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第46話


 翌朝、真壁悠の部屋の扉には、紙が一枚貼られていた。


 真壁本人が貼ったわけではない。ララ・バーンが貼った。文字もララのものだ。真壁の字より遥かに整っており、読みやすく、そして妙に圧があった。


『休息中。緊急時を除き入室・接触禁止。用件は騎士団第三隊長ララ・バーン、または指定代理騎士を通すこと』


 その下に、小さく追記がある。


『窓からの侵入も禁止』


 真壁は寝台に座ったまま、その紙を見ていた。


 正確には、扉越しなので見えない。だが、貼られた時に見た。ララが真顔でそれを扉に貼り、ヴォルフが窓枠で露骨に不満そうな顔をし、真壁が「文明が一歩進んだ」と呟いたところまで覚えている。


 今朝、目が覚めても、誰も扉を叩かなかった。


 窓も開かなかった。


 扉の下から金属片も滑り込んでこなかった。


 評議会の封筒も来ていない。


 静かだった。


 あまりにも静かで、真壁は逆に落ち着かなかった。


「……効いてる」


 小さく呟く。


 条件が。


 線が。


 昨日書いた、拙い自分の取扱説明書のようなもの。見ない権利、休む権利、報酬、肉、信頼できる騎士の同席、セイルと二人きり禁止、ガレウスと二人きり絶対禁止、嫌な予感がしたら即中断、見たくないものは見ない、私的空間への無断侵入禁止。


 それらが、今、扉一枚を挟んで機能している。


 不思議だった。


 四畳半の部屋に閉じこもっていた頃、真壁にとっての境界線は扉そのものだった。開けない。返事をしない。布団をかぶる。外を遮断する。それが唯一の方法だった。


 だが、今は違う。


 扉の向こうには人がいる。


 騎士団がいる。


 ララがいる。


 ヴォルフも、たぶん近くのどこかにはいる。


 セイルも評議会もアルゴも王都の底も消えたわけではない。


 それでも、今この瞬間、真壁の部屋は守られている。


 閉じこもっているのに、前とは違う。


「……変な感じだな」


 真壁は寝台から降りた。


 机の上には朝食がある。今日は自分で取りに行ったわけではない。扉の前に置かれ、ノック一回だけで伝えられた。ララではなく、指定代理の若い騎士だった。彼は扉越しに「朝食を置きます。返事は不要です」と言い、本当にそれだけで去っていった。


 優秀すぎる。


 真壁は感動した。


 盆の上には、パン、スープ、肉二切れ、卵料理、そして小さな焼き菓子があった。肉は安定して二切れ。これはもう条件に入れてよかったかもしれない。いや、入れたのだ。まだ正式文書になる前なのに、すでに効いている気がする。


「肉は重要」


 真壁は一人で頷き、食べた。


 味が近い。


 昨日よりさらに近い。


 頭痛は少し残っている。体も重い。だが、王都共鳴術式を止めた直後のような、頭の中が水路になる感覚は薄れていた。医務官の言いつけ通り、強い刺激と長時間の集中を避けているからだろう。


 つまり、休むことには効果がある。


 当たり前だ。


 当たり前のことなのに、王都の偉い人間たちは、その当たり前をすぐ忘れる。


 真壁はスープを飲みながら、少しだけ顔をしかめた。


 今日は見ない。


 そう決めている。


 しかし、考えることまで完全に止めるのは難しい。


 王都の底。


 アルゴ。


 バルドが言った言葉。


『旦那は下で待っている。王都の底で、全部の名前を聞いている』


 全部の名前。


 嫌な言葉だった。


 名前を聞く。


 名前を拾う。


 認識票。


 地下の失敗作。


 王都の下側に溜まったもの。


 考えるな。


 真壁はパンを口に詰めた。


「……今日は見ない」


 もう一度言う。


 その時、扉が一度だけ鳴った。


 コン。


 続けて、廊下から声。


「ララ・バーンだ。入っていいか」


 真壁は少しだけ笑った。


 ちゃんと聞いた。


 それだけで、線が守られている気がした。


「はい」


 扉が開く。


 ララは軽装だったが、手には書類の束を持っていた。嫌な予感がする。だが、ララの表情を見る限り、今すぐ現場へ連れて行くものではなさそうだった。


「体調は」


「昨日よりいいです。頭の中が水路じゃなくなりました」


「それは良い兆候だな」


「医務官にもその言い方で報告していいですか」


「困らせるな」


 ララは机の向かいに座った。


 書類を置く。


 真壁はそれを見て、少し身構える。


「今日は見ません」


「分かっている」


「書類もあんまり見ません」


「読ませるためではない」


「じゃあ何ですか」


「条件書の草案だ」


 真壁は目を瞬かせた。


 ララは束の一番上を真壁の方へ滑らせる。ただし、近づけすぎない。読めと言うより、存在を確認させるだけの距離。


「お前が昨日書いた内容を、騎士団の正式文書に直した。まだ評議会へ提出する前だ。確認は必要だが、今日は全部読まなくていい」


「どんな感じになったんですか」


「簡単に言うと、真壁悠は王都騎士団の任意協力者であり、協力は本人意思に基づく。王都危機への協力要請は可能。ただし、協力可否の判断権は本人にある。医務官、指定騎士、または本人が過負荷と判断した場合は即時中断可能」


「俺が判断してもいいんですか」


「ああ」


「すごい」


「必要だ」


 ララは次の項目を指で示す。


「現場同行には、原則として指定騎士の同席が必要。指定騎士は私、または私が認めた騎士。監査局、評議会、軍務局関係者との単独面談は禁止」


「ガレウスさんと絶対二人きり禁止、入りました?」


「表現は変えたが入っている」


「神」


「騎士だ」


「セイルさんも?」


「監査局所属者との単独接触禁止に含めた」


「いいですね。広くて」


「加えて、私的空間への無断立ち入り、窓からの侵入、扉下への無断資料投函も禁止にした」


「扉下への資料投函」


 真壁は思わず笑いそうになった。


 最近の被害傾向が正式文書に反映されている。


 非常に大事だ。


「ヴォルフさん、泣きますね」


「泣かないだろう」


「文句は言うと思います」


「言わせておけ」


 ララはさらに続ける。


「報酬については、通常協力、危険現場協力、王都規模危機対応で段階を分けた。食事改善と休養日の保証も含める」


「肉は?」


「食事改善に含まれる」


「具体的に肉って書いてないんですか」


「評議会へ提出する文書だ」


「そうでした」


 真壁は少し残念そうにした。


 だが、食事改善と書かれているなら十分だ。正式文書に肉と書かれるのも、それはそれで恥ずかしい。


「かなりちゃんとしてますね」


「お前の条件が基礎だ」


「俺の紙、かなり雑でしたけど」


「内容は重要だった」


 ララは真壁を見る。


「特に、見ない権利と即時中断権。この二つは必ず通す」


「通らなかったら?」


「提出しない」


「強い」


「条件を削られて提出すれば、意味がない」


 真壁は黙った。


 ララが、真壁以上に真壁の条件を守ろうとしている。


 それがありがたく、少しだけ申し訳なかった。


「ララさん、大変じゃないですか」


「大変だ」


 即答だった。


 真壁は苦笑する。


「そこは否定しないんですね」


「嘘はよくない」


「またそれ」


「だが、必要な大変さだ」


 ララは静かに言う。


「お前が条件を書いたことで、こちらも戦えるようになった。昨日までは、評議会が勝手にお前を定義しようとしていた。今は違う。こちらから条件を出せる」


 真壁は草案を見る。


 自分が書いた拙い線が、こうして文書になり、誰かと戦うための形になっている。


 それは不思議な実感だった。


「……線って、武器になるんですね」


「防具でもある」


 ララが答える。


「線を引くとは、そこから先へ勝手に入るなということだ」


「四畳半の扉とは違うんですね」


「違う」


「閉じこもるためじゃなくて」


「外に出るためだ」


 その言葉に、真壁は少しだけ胸を突かれた。


 外に出るための線。


 昨日、自分でも似たことを考えた。


 だが、ララの言葉になると、妙に形がはっきりする。


「俺、外に出たいんですかね」


 思わず言った。


 ララは少し考えた。


「出たいというより、出ざるを得なくなったのだろう」


「現実的」


「ただ、出ざるを得ないなら、壊れない出方を探すべきだ」


「……なるほど」


 真壁は小さく頷いた。


 逃げ場としての四畳半。


 境界線としての条件。


 全然違うようで、どこか繋がっている。


 自分の領域を守ること。


 ただ、それを世界から完全に切り離すのではなく、外と繋がるために使う。


「難しいですね」


「ああ」


「でも、ちょっと分かります」


「それでいい」


 その時、廊下から足音が近づいてきた。


 扉の前で止まる。


 ララの表情がわずかに硬くなった。


 真壁も反射的に肩をすくめる。


「誰だ」


 ララが扉越しに問う。


「セイル・グランツです。指定騎士同席のもと、廊下越しに報告を許可いただけますか」


 真壁はララを見る。


 ララは真壁へ確認するように視線を向けた。


 真壁は少し考える。


 今日は見ない。


 だが、報告を完全に拒否すると、後で不意打ちになるかもしれない。


 廊下越し。


 ララ同席。


 短時間。


 条件内だ。


「……短くなら」


 真壁が言う。


 ララが頷き、扉へ向く。


「入室は不可。報告のみ、三分以内」


「承知しました」


 扉の向こうのセイルは、文句を言わなかった。


 学習している。


 それが妙に分かる。


「バルド・イェーガーの拘束聴取から、いくつか判明しました」


 セイルの声は扉越しで少しくぐもっている。


 真壁は机に肘をつき、深く拾わないように意識した。


 言葉だけ聞く。


 中身へ潜りすぎない。


「彼は、アルゴ本人と直接接触していない可能性が高い」


 ララが問う。


「どういうことだ」


「彼が“旦那”と呼ぶ存在は、声だけです。王都底層の旧導音管を通じ、指示を受けていた」


「導音管」


 真壁は嫌な顔をした。


 また管だ。


 この王都は管が多すぎる。


「旧王都時代の音響伝達設備です。現在は封鎖済み――」


「はい一位」


 真壁が反射的に言う。


 扉の向こうでセイルが一瞬止まる。


「……現在は使用停止記録のある設備です」


「言い換えた」


「学習しています」


 ララが淡々と問う。


「それで、アルゴはそこにいるのか」


「不明です。ただし、バルドは“王都の底で全部の名前を聞いている”と繰り返しています。底層導音管は、南区だけでなく、旧収容所地下、中央旧水路、評議会棟地下、そして王都墓籍保管庫へ繋がっています」


 墓籍保管庫。


 真壁は、思わず顔を上げた。


 名前。


 全部の名前。


 墓籍。


 死者の記録。


 繋がってしまう。


「真壁」


 ララの声。


 真壁は息を止め、すぐ頷いた。


「拾いません」


 ララは少しだけ安心したように頷く。


 セイルは続けた。


「今日中に動く必要はありません。むしろ動かない方がいい。真壁さんの条件に従い、情報だけ共有します」


「それだけですか」


 真壁が聞く。


「もう一つ。ガレウス顧問が、真壁さんの条件書に対して異議を出す準備をしています」


「早い」


「はい。特に“見ない権利”と“単独接触禁止”に反発するでしょう」


「でしょうね」


 真壁はため息を吐く。


 ガレウスが嫌がるところは、たぶん正しい。


 つまり、見ない権利と単独接触禁止は絶対に守った方がいい。


「分かりました。条件は削りません」


 真壁は言った。


 ララが少しだけこちらを見る。


 セイルも扉の向こうで沈黙した。


「……あなたが、そう言うのですね」


「はい」


 真壁は紙を見た。


「俺の条件なので」


 言ってから、少し恥ずかしくなる。


 だが、撤回はしない。


「承知しました」


 セイルの声は少しだけ柔らかかった。


「以上です。三分以内に収まったと思います」


 真壁は思わず言った。


「そこ守るんだ」


「条件ですから」


 足音が遠ざかる。


 ララは扉を開けず、しばらく待った。


 完全に足音が消えてから、真壁へ向き直る。


「どうだ」


「意外と疲れませんでした」


「条件が効いたな」


「はい」


 真壁は少し驚いていた。


 セイルの報告は嫌な内容だった。


 王都の底。


 導音管。


 墓籍保管庫。


 十分に最悪だ。


 だが、扉越しで、時間制限があって、ララがいて、自分で聞くと決めたからか、頭の奥まで引きずられる感じが少なかった。


 条件は、本当に効く。


「……これ、すごいですね」


「何がだ」


「ちゃんと線を引くと、同じ嫌な情報でも、少し耐えられる」


 ララは静かに頷いた。


「そうだ」


「知らなかった」


「これから覚えればいい」


 真壁は机の紙を見た。


 今日一日で、条件の意味が少しずつ実感になっていく。


 扉。


 時間。


 同席。


 見ない権利。


 全部、ただのわがままではない。


 自分が壊れずに関わるための仕組みだ。


   ◇


 午後、真壁は騎士団宿舎の小会議室にいた。


 無理やり連れてこられたわけではない。


 自分で行くと決めた。


 条件書の最終確認のためだ。ただし、見る範囲は決めてある。本文を全部読むのではなく、ララが読み上げる。真壁は違和感があった項目だけ止める。時間は二十分。医務官の許可済み。窓は閉める。ヴォルフは扉から入る。


 最後の条件が守られるかが不安だったが、ヴォルフは本当に扉から入った。


「見ろよ、俺の成長」


「扉から入るだけで成長扱いされるの、どうなんですか」


「褒めろよ」


「偉い」


「雑」


 ヴォルフは不満そうだったが、少し嬉しそうでもあった。


 小会議室には、ララ、真壁、ヴォルフ、医務官、そして騎士団の書記官がいた。セイルはいない。評議会関係者もいない。真壁の条件書を作る会議なので、まず内側で整えるためだ。


 ララが読み上げる。


「第一項。真壁悠は王都騎士団の任意協力者であり、協力は本人の自由意思に基づく」


「大丈夫です」


「第二項。王都評議会、監査局、騎士団、その他公的機関は、真壁悠に対し協力要請を行うことができる。ただし、真壁悠は体調、危険性、精神負荷、情報不足、その他正当な理由により拒否できる」


「その他正当な理由って便利ですね」


「広く取った」


「いいと思います」


「第三項。真壁悠本人、指定騎士、または医務官が過負荷、危険、精神的限界を認めた場合、作業または現場対応を即時中断できる」


 真壁は頷く。


「そこ大事です」


 医務官も頷く。


「非常に大事です」


 ララは続ける。


「第四項。真壁悠への接触は、原則として騎士団指定窓口を通す。監査局、評議会、軍務局関係者との単独接触は禁止する」


「はい」


「第五項。私的空間への無断立ち入り、窓等からの侵入、扉下その他の隙間からの無断資料投函、術式糸・金属片・封書等による無断接触を禁止する」


 ヴォルフが小さく唸る。


「俺とアルゴと評議会を同じ項目に入れるなよ」


「同じ“無断接触”だ」


 ララが即答する。


 真壁も頷く。


「同じです」


「ひでえ」


「扉を使えばいいだけです」


「それはまあ……そうか」


 ヴォルフは少し納得した。


 ララはさらに読み上げる。


「第六項。真壁悠が異常構造、術式痕跡、精神的負荷を伴う記録等を確認する際は、見る範囲、時間、目的を事前に定める。必要以上の情報開示は禁止する」


「それも大事です」


「第七項。報酬は危険度と規模に応じて段階的に支払う。王都規模危機対応については特別報酬とし、食事改善、休養日、医療措置を含む」


「食事改善」


 真壁は満足した。


 ヴォルフが笑う。


「肉は?」


「書いてないです」


「書けよ」


「評議会文書なので」


 医務官が真面目に言った。


「食事改善の補足資料に、タンパク質の増量は入れられます」


 真壁は医務官を見た。


「神」


「医務官です」


 この返しも定着してきた。


 ララが最後の項目を読む。


「第八項。真壁悠の協力によって得られた情報、判断、感覚的報告は、本人の同意なく人格評価、危険度分類、資産評価、拘束判断に使用してはならない」


 真壁は少し止まった。


「それ、何ですか」


「私が追加した」


 ララが言う。


「お前が見たものを、お前自身を縛る材料にされないためだ」


 真壁は言葉に詰まる。


 危険度分類。


 資産評価。


 拘束判断。


 まさに評議会や監査局がやりそうなことだった。


「……ありがとうございます」


「必要なことだ」


「でも、そこまで考えてなかったです」


「だから私が考えた」


 ララは静かに言った。


「お前一人で線を引く必要はない」


 その言葉で、真壁は少しだけ胸が詰まった。


 一人で線を引かなくていい。


 誰かと一緒に、自分を守る線を作ってもいい。


 それも、初めて知る感覚だった。


 四畳半の扉は、自分一人で閉めるしかなかった。


 だが今は、扉に貼る紙をララが書いてくれる。ヴォルフも文句を言いながら扉を使う。医務官が休息の根拠を出す。書記官が条件を文書にする。


 自分の境界線を、他人が壊すのではなく、一緒に支えている。


「……これ、かなりいいです」


 真壁は小さく言った。


 ララは頷く。


「では、この内容で提出する」


「お願いします」


 その時、書記官が控えめに手を上げた。


「一つ確認ですが、この条件書の名称はいかがいたしましょう」


「名称?」


 真壁は嫌な予感がした。


 ララも少し考える。


「任意協力者保護規定案、でいいだろう」


 真壁はほっとした。


 まともだ。


 だが、ヴォルフが口を挟んだ。


「ヒモ流協力条件」


「却下」


 真壁とララが同時に言った。


 ヴォルフは笑った。


「息ぴったりじゃん」


「やめてください」


「やめろ」


 また同時だった。


 書記官が必死に笑いをこらえている。


 真壁は少しだけ恥ずかしくなったが、悪い気はしなかった。


   ◇


 その日の夕方、条件書は騎士団正式文書として評議会へ送られた。


 真壁本人は提出の場には行かなかった。


 条件通り、休息中だったからだ。


 部屋に戻り、寝台に腰を下ろす。机の上には夕食がある。肉二切れ。スープ。パン。今日は少し大きめの焼き菓子もある。食事改善がもう始まっているのかもしれない。ありがたい。


 扉には、朝と同じ紙。


 窓は閉まっている。


 廊下は静か。


 真壁は夕食を食べながら、今日一日を思い返した。


 見なかった。


 全部は見なかった。


 セイルの報告も、扉越しに聞いた。


 王都の底の話も、深く拾わなかった。


 条件書は見たが、時間を決めて、範囲を決めて、ララたちと一緒に確認した。


 できた。


 自分を守りながら、少しだけ関われた。


「……成長してしまった」


 真壁は少し嫌そうに呟いた。


 成長は労働に繋がる。


 それは怖い。


 だが、今回の成長は、働くためというより、働かされすぎないためのものだ。なら悪くない。たぶん。


 食事を終え、真壁は椅子にもたれた。


 その時、扉が鳴った。


 コン、コン。


 真壁は身構える。


「誰ですか」


「ララだ」


「どうぞ」


 ララが入ってくる。


 手には封書があった。


 真壁は即座に嫌な顔をした。


「もう返事ですか」


「いや、これは評議会ではない」


「じゃあ誰ですか」


 ララは封書を見せた。


 封蝋には、騎士団でも評議会でもない印がある。


 古い王都の紋章に似ているが、少し違う。


「王都墓籍保管庫からだ」


 真壁の手が止まった。


 墓籍保管庫。


 さっき聞いたばかりの名前。


 王都の底で全部の名前を聞いている。


「……今日は見ないって」


「分かっている。開けるのは明日以降でいい」


「そうなんですか」


「ああ」


 ララは封書を机に置かず、自分で持ったまま言った。


「ただ、届いた事実だけ伝える。条件通り、情報のみだ」


 真壁は少しだけ息を吐いた。


 ちゃんと守られている。


 それだけで、怖さが少し違う。


「差出人は?」


「墓籍保管庫長。内容は未確認。ただ、表にこうある」


 ララは封書の表を読む。


「『収容所跡より回収された認識票について、照合不能名あり。真壁悠殿およびララ・バーン隊長の確認を求む』」


 真壁は目を閉じた。


 認識票。


 照合不能名。


 また名前だ。


 やはり、王都の底と墓籍保管庫は繋がっている。


 だが、今日は見ない。


「……明日で」


「分かった」


 ララは封書を懐へしまった。


 本当に置いていかない。


 真壁は少しだけ驚いた。


「置いていかないんですか」


「今日のお前の部屋には置かない」


「徹底してる」


「条件だからな」


 真壁は小さく笑った。


「条件、すごいですね」


「ああ」


「明日、見ます」


「無理のない範囲で」


「はい」


 ララは扉へ向かう。


 出る前に、少しだけ振り返った。


「真壁」


「何ですか」


「今日はよく線を守った」


 その言葉に、真壁は一瞬返事に困った。


 褒められたのだと分かるまで、少し時間がかかった。


「……ありがとうございます」


「ああ」


 ララは出ていった。


 扉が閉まる。


 静けさが戻る。


 真壁は寝台へ横になった。


 明日、また名前を見ることになる。


 王都の底へ続く何かを、少しずつ読むことになる。


 怖い。


 嫌だ。


 だが、今日みたいに線を引けるなら、少しは違うかもしれない。


 全部を見ない。


 全部を背負わない。


 自分で見ると決めたものだけを見る。


 それでも、見たものをなかったことにはしない。


「……難しいな」


 呟く。


 だが、眠気は来ていた。


 今日はちゃんと休んだ。


 条件を守った。


 守られた。


 その実感が、真壁の身体を少しだけ軽くしていた。


 扉の外には紙が貼ってある。


 窓は閉まっている。


 誰も入ってこない。


 それは、四畳半とは違う静けさだった。


 閉じこもる静けさではなく。


 明日また外へ出るために、線を引いた静けさだった。

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