第48話
王都墓籍保管庫は、王都中央区のさらに奥、評議会棟の北側にあった。
真壁悠は、その建物を見上げた瞬間、帰りたくなった。
大きい建物ではない。評議会棟のような威圧感も、王城のような派手さもない。むしろ外観だけ見れば、古い図書館に近かった。灰色の石壁。細い窓。装飾の少ない扉。入口の上には、古い王都文字で『墓籍保管庫』と刻まれている。
だが、空気が重い。
建物の前に立つだけで、喉の奥が詰まるような感じがあった。人の声はほとんどしない。通行人も少ない。誰も近づきたがらないというより、自然と歩幅を変え、視線を逸らし、そこを日常の外へ置いている。
死者の名前を保管する場所。
そう思っただけで、真壁の胃は重くなった。
「……帰っていいですか」
「まだ入っていない」
隣に立つララ・バーンが答える。
「入口で帰りたい場所は、大体入ってからも帰りたいんですよ」
「それはそうだろうな」
「肯定しないでほしい」
今日の同行者は少ない。
ララ、真壁、ヴォルフ、そして墓籍保管庫側との連絡役を務める騎士が一名。セイル・グランツは同行していない。真壁の条件により、監査局関係者の同席は必要最低限とされ、今回は外された。セイル本人も異議を出さなかったらしい。
それはありがたい。
ただ、セイルがいないから安心かと言えば、もちろんそんなことはない。
墓籍保管庫。
エリオ・ノート。
名を返すな。
王都の底で、全部の名前を聞いている。
嫌な単語が、頭の中でゆっくり繋がっていく。
「真壁」
ララが低く呼んだ。
「はい」
「今日の条件を確認する」
「はい」
「一度に見る名前は三名まで。今回は、最初の対象をエリオ・ノート一名に絞る。お前は墓籍の全文を読まない。見るのは、該当名、関連記録の有無、照合不能の理由、認識票裏面の刻印。時間は二十分。違和感が強ければ即中断」
「はい」
「墓籍保管庫長との面談には私が同席する。ヴォルフは室外待機から始める」
「え、俺は入れないのかよ」
後ろでヴォルフが不満そうに言った。
彼は今日もいつものくたびれた外套姿だ。だが、さすがに墓籍保管庫へ窓から侵入する気はないらしい。そもそも窓が細すぎる。
「人数を絞る」
ララが言う。
「俺、結構役に立つぜ」
「必要なら呼ぶ」
「はいはい」
ヴォルフは肩をすくめた。
真壁はそのやり取りを聞きながら、少しだけ呼吸を整えた。
条件。
線。
一度に三名まで。
今日は一名だけ。
自分で決めた線だ。
その線があるから、ここまで来られた。
なければ、入口で本当に引き返していたかもしれない。
「……行きます」
真壁は言った。
ララが頷く。
「ああ」
扉が開いた。
◇
墓籍保管庫の中は、紙と石と乾いた香の匂いがした。
図書館に似ている。
だが、普通の図書館とは違う。ここにある本は物語ではない。商取引でもない。地図でもない。死者の名前、家系、墓所、埋葬記録、戦死者名簿、身元不明者の記録。そういうものが、壁一面の棚に収められている。
声が低くなる場所だった。
誰に言われたわけでもないのに、真壁は自然と足音を抑えていた。
受付にいた老女が、ララの姿を見ると静かに頭を下げた。
「ララ・バーン隊長。お待ちしておりました」
「保管庫長は」
「奥の照合室に」
老女の視線が真壁へ移る。
一瞬だけ。
だが、その視線には好奇心よりも、何かを測るような慎重さがあった。評議会の役人たちとは違う。セイルとも違う。もっと静かで、長く名前を扱ってきた者の視線だった。
真壁は思わず肩をすくめる。
「……真壁悠です」
「存じております」
「できればあんまり知られてない方が落ち着くんですけど」
老女は少しだけ目元を緩めた。
「ここへ来る方は、大抵そうおっしゃいます」
「そうなんですか」
「ええ。ここは、名を知られる場所ですから」
真壁は返事に困った。
いい言葉なのか、怖い言葉なのか分からない。
ララが横で言う。
「彼は過負荷状態から回復途中だ。予定範囲外の記録は見せないでほしい」
「承知しております」
老女はすぐ答えた。
「保管庫長より、真壁様の条件書の写しを拝見しております」
「もう届いてるんですか」
「ええ。大変よい規定だと、保管庫長も申しておりました」
真壁は少し驚いた。
自分の条件書が、知らないところで褒められている。
それは恥ずかしい。
だが、少しだけ誇らしくもあった。
「……ありがとうございます」
「こちらこそ。名前を扱う者にとっても、必要な線です」
老女はそう言い、奥へ案内した。
長い廊下を進む。
両側に棚。
棚。
棚。
分厚い帳簿。
木箱。
金属札。
巻物。
どれも名前だ。
真壁は途中で気分が悪くなりそうになった。
数が多い。
人の数。
死んだ人の数。
名前の数。
全部を拾ってはいけない。
視線を床へ落とす。
床の石目だけを見る。
ララが隣で歩調を合わせた。
「大丈夫か」
「情報が多いです」
「見るな」
「はい」
真壁は頷いた。
見ない。
棚を見ない。
背表紙を見ない。
刻まれた札を読まない。
今日見るのは、エリオ・ノートだけ。
それだけ。
廊下の奥に、小さな照合室があった。
扉は木製で、古い鉄の取っ手がついている。中に入ると、細長い机と椅子が数脚。壁際には鍵付きの棚。窓は高い位置に一つだけ。明かりは柔らかい。
机の向こうに、白髪の老人が座っていた。
痩せているが、背筋は伸びている。目は穏やかだが、ぼんやりはしていない。古い紙に囲まれて何十年も過ごしてきたような、静かな強さがあった。
「墓籍保管庫長、ミルド・カーウェンです」
老人は立ち上がり、深く頭を下げた。
「ララ・バーン隊長。真壁悠様。ご足労いただき、ありがとうございます」
「様はやめてもらえると助かります」
真壁は反射で言った。
「では、真壁殿」
「それくらいなら」
ミルドは頷いた。
ララが確認する。
「本日は条件に従い、対象名一名のみ確認する。全文閲覧は行わない」
「承知しております」
ミルドは机の上に、布を敷いた。
その上に、一枚の認識票の写し、一枚の墓籍照合票、そして細い木箱を置く。
木箱は閉じたままだ。
真壁は木箱を見て、少し嫌な感じがした。
「それは?」
「実物です。ただし、真壁殿の確認前には開けません。写しで足りる場合は、このまま保管します」
真壁は少しだけ息を吐いた。
ちゃんとしている。
この保管庫長は、条件を理解している。
それだけで、かなり違った。
「まず写しでお願いします」
「承知しました」
ミルドは認識票の写しだけを机の中央へ置いた。
真壁は見る。
見たくない。
でも、見る範囲は決まっている。
名前。
エリオ・ノート。
認識票の表側には、それだけが刻まれている。
年齢、所属、階級の欄は、削られていた。
削った跡がある。
きれいに消したのではない。
強く、乱暴に、だが読めないよう丁寧に削っている。
「……矛盾してますね」
真壁が呟く。
ララが問う。
「何がだ」
「雑に削ってるようで、確実に読めないようにしてる。怒って消したんじゃなくて、消す意思が強い」
ミルドが目を細める。
「同じ見立てです」
「そうなんですか」
「ええ。ただの損傷ではありません。これは抹消です」
抹消。
重い言葉だ。
真壁は次に、裏面の写しを見る。
『名を返すな』
短い刻印。
線は細い。
だが、深い。
真壁は眉をひそめる。
「これ、アルゴさんの刻み方じゃないです」
ララの顔が変わる。
「分かるか」
「はい。アルゴさんの文字は、もっと……ズレてるのに綺麗なんです。これは違う。硬い。命令文みたいです」
ミルドが静かに言う。
「我々も、評議会軍務局の刻印具と近いと判断しています」
「軍務局」
またそこだ。
ガレウス。
旧軍務局。
削除された名簿。
名を返すな。
真壁は頭の奥が少し重くなるのを感じた。
「拾いすぎるな」
ララが言う前に、自分で言った。
そして、顔を上げる。
「照合不能の理由を見ます」
ミルドは頷き、照合票を出した。
こちらも写しだ。
必要箇所だけ、赤い細線で囲まれている。
真壁はそこだけを見る。
エリオ・ノート。
墓籍なし。
出生記録なし。
軍籍なし。
旧軍務局補助員名簿『E・ノート』との類似あり。
関連項目削除済み。
別名照合欄――空白。
真壁の視線が、そこで止まった。
「……別名照合欄」
ミルドが頷く。
「通常、出生名や通称、婚姻による姓の変更、身分秘匿時の仮名がある場合、そこに候補が記されます」
「ここ、空白なのに、紙が変です」
「分かりますか」
ミルドの声が少しだけ低くなる。
真壁は頷いた。
「空白が空白じゃない。何か書いてあった場所を、上から空白にしてる感じ」
ララが紙へ視線を落とす。
「削ったのか」
「いえ」
ミルドが答える。
「削った痕跡はありません。ただ、紙繊維の沈み方が周囲と違う。古い転写術式で、記載そのものを別紙へ移した可能性があります」
「別紙へ移す?」
真壁は嫌な予感がした。
ミルドは静かに説明する。
「古い記録術です。紙に書かれた名前や符号を、その痕跡ごと別の帳簿へ移す。正規の墓籍整理にも使われますが、現在はほとんど使われません」
「名前を移した」
「はい」
真壁の喉が詰まった。
エリオ・ノートは、ただ消されたのではない。
どこかへ移された。
別の名前に。
別の帳簿に。
「……消したんじゃない」
真壁は呟いた。
「繋ぎ替えた」
部屋が静かになった。
ララが静かに問う。
「どういうことだ」
「エリオ・ノートの名前を消したんじゃなくて、別の記録へ移した。だから墓籍にはない。出生記録にもない。軍籍にもない。でも、どこかに名前の痕跡が残ってる」
真壁は照合票を見つめる。
空白。
でも空白じゃない。
そこに、誰かがいた。
「これ、どこへ移したか分かりますか」
ミルドは木箱の横に置いていた小さな紙片を出した。
「それを調べるために、真壁殿をお呼びしました」
真壁は嫌な顔をした。
「やっぱり俺案件ですか」
「無理にとは申しません。条件に従い、ここで中断しても構いません」
その言い方は、ありがたかった。
真壁はララを見る。
ララは何も命じない。
ただ待っている。
自分で決める。
真壁は深く息を吐いた。
「……紙片だけ見ます。実物の認識票は見ません」
「承知しました」
ミルドは紙片を開いた。
そこには、古い記録術式の跡が写し取られていた。文字ではない。線だ。細い線が、別名照合欄からどこかへ伸びているような図。
真壁には、それが糸に見えた。
銀糸ではない。
記録の糸。
「……気持ち悪い」
真壁は言った。
「これは、どこへ繋がっているんですか」
ミルドは答えた。
「王都墓籍保管庫の地下、未整理墓籍庫です」
「地下」
真壁は目を閉じた。
また地下。
王都はどこまで地下に嫌なものを溜め込むのか。
「未整理墓籍庫とは」
ララが問う。
「身元不明者、戦時混乱記録、整理途中で照合不能となった名簿などを一時保管する場所です。現在はほとんど閉じています」
真壁はすぐ言った。
「封鎖済みとは言わなかった」
「ええ。閉じていますが、必要に応じて入ります」
「言葉が正確」
「ここでは、言葉を雑に扱うと名前が迷いますので」
ミルドの言葉は静かだった。
真壁は少しだけ、この老人を信用できる気がした。
「そこに、エリオ・ノートの別名がある?」
「可能性があります。ただし、問題があります」
「嫌な続き」
「未整理墓籍庫には、戦時中に“返されなかった名前”が集められています」
真壁の指先が冷たくなる。
「返されなかった名前」
「墓へ戻せなかった名前。家族へ返せなかった名。記録から外された名。誰にも引き取られなかった名」
ミルドは真壁を見た。
「そこは、真壁殿にとって非常に負荷が高い場所です」
はっきり言われた。
その方がいい。
真壁は苦笑した。
「でしょうね」
「今日行くべきではありません」
ミルドは言った。
真壁は驚いた。
「保管庫長さんが止めるんですか」
「はい」
「呼んだのに」
「今日は、エリオ・ノートの名が消されたのではなく移された可能性を確認できれば十分です。それ以上は条件に反します」
真壁はララを見る。
ララも頷いた。
「今日はここまでだ」
少し、安心した。
それと同時に、少しだけ引っかかる。
見たいわけではない。
行きたいわけでもない。
だが、エリオ・ノートの名前がどこへ繋ぎ替えられたのかは、知る必要がある。
ただ、今ではない。
その判断ができることが大事なのだろう。
「……はい。今日はここまでで」
真壁は言った。
「でも、一つだけ確認していいですか」
ミルドが頷く。
「どうぞ」
「未整理墓籍庫に、音はありますか」
ララが少しだけこちらを見る。
ミルドは目を細めた。
「音、ですか」
「はい。導音管とか、古い音を通す設備とか」
ミルドは少し沈黙した。
そして、静かに答えた。
「あります」
真壁の胃が沈む。
「古い弔鐘管です。かつては地下の名簿室から地上の慰霊鐘へ、記録完了を知らせるために使われていました」
「今は?」
「使っていません」
「使用停止記録は」
「あります」
真壁は顔をしかめた。
封鎖済みではないが、使用停止記録あり。
嫌な新種だった。
「その弔鐘管、王都底層の導音管と繋がってますか」
ミルドの表情が、初めて明確に変わった。
「……直接は繋がっていないはずです」
「はず」
「古い図面では、途中で塞がれています」
ララが低く言う。
「つまり、塞がれていなければ繋がる」
「……可能性はあります」
ミルドは認めた。
真壁は深く息を吐いた。
やっぱりだ。
王都の底で、全部の名前を聞いている。
それは比喩ではないのかもしれない。
アルゴ、あるいはアルゴに繋がる何かは、導音管と弔鐘管を使って、墓籍保管庫の地下にある名前を“聞いて”いる。
死者の名前を。
返されなかった名前を。
「……最悪ですね」
真壁は呟いた。
「はい」
ミルドは静かに答えた。
「最悪です」
その返事に、真壁は少しだけ救われた。
この老人は、最悪なものを最悪だと言う。
それだけでも、だいぶ違う。
◇
照合室を出ると、ヴォルフが廊下の壁にもたれて待っていた。
ちゃんと廊下にいる。
窓ではない。
「どうだった」
真壁は椅子に座りたい気分だった。
「名前が消されたんじゃなくて、移されてました」
ヴォルフの眉が動く。
「どこへ」
「未整理墓籍庫」
「ああ……」
ヴォルフが嫌そうな顔をした。
「知ってるんですか」
「噂だけな。戦時中、戻せねえ名前がそこへ溜まったって話は聞いた。誰も触りたがらねえ場所だ」
「でしょうね」
「行くのか」
「今日は行きません」
「偉いじゃん」
「条件です」
「もっと偉い」
ヴォルフは少しだけ笑った。
ララが言う。
「弔鐘管が導音管と繋がっている可能性がある」
ヴォルフの笑みが消えた。
「それ、かなりまずくねえか」
「ああ」
「アルゴが名前を聞いてるって話、ただの比喩じゃなくなるぞ」
「そうだ」
真壁は頭を押さえた。
「今日はそれ以上言わないでください」
「悪い」
ヴォルフはすぐに口を閉じた。
条件が効いている。
真壁は少しだけそれを実感した。
保管庫長も、ララも、ヴォルフも、今は止めてくれる。
見ないと決めたら、それを守ってくれる。
ありがたい。
だが、同時に少し怖い。
自分が見ない間にも、王都の底では何かが名前を聞いているかもしれない。
それでも、今日は見ない。
そう決めた。
「帰りましょう」
真壁は言った。
ララが頷く。
「ああ」
◇
墓籍保管庫から出ると、外の空気は少し冷たかった。
真壁は深く息を吸い、少しだけ咳き込んだ。
「大丈夫か」
ララが問う。
「中の空気が重かったです」
「負荷は」
「中くらいです。まだ水路ほどじゃない」
「なら、戻ったら医務官に診せる」
「はい」
素直に返事をした。
最近、医務官の診断はかなり信用している。休めと言われるのはありがたい。肉の正当性も補足資料に入れてくれる。信頼できる。
馬車へ向かおうとした時、保管庫の入口からミルドが出てきた。
「真壁殿」
「はい」
ミルドは一枚の小さな紙を差し出した。
ララがすぐ間に入る。
「内容は」
「本日の照合範囲外です。ですので、開かずにお渡しします。中身は、次回未整理墓籍庫へ入る際の注意事項です」
真壁は紙を見た。
封はされている。
表にこう書かれていた。
『次回確認用。真壁悠殿の条件に従い、事前開封不要』
真壁は少し驚いた。
また条件を守っている。
ララが受け取る。
「私が保管する」
「お願いいたします」
ミルドは真壁へ向き直った。
「真壁殿」
「はい」
「名前は、急いで返せばよいものではありません」
静かな声だった。
「戻る場所を誤れば、名前はまた迷います」
真壁は、その言葉をしばらく考えた。
名前を返す。
記録へ戻す。
だが、間違った場所へ戻せば、それもまた違う。
「……修理みたいですね」
真壁は呟いた。
ミルドは少しだけ微笑んだ。
「ええ。似ています」
「無理に戻すと壊れる」
「そうです」
「戻る場所を探す」
「はい」
真壁は小さく頷いた。
墓籍保管庫は嫌な場所だ。
重いし、名前が多すぎるし、地下にはもっと嫌な場所がある。
でも、ここにいる人たちは、少なくとも名前を材料とは見ていない。
それだけは分かった。
「次、来ます」
真壁は言った。
自分で言ってから少し驚いた。
行きたくはない。
だが、来ると言った。
「ただし、一度に三名までです」
「承知しております」
ミルドは深く頭を下げた。
◇
騎士団宿舎へ戻ると、医務官の診察を受けた。
結果は、軽度の負荷あり。追加閲覧禁止。十分な食事と休息。明日まで強い集中を避けること。
真壁は即座に同意した。
夕食には肉が三切れ出た。
「……増えてる」
真壁は感動した。
食事改善が正式に動き始めている。
条件は本当に強い。
肉を食べながら、真壁は今日見たものを思い返した。
エリオ・ノート。
消された名前。
いや、移された名前。
未整理墓籍庫。
弔鐘管。
導音管。
王都の底で聞かれる名前。
ガレウスが戻そうとしたかもしれない息子。
アルゴが壊れた中心。
全部は見ない。
でも、必要な線は見えた。
「……消すより嫌だな」
真壁は呟いた。
名前を消す。
それも嫌だ。
だが、名前を別の場所へ移し、戻る場所を奪うのは、もっと嫌かもしれない。
消されたなら、消された痕跡を探せる。
でも、繋ぎ替えられた名前は、間違った場所で生き続ける。
誰かのものではない名前として。
真壁は肉を噛みながら、眉をひそめた。
直せないものを直そうとする。
戻らないものを戻そうとする。
名を返すな。
全部、同じ場所へ向かっている気がする。
そして、次に見るべき場所は決まった。
未整理墓籍庫。
王都の底に近い、名前の溜まり場。
行きたくない。
だが、行く必要がある。
ただし、条件付きで。
一度に三名まで。
帰ったら肉。
ララ同席。
ヴォルフは廊下待機か必要時のみ。
セイルは呼ばない。
ガレウスは論外。
真壁は机の上の紙に、新しく一行を書き足した。
『未整理墓籍庫では、戻る場所が分からない名前を無理に読まない』
書いてから、少し考える。
そして、もう一行。
『名前を急がせない』
それは、ミルドの言葉から来たものだった。
名前は、急いで返せばよいものではない。
戻る場所を誤れば、名前はまた迷う。
「……大事だな」
真壁は小さく言った。
その時、扉が鳴った。
コン、コン。
「ララだ」
「どうぞ」
ララが入ってくる。
真壁の机の紙を見て、少しだけ目を細めた。
「追加条件か」
「はい」
紙を差し出す。
ララは読む。
「未整理墓籍庫では、戻る場所が分からない名前を無理に読まない。名前を急がせない」
ララは静かに頷いた。
「良い条件だ」
「ミルドさんの受け売りです」
「それでもいい」
ララは紙を丁寧に机へ戻した。
「次の確認は明後日以降にする。明日は休め」
「明日休みですか」
「ああ」
「神」
「騎士だ」
「肉三切れでした」
「食堂に伝えておいた」
「本当に神」
「騎士だ」
いつものやり取り。
その安心感の中で、真壁は寝台へ倒れた。
明日は休み。
明後日以降、未整理墓籍庫。
嫌な予定はある。
だが、間に休みがある。
線がある。
それだけで、少し違う。
ララが扉の前で立ち止まる。
「真壁」
「何ですか」
「今日はよく止めた」
「何をですか」
「読みすぎることを」
真壁は少し黙った。
それは、たぶん褒め言葉だった。
最近、戦うことより、止めることを褒められるようになってきた。
悪くない。
「……ありがとうございます」
「ああ。休め」
「はい」
ララが出ていく。
扉が閉まる。
真壁は天井を見る。
墓籍保管庫の棚が、頭に浮かびそうになる。
だが、そこで止める。
今日はもう見ない。
エリオ・ノート。
その名前だけが、静かに残る。
消されたのではなく、移された名前。
戻る場所を奪われた名前。
いつか返すべき名前。
でも、急がせてはいけない名前。
「……一度に三名まで」
真壁は小さく呟いた。
線を確認するように。
そして、その線の内側で目を閉じた。




