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第45話


 翌朝、真壁悠は珍しく、誰かに起こされる前に目を覚ました。


 石造りの天井が見える。四畳半ではない。黄ばんだ蛍光灯も、天井から垂れ下がる紐もない。代わりに、騎士団宿舎の簡素な天井と、窓から差し込む朝の光がある。


 体は重かった。


 昨日、王都南区で水路災害を止めた。正確には、王都共鳴術式と呼ばれるものを止めたらしい。真壁本人としては、街全体を止めたなどと言われても実感がない。ただ、橋の上で膝をつき、頭が割れそうになりながら、壊れ方の一点へ拳を置いた記憶だけが残っている。


 ――パツン。


 あの音。


 二十年間、四畳半で聞いていた音と同じはずなのに、今ではもう同じものに思えなかった。


 紐を止める音だった。


 埃を消す音だった。


 剣を砕く音だった。


 水流をずらす音だった。


 王都全体の共鳴を止めた音だった。


「……音の出世がすごいな」


 真壁は寝台の上で呟いた。


 できれば、最初の紐だけで終わってほしかった。


 身体を起こそうとすると、頭の奥が鈍く痛んだ。激痛ではない。だが、深く考えると奥からじわじわ広がってくる種類の痛みだった。医務官の言葉を思い出す。強い刺激と長時間の集中を避けること。つまり、今日は何も見るなということだ。


 素晴らしい診断だった。


「今日は見ない」


 真壁は自分に言い聞かせた。


「絶対見ない。水路も見ない。政治も見ない。アルゴさんも見ない。セイルさんも見ない。ガレウスさんとか論外」


 口に出してみると、かなり情けない宣言だった。


 だが、重要だ。


 見る範囲を決める。


 見ない範囲を決める。


 それが自分を守ることだと、ララもヴォルフも言っていた。真壁自身も、昨日ようやく少し分かった。見えるからといって全部拾っていたら、本当に頭が壊れる。


 コン、コン。


 扉が鳴った。


 真壁は布団を掴んだ。


「今日は見ません」


 扉の向こうで、少しだけ間があった。


「入るぞ」


 ララ・バーンの声だった。


「ララさんは見ます」


「何の話だ」


「今日見るものと見ないものの分類です」


「起きてすぐそれか」


 扉が開く。


 ララは盆を持っていた。朝食だ。パン、スープ、肉二切れ、それから昨日より少し小さめの焼き菓子。真壁はそれを見て、寝台の上で少しだけ背筋を伸ばした。


「神」


「騎士だ」


「焼き菓子は神」


「食堂へ伝えておく」


 ララは盆を机へ置いた。


 今日は鎧ではない。軽装だ。剣はあるが、外套は薄い。少なくとも今すぐ現場へ連れて行く格好ではない。真壁はそれを見て、少しだけ安心した。


「今日は現場ないですよね」


「ない」


「本当ですね?」


「ああ」


「評議会とかも」


「お前は出ない」


「お前は」


「私は少し行く」


 真壁は肉へ伸ばしかけた手を止めた。


「休めないんですか」


「昨日の評議会の後始末がある」


「後始末多すぎません?」


「同感だ」


 ララは向かいに座った。表情はいつも通り落ち着いているが、疲れが残っている。目の下にうっすら影がある。昨日、評議会で真壁を任意協力者として通し、その後も報告書で戦っていたとヴォルフから聞いた。おそらく、あまり寝ていない。


 真壁は焼き菓子を見た。


 少し迷って、それを半分に割った。


「どうぞ」


 ララが目を瞬かせる。


「お前の分だ」


「今日は食べた方がいいです」


「なぜ」


「ララさんが疲れてるからです」


 言ってから、真壁は気まずくなった。


 以前なら、こういうことを言うだけでかなり抵抗があった。今も得意ではない。だが、ララが疲れていることは見れば分かる。いや、今日は見ないと決めたはずだったが、これは見るというより、普通に分かる。


 ララは少し黙ったあと、焼き菓子を受け取った。


「もらう」


「はい」


「ありがとう」


「……はい」


 妙に照れくさい空気になったので、真壁は肉を食べた。


 うまい。


 昨日より、味が近い。


 食べられるということは、まだ大丈夫ということだ。最近の真壁は、体調を食事の味で測るようになっていた。肉が遠い時は危ない。肉がうまい時は、まだいける。


 ララも焼き菓子を少し食べた。


 その姿を見て、真壁は少し安心した。


「評議会、どうなったんですか」


 真壁はスープを飲みながら聞いた。


「大枠では、昨日ヴォルフが伝えた通りだ。お前は王都評議会の管理対象ではなく、騎士団預かりの任意協力者という扱いになった」


「騎士団預かり」


「正確には、騎士団が安全確保と連絡窓口を担う。お前の協力は本人意思に基づく。報酬、休息、安全配慮、拒否権を明記する」


「すごいちゃんとしてる」


「必要だからな」


「面倒な協力者より立派ですね」


「その表現は議場では使えなかった」


「使われたら困ります」


 真壁は少しだけ笑った。


 だが、ララの表情はすぐに真剣なものへ戻る。


「ただし、条件もついた」


「嫌な単語」


「評議会は、王都規模の危機において真壁悠へ協力要請を出す権利を持つ」


「要請なら断れるんですよね」


「断れる」


「本当に?」


「ああ。だが、断った場合、その理由を文書で残す必要がある」


 真壁は顔をしかめた。


「面倒くさい」


「そこは譲歩させられなかった」


「いや、拒否権あるだけで十分すごいと思います」


 実際、そうだった。


 真壁はこの世界で何の地位もない。異界から突然来た、魔力なし、スキルなし、職業無職の男だ。そんな人間に対して、王都評議会が正式に拒否権を認めた。それは、たぶんララがかなり無理をした結果だ。


「ありがとうございます」


 真壁は小さく言った。


 ララは静かに頷いた。


「必要なことをしただけだ」


「ララさん、それよく言いますけど、俺は助かってます」


「そうか」


「はい」


 短い沈黙。


 悪くない沈黙だった。


 ただ、その後でララが少しだけ視線を落とした。


「もう一つある」


「まだあるんですか」


「ああ。評議会は、お前の協力条件を明文化した文書を求めている」


「協力条件」


「どのような場合に見るのか。どのような場合に拒否するのか。現場同行の条件。報酬。休息。情報制限。接触制限。それらをこちらから提示する」


 真壁はしばらく黙った。


 そして、かなり嫌そうに言った。


「俺が?」


「お前が決めるべきだ」


「俺が自分の取扱説明書を書くんですか」


「近い」


「嫌すぎる」


 だが、同時に分かってしまう。


 自分で決めなければ、誰かが勝手に決める。


 王都防衛資産。


 危険人物。


 管理対象。


 観測対象。


 そういう言葉で分類されるくらいなら、自分で条件を出した方がいい。


 面倒な協力者。


 任意協力者。


 なら、その任意の部分を守るために、条件が必要だ。


「……書類、苦手なんですけど」


「私が形にする」


「神」


「騎士だ」


「ララさん、今日それ多いですね」


「お前が言うからだ」


「確かに」


 真壁はパンをちぎった。


 頭は痛い。


 だが、少しずつ考える。


 自分が協力する条件。


 見る条件。


 見ない条件。


 それを決める。


 それは、昨日までの真壁なら考えもしなかったことだ。自分の意思が正式な条件になるなんて、前世の四畳半では想像もできなかった。


 いや、想像しても面倒だからやめていただろう。


「今日、考えるんですか」


「無理のない範囲で」


「その言葉、最近だいぶ信用してます」


「ならよかった」


 ララは立ち上がった。


「私は一度、評議会へ行く。昼過ぎに戻る。それまで休め」


「はい」


「見ないこと」


「はい」


「扉の下から何か入ってきても、触るな」


「もうそれ日常注意なんですか」


「念のためだ」


「嫌な念のため」


 ララは少しだけ笑い、部屋を出た。


 真壁は残った朝食を見つめる。


 肉はもう食べた。


 スープも飲んだ。


 焼き菓子半分も食べた。


 身体はまだ重いが、昨日よりは動く。


「……協力の条件」


 呟く。


 言葉にすると、重かった。


   ◇


 昼前、真壁は机に紙を広げていた。


 広げているだけだった。


 書いてはいない。


 羽ペンもインクも用意してある。ララが置いていった。だが、真壁はそれを前にして、ずっと固まっていた。


「無理だろ……」


 自分の条件を書く。


 そんなことをした経験がない。


 前世で契約書を読むこともほとんどなかった。ネットスーパーの規約ですら読まなかった男だ。働いていなかったから雇用契約もない。人間関係の条件など決めたこともない。嫌なら黙って部屋に閉じこもる。それが真壁のやり方だった。


 だが、今はそうもいかない。


 閉じこもる部屋はある。騎士団宿舎の自室だ。だが、扉の下から金属片や評議会の手紙が滑り込んでくる世界で、閉じこもるだけでは足りない。


「……まず、見ない権利」


 真壁は小さく言った。


 紙に書こうとして、手が止まる。


 字を書くのも面倒だ。


 だが、書く。


 たどたどしく、この世界の文字で。


『見ない権利』


 自分で書いた文字を見て、少しだけ妙な気分になる。


 見ない権利。


 大事だ。


 見えるからといって、全部見なければならないわけではない。


 次。


『休む権利』


 これも大事だ。


 むしろ最重要だ。


『報酬』


 これも当然だ。


 真壁は少し考え、書き足した。


『肉』


 しばらく見つめる。


「……これは違うか?」


 いや、違わない。


 食事は重要だ。特に肉は精神安定に関わる。


 真壁は真剣に考えた。


 報酬には金銭だけでなく食事改善を含む。これは条件として妥当ではないか。少なくとも、真壁にとってはかなり妥当だ。


 さらに書く。


『ララさんの同席』


 手が止まる。


 これは条件として書いていいのか。


 ララに負担をかけることになる。


 だが、ララなしで評議会や監査局と話すのは無理だ。セイル一人でも嫌なのに、ガレウスなど論外である。真壁は紙を見ながら唸った。


「……同席、可能な限り」


 書き直す。


『信頼できる騎士の同席』


 これなら少し広い。ララが無理な時は、別の騎士でもいい。いや、よくはないが、最低限。


 次。


『セイルさんと二人きり禁止』


 これは即書けた。


 さらに、


『ガレウスさんと二人きり絶対禁止』


 絶対をつけた。


 真壁は満足した。


 その時、窓の外から声がした。


「何書いてんだ」


 真壁は紙を裏返した。


「うわっ! 見るな!」


 ヴォルフが窓枠に座っていた。


 いつも通りだった。


 今日も窓からだった。


「プライバシーです」


「お前の部屋に窓から来る俺が言うのも何だけど、今さらじゃね?」


「本当に今さらですね。でも見るな」


「見ねえよ」


 ヴォルフはひらりと室内へ入る。


「調子は?」


「頭が水路じゃなくなってきました」


「いいのか悪いのか分かんねえな」


「昨日よりはいいです」


「ならよかった」


 真壁は紙を隠したままヴォルフを見る。


「ヴォルフさんは何しに来たんですか」


「様子見。あと、南区の件を少し」


「今日は見ません」


「見ろとは言わねえ」


 ヴォルフの声は、いつもより少し真面目だった。


「バルドが言ってた。アルゴの旦那は、王都の下を見ろって」


「下」


「地下水路、低地、収容所、古い基盤。全部、下だ」


「嫌な共通点ですね」


「ああ。で、上は評議会だ」


 真壁は椅子にもたれた。


「上と下」


「そうだ。アルゴはたぶん、王都を上下で見てる。上は隠す。下は溜める。溜まったものが腐って、いつか噴き出す」


「……また分かりたくないけど分かる話」


「だろ」


 ヴォルフは机の端へ腰を預ける。


「でも、バルドは違う。あいつは噴き出させたいだけだ。下から全部壊せばいいと思ってる」


「アルゴさんとは違うんですか」


「違うな。アルゴはもっと面倒だ。壊すにしても、“見せる”ために壊す。バルドは力任せだ」


「面倒な敵が増えた」


「増えたな」


 真壁はため息を吐いた。


「で、それを俺に言いに来たんですか」


「半分」


「残り半分は?」


「お前の条件、ちゃんと書いとけって言いに来た」


 真壁は紙をさらに隠した。


「見てないって言ったじゃないですか」


「見てねえよ。でもララから聞いた」


「ララさん……」


「任意協力者ってのは、条件が命綱だ。曖昧にすると、評議会に便利に使われる」


「分かってます」


「本当に?」


「……たぶん」


 ヴォルフは真壁を見た。


「じゃあ一つ入れとけ」


「何ですか」


「“嫌な予感がしたら即中断”」


 真壁は瞬いた。


「それ、通ります?」


「通せ。お前の嫌な予感、当たるんだから」


「雑な信頼」


「雑じゃねえよ。昨日の水路だってそうだ。お前が嫌だと思った場所は、大体何かある」


 真壁は紙を見る。


 嫌な予感がしたら即中断。


 確かに大事だ。


 自分の違和感は、言語化できないことが多い。まだ説明できないのに、気持ち悪い。そういう時、周囲に説明するため待っていたら遅れる。だから、即中断の権利が必要だ。


「……書きます」


 真壁は紙へ書いた。


『嫌な予感がしたら即中断』


 ヴォルフが頷く。


「あと、“見たくないものは見ない”」


「それは最初に書きました」


「いいじゃん」


「見ない権利」


「それだ」


 ヴォルフは少しだけ笑った。


「大事だぜ、それ。見える奴ほど、見ない権利を忘れる」


「ヴォルフさんも?」


「俺は見えすぎるほどじゃねえ。でも、聞こえることはある」


「聞こえる?」


「戦場の音とかな」


 ヴォルフは窓の外を見る。


「誰が死ぬ足音か。誰が逃げる呼吸か。誰が嘘ついてる声か。そういうの、嫌でも覚える」


 真壁は何も言えなかった。


 ヴォルフも、見ていないわけではない。


 ただ、真壁とは違う形で拾ってきたのだ。


「……ヴォルフさんも条件書いた方がいいのでは」


「俺は書類嫌い」


「俺もです」


「でもお前は書け。今後のためだ」


「理不尽」


「世の中そんなもんだ」


 その時、扉が鳴った。


 コン、コン。


 真壁は紙を押さえたまま言う。


「誰ですか」


「セイル・グランツです」


 真壁とヴォルフの顔が同時に嫌そうになった。


「帰ってください」


 真壁は即答した。


 扉の向こうで少し沈黙。


「用件だけでも」


「ララさん不在なので駄目です。条件に書きました」


 ヴォルフが笑いをこらえた。


 扉の向こうのセイルが、少しだけ困ったように言う。


「すでに条件に?」


「はい。セイルさんと二人きり禁止です」


「なるほど。妥当ですね」


「妥当なんだ」


「では、廊下越しに伝えます。私は入室しません」


 真壁はヴォルフを見る。


 ヴォルフは頷いた。


「廊下越しならいいんじゃねえか」


「じゃあ、短くお願いします」


 セイルは扉の向こうから言った。


「南区水路の黒杭を解析しました。バルド・イェーガー単独では作れません」


「でしょうね」


「黒杭には、アルゴの銀糸とは別に、評議会旧軍務局の刻印がありました」


 真壁は目を細めた。


「ガレウスさん?」


「可能性が高い。ただし、直接証拠はまだありません」


「嫌な流れ」


「もう一つ。バルドは先ほど意識を取り戻し、同じ言葉を繰り返しています」


「何て?」


 少し間があった。


「“旦那は下で待っている。王都の底で、全部の名前を聞いている”」


 部屋の空気が重くなった。


 真壁は机の紙を見下ろす。


 今日は見ない。


 そう決めている。


 だから、深く考えない。


 考え始めると、王都の底が見えそうになる。


「……今日は見ません」


 真壁は言った。


 扉の向こうのセイルは、静かに答えた。


「はい。そのために、今は情報のみ渡しました。判断は後日で構いません」


「成長しました?」


「学習しています」


「観測官が学習してる……」


 ヴォルフが小さく笑った。


 真壁は続ける。


「その情報、ララさんにも渡してください」


「すでに伝令を出しました」


「じゃあ、俺は休みます」


「承知しました」


 足音が遠ざかる。


 扉は開かなかった。


 セイルは、本当に入ってこなかった。


 真壁は少しだけ驚いた。


「……守った」


「条件、効いたな」


 ヴォルフが言う。


「まだ正式文書じゃないのに」


「言ったもん勝ちの時もある」


 真壁は紙を見る。


 自分が書いた条件。


 見ない権利。


 休む権利。


 報酬。


 肉。


 信頼できる騎士の同席。


 セイルと二人きり禁止。


 ガレウスと二人きり絶対禁止。


 嫌な予感がしたら即中断。


 見たくないものは見ない。


 拙い。


 かなり拙い。


 だが、今、セイルを部屋へ入れずに済んだ。


 条件が、自分を守った。


 その実感が少しだけあった。


   ◇


 夕方、ララが戻ってきた。


 かなり疲れた顔をしていた。


 真壁はすぐに焼き菓子の残り半分を差し出した。


「どうぞ」


 ララは何も聞かずに受け取った。


「助かる」


「疲れてますね」


「評議会は疲れる」


「でしょうね」


 ララは椅子に座り、真壁が書いた紙を受け取った。


 真壁は少し緊張した。


 自分で書いた条件を誰かに読まれるのは、妙に恥ずかしい。小説を読まれるより恥ずかしい気がする。いや、小説は書いていないが。


 ララは一つずつ目を通した。


 そして、肉の項目で少し止まった。


「肉」


「重要です」


「そうだな」


「否定しないんだ」


「食事は重要だ」


 ララは真面目に頷いた。


 真壁は少し嬉しくなった。


 ララはさらに読み進める。


「セイルと二人きり禁止。ガレウスと二人きり絶対禁止」


「絶対です」


「分かる」


「分かるんだ」


「ああ」


 ララは最後まで読んだあと、紙を丁寧に机へ置いた。


「いい条件だ」


「本当ですか」


「ああ。かなりお前らしい」


「それ、書類として大丈夫ですか」


「文面は整える」


「お願いします」


「だが、内容は変えない」


 真壁は少しだけ息を吐いた。


「よかった」


「これに加えて、医務官の診断を条件に入れる。連続稼働時間、休息義務、観測後の隔離休養、情報遮断時間」


「どんどん本格的に」


「必要だ」


 ララは静かに言った。


「お前は、自分が思っている以上に負荷を受けている。昨日のような王都規模の干渉は、二度続ければ危険だ」


「二度は嫌です」


「一度でも嫌だっただろう」


「はい」


「なら、条件にする」


 真壁は頷いた。


 自分の限界を条件にする。


 それは、弱さを認めることでもある。


 だが、たぶん必要だ。


 弱さを隠して便利に使われるくらいなら、最初から弱いと書いておく方がいい。


「……ララさん」


「何だ」


「俺、弱いって書いてもいいんですかね」


「いい」


 即答だった。


「弱い部分を書かない条件書は、危険だ」


「なるほど」


「騎士の装備点検と同じだ。どこが脆いか分かっていれば守れる。分からなければ壊れる」


 真壁は少し黙った。


 分かりやすかった。


「俺の脆いところ、書くんですね」


「ああ」


「多いですよ」


「知っている」


「そこは否定して」


「嘘はよくない」


「正直」


 真壁は少し笑った。


 ララも少しだけ笑った。


 その時、窓の外からヴォルフが顔を出した。


「条件に“窓からの侵入禁止”は入れないのか?」


 真壁は即座に言った。


「入れます」


「え」


 ヴォルフが固まる。


「いや、冗談だろ」


「入れます。プライバシーは大事です」


「俺、結構役に立ってるだろ」


「扉から来ればいいじゃないですか」


「それは俺の流儀が」


「知りません」


 ララが紙へ項目を追加する。


「私的空間への無断侵入禁止」


「騎士さん!?」


「妥当だ」


 ヴォルフは心底嫌そうな顔をした。


 真壁は少しだけ勝った気がした。


「条件ってすごいですね」


「今気づいたか」


 ララが言う。


「はい。条件、強い」


「使い方を覚えろ」


「はい」


 そう言ってから、真壁はふと黙った。


 条件。


 境界線。


 自分を守る線。


 見ない権利。


 休む権利。


 無断で踏み込まれない権利。


 それは、四畳半に閉じこもることとは違う。


 外に出たまま、自分の内側を守る方法なのかもしれない。


 まだよく分からない。


 だが、少なくとも今日、扉の向こうのセイルを止められた。ヴォルフの窓侵入も、たぶん少しは減る。たぶん。


「……俺、部屋から出ても、線引いていいんですね」


 真壁は小さく言った。


 ララが静かに頷く。


「ああ」


「逃げるんじゃなくて」


「守るための線だ」


 その言葉は、胸に残った。


 四畳半は逃げ場だった。


 でも、今必要なのは、逃げ場だけではない。


 外で生きるための境界線。


 協力するための条件。


 見ないための権利。


 真壁は机の紙を見下ろした。


 拙い文字の羅列。


 だが、それは確かに、自分を守るための最初の線だった。


「……じゃあ、条件その一」


 真壁は言った。


「今日はもう寝る」


 ララが頷く。


「承認する」


 ヴォルフが窓枠で笑う。


「任意協力者様は偉いな」


「無断侵入禁止、正式化しますよ」


「もうしてるだろ」


 真壁は少しだけ笑い、寝台へ向かった。


 王都の底。


 アルゴ。


 黒杭。


 ガレウス。


 まだ見なければならないものは山ほどある。


 だが、今日は見ない。


 それを自分で決めた。


 そのことが、少しだけ真壁を眠りへ近づけた。


 外では、復旧作業の鐘が遠く鳴っている。


 けれど今夜、その音は少し遠かった。


 真壁は初めて、扉の外の世界と自分の眠りの間に、薄い線を引けた気がした。

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