づけば、指先が軽く触れていた。


 木片が止まる。


 大きく揺れない。


 壊れない。


 消えない。


 ただ、少しだけ震えて、元の位置へ戻る。


 真壁はその音を聞いて、目を閉じた。


 戻る場所。


 紐には戻る場所がある。


 だから止められる。


 戻る場所が分からない名前を、無理に読まない。


 昨日書いた条件が、少しだけ身体の中へ落ちた。


 名前も同じだ。


 戻る場所が分からないなら、無理に返してはいけない。


 急がせてはいけない。


 エリオ・ノートも。


 未整理墓籍庫の名前も。


「……なるほどな」


 少しだけ分かった。


 休むはずの日に、結局考えている。


 だが、これは考えすぎとは少し違う気がした。


 紐を見て、自分の中へ戻す。


 それくらいなら許されるかもしれない。


 コン、コン。


 扉が鳴った。


 真壁は反射的に紐を隠そうとして失敗した。


「誰ですか」


「俺」


 ヴォルフの声だった。


「今日は窓じゃないんですね」


「禁止されてるからな」


「偉い」


「その褒め方、腹立つな」


「入っていいですよ」


 扉が開く。


 ヴォルフが入ってきて、すぐに窓の紐を見た。


 沈黙。


 真壁は目を逸らす。


「……見ました?」


「見えた」


「茶化します?」


「いや」


 意外な返事だった。


 ヴォルフは窓の近くへ行き、紐を少しだけ見る。


「これが、元祖ヒモボクシングか」


「元祖とか言わないでください」


「悪くねえな」


「え?」


 ヴォルフは窓枠に腰を預けようとして、紙の条件を思い出したのか、椅子に座った。


 成長している。


「戦場帰りの連中は、こういう戻るものを持ってることがある」


「戻るもの?」


「ああ。毎朝同じ靴紐を結ぶとか、剣の手入れを同じ順番でやるとか、火を見て呼吸を整えるとか。自分の中心へ戻るための合図だな」


 真壁は紐を見る。


「俺の場合、紐ですか」


「そうだろ」


「暇潰しだったんですけど」


「暇潰しで二十年やったら、もう儀式だ」


「重い言い方」


「でも、そういうのは馬鹿にしねえ方がいい」


 ヴォルフは静かに言った。


「戻る場所がある奴は、壊れにくい」


 真壁は何も言えなかった。


 戻る場所。


 四畳半は、戻る場所だったのだろうか。


 逃げ場であり、止まった場所であり、でも自分が自分でいられた場所でもあった。


 この世界に来てから、その場所はなくなった。


 だが、紐の感覚だけは残っている。


 そして今、この部屋に小さな紐ができた。


 戻る場所の代わりになるかもしれない。


「……ヴォルフさん」


「何だ」


「この紐、条件に入れます?」


「何て?」


「私的空間には紐を設置する権利」


 ヴォルフはしばらく黙り、そして笑った。


「いいんじゃねえか」


「本当に?」


「ああ。お前には必要だろ」


「じゃあ書きます」


 真壁は紙に書き足した。


『休息用の紐を設置する権利』


 書いてから、少しだけ笑った。


 どんどん自分の条件書が変な方向へ成長している。


 だが、大事だ。


 ヴォルフはその紙を見て、軽く笑った。


「評議会がこれ読んだらどんな顔するかな」


「引くでしょうね」


「それでいいんじゃねえか。お前を資産扱いしようとしてた連中に、紐が必要ですって突きつけるんだろ」


「嫌な勝ち方」


「でも勝ちは勝ちだ」


 真壁は少しだけ想像した。


 ガレウスがこの項目を読む顔。


 セイルが真面目に検討する顔。


 ララが当然のように通そうとする姿。


 少し笑えた。


   ◇


 同じ頃、評議会棟の一室で、セイル・グランツは白紙を前にしていた。


 机の上には、南区水路災害の報告書、黒杭の解析結果、バルド・イェーガーの聴取記録、ガレウス・ノートの異議申立書、そして騎士団から送られてきた『任意協力者保護規定案』の写しが並んでいる。


 その中で、セイルが見ていたのは白紙だった。


 何も書かれていない紙。


 そこに、自分の条件を書いてみろ。


 真壁悠はそう言った。


 見ない権利。


 休む権利。


 セイルはその言葉を思い返し、しばらく動けなかった。


 観測官になってから、彼はずっと見る側だった。人の嘘、街の歪み、記録の欠落、危険人物の兆候、政治の流れ、死者の名前に付着した利用価値。見ろと言われたものを見た。見ろと言われていないものも見た。見て、分類し、報告し、必要なら隠した。


 その結果、自分が何を見たくないのか、いつの間にか分からなくなっていた。


「……見ない権利」


 口に出すと、奇妙な響きがした。


 観測官が見ない。


 職務放棄に近い。


 だが、真壁はそれを条件として置いた。見えるから見るのではない。必要だからでもない。自分で見ると決めた時だけ見る。あの男は怯えながら、それを言った。


 セイルは羽ペンを取った。


 紙の上に、ゆっくり文字を書く。


『見る対象を事前に定める』


 手が止まる。


 これは、真壁の条件に似ている。


 だが、自分にも必要だ。


 次を書く。


『観測結果を即時分類しない』


 これも難しい。


 観測官の癖として、見た瞬間に分類してしまう。危険。利用可能。破棄。保護。監視。誘導。そうやって、対象を枠に入れれば楽だった。自分が迷わずに済むからだ。


 しかし、真壁悠は分類から外れた。


 面倒な無職。


 任意協力者。


 休む人。


 紐が必要な男。


 そういう、分類としては不格好な言葉の方が、彼を正しく守っている。


 セイルはさらに書く。


『人間を資源と呼ばない』


 書いた瞬間、手が止まった。


 それは自分への条件であると同時に、ガレウスへの反論でもあった。


 扉が鳴る。


「入れ」


 入ってきたのは監査局の若い補佐官だった。


「セイル観測官。ガレウス顧問より、真壁悠の条件書に対する反論草案が届いております」


「置いてください」


「確認は」


「後で見ます」


 補佐官が少し驚いた顔をした。


 セイルが即座に確認しないことは珍しいのだろう。


「何か?」


「いえ。ただ、急ぎとのことで」


「急ぐ必要があるかどうかは、こちらで判断します」


「……承知しました」


 補佐官は書類を置き、部屋を出ていった。


 セイルは、その封書を見た。


 ガレウス・ノートの印。


 開ければ、また分類の言葉が並んでいるだろう。危険。管理。資産。統制。緊急権限。王都防衛。


 今は開けなかった。


 セイルは白紙へ戻り、最後に一行を書き足す。


『見たくないものを、誰かに代わりに見せない』


 その文字を見て、セイルは静かに息を吐いた。


 条件書というものは、思ったより厄介だ。


 自分がどこで壊れているのかを、自分で認めなければならない。


 真壁悠は、それを始めている。


 ならば、自分も少しは始めるべきなのかもしれない。


 セイルは紙を折りたたまず、そのまま机に置いた。


 観測記録ではない。


 報告書でもない。


 誰かを分類するための紙でもない。


 それは、彼自身に初めて引かれた、細い線だった。


   ◇


 夕方、ララが戻ってきた時、部屋には紐があった。


 ララは扉を開けてすぐ、それに気づいた。


「紐か」


「はい」


「必要か」


「必要です」


「分かった」


 早かった。


 真壁は少し驚いた。


「理由聞かないんですか」


「必要なのだろう」


「はい」


「なら条件に入れる」


 真壁は少しだけ胸が温かくなった。


 ヴォルフが椅子で笑う。


「ほらな」


「本当に通るんだ」


 ララは机の紙を読み、頷いた。


「休息用の紐を設置する権利。表現は整える」


「どんな表現になるんですか」


「精神安定用の私物設置権」


「かっこよくなった」


「紐とは書かない」


「それはちょっと寂しい」


「補足に書く」


「書くんだ」


 ララは真面目だった。


 ヴォルフが肩を震わせて笑っている。


 真壁も少しだけ笑った。


 休む日は、思ったより難しかった。


 考えないこと一覧を書き、紐を作り、条件を増やし、焼き菓子を分けた。


 完全に休めたかは分からない。


 だが、止まっていただけではなかった。


 休むための形を作った。


 それは、今日の成果なのかもしれない。


「明日、未整理墓籍庫へ行くんですか」


 真壁が聞く。


 ララは首を横に振った。


「明日は準備日だ」


「準備?」


「墓籍保管庫長と、見る名前を三名以内に絞る。弔鐘管の図面を事前確認する。ただし、お前はまだ見ない。こちらで危険範囲を削る」


「すごい」


「お前が見る前に、見なくていいものを減らす」


 ララは静かに言った。


「これも条件だ」


 真壁は頷いた。


 見なくていいものを減らす。


 それは、かなりありがたい。


「じゃあ俺は?」


「明日も半休だ」


「半休」


「午前は休む。午後に、次回見る範囲だけ確認する」


「働いてる人みたいな予定になってきた」


「任意協力者だからな」


「無職なのに」


「報酬は出る」


「なら少し許せます」


 ヴォルフが笑う。


「現金だなぁ」


「金と肉は大事です」


「そこは一貫してるな」


 ララも少しだけ笑った。


 その夜、真壁は夕食を食べた後、窓辺の紐を一度だけ揺らした。


 ゆらり。


 短い紐が揺れる。


 真壁はそれを追わない。


 全体をぼんやり見る。


 戻る場所を待つ。


 そして、指先を置く。


 ――パツン。


 木片が止まる。


 壊れない。


 消えない。


 ただ、戻る。


 真壁は深く息を吐いた。


「……よし」


 今日は休んだ。


 完璧ではない。


 でも、休む練習はした。


 明日も全部は見ない。


 明後日、未整理墓籍庫へ入るかもしれない。


 怖い。


 嫌だ。


 だが、戻るための紐がある。


 線がある。


 ララがいる。


 ヴォルフも、たぶん扉から来る。


 セイルも、少しは条件を守る。


 そう思うと、前より少しだけ眠りやすかった。


 真壁は寝台に横になり、目を閉じた。


 遠くで、王都の夜鐘が鳴る。


 その音は少し重かったが、今日は深く拾わない。


 真壁は自分の部屋に引いた線の内側で、ゆっくり眠りへ落ちていった。


 窓辺の小さな紐は、もう揺れていなかった。

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