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第44話


 王都南区の水は、すぐには引かなかった。


 王都共鳴術式は止まった。黒杭は砕け、地面の震えも収まり、王都全域へ響いていた不気味な鐘の音も消えた。だが、だからといって溢れた水が都合よく元の場所へ戻るわけではない。


 石畳の上には泥水が残り、荷車は横転し、倉庫の扉は壊れ、木箱や樽が通りの端へ押し流されていた。水路沿いの低い家屋では、住人たちが濡れた家具を引きずり出し、商人が商品を確認し、騎士たちが負傷者を運んでいる。泣き声。怒鳴り声。咳き込む声。泥を踏む音。水が階段を伝って落ちる音。


 真壁悠は、その全部を橋の上で聞いていた。


 正確には、聞こえてしまっていた。


 頭が重い。視界の端がじわじわ暗い。胸の奥に、まだ共鳴の残りがある。王都全体を一瞬だけ見たせいだ。水路、地下導線、橋脚、地盤、黒杭、共鳴点。それらが頭の中でまだ繋がったまま、切れた糸のように揺れている。


「……気持ち悪い」


 呟くと、隣にいたララ・バーンが即座に振り向いた。


「吐きそうか」


「吐くほどではないです。でも、頭の中が水路です」


「分かりづらいが、よくない状態なのは分かった」


「俺もよく分かってないです」


 真壁は橋の欄干に手をつこうとして、やめた。濡れている。水路の泥が跳ねている。触りたくない。代わりに膝へ手を置き、浅く息を吐く。


 ララはすぐ近くに立っている。剣は収めているが、警戒は解いていない。彼女の視線は南区全体を見ていた。水の流れ。避難路。倒壊しかけた橋。捕縛されたバルド・イェーガー。騎士たちの配置。そして、真壁の状態。


 真壁はそれが分かってしまい、少しだけ情けない顔になった。


「俺、見張られてます?」


「守っている」


「その言い方、最近ありがたいです」


「なら使う」


 短い返事。


 それだけで、少し呼吸が戻った。


 橋の向こうでは、バルドが騎士たちに拘束されていた。右腕の黒杭は砕け、腕全体がひどく焼けたように変色している。普通なら痛みに叫んでいそうなものだが、男はまだ笑っていた。さっきまでの狂気じみた高笑いではない。何かを見てしまった後の、力の抜けた笑いだった。


「……はは。すげぇな、無職」


「その呼び方やめてください」


 真壁は力なく言い返した。


「働きたくねぇ奴が、王都止めるとかよ……旦那が聞いたら、絶対笑うぜ」


「聞かせなくていいです」


「もう聞いてるかもな」


 その言葉に、真壁の背筋が冷えた。


 アルゴ。


 今この瞬間も、どこかで見ているのか。


 銀糸を通じて。黒杭を通じて。水路の残響を通じて。あるいは、もっと別の方法で。


 真壁は思わず周囲を見そうになった。


 その瞬間、ララの声が落ちる。


「真壁。拾うな」


「……はい」


 短く答える。


 見ない。


 全部は見ない。


 アルゴがどこで見ているかを探し始めたら、たぶん引っ張られる。セイルが言った“見すぎると戻れなくなる”という言葉が、今なら少し分かる。見ようと思えば、いくらでも見えてしまう。だからこそ、見ない範囲を決めなければならない。


 真壁はバルドから目を逸らした。


 だが、その背後でセイル・グランツが近づいてくるのは分かった。


 セイルは泥水を踏んでも、足音が少ない。濡れた石畳の上でも、姿勢が崩れない。黒手袋の指先には、先ほど砕けた黒杭の破片が布越しに包まれている。


「バルド・イェーガーは監査局へ引き渡します」


 セイルが言った。


 ララの目が鋭くなる。


「騎士団で拘束する」


「彼は旧術式工兵であり、評議会監査局の追跡対象です」


「今回の現場で民間被害を出した。王都騎士団にも拘束権がある」


「承知しています。では共同拘束としましょう」


「言い方が便利だな」


 ララの声は冷たい。


 セイルは否定しなかった。


 真壁は二人のやり取りを聞きながら、少しだけ顔をしかめた。セイルが味方なのか敵なのか、まだ分からない。アルゴを止めたいと言った。嘘も認めた。ガレウスへ反論もした。だが、やはりこの男は評議会の人間だ。


 便利な言葉を使う。


 分類する。


 利用する。


 ただ、前より少しだけ見え方が変わった。


 セイルは全部を冷たく処理しているわけではない。そうしなければ自分が壊れるから、そういう形に整えているのかもしれない。そんなふうにも見える。


 見えるのが嫌だった。


「真壁さん」


 セイルがこちらを見る。


「体調は」


「悪いです」


「意識混濁は」


「質問が医療っぽくて嫌です」


「視界の揺れ、耳鳴り、手指の震えは」


「全部ちょっとあります」


 セイルの目が細くなる。


「王都規模の共鳴点に触れた反動でしょう。すぐに休ませるべきです」


「珍しくまともなこと言いますね」


「私は概ねまともなことを言っています」


「自覚がないタイプだ」


 ララが真壁の肩へ手を置いた。


「宿舎へ戻る」


「はい。全力で賛成です」


 その時だった。


 遠く、中央区の方から、重い鐘が鳴った。


 警鐘ではない。


 評議会招集鐘。


 セイルの表情が硬くなる。ララも顔を上げる。南区で動いていた騎士たちの一部も、思わず中央区の方角を見た。


 真壁は嫌な予感しかなかった。


「……何ですか、あの鐘」


「王都評議会の緊急招集です」


 セイルが答える。


「今じゃないと駄目なんですか」


「彼らにとっては、今だからでしょう」


「嫌な言い方」


「今回の災害で、王都基盤術式への攻撃が証明されました。加えて、真壁さんが王都共鳴を停止させた事実も、多数の騎士と市民が目撃しています」


「目撃しないでほしかった」


「無理です」


「ですよね」


 セイルは続ける。


「評議会は、あなたを個人としてではなく、王都防衛資産として扱う方向へ動く可能性が高い」


 真壁は数秒固まった。


「……資産」


 低い声が出た。


 自分でも分かるくらい嫌な声だった。


 セイルはすぐに言い直す。


「失礼。彼らの言葉です」


「セイルさんの言葉でもありますよね」


「以前の私なら、そう言ったかもしれません」


「今は?」


「今は、言うべきではなかったと判断します」


「感情じゃなくて判断なんですね」


「感情の扱いは不得手です」


「でしょうね」


 真壁は頭を押さえた。


 王都防衛資産。


 管理権。


 危険な目。


 分類。


 またそれだ。


 街を守ったはずなのに、今度は自分が囲われそうになっている。


「……帰りたい」


 心底言った。


 ララは静かに答える。


「帰るぞ」


「本当ですか」


「ああ。宿舎へだが」


「それでもいいです。今はかなりいいです」


 ララはセイルへ視線を向ける。


「真壁は治療と休息が必要だ。評議会への出席は拒否する」


「正式召喚が出れば拒否は難しくなります」


「まだ出ていない」


「今は、ですね」


 セイルの言葉に、ララの目が鋭くなった。


 真壁は二人の間へ半歩だけ入った。


「セイルさん」


「はい」


「俺、今は見ません」


 セイルが少しだけ目を見開く。


「……はい」


「南区の後始末は騎士団と監査局でやってください。バルドさんのことも、水路のことも、黒杭のことも。俺は今、これ以上見たらたぶん駄目です」


 言ってから、真壁は自分で少し驚いた。


 ちゃんと言えた。


 見ない、と。


 逃げたいからだけではない。


 自分を守るために。


 ララが隣でわずかに頷く。


 セイルは数秒黙り、それから深く頷いた。


「承知しました。真壁悠さんは現時点で観測限界。以後の現場確認から外します」


「観測限界って言い方は嫌ですけど、意味は合ってます」


「では、休息対象」


「病人っぽい」


「保護対象」


「評議会っぽい」


「……休む人」


「それでいいです」


 セイルは少しだけ困った顔をした。


 真壁はそれを見て、ほんの少しだけ勝った気がした。


   ◇


 騎士団宿舎へ戻る馬車の中で、真壁はほとんど喋らなかった。


 ララが隣に座り、向かいには騎士が一人いる。セイルは南区に残った。ヴォルフの姿は見えない。だが、たぶんどこかで見ている。そんな気がした。


 馬車の揺れが、頭に響く。


 王都共鳴術式を止めた時の感覚がまだ残っている。あれは、今までのどの“パツン”とも違った。紐でも、剣でも、針でも、橋でもない。街全体のズレだった。


 ほんの一瞬、真壁は王都そのものを相手にした。


 その事実が、遅れて怖くなる。


「……ララさん」


「何だ」


「俺、何したんですかね」


 ララはすぐには答えなかった。


 馬車の外で、水に濡れた街の音がする。復旧作業の声。遠くの警鐘。馬の足音。


「王都共鳴術式を止めた」


「それはセイルさんも言ってました」


「ああ」


「それ、普通の人がやることじゃないですよね」


「普通ではない」


「ですよね」


 真壁は窓の外を見る。


 自分が普通ではないことは、もう否定しづらい。少なくとも、この世界の基準では。いや、前世でも二十年紐を打ち続けていた時点で普通ではなかったのかもしれない。


 ただ、それを誰かに利用されるのは違う。


 分類されるのも違う。


「俺、やっぱり管理されたくないです」


「させない」


 即答だった。


 真壁はララを見る。


「ララさん、即答する時は本当に早いですね」


「迷う必要がない」


「騎士団命令とか、評議会命令とか来ても?」


「戦う」


「物理で?」


「必要なら」


「怖い」


「だが、まずは手続きで戦う」


「そっちも怖い」


 ララは少しだけ目を伏せた。


「私は剣の方が得意だ。だが、今回ばかりは剣だけでは駄目だ」


「ですね」


「評議会は、真壁を管理対象にしようとする。危険だから、必要だから、王都のためだから、という言葉で」


「全部嫌です」


「だから、別の言葉が必要だ」


「別の言葉?」


「お前が何者なのか。評議会に分類される前に、こちらで定義しなければならない」


 真壁は嫌な顔をした。


「定義って言葉も結構嫌です」


「だろうな」


「でも、必要なんですね」


「ああ」


 真壁は考える。


 自分は何者なのか。


 無職。


 異界人。


 ヒモボクシングの人。


 危険人物。


 観測対象。


 王都防衛資産。


 どれも嫌だ。


 でも、全部を拒否しているだけでは、別の誰かが勝手に決める。


 それも嫌だった。


「……面倒な協力者」


「何?」


「俺の分類」


 真壁はぼそりと言った。


「王都防衛資産とか危険人物じゃなくて、面倒な協力者」


 ララは数秒だけ真壁を見た。


 そして、少しだけ笑った。


「悪くない」


「悪くないんだ」


「少なくとも、道具ではない」


「そこ大事です」


「自由意志があり、報酬交渉を行い、必要に応じて協力する者」


「急に書類っぽくなった」


「書類にするなら必要だ」


「本当に書類にするんですか」


「する」


 真壁は頭を抱えた。


「俺の“面倒な協力者”が正式文書になるんですか」


「表現は調整する」


「そこはお願いします」


 だが、少しだけ気が楽になった。


 名前を先に決める。


 分類される前に、自分で言う。


 それは案外、大事なのかもしれない。


   ◇


 騎士団宿舎へ戻ると、真壁はそのまま医務室へ連れて行かれた。


 全力で拒否した。


「寝たいです」


「診察が先だ」


「医務室苦手なんです」


「なぜ」


「何かされそうだから」


「診察される」


「ほら」


 ララは容赦なく真壁を椅子へ座らせた。


 医務官は慣れた様子で脈を取り、目の動きを確認し、手の震えを見た。魔術的な検査も少し行われた。真壁はそれだけで肩をすくめていた。


「過負荷ですね」


 医務官が言った。


「でしょうね」


 真壁は弱々しく答える。


「魔力疲労ではありません。精神負荷と神経反応の過剰使用に近い。しばらく強い刺激と長時間の集中を避けてください」


「じゃあ評議会行かなくていいですね」


「行かない方がいいです」


「神」


「医務官です」


 真壁は少しだけ元気になった。


 ララがその横で真顔で頷く。


「診断書を出せるか」


「出します」


「評議会召喚への拒否理由に使う」


「正当です」


 医務官がきっぱり言った。


 真壁は医務官を見た。


「あなた、かなり信頼できますね」


「休まない患者は嫌いです」


「休みます」


「なら信頼します」


 こうして、真壁は正式に“休む人”になった。


 医務室を出る頃には、廊下にヴォルフが立っていた。


「お、休む人」


「もう広まってるんですか」


「俺が今決めた」


「広めないでください」


 ヴォルフは笑う。


 だが、すぐに表情を少しだけ真面目にした。


「バルドは拘束された。監査局と騎士団の共同管理だとよ」


「共同って便利ですね」


「便利な言葉は信用するな」


「最近そればっかり」


 ララが問う。


「何か喋ったか」


「アルゴの旦那がどうとか、王都は下から崩れるとか、似たようなことを繰り返してる。まともな聴取は難しそうだ」


「そうか」


 ヴォルフは真壁を見る。


「それより、お前の方が厄介だ」


「何がですか」


「評議会が緊急招集で、お前の管理権を議題に上げた」


 真壁は目を閉じた。


「早すぎません?」


「早い。多分、ガレウスが動いた」


「ですよね」


 ララの顔が険しくなる。


「診断書を出す。真壁は出席不能だ」


「向こうは代理出席を求めるだろうな」


「私が出る」


 ララの声に迷いはなかった。


「騎士団第三隊長として、真壁悠の任意協力者としての扱いを主張する」


 真壁は目を開けた。


「ララさん、一人で行くんですか」


「お前は休め」


「でも」


「お前が行けば、彼らはお前を直接分類しようとする」


 ララは静かに言った。


「今日は私が行く」


「……」


「お前の代わりにではない。お前が休むためにだ」


 真壁は何も言えなかった。


 胸の奥が重く、少し温かい。


「……お願いします」


「ああ」


 ヴォルフが軽く手を上げる。


「俺も近くで見とく」


「会場へは入るな」


 ララが即座に言う。


「入らねえよ。多分」


「多分をつけるな」


「努力する」


「信用度が低い」


 そのやり取りを見て、真壁は少しだけ笑った。


 笑えるくらいには戻ってきている。


 医務官の診断は正しい。


 今日はもう休んだ方がいい。


「ララさん」


「何だ」


「俺、寝ます」


「ああ」


「でも、勝手に資産とか管理対象とかにされるのは嫌です」


「分かっている」


「面倒な協力者でお願いします」


 ララは少しだけ笑った。


「表現は調整する」


「そこは本当にお願いします」


   ◇


 真壁が自室で寝台に倒れ込んだ頃、王都評議会はすでに始まっていた。


 円形の議場。


 高い天井。


 重い空気。


 議長席の周囲には、評議員、各局の代表、特別顧問ガレウス・ノート、監査局の者たち、そして騎士団代表が並ぶ。


 ララ・バーンは、騎士団第三隊長としてその場に立っていた。


 真壁はいない。


 そのことに、数人の評議員が露骨に不満を示した。


「当人不在では議論にならん」


「王都共鳴術式を停止させた者だぞ。出席させるべきだ」


「危険性の確認が必要だ」


「保護か、管理か、早急に判断しなければならない」


 言葉が飛ぶ。


 ララはそれを聞いていた。


 剣を抜く場所ではない。


 だが、言葉で斬る場所ではある。


 議長が問う。


「ララ・バーン隊長。真壁悠はなぜ欠席した」


「医務官の診断により、過負荷状態と判断された。強い刺激と長時間の集中を避けるべきとの診断書を提出する」


 書類が回される。


 数人が渋い顔をする。


 ガレウスが低く言った。


「都合のよい診断だ」


 ララはそちらを見る。


「王都共鳴術式を止めた直後の人間を休ませることが、都合のよいことか」


「彼が人間であるならな」


 議場が静まった。


 ララの目が冷たくなる。


「今、何と言った」


 ガレウスは動じない。


「あれだけの現象に干渉できる者を、通常の人間と同じ扱いにしてよいのかという意味だ」


「真壁悠は人間だ」


「異界人だ」


「人間だ」


 ララの声は低い。


 議場の空気が張り詰める。


「彼は意思を持ち、恐怖を感じ、疲労し、報酬を求め、休息を必要とする。人間だ」


 ヴォルフがもしいたら笑ったかもしれない。


 だが、議場に笑いはなかった。


 ララは続ける。


「真壁悠は王都防衛資産ではない。管理対象でもない。騎士団の所有物でも、評議会の所有物でもない」


「では何だ」


 評議員の一人が問う。


 ララは、少しだけ間を置いた。


 真壁が言った言葉を思い出す。


 面倒な協力者。


 そのまま言うわけにはいかない。


 だが、意味は変えない。


「任意協力者だ」


 ララは言った。


「本人の意思に基づき、王都の危機に対して協力する民間協力者。報酬、休息、安全確保、拒否権を有する」


 議場がざわつく。


 ガレウスの目が細くなる。


「拒否権だと?」


「当然だ」


「危機の際に拒否されれば、王都が滅びるかもしれん」


「ならば、拒否されない関係を築くべきだ」


 ララの声は鋭かった。


「鎖で繋ぐのではなく、信頼で協力を求める。それができないなら、我々はアルゴやバルドと同じだ」


 議場の空気が凍った。


 アルゴ。


 バルド。


 王都を揺らした名。


 それを評議会に向けて使ったのだ。


 ガレウスの顔がわずかに歪む。


「若い理想論だ」


「かもしれない」


 ララは認めた。


「だが、真壁悠は命令で動く者ではない。危険だから見るのではない。必要だから見るのでもない。自分で見ると決めた時にのみ、彼は見る」


 真壁の言葉を、ララはそのまま議場へ置いた。


「それを理解せず管理しようとすれば、彼は壊れる。あるいは、我々から離れる」


 議長が重く問う。


「ならば、騎士団は彼をどう守る」


「休息、報酬、安全な住居、情報の選別、現場同行時の保護、そして本人の意思確認」


 ララは迷わず答えた。


「加えて、評議会および監査局による直接接触には騎士団立会いを義務付ける」


 ざわめきが広がる。


 それは、評議会の手を縛る提案だった。


 ガレウスが低く言う。


「評議会の権限を制限するつもりか」


「真壁悠の人権を守るつもりだ」


 ララは一歩も引かなかった。


   ◇


 真壁悠は、夢を見ていた。


 四畳半の部屋だった。


 黄ばんだ天井。


 古い蛍光灯。


 垂れ下がる紐。


 畳の匂い。


 カップ麺の空き容器。


 冷蔵庫の低い唸り。


 懐かしい。


 帰ってきたのかと思った。


 だが、部屋の床に、水が広がっていた。


 畳の目から、じわじわと水が染み出している。


 天井の紐が揺れている。


 揺れ方がおかしい。


 紐の先に、小さな認識票が結ばれている。


 名前は読めない。


 真壁は手を伸ばそうとして、止まった。


 触ってはいけない。


 そう思った。


 その時、部屋の隅から声がした。


『君は、どこまで自分で決められる?』


 アルゴの声。


 真壁は振り返る。


 誰もいない。


 ただ、水が増えていく。


『街は君を求める。騎士は君を守る。観測者は君を見る。評議会は君を分類する』


 声は静かだった。


『では、君は君を何と呼ぶ?』


 真壁は、夢の中で眉をひそめた。


「……面倒な協力者」


『それは役割だ』


「じゃあ無職」


『それは状態だ』


「働きたくない人」


『それは願望だ』


「うるさいな」


 真壁は夢の中で言った。


「俺は俺だろ」


 水音が止まった。


 紐の揺れも止まった。


 アルゴの声が、少しだけ笑った気がした。


『それを言い続けられるかな』


 真壁は目を開けた。


 自室の天井。


 石造り。


 四畳半ではない。


 水もない。


 ただ、心臓がうるさかった。


「……嫌な夢」


 起き上がろうとして、頭痛で諦めた。


 まだ休むべきだ。


 そう思った時、扉が小さく叩かれた。


「真壁」


 ララの声ではない。


 ヴォルフだった。


「起きてるか」


「寝てます」


「寝てないな」


「寝てることにしてください」


「評議会、終わったぞ」


 真壁は目を開けたまま固まった。


「……どうなりました」


 扉の向こうで、ヴォルフが少し笑った気配がした。


「面倒な協力者は、任意協力者になった」


 真壁は数秒考えた。


「……勝ったんですか?」


「完全じゃねえ。ガレウスはまだ諦めてない。評議会も条件をつけた。監査局も絡む」


「ですよね」


「でも、管理対象にはならなかった」


 真壁は息を吐いた。


 胸の奥の力が、少しだけ抜ける。


「ララさんは?」


「今、報告書で戦ってる」


「まだ戦ってるんだ」


「あいつは強いな」


「知ってます」


 真壁は天井を見た。


 任意協力者。


 面倒な協力者より少し固い。


 でも、悪くない。


 少なくとも、資産よりずっといい。


 管理対象より、ずっとましだ。


「ヴォルフさん」


「何だ」


「報酬のこと、議題に入りました?」


「入ったぞ」


「神」


「騎士だろ、そこは」


「今回は評議会も少しだけ神」


「現金だなぁ」


 真壁は少しだけ笑った。


 その笑いは弱かったが、本物だった。


 まだ終わっていない。


 アルゴも、ガレウスも、セイルも、バルドも、南区の復旧も、地下の名前分けも、全部残っている。


 だが、少なくとも今日。


 真壁は誰かの資産にはならなかった。


 それだけで、少し眠れる気がした。


 扉の向こうでヴォルフが言う。


「寝ろ、任意協力者」


「その呼び方も嫌だな……」


「面倒な無職よりは書類向きだろ」


「確かに」


 真壁は目を閉じた。


 今度は、四畳半の夢を見なかった。


 ただ、遠くでララの声が聞こえたような気がした。


 休め。


 そう言われた気がした。


 だから真壁は、珍しく素直に眠った。

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