第42話
王都南区へ向かう石橋の上で、真壁悠は人生で一番見たくない種類の光景を見ていた。
水だ。
大量の。
しかも、嫌な流れ方をしている。
「……うわぁ」
思わず声が漏れた。
南区は王都でも低地側に位置している。物流倉庫、水路運搬場、工房、荷馬車の待機場、安宿、労働者街。王都の裏側を支える区域だ。人も物も多い。だからこそ、水路網も複雑だった。
その水が、今、逆流している。
本来なら中央排水路へ流れるはずの水が、低地側へ押し返され、石畳の隙間から溢れ、階段を滝のように落ちている。木箱が流れ、荷車が横転し、人々が怒鳴り声を上げながら逃げていた。
警鐘が鳴っている。
遠くで馬が暴れている。
子供が泣いている。
水の音が大きい。
真壁は橋の中央で立ち止まった。
「これ、絶対面倒なやつです」
「面倒で済めばいいがな」
ララが低く言う。
彼女はすでに状況を見ていた。どこが沈み始めているか。避難が遅れている区画。橋の強度。流木の流れ。全部を見ている。
真壁には、その視線の動きが少しだけ分かる。
以前のララなら、もっと一点を見ていた。敵。術者。危険源。
だが今は違う。
全体を見る。
流れを見る。
空白を見る。
真壁の見方が、少しだけ彼女へ移っている。
「……ララさん」
「何だ」
「最近、俺みたいな目つきしてます」
「嫌か」
「ちょっと嬉しいです」
ララは少しだけ目を細めた。
その後ろから、セイル・グランツが歩いてくる。
評議会棟からここまで、彼は一言も無駄口を叩かなかった。役人たちへの指示、警備線の再配置、南区周辺の封鎖連絡。その全てを、妙に静かに片付けている。
有能だ。
それが余計に嫌だった。
「現在確認されている誤作動は三番水門のみ」
セイルが言う。
「ですが、連動式です。一つが開けば、他も圧に引かれる可能性があります」
「つまり?」
真壁が聞く。
「最悪、南区全域が沈みます」
「はい最悪」
即答だった。
真壁は橋の下を見る。
濁流。
だが、ただの濁流ではない。
変だ。
水の流れに“間”がある。
「……ララさん」
「見えたか」
「はい。自然じゃない」
真壁は橋の欄干へ近づいた。
怖い。
高い場所も、水も苦手だ。
だが、見える。
水の流れが、不自然に“揃っている”。
普通、水は乱れる。石に当たり、木箱にぶつかり、波が分かれ、渦が生まれる。だが今の水流には、妙な一定間隔があった。
脈みたいに。
何かに引っ張られているみたいに。
「術式糸か?」
ララが問う。
真壁は首を振った。
「もっと太いです」
「太い?」
「糸じゃない。……線?」
真壁は目を細めた。
橋の下、水路壁面。
古い鉄杭。
そこを通る、細長い黒い影。
「……あ」
嫌な予感。
「セイルさん」
「はい」
「南区の水路、昔からあります?」
「王都建設初期からです」
「改修は?」
「北方戦役後、大規模補修が一度」
真壁の胃が冷えた。
北方戦役後。
またそこだ。
「水路の中に、何か埋め込まれてます」
ララがすぐ反応する。
「場所は」
「橋脚の下。違う、もっと広い。水門全部に繋がってる」
真壁は頭を押さえた。
見えすぎる。
水の流れ。
圧力。
振動。
全部の線が繋がっていく。
「これ、水門じゃない」
「何だ」
「術式回路です」
セイルの目が変わった。
「……水路そのものを術式基盤化している?」
「はい。たぶん昔から。そこへ最近、別の線を足してる」
「アルゴか」
ララが低く言う。
真壁は首を横へ振った。
「違う」
「何?」
「アルゴさんの線じゃない。もっと雑。もっと力任せ」
真壁は水流を見る。
アルゴの術式は、もっと静かだった。ズレを読む。名前を拾う。壊れ方を理解する。狂っているのに、精度は異常だった。
でも、今のこれは違う。
押し開けている。
無理やり。
「誰か別の奴が、アルゴさんの残した基盤を使ってる」
その瞬間。
橋の下で、爆音が鳴った。
水柱。
石片。
橋脚が揺れる。
「下がれ!」
ララが真壁の腕を掴み、後方へ跳ぶ。
次の瞬間、橋の中央が裂けた。
「うわぁぁぁ!?」
真壁の情けない悲鳴が響く。
石橋の一部が崩落し、水が噴き上がる。濁流の中から、黒い杭のようなものが突き出していた。
杭ではない。
巨大な針。
水路の底から、無数の黒針がせり上がっている。
「……は?」
真壁は呆然とした。
大きすぎる。
アルゴの銀針とは違う。
もっと粗雑。
もっと暴力的。
ララが剣を抜く。
セイルが真壁を後ろへ押す。
「下がってください」
「いや、押さないでください怖い!」
「橋が落ちます」
「それは分かります!」
黒針が震える。
そして、水流そのものを押し曲げた。
濁流が一方向へ集まり始める。
南区中央。
人がまだ残っている区域へ。
「誘導してる……!」
真壁が叫ぶ。
「避難路を潰す気だ!」
ララが即座に周囲へ命令を飛ばす。
「第三隊! 中央通りを封鎖! 南側へ流すな!」
騎士たちが動く。
だが、水の方が速い。
真壁は歯を食いしばった。
見える。
水の“先”。
どこが崩れるか。
どこへ流れるか。
どこに人が取り残されるか。
全部見える。
だからこそ、最悪だった。
「……無理だろ、これ」
視界の奥。
三本目の橋。
あそこが次に落ちる。
その下には、避難できていない荷運び人たちがいる。
「ララさん!」
「分かってる!」
ララが走る。
速い。
水飛沫の上を切るように駆ける。
だが、間に合わない。
橋脚がもう限界だ。
真壁は反射的に前へ出た。
「真壁!」
ララが叫ぶ。
真壁は橋の欄干へ飛び乗った。
怖い。
高い。
足が震える。
でも、見える。
崩れる場所。
圧力の集中点。
針の通り道。
水流のズレ。
「……ここ」
右拳が上がる。
橋全体じゃない。
水流全部でもない。
崩壊の“起点”だけ。
そこへ。
――パツン。
乾いた音。
次の瞬間。
橋脚へ集中していた水圧が、横へ滑った。
崩壊寸前だった石橋が、軋みながらも踏みとどまる。
水流が分散する。
黒針の一本が、途中から折れ曲がった。
真壁の拳は、橋を壊さず、“壊れ方”だけをずらした。
「……っ!」
頭痛。
視界が揺れる。
規模が大きすぎる。
紐じゃない。
剣でもない。
橋だ。
水流だ。
都市構造そのものだ。
「真壁!」
ララが真壁を引き戻す。
真壁は橋へ膝をついた。
「無茶をするな!」
「いや、でも……見えたから……」
「だからといって!」
ララの声が珍しく荒い。
その横で、セイルが黒針を見ていた。
「これは……」
「何か分かるんですか」
真壁が息を切らしながら聞く。
セイルは黒針の断面を見る。
「アルゴではない」
「はい」
「ですが、アルゴの基盤技術を模倣しています」
「やっぱり」
セイルの声が低くなる。
「誰かが、アルゴの残した術式基盤へ後から別系統の術式を継ぎ足している」
「誰が」
「分かりません」
その時。
橋の下、水煙の向こうで笑い声がした。
低い。
楽しそうな。
耳障りな笑い。
「おいおい、すげぇな」
全員の視線が向く。
濁流の中。
黒外套の男が、水門の残骸の上へ立っていた。
長身。
細い。
右腕だけが異様に長い。
そして、その腕には黒い金属杭が何本も埋め込まれている。
「橋止めるとか、人間かよ」
男は笑った。
その目は、明らかに正常じゃない。
濁っている。
でも、狂い切ってもいない。
中途半端に壊れている。
「……誰ですか、あれ」
真壁が小さく言う。
セイルが目を細めた。
「監査局記録……該当あり」
「あるんだ」
「北方戦役後、失踪した旧術式工兵」
男は黒杭を肩へ担ぐ。
「名前は、バルド・イェーガー」
男が笑う。
「お。観測官じゃん」
セイルの空気が変わる。
「まだ生きていたんですね」
「そりゃ生きるだろ。アルゴの旦那、最高だったからなぁ」
真壁の背筋が冷えた。
旦那。
つまり、この男はアルゴ側。
いや。
正確には、“アルゴに魅入られた側”。
「でもさぁ」
バルドは真壁を見る。
「お前、何なん?」
黒い目が細くなる。
「アルゴの旦那でも、そこまで綺麗にズラせねぇぞ」
真壁は何も答えられない。
怖い。
この男は、アルゴと違う。
アルゴの狂気に憧れて、真似して、壊れたタイプだ。
精度じゃない。
暴力で押し切る。
だから、水路全体を術式で捻じ曲げる。
「お前、旦那の後継か?」
バルドが笑う。
真壁は即座に首を振った。
「嫌です」
「は?」
「後継とか嫌です」
即答だった。
バルドが一瞬止まる。
ララも、セイルも少しだけ真壁を見る。
真壁は本気だった。
「俺、誰かの後継とか本当に嫌なんで」
「……変な奴」
バルドが笑う。
「でも、いいなぁ。そういうの」
黒杭が持ち上がる。
水が揺れる。
真壁には見えた。
次に来る。
橋全部を落とすつもりだ。
「ララさん!」
「分かってる!」
ララが前へ出る。
セイルも動く。
だが、真壁はその瞬間、水流の奥に別のズレを見た。
「……違う」
「何?」
ララが問う。
「こいつ、本命じゃない」
バルドが笑う。
「正解」
次の瞬間。
南区全域で、同時に鐘が鳴った。
低い鐘。
重い鐘。
一つじゃない。
五つ。
六つ。
七つ。
王都中の水路が共鳴している。
真壁の顔から血の気が引いた。
「……まずい」
「何が見えた」
セイルが問う。
真壁は震える声で言った。
「これ、水害じゃない」
水路。
黒杭。
術式基盤。
共鳴。
全部繋がる。
「王都全体を、一つの術式に変える気だ」
沈黙。
バルドが、心底楽しそうに笑った。
「いやぁ、やっぱ見える奴いると話早ぇなぁ!」
黒杭が振り下ろされる。
同時に、王都全域の地面が低く震えた。
真壁はその震動を感じながら、最悪の理解をした。
アルゴは壊そうとしている。
だが、アルゴに憧れた奴らは。
もっと雑に。
もっと大きく。
王都そのものを実験台にしようとしていた。




