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第41話


 セイル・グランツは、笑わなかった。


 それだけで、部屋の温度が一段下がった気がした。


 評議会棟、特別顧問室。床には、先ほど床下から噴き上がった銀の針が突き刺さった跡が残っている。机はえぐれ、椅子は裂け、書類束はセイルが咄嗟に横へ投げていなければ、紙片となって床へ散っていたはずだった。


 その書類が、今、真壁悠の前にある。


『北方戦役臨時収容施設・術式再利用計画報告』


 署名は二つ。


 ガレウス・ノート。


 そして、セイル・グランツ。


 真壁は、文字から目を離せなかった。


 読んだのは表題と署名だけだ。ララにそう言われた。本文は読むな、と。見る範囲を決めろ、と。


 だから、本文は読んでいない。


 読んでいないのに、もう嫌だった。


「……後継観測者って、何ですか」


 真壁の声は、自分で思ったよりも低かった。


 セイルはすぐには答えない。さっきまでの薄い笑みはない。整いすぎた表情も、少しだけ外れている。無表情ではない。むしろ、初めて人間らしい疲れが見えた。


「言葉通りです」


「言葉通りで分かる言葉じゃないです」


「アルゴが残した観測記録を引き継ぎました」


 セイルは静かに言った。


「彼の術式、彼の失敗、彼の視点、彼が何を見ようとしていたのか。それを追い続ける役割です」


 真壁は眉をひそめた。


「つまり、アルゴさんの研究を引き継いだってことですか」


「研究、と呼ぶには危険すぎる」


「でも引き継いだ」


「はい」


「最悪ですね」


 即答だった。


 セイルは否定しなかった。


 ガレウス・ノートは椅子に座っていない。さきほどの針で椅子は破壊された。老人は立ったまま、杖に手を置き、真壁たちを見ている。その顔に焦りはない。だが、完全に平静でもない。書類を守らせたこと、そしてその書類にセイルの名があったこと。予定通りではない何かが、この場に起きている。


 ララ・バーンは真壁の半歩前に立っていた。


 剣は抜いている。


 だが、セイルへ向けてはいない。ガレウスへも向けてはいない。部屋全体を守る位置。床下の旧通路、壁の金属管、天井の装飾、窓、扉。すべてを視野に入れた立ち方だった。


 真壁には、それが少し分かった。


 ララは、真壁の“空白を見る”感覚を、もう自分の剣へ落とし込み始めている。


 そのことが頼もしく、そして少し怖かった。


「セイル・グランツ」


 ララの声は冷たい。


「あなたは、アルゴの実験に関与していたのか」


「当時の実験そのものには関与していません」


「当時は?」


「私はまだ子供でした」


 セイルは淡々と答えた。


「北方戦役末期、私は軍務局の記録補助員でした。正式な官吏ではありません。戦場にも出ていない。収容施設にも入っていない」


「なら、後継とは」


「戦後、封鎖された記録を整理する部署へ回されました。そこでアルゴの観測記録を見つけた」


 真壁は嫌な予感がした。


 観測記録。


 その言葉だけで、胸の奥がざわつく。


「……それ、見ちゃ駄目なやつでは?」


 思わず言う。


 セイルは真壁を見る。


「ええ」


「ええって」


「見るべきではなかった。少なくとも、当時の私は」


 その声には、初めて後悔のようなものが混じっていた。


「アルゴの記録は異常でした。人の動き、死の直前の反応、名前に残る重み、認識票の振動、術式糸が拾う記憶の残滓。彼は、死者を戻すために、ありとあらゆるものを観測していた」


 真壁は思わず視線を逸らした。


 駄目だ。


 拾いすぎるな。


 本文は読むな。


 セイルの言葉も、全部拾うな。


 真壁は自分に言い聞かせる。


 見る範囲を決める。


 セイルの言葉ではなく、セイルの周囲を見る。


 セイルがその話をする時、部屋の空気がどう変わるか。


 ガレウスがどう反応するか。


 ララの剣がどこへ向くか。


 そうすれば、少しだけ耐えられる。


「真壁」


 ララが低く呼んだ。


「はい」


「拾いすぎるな」


「……はい」


 言われた。


 見透かされていた。


 真壁は小さく息を吐く。


 セイルは、そのやり取りを見ていた。


「興味深いですね」


「その言い方、嫌いです」


「失礼。ですが、彼女はあなたの視線を制御している」


「制御って言うな」


 真壁は思わず言った。


「助けてくれてるんです」


 セイルが黙った。


 ララも少しだけ目を見開いた。


 真壁は言ってから気まずくなったが、言い直さなかった。


 制御ではない。


 分類でもない。


 利用でもない。


 ララは真壁を助けている。


 それは、はっきり分けておきたかった。


「なるほど」


 セイルは静かに言った。


「その違いを、私は見落としていたかもしれない」


「見落とし多いですね、観測官なのに」


 また口が滑った。


 部屋が一瞬固まる。


 セイルは少しだけ目を瞬かせ、それから小さく息を吐いた。


「手厳しい」


「すいません。でも本音です」


「構いません」


 そのやり取りを聞いていたガレウスが、低く口を開いた。


「茶番は終わりか」


 空気が変わった。


 老人の声は小さい。だが、部屋の中心を取り戻すような重さがあった。


「セイル、君は余計なことを言いすぎた」


「そうでしょうか」


「そうだ。観測者は、観測対象に自らの位置を明かさない」


 真壁の背筋が冷えた。


 ガレウスはセイルを叱っている。


 だが、その言葉の中に、当然のように“観測対象”という単語がある。


 真壁たちを。


 人間を。


 対象として見ている。


「……やっぱり嫌いだ」


 真壁は小さく呟いた。


 ララが一歩前へ出る。


「ガレウス・ノート。あなたには説明責任がある」


「責任」


 ガレウスは鼻で笑った。


「若い騎士は、いつもその言葉を好む」


「北方戦役臨時収容施設で行われた術式再利用計画。アルゴの実験。戦後の隠蔽。これらにあなたの署名がある」


「戦時下の判断だ」


「死者を材料にすることもか」


 ララの声が鋭くなる。


「死者ではない。資源だ」


 その一言で、真壁の頭の奥が冷えた。


 資源。


 認識票に刻まれた名前。


 地下の作業台。


 戻らなかったもの。


 それらを、この老人は資源と言った。


「……今、何て言いました?」


 真壁は聞いた。


 声が低い。


 自分でも驚くくらい低い。


 ガレウスは真壁へ視線を向ける。


「戦争とは、全てを資源へ変えるものだ。命も、情報も、痛みも、死も。君のような者には分からんだろうがな」


「分かりたくないですね」


「分からない者が、口を挟むな」


 ララの剣がわずかに動いた。


 しかし真壁は、ララより先に言った。


「じゃあ、俺は分からない側でいいです」


 ガレウスの目が細くなる。


「何?」


「死んだ人の名前を資源って言う側に行くくらいなら、分からない側でいいです」


 真壁の手は震えていた。


 怖い。


 老人の視線は重い。


 評議会棟の空気は冷たい。


 セイルも見ている。


 ララも見ている。


 役人たちも見ている。


 それでも、口は止まらなかった。


「俺は、戦争も政治も分かりません。偉い判断も分かりません。でも、認識票の裏に“失敗”って刻むのは違うと思います。名前を部品みたいに扱うのも違うと思います」


「感傷だ」


「そうです」


 真壁は即答した。


「感傷です。俺は感傷で言ってます」


 ガレウスがわずかに黙る。


「でも、あんたたちが感傷を捨てた結果が、アルゴさんじゃないんですか」


 部屋が静まり返った。


 セイルの視線が真壁へ向く。


 今度は測っていない。


 ただ、見ている。


 真壁は続けた。


「直せないものを直そうとした人。死んだ人を戻そうとした人。王都を壊してまで、壊れてることを見せようとしてる人。あれ、あんたたちが作ったんじゃないですか」


 ガレウスの指が杖を強く握った。


「黙れ」


「嫌です」


 反射だった。


 真壁自身、驚いた。


 ララが息を呑む。


 セイルの目がわずかに動く。


 真壁は震えていた。


 だが、黙らなかった。


「俺、黙るのは得意だったんです。二十年くらい部屋で黙ってました。でも、黙ってると、こういう人たちが勝手に名前を資源にするんですよね」


 ガレウスはゆっくりと真壁へ向き直った。


「君は自分の立場を理解しているのか」


「してません」


「なら教えてやろう。君は異界から来た不確定要素だ。王都にとって危険であり、利用価値があり、管理対象だ」


「全部嫌です」


「嫌かどうかは問題ではない」


「俺には問題です」


 真壁は言った。


 小さな声だった。


 でも、はっきり言った。


「俺のことは、俺の問題です」


 ガレウスの目が冷える。


 その時、床下で音がした。


 コツン。


 全員の空気が変わる。


 ララが剣を構える。


 セイルが視線を床へ落とす。


 ガレウスの顔にも、一瞬だけ不快が浮かぶ。


「またか」


 セイルが低く言う。


 真壁は息を止める。


 さっきの針は止めたはずだ。


 壁の金属管も外した。


 旧通路からの動線は切った。


 なのに、音がする。


 コツン。


 コツン。


 違う。


 針ではない。


 もっと小さい。


 もっと軽い。


 紙?


「……書類」


 真壁が呟く。


「何?」


 ララが問う。


「床下じゃない。壁の中です。さっき守った書類と繋がってる」


 セイルが机の上の書類へ手を伸ばす。


 真壁が叫ぶ。


「触らないで!」


 セイルの手が止まる。


 書類束の中、一枚だけがわずかに浮いた。


 風はない。


 だが、紙が膨らむ。


 内側から。


「ララさん!」


「何を斬る!」


「紙じゃない! 影!」


「影?」


 ララの反応は速かった。


 彼女は紙ではなく、机の下へ走る細い影を見た。窓から入った光によってできた影。その中を、細い銀糸が通っている。紙を直接動かしているのではなく、影に隠した糸で、署名欄を引き裂こうとしている。


 白銀の剣が閃く。


 影の上を斬る。


 正確には、影の中に隠れていた糸だけを弾く。


 キン、と音がした。


 紙の膨らみが止まる。


 だが、同時に別の紙が浮く。


「二枚目!」


 真壁が叫ぶ。


 セイルが動いた。


 黒手袋の指が、紙の端を押さえる。


 しかし押さえない。


 押さえるふりをして、わずかに浮かせる。


 糸が空を切る。


「……上手いですね」


 真壁が思わず言った。


 セイルは短く答える。


「観測官ですので」


「そういうとこ嫌いです」


「承知しています」


 ララが三本目の糸を弾く。


 真壁は机全体を見る。


 書類は五枚。


 狙われているのは署名欄。


 いや、違う。


 署名を消したいわけではない。


 署名を“変えたい”。


「駄目! これ、破るんじゃない!」


 ララが問う。


「何だ!」


「署名を入れ替える気です!」


 真壁には見えた。


 書類の下に隠された薄い紙片。


 別の署名。


 糸で元の署名欄を剥がし、別の紙片を重ねる。


 証拠の改竄。


 部屋にいる全員の前で。


「セイルさん、右下!」


「はい」


 セイルが右下の紙片を摘み取る。


 そこには別の署名があった。


 オルデン・リース。


 真壁の胃が冷える。


「オルデンさんに押し付ける気だ」


 ガレウスの顔がわずかに強張る。


 セイルは紙片を見て、初めて明確に怒りの気配を見せた。


「アルゴ……」


 その声は、低かった。


 そしてその瞬間、机の中央に小さな金属片が落ちた。


 ズレた歯車。


 アルゴの刻印。


 ララが布越しに拾う。


 文字。


『嘘は増える。観測者もまた嘘をつく』


 セイルが黙った。


 真壁は彼を見る。


「……セイルさん」


「はい」


「あなた、何を嘘ついてるんですか」


 セイルは答えなかった。


 ガレウスが低く言う。


「観測官、答える必要はない」


「いいえ」


 セイルが言った。


 静かな声だった。


「あります」


 ガレウスの目が細くなる。


「セイル」


「私は、アルゴの後継観測者です。ですが、彼の後継者ではありません」


「同じことだ」


「違います」


 セイルは初めて、ガレウスへ正面から反論した。


「私は彼を止めるために観測を続けている」


 真壁は黙る。


 セイルの声は静かだった。


 だが、そこにはさっきまでなかった熱がある。


「アルゴの記録を見た時、私は魅入られた。彼の視点は異常で、危険で、そして正確だった。死者を戻すという狂気に至るまでの過程が、あまりにも整っていた。私は、それを理解できてしまった」


 真壁は少しだけ息を呑んだ。


 理解できてしまった。


 その言葉は、重い。


「だからこそ、私は観測を引き継いだ。彼が何を見ているのか、どこへ向かうのか、次に何を壊すのか。見続けなければ、止められないと思った」


「でも、評議会側にいる」


 真壁が言う。


「はい」


「ガレウスさんの署名がある書類にも、あなたの署名がある」


「はい」


「嘘をついてますよね」


「はい」


 即答だった。


 真壁は眉をひそめる。


 セイルは続ける。


「私は、全てを報告していません。評議会にも、ガレウス顧問にも、騎士団にも。アルゴがどこまで戻っているのか、どの術式がまだ生きているのか、地下に残った観測糸が何を拾っているのか。情報を分け、隠し、時に歪めた」


「何のために」


 ララが問う。


「アルゴを追うためです」


「そのために真壁を利用しようとしたのか」


「はい」


 また即答。


 真壁は顔をしかめた。


「正直に言えばいいと思ってません?」


「思っていません。ただ、もう隠せない」


 セイルは真壁を見る。


「真壁さん。あなたは、アルゴを拒絶した。直せないと言った。それでも見た。あなたは、私が持っていなかった答えを出した」


「……重い」


 真壁は本気で嫌そうに言った。


「俺にそういうの乗せないでください」


「すみません」


「謝るんだ」


「はい」


 調子が狂う。


 この男は嫌だ。


 怖い。


 利用しようとしている。


 でも、今は嘘を剥がしている。


 真壁は混乱した。


 ララが静かに言う。


「セイル。あなたは味方なのか」


 セイルは答える。


「違います」


 部屋が静かになる。


「では敵か」


「それも違います」


「なら何だ」


「観測者です」


 真壁は即座に言った。


「その分類、嫌いです」


 セイルは一瞬だけ黙り、それから小さく頷いた。


「でしょうね」


「もっと人間っぽく言ってください」


「……アルゴを止めたい者です」


「最初からそう言ってください」


「慣れていないので」


「何に」


「人間っぽく言うことに」


 真壁は頭を抱えた。


「この人もだいぶ壊れてる……」


 ララは否定しなかった。


 セイルも否定しなかった。


 ガレウスだけが、不快そうに杖を鳴らした。


「くだらん。アルゴを止めるなら、私の管理下で動け。真壁悠も同じだ。危険な目は管理されるべきだ」


 真壁は、その言葉を聞いて、ゆっくり顔を上げた。


 危険な目。


 管理。


 分類。


 資源。


 どれも嫌だった。


「……嫌です」


「君に拒否権があるとでも?」


「あります」


 真壁は言った。


「少なくとも、俺の目をどこに向けるかは、俺が決めます」


 ララが隣に立つ。


「騎士団第三隊長としても、真壁悠の強制移管は認めない」


 セイルも静かに言った。


「私も反対します」


 ガレウスがセイルを見る。


「裏切るのか」


「観測結果に従うだけです」


「何?」


「真壁悠を管理対象として囲い込めば、アルゴはさらに深く反応する。彼を分類すれば、彼は分類から外れようとする。そのズレが、アルゴに拾われる」


 セイルは淡々と言う。


「つまり、管理は逆効果です」


 真壁は嫌そうに言った。


「助けてくれてるのか、分析してるのかどっちですか」


「両方です」


「最悪」


 だが、少しだけ場が変わった。


 ガレウス、セイル、ララ、真壁。


 それぞれの立ち位置が、はっきりし始めている。


 そこへ、廊下から騒ぎが聞こえた。


 騎士の声。


 役人の声。


 そして、遠くで鐘が鳴る。


 低い鐘。


 一度。


 二度。


 真壁の顔色が変わった。


「……この鐘」


 ララが問う。


「何だ」


「中央広場の鐘じゃない」


 セイルが窓へ歩く。


「南区の警鐘です」


 真壁は胸の奥が冷えるのを感じた。


 南区。


 水路。


 低地。


 偽命令書。


 南環状水路の全水門開放。


 前に止めたはずの災害の形。


「……まさか」


 役人が飛び込んできた。


「報告! 南環状水路、三番水門が誤作動! 低地側へ水が流入し始めています!」


 部屋の空気が凍った。


 ガレウスが立ち上がる。


 セイルの表情が消える。


 ララが真壁を見る。


 真壁は、最悪の答えを理解した。


 アルゴは、ここで議論している間に別の場所を動かした。


 嘘を守るか、命を守るか。


 書類を見せ、署名を暴き、セイルの嘘を剥がし、全員の視線をこの部屋へ集めた。


 その間に、南区を揺らした。


「……見せ場、多すぎるだろ」


 真壁は震える声で言った。


 ララが剣を収める。


「行くぞ」


「はい」


 即答した。


 怖い。


 疲れた。


 もう十分すぎる。


 それでも、南区が浸水するなら放っておけない。


 真壁は書類から目を離し、扉へ向かった。


 その背後で、セイルが言った。


「私も行きます」


 真壁は振り返る。


「来るんですか」


「はい。今度は、隠さずに」


 真壁は少しだけ睨んだ。


「なら、見る範囲は俺とララさんで決めます」


 セイルは静かに頷いた。


「従います」


「本当に?」


「はい」


 信じられない。


 だが、今は使えるものは使うしかない。


 真壁は嫌そうに顔をしかめた。


「……観測官、面倒くさい」


「よく言われます」


「でしょうね」


 廊下へ走り出す。


 評議会棟の静けさが、警鐘の音で壊れていく。


 分類される側から外れたと思った瞬間、街そのものがまた壊れ始めていた。


 真壁は走りながら、低く呟いた。


「本当に、休ませる気ないな……!」


 だが、その足は止まらなかった。


 今度は、自分で見ると決めたからだ。

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