第51話
翌朝、真壁悠は窓辺の紐を見ながら、聞くべきか聞かないべきかを考えていた。
揺れているのは、小さな木片を結んだだけの細い紐だ。昨日と同じ場所にある。窓の金具から垂れ、風もないのに、ほんのわずかに揺れているように見える。実際には揺れていないのかもしれない。真壁の目が、揺れを探しているだけかもしれない。
昨日、未整理墓籍庫へ先に入ったララとミルドは、エリオ・ノートに繋がる可能性のある候補を三つ見つけた。
エル・ノーウェル。
リオン・ノートン。
そして、伏せられた第三候補。
名前ではないもの。
名称形式が不安定であるため、本日は非開示。
ララはそう言った。ミルドも同意した。ヴォルフも、その判断に文句を言わなかった。つまり、かなり嫌なものなのだろう。
真壁はそれを聞かないまま昨日を終えた。
偉かった。
自分でそう思う。
以前なら、気になって見てしまったかもしれない。見たくないと言いながら、結局視界に入ってしまい、引っ張られ、頭の奥まで嫌なものを入れてしまっていたかもしれない。
だが昨日は止まれた。
名前を急がせない。
戻る場所が分からない名前を無理に読まない。
自分で作った線が効いた。
問題は、今日だった。
伏せられたままにしておけるのか。
それとも、少しだけ聞くべきなのか。
「……嫌だなぁ」
真壁は呟いた。
嫌なら聞かなくていい。
その権利はある。
だが、聞かないままでいることもまた、ずっと気になるという意味では負荷になる。見ない権利と、知るべきことを選ぶ責任。その間に、自分で立たなければならない。
面倒だ。
非常に面倒だ。
四畳半にいた頃は、こんなことを考えなくてよかった。嫌なものは全部まとめて扉の外に置けばよかった。誰かの事情も、名前も、王都の底も、評議会も、全部知らないままでいられた。
だが今は違う。
知らないままでいれば、誰かが名前を勝手に移す。
誰かが消す。
誰かが資源と呼ぶ。
誰かが戻せると言う。
それを知ってしまった。
知ってしまった以上、完全には戻れない。
「……普通には戻れない、か」
セイルの言葉を思い出す。
腹立たしい。
だが、少しだけ意味が分かるようになっているのも腹立たしい。
真壁は紐を軽く弾いた。
ゆらり、と揺れる。
追わない。
戻る場所を見る。
いや、待つ。
――パツン。
指先が木片に触れる。
揺れが止まる。
木片は消えない。壊れない。少し震えて、また真下へ戻る。
「……戻る場所があるなら、止められる」
小さく言った。
では、戻る場所のない名前は。
戻る場所を奪われた名前は。
名前ではないものとして置かれたものは。
それをどう扱えばいいのか。
コン、と扉が一度だけ鳴った。
「朝食を置きます。返事は不要です」
若い騎士の声。
今日も完璧だった。
真壁は少し待ってから扉を開け、盆を回収した。肉三切れ。パン。スープ。卵料理。焼き菓子。今日も食事改善は続いている。世界にはまだ信じられる部分がある。
肉を食べる。
味は近い。
悪くない。
だから今日は、少しだけ聞けるかもしれない。
真壁はそう判断した。
◇
午前の小会議室には、ララ・バーン、ミルド・カーウェン、ヴォルフ、そして真壁がいた。
セイルはいない。
評議会関係者もいない。
真壁の条件通りだった。
机の上には水、焼き菓子、紙、そして短い紐がある。小会議室用に、また一時的に吊るされたものだ。精神安定用の私物設置権は、ついに持ち運び可能になりつつあった。
少し嫌な発展だが、実際に落ち着くので否定できない。
「今日の確認範囲を決める」
ララが言った。
「第三候補についてだが、名称そのものを見せるかどうかは、お前が決める」
真壁はすぐには答えなかった。
ミルドは机の上に一枚の封紙を置いている。封は閉じられており、表には何も書かれていない。中に、昨日伏せられた第三候補の記録があるのだろう。
紙一枚。
それだけなのに、妙に重い。
「まず、名称を見ないまま説明だけ聞くのはありですか」
「ありだ」
ララは即答した。
ミルドも頷く。
「可能です。むしろ、最初はそれをおすすめします」
「じゃあ、それで」
真壁は言った。
「今日は名前そのものは見ません。説明だけ。時間は十分。嫌な感じがしたら中断」
「承知しました」
ミルドが封紙から手を離す。
開けない。
それだけで、少し楽になる。
ヴォルフが腕を組んで、壁にもたれず椅子に座っていた。最近、彼もかなり条件に馴染んできている。
「で、その第三候補ってのは、名前じゃないんだよな」
「はい」
ミルドは静かに答える。
「未整理墓籍庫の中に、通常の姓名では分類されていない記録束があります。そこには、個人名ではなく、順番を示すような表記が置かれていました」
真壁は眉をひそめる。
「順番」
「ええ。正式な墓籍ではあり得ません。死者の名を番号や順番で置くことは、少なくとも墓籍保管庫では禁じられています」
「人を番号で呼ぶなってことですか」
「はい。名前を失った方にも、仮名を与える。身元不明であっても、発見地、特徴、日付などから、戻るための仮の名を作る。それが墓籍の決まりです」
真壁は少しだけ、この保管庫を信用できる気がした。
身元不明でも、ただの番号にしない。
戻るための仮の名を作る。
それは、名前を材料にする連中とは正反対の姿勢だった。
「でも、第三候補は違う」
「はい」
ミルドの声が低くなる。
「そこには、戻るための名ではなく、起点を示すような表記が置かれていました」
「起点」
嫌な言葉だ。
「名前じゃなくて、術式の中心みたいな扱いですか」
「近いと思います」
ミルドは頷いた。
「その記録束だけが、弔鐘管の振動記録と強く結びついています。昨日、ララ隊長が地下で確認された音も、おそらくそこへ向かっていました」
真壁は視線を紐へ移した。
追わない。
話の奥へ潜らない。
今は説明だけ。
「……つまり、アルゴさん、あるいは王都の底の何かが、その第三候補を欲しがってる」
「可能性が高い」
ララが答えた。
「名称はまだ聞かなくていい」
「はい。聞きません」
真壁は即答した。
聞かない。
今は、それでいい。
だが、聞かないままでも分かることはある。
「第三候補は、エリオ・ノート本人の別名じゃないかもしれませんね」
真壁は言った。
ララが目を細める。
「なぜそう思う」
「第一候補と第二候補は、エリオの移動先っぽいんです。守ろうとした名前と、隠そうとした名前。でも第三は違う。名前じゃなくて起点なら、それはエリオ本人というより、エリオを使って作った何か」
口にして、自分で嫌になった。
使った。
名前を。
人を。
だが、そう見える。
「エリオ・ノートを戻そうとした実験があって、その失敗か、中心か、残骸か。そういうものに、名前じゃない表記を置いた」
ミルドは静かに目を伏せた。
「我々の見解とも近いです」
「近いんだ……」
「はい」
ヴォルフが低く言う。
「つまり、エリオという人間の名前とは別に、実験の産物として置かれた“何か”があるってことか」
「たぶん」
真壁は答えた。
「だから、今それを名前として読んだら危ない気がします」
ララが頷く。
「名前でないものを、名前として返すわけにはいかない」
「はい」
昨日、ララが言った言葉だろう。
真壁はそれを聞いて少し安心した。
「じゃあ、今日の判断としては」
真壁は紙を引き寄せた。
そこへ書く。
『第三候補は、現時点では名前として読まない』
続けて。
『エリオ本人の戻る場所と、実験の起点を分ける』
書いてから、少しだけ手が震えた。
だが、書けた。
ララがそれを読む。
「良い」
「本当ですか」
「ああ。重要だ」
ミルドも頷いた。
「墓籍保管庫としても、その線は必要です。名簿上の扱いを改めます。第三候補を“エリオ・ノートの別名候補”から外し、“関連術式記録”として扱う」
真壁は少し息を吐いた。
「それだけで違うんですか」
「違います」
ミルドは静かに言った。
「名前として扱えば、戻す対象になります。術式記録として扱えば、解析対象になります。扱いを誤れば、名前を迷わせます」
「……大事ですね」
「はい」
名前の扱い。
分類の仕方。
どの棚へ置くか。
それだけで、意味が変わる。
真壁は、自分が評議会に管理対象とか資産とか分類されそうになったことを思い出した。分類は、ただの言葉ではない。置かれる場所を決めるものだ。置かれる場所を間違えれば、その先の扱いも間違う。
「……俺が資産じゃなくて任意協力者になったのと、似てますかね」
真壁が呟くと、ララが静かに頷いた。
「似ている」
「分類って怖いですね」
「ああ」
ヴォルフが肩をすくめる。
「だから偉い連中は分類したがる。扱いやすくなるからな」
「墓籍でも、政治でも同じですか」
「違うようで似てる」
真壁は机の紙を見る。
第三候補は、名前として読まない。
エリオ本人の戻る場所と、実験の起点を分ける。
それは今日の成果だった。
名称そのものを聞かなくても、必要な線は引けた。
「……今日はここまででいいですか」
真壁が言うと、ララは即座に頷いた。
「いい」
ミルドも封紙へ手を触れずに言う。
「十分です」
ヴォルフが少し笑った。
「聞かずに進んだな」
「はい」
真壁は少しだけ驚いていた。
そうだ。
聞かなくても進めた。
全部を見ることだけが進むことではない。
見ないと決めることで、逆に整理できることもある。
それは、かなり大きな発見だった。
◇
会議は十分で終わった。
条件通りだった。
医務官の診断では、負荷は軽度。追加閲覧なしなら問題なし。午後は休息推奨。食事改善継続。紐使用可。
真壁は自室に戻り、昼食を食べた。
肉は二切れだった。
昼だから仕方ない。
午後、真壁は窓辺の紐を見ながら、紙に今日のまとめを書いていた。
『見ないことで分けられるものもある』
書いてから、少し考える。
これは大事だ。
真壁の力は、見えることにあると思われている。ズレを見る。壊れ方を見る。戻る場所を見る。だから評議会も、セイルも、アルゴも、真壁に見せようとする。
だが今日、真壁は見なかった。
伏せられた第三候補の名称を聞かなかった。
それでも、名前と術式記録を分けられた。
見ないことで、逆に危険な分類を避けられた。
「……なんか、ちょっと賢くなった気がする」
呟いた。
たぶん気のせいではない。
考え方が少し変わってきている。
以前は、見えたものに反応していた。危ないから止める。気持ち悪いから触れる。ズレているから直す。全部、反応だった。
今は、見る前に決める。
見ないことも選ぶ。
分類を変える。
これは、かなり違う。
コン、コン。
扉が鳴った。
「セイル・グランツです。廊下越しに一件、確認してもよろしいでしょうか」
真壁は少し身構えた。
部屋にはララがいない。
条件では、監査局関係者との単独接触は禁止だ。廊下越しでも、ララ不在なら微妙である。
「ララさん不在なので駄目です」
真壁は即答した。
少し間があった。
「承知しました。では、伝言をララ隊長へ回します」
「お願いします」
「失礼しました」
足音が遠ざかる。
真壁はしばらく扉を見ていた。
「……断れた」
すごい。
以前なら、扉越しだからいいか、と聞いてしまったかもしれない。だが、条件に照らして断れた。
セイルも引いた。
条件が効いている。
真壁は紙にもう一行書いた。
『条件にない接触は断る』
当たり前のようで、真壁にとってはかなり大きかった。
◇
その頃、評議会棟では、ガレウス・ノートが一枚の報告書を読んでいた。
報告書の表題は、『墓籍保管庫における照合不能名確認について』。
内容は簡潔だった。
真壁悠は本日、第三候補の名称閲覧を行わず。第一候補エル・ノーウェル、第二候補リオン・ノートンについてのみ確認。第三候補は関連術式記録として一時分類変更。未整理墓籍庫内の弔鐘管に異常振動あり。真壁悠への追加負荷を避けるため、詳細説明は延期。
ガレウスは、最後の一文で指を止めた。
追加負荷を避けるため。
その文言が、気に入らなかった。
「随分と丁重に扱う」
老人の声は低かった。
向かいにはセイル・グランツが立っていた。いつもの灰色の長衣。黒手袋。姿勢は整っている。ただ、以前よりもわずかに沈黙が増えた。言葉を選んでいるようにも、選ばない言葉を決めているようにも見えた。
「真壁悠は過負荷状態から回復途中です」
「知っている」
「ならば、妥当な判断です」
「彼は王都共鳴術式を停止させた。未整理墓籍庫の一件も、彼の目で見れば早い」
「早ければよいものではありません」
セイルは静かに言った。
ガレウスの目が細くなる。
「君まで騎士団の理想論に染まったか」
「いいえ。観測結果です」
「便利な言葉だな」
「事実です。真壁悠は、強制的に深く見せると反発します。あるいは壊れます。どちらにせよ、我々が得たい結果から遠ざかる」
「得たい結果」
ガレウスは報告書を机に置いた。
「君の得たい結果は何だ、セイル」
セイルはすぐには答えなかった。
その沈黙に、ガレウスは不快そうに眉を動かす。
「以前の君なら即答した」
「以前の私なら、アルゴの停止と答えたでしょう」
「今は違うのか」
「今も、アルゴを止める必要はある」
「ならば同じだ」
「いいえ」
セイルは首を横へ振った。
「止め方を誤れば、次のアルゴを作ります」
部屋の空気が少しだけ硬くなった。
ガレウスはゆっくりと立ち上がる。
「君は誰の話をしている」
「真壁悠です。あるいは、私自身です。あるいは、あなたがかつて作った全ての者です」
「口が過ぎる」
「観測官ですので」
セイルの声は静かだった。
しかし、その静けさの奥には、以前とは違う固さがあった。
「第三候補の名称開示を急がせるべきではありません」
「なぜだ」
「名称形式が不安定です。墓籍上の名前として扱えば、誤った帰属が発生する可能性がある」
「墓籍保管庫の老人の受け売りか」
「正しい意見です」
「名前は記録だ。記録は使うためにある」
ガレウスは低く言った。
その瞬間、セイルの指がわずかに動いた。
黒手袋の中で、手が握られる。
「名前は、使うためだけのものではありません」
「誰の言葉だ」
「真壁悠の影響かもしれません」
「くだらん」
「そうかもしれません」
セイルは認めた。
「しかし、くだらないものを切り捨て続けた結果、アルゴは生まれた。私は、同じ観測結果を二度見る気はありません」
ガレウスはセイルを見据えた。
「君も線を引くつもりか」
「はい」
「誰に教わった」
「面倒な無職に」
セイルは淡々と言った。
ガレウスの顔が、わずかに歪んだ。
「君が冗談を言うとはな」
「冗談ではありません」
「なら、なお悪い」
セイルは机の上に、一枚の紙を置いた。
「監査局内の観測制限規定です。試案ですが、私はこれに従います」
ガレウスは紙を見下ろした。
見る対象を事前に定める。
観測結果を即時分類しない。
人間を資源と呼ばない。
見たくないものを誰かに代わりに見せない。
老人は鼻で笑った。
「弱くなったな、セイル」
「そうかもしれません」
「観測官が見ることを恐れてどうする」
「恐れずに見た者の末路を、私は知っています」
セイルの返答に、ガレウスは沈黙した。
アルゴ。
その名前を、二人とも口にはしなかった。
だが、部屋の中央に置かれたように重かった。
「第三候補の名称開示は、真壁悠本人が見ると決めるまで待ちます」
セイルは言った。
「監査局も、現時点では開示請求を出しません」
「私が出すと言ったら」
「騎士団の任意協力者保護規定に抵触します。加えて、墓籍保管庫は独立管理権限を持つ。強制開示には評議会本会議の承認が必要です」
「手続きを盾にするか」
「あなた方に教わりました」
セイルは静かに頭を下げた。
「失礼します」
部屋を出る。
扉が閉まる直前、ガレウスの声が飛んだ。
「セイル」
セイルは振り返る。
「君は、あの無職に何を見ている」
セイルは少しだけ考えた。
「分類から外れる方法です」
そう答えて、扉を閉じた。
廊下へ出たセイルは、ほんの短く息を吐いた。
見ない権利。
休む権利。
線を引くこと。
それは、思っていたよりも疲れる。
だが、不思議と、何も見えないわけではなかった。
むしろ、今まで見えなかったものが少し見えた。
ガレウスが恐れているもの。
第零名。
エリオ・ノート。
そして、名前ではないものを名前として戻してしまう危険。
セイルは廊下の窓から、遠くの墓籍保管庫を見た。
「急がせない、ですか」
小さく呟く。
真壁悠なら嫌そうな顔をして言うだろう。
それ、結構大事だと思います。
セイルは、少しだけ口元を緩めた。
そして、初めて自分の意思で、報告書の提出を一日遅らせることにした。
◇
夕方、ララが戻ってきた時、真壁はセイルの接触を断ったことを報告した。
「セイルさん来ましたけど、ララさん不在だったので断りました」
「よく断った」
ララは即座に言った。
褒められた。
真壁は少しだけ照れた。
「伝言はララさんへ回すって」
「受け取っている。内容は、セイル自身の条件書についてだった」
「え」
「彼は、監査局内で自分用の観測制限規定を作成しているらしい」
真壁は目を瞬かせた。
「本当に書いたんですか」
「ああ」
「すごいな、セイルさん」
「お前の影響だろう」
「嫌なような、悪くないような」
ララは少しだけ笑った。
「伝言では、彼の規定の中に“観測結果を即時分類しない”という項目があるそうだ」
「それ、いいですね」
「それと、“人間を資源と呼ばない”」
真壁は黙った。
セイルがそれを書いた。
ガレウスの言葉に対して。
いや、自分自身にも向けて。
「……よかったです」
小さく言った。
ララは頷く。
「少しずつ変わっている」
「セイルさんも?」
「お前もだ」
「俺もですか」
「ああ」
ララは机の紙を見る。
そこには、今日追加した言葉が並んでいる。
第三候補は名前として読まない。
エリオ本人の戻る場所と実験の起点を分ける。
見ないことで分けられるものもある。
条件にない接触は断る。
「だいぶ増えたな」
「はい」
「負担か」
「少し。でも、ない方が負担です」
「ならいい」
ララは紙袋を机に置いた。
「食堂からだ」
「焼き菓子?」
「ああ」
「神」
「食堂だ」
二人で焼き菓子を分けた。
しばらく静かな時間が流れる。
その静けさの中で、真壁はふと聞いた。
「ララさんの条件書、進んでます?」
ララは焼き菓子を置く。
「少し」
「聞いてもいいですか」
「一つだけなら」
「お願いします」
ララは少し考え、それから言った。
「真壁の感覚を真似る時は、必ず自分の剣術へ戻す」
「剣術へ戻す?」
「ああ。お前の見方をそのまま持とうとしない。私は剣士だ。だから、最後は剣の間合い、足運び、呼吸へ戻す。そうしなければ、私自身の中心がずれる」
真壁は聞いて、かなり納得した。
「戻る場所ですね」
「そうだ」
「ララさんの紐は剣なんですね」
「おそらく」
「かっこいいな」
「お前の紐も悪くない」
「本当ですか」
「ああ」
真壁は少しだけ笑った。
ララは剣へ戻る。
真壁は紐へ戻る。
セイルは、まだ何へ戻るのか分からないが、条件書を書き始めた。
それぞれの戻る場所。
それがあれば、見すぎずに済むのかもしれない。
◇
夜。
真壁は寝る前に、窓辺の紐を一度だけ揺らした。
ゆらり。
木片が揺れる。
今日は少しだけ、揺れが穏やかに見えた。
――パツン。
止める。
戻る。
真壁は机の紙を見た。
エリオ・ノート。
エル・ノーウェル。
リオン・ノートン。
第三候補は、まだ名前として読まない。
今はそれでいい。
焦らない。
急がせない。
名前ではないものを、無理に名前にしない。
その判断ができたことは、真壁にとって大きかった。
布団に入る。
目を閉じる。
今日は、伏せられた第三候補の夢を見るかもしれないと思った。
だが、夢の中に出てきたのは、数字でも記号でもなく、一本の線だった。
細く、頼りない線。
けれど、勝手に踏み越えてはいけない線。
その線の向こうに、誰かの名前がある。
真壁は夢の中で、その線の前に座った。
急がない。
名前を急がせない。
そう思うと、線の向こうの気配は少しだけ静かになった。
翌朝になれば、また嫌なことはあるだろう。
未整理墓籍庫へ入る日は近い。
ガレウスも、アルゴも、王都の底も消えていない。
それでも今日は、見ないことで一つ進めた。
それで十分だった。
真壁は、線の手前で眠った。




