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第40話


 翌朝、真壁悠は騎士団宿舎の廊下で、人生でもかなり上位に入るほど嫌な紙を見つめていた。


 紙そのものは上等だった。厚みがあり、白く、端がきれいに切り揃えられている。封蝋には王都評議会の紋章。文字は整っている。整いすぎている。書いた人間の呼吸がまるで残っていないような、音の少ない文字だった。


 セイル・グランツ。


 評議会特別監査局第一観測官。


 昨日、真壁の部屋へ滑り込んできた手紙の差出人であり、真壁に「もう普通には戻れない」と言った男である。


 真壁は、その紙を睨んでいた。


 もちろん触ってはいない。触りたくないからだ。紙はララ・バーンが布越しに持っている。真壁は少し離れた位置から見ているだけで、それでも十分に気持ち悪かった。


「……本当に行くんですか」


「行く」


 ララの返事は短い。


 彼女はすでに出動装備だった。騎士団第三隊長としての外套。腰の細剣。普段よりもやや硬い表情。評議会から下ったのは、王都評議会臨時警護任務への出向命令。表向きは、最近の襲撃と不正調査に伴う警備強化。実際には、ララを真壁から引き離すための手だと、誰の目にも明らかだった。


 少なくとも、真壁にはそう見えた。


 嫌な見え方だった。


「俺も行くんですよね」


「ああ」


「行かない選択肢は」


「ある」


 ララは真壁を見る。


「だが、私と離れることになる」


「じゃあ行きます」


 即答だった。


 自分でも情けないほど早い判断だと思った。だが仕方ない。セイルが狙っているのは分断だ。ララを評議会側に拘束し、真壁を騎士団宿舎に残し、その間に別の形で接触する。あるいは、評議会の保護下へ移す口実を作る。そう考えるのが自然だった。


 なら、ララと一緒に行く方がまだましだ。


 まし、というだけで、良い選択肢ではない。


 真壁は深く息を吐いた。


「政治の場所、嫌いなんですよ」


「昨日も言っていた」


「今日も言います。毎日言います」


「分かっている」


 ララの声は落ち着いている。


 その落ち着きが、真壁にはありがたかった。


 その時、廊下の角からヴォルフが現れた。


 今日は窓からではない。普通に廊下を歩いてきた。最近、この男が扉や廊下を使うだけで、少しだけ重大事に見えるようになっている。かなり嫌な慣れ方だった。


「おー、ちゃんと準備してるな」


「帰る準備ならできてます」


「そっちじゃねえよ」


 ヴォルフは真壁とララを見比べる。


「セイルの誘いに乗るのか」


「乗るというより、乗らないために行きます」


「いい答えだ」


「全然よくないです」


 ヴォルフは笑ったが、その目は笑っていなかった。


「評議会棟へ入ったら、見るものは絞れ」


「昨日も言ってましたね」


「ああ。今日は特にだ。あそこは情報が多い。人も多い。嘘も多い。お前が全部拾ったら、先に頭が死ぬ」


「嫌な言い方だけど、信頼度高い」


「経験談だからな」


 真壁は顔をしかめた。


 評議会棟。行政庁舎よりさらに奥。王都の判断する場所。上層部が集まり、命令が出され、責任が消え、記録が整えられる場所。そこに、セイルとガレウス・ノートがいる。


 ガレウス。


 北方戦役当時の王都軍務局長。


 アルゴの実験を黙認し、失敗を隠した可能性がある人物。


 現在は王都評議会特別顧問。


 つまり、偉い。


 真壁が最も苦手とする種類の人間だ。


「……会いたくないなぁ」


「たぶん会うぞ」


 ヴォルフが言う。


「やめてください。予言しないで」


「予言じゃなくて流れだ」


「もっと嫌」


 ララは手紙を折り、内ポケットへしまった。


「真壁。今日の目的を確認する」


「はい」


「一つ。私とお前が分断されないこと」


「はい」


「二つ。評議会側の出方を見ること」


「見る、ですか」


「見る。ただし拾いすぎない」


 ララは昨日の言葉を繰り返した。


「見る範囲を決める」


 真壁は小さく頷いた。


「俺、何を見ればいいですか」


「セイルではなく、セイルの周囲だ」


「本人じゃなくて?」


「本人を見れば、お前は引っ張られる。なら、彼の周囲がどう歪むかを見る」


 真壁は少し黙った。


 確かに、セイル本人は整いすぎていた。ズレがない。いや、ズレを消している。そんな相手を直接見れば、こちらが測られる。なら周囲を見る。セイルに接した役人がどう動くか。声がどう小さくなるか。空気がどう避けるか。


「……空白を見る」


「そうだ」


 ララは頷いた。


「セイル自身ではなく、セイルが作る空白を見ろ」


 真壁は少しだけ驚いた。


「ララさん、俺より説明うまくなってません?」


「お前の説明が曖昧すぎるからだ」


「返す言葉がない」


 ヴォルフが笑った。


「弟子の方が理論派だな」


「弟子じゃありません」


「じゃあ相棒か?」


 真壁は即座に首を振った。


「責任が重いので却下」


 ララは特に否定しなかった。


 それに気づいて、真壁は少しだけ困った顔をした。


   ◇


 評議会棟は、行政庁舎のさらに奥にあった。


 王城へ続く石橋の手前、少し高い場所に建っている。装飾は少ないが、威圧感がある。太い柱。重い扉。磨かれた石段。高い窓。見る者に「ここで決められる」と思わせる建物だった。


 真壁は石段の下で立ち止まった。


「……帰りたい」


「今日は早いな」


 ララが言う。


「建物が偉そうなので」


「建物にまで文句を言うのか」


「偉そうな建物、苦手です」


 ララは少しだけ笑った。


 だが、すぐ表情を引き締める。


 門前には衛兵が立っている。騎士団ではない。評議会付きの警備兵だ。装備が違う。動きも違う。騎士団の兵より、どこか事務的で無駄が少ない。


 真壁は彼らを見て、最初の違和感を覚えた。


「……ララさん」


「何だ」


「ここの警備兵、こっちを見てないです」


「どういう意味だ」


「見てるふりはしてる。でも本当に見てるのは、俺たちじゃなくて、後ろ」


 ララは一瞬だけ視線を動かす。


 真壁の背後。石段の下。通り。そこには数人の通行人がいるだけだ。だが、真壁には分かった。警備兵の視線はララと真壁を確認しながら、その奥の誰かに合図を待っている。


 ヴォルフは今日、同行していない。


 少なくとも表向きには。


 だが、どこかで見ているはずだ。


 警備兵たちはそれを探しているのかもしれない。


「ヴォルフ警戒ですかね」


「おそらくな」


 ララは小さく言う。


「気にするな。正面から入る」


「気にするなと言われると気になる」


「拾いすぎるな」


「はい」


 それだけ言って、ララは石段を上がった。


 真壁も後に続く。


 扉が開く。


 冷たい空気。


 石と紙と香の匂い。


 評議会棟の中は、行政庁舎よりもさらに静かだった。人はいる。役人も、警備兵も、記録官も、伝令もいる。だが、声が低い。足音が揃っている。紙の音すら小さい。


 静かすぎる。


 真壁は入った瞬間、胸が詰まった。


「……ここ、嫌です」


「なぜ」


「音が整いすぎてる」


 ララは少しだけ頷く。


「セイルに似ているか」


「はい」


 そうだ。


 評議会棟全体が、セイルに似ている。


 ズレを消している。


 無駄を削っている。


 感情の音を落としている。


 だから、自然な静けさではない。整えられた静けさだ。


 真壁にとっては、騒がしい市場とは別の意味で息苦しい場所だった。


「ララ・バーン隊長ですね」


 奥から若い役人が歩いてきた。


 彼は丁寧に頭を下げたが、視線は真壁へ一瞬だけ向いた。


 そこで止まらない。


 止めないよう訓練されている。


 真壁はそれも嫌だった。


「警護任務の説明室へご案内します。真壁悠殿につきましても、同行補助として申請を受理しております」


「随分と早いな」


 ララが言う。


「セイル観測官より、事前に想定されておりました」


 真壁は顔をしかめた。


「想定されてた」


 役人は微笑む。


「はい」


「それ、嫌な言い方ですね」


「失礼しました」


 失礼と思っていない声だった。


 ララは何も言わず、歩き出す。


 真壁は半歩後ろにつく。


 廊下を進みながら、真壁は周囲を見る。


 いや、見ないように見る。


 セイル本人を見るのではなく、セイルが作った空白を見るつもりで、建物全体を見る。


 すると、少しだけ分かった。


 人の流れが、ある廊下を避けている。


 そこへ行く者はいる。


 だが少ない。


 皆、入る前に一度だけ姿勢を整える。


 出てくる者は、呼吸が浅い。


 あそこだ。


 真壁は視線だけ向ける。


「……あの廊下、何ですか」


 案内役の役人が少し止まった。


 ほんの少し。


 だが真壁には分かった。


 当たり。


「特別顧問室へ続く通路です」


 役人は答える。


「ガレウス・ノート様の?」


「はい」


 真壁は胃が重くなった。


「今、います?」


「本日はまだお越しではありません」


 嘘ではない。


 たぶん。


 だが、完全な情報でもない。


 ララが真壁へ小さく視線を向ける。


 真壁は小さく首を振った。


 今は見ない。


 拾いすぎない。


 今日の目的は、分断されないことと、出方を見ることだ。


 真壁はそう自分に言い聞かせた。


   ◇


 説明室には、セイル・グランツがいた。


 予想はしていた。


 それでも、実際に見ると嫌だった。


 彼は窓際に立っていた。灰色の長衣。黒手袋。整った姿勢。薄い微笑。音が少ない。まるで最初からそこに配置されていた家具のように自然で、それでいて部屋の中心を支配している。


「おはようございます、ララ・バーン隊長。真壁悠さん」


「おはようございます。帰りたいです」


 真壁は反射で答えた。


 セイルは少し笑った。


「相変わらず正直ですね」


「取り繕う元気を削られてるので」


「それは失礼」


 ララが前へ出る。


「任務内容を」


「もちろんです」


 セイルは机の上に地図を広げた。


 評議会棟の見取り図。


 議場、特別顧問室、記録室、監査局控室、地下連絡路、外周警備線。


 真壁は見た瞬間、頭が痛くなった。


「……線が多い」


「気送管、水路、地下道、警備動線、避難経路。全て記載してあります」


 セイルが説明する。


「本日の警護対象は、評議会特別顧問ガレウス・ノート。午後、非公開聴取へ出席予定です」


「非公開聴取?」


 ララが聞く。


「オルデン・リース氏の証言に関する確認です」


 真壁の身体が強張る。


 ガレウス。


 やはり出てきた。


「オルデンさんも来るんですか」


「いえ。まずはガレウス顧問への予備確認です」


「それ、本人に逃げる時間あげてません?」


 真壁は思ったまま言った。


 部屋の空気が少し変わる。


 セイルは笑ったままだった。


「面白い見方です」


「面白くはないです」


「ですが、正式手続きです。証言だけで特別顧問を拘束することはできません」


「拘束って言いました?」


 セイルは微笑む。


「可能性の話です」


 真壁は嫌な顔をした。


 この男の言葉は、整っている。


 だが、整っている分だけ何かを隠している。


 ララが地図を見る。


「私の配置は」


「顧問室前廊下の内側警護。真壁さんは補助として、同区域の異常確認を」


「真壁を顧問室近くへ置くのか」


「はい」


 セイルはあっさり答える。


「危険では?」


「だからこそです。真壁さんは危険の前兆を読む。なら、最も危険が発生しやすい地点にいるのが合理的です」


「合理的ですね」


 真壁がぼそりと言った。


「俺の気持ちを除けば」


「お気持ちは尊重します」


「絶対嘘」


「いえ、本当に」


「嘘じゃないのがもっと嫌です」


 セイルは楽しそうに見えた。


 楽しそうに見えるのに、感情が読めない。


 真壁はセイル本人を見ないようにした。


 周囲を見る。


 机。


 地図。


 ララ。


 案内役。


 窓。


 扉。


 セイルの周囲には、やはり空白がある。


 人が近づきたがらない空白。


 だが、それだけではない。


 地図の上にも空白があった。


「……ここ」


 真壁は思わず地図を指差した。


「この地下連絡路、何で線が途中で薄いんですか」


 セイルの目がわずかに動いた。


 ララがすぐ反応する。


「どこだ」


「顧問室の下。地下連絡路があるのに、ここだけ線が薄い」


 セイルが答える。


「現在は使用されていない旧通路です」


 真壁とララが同時に言った。


「封鎖済み?」


「封鎖済みか」


 セイルは初めて少しだけ笑みを深めた。


「ええ。封鎖済みです」


 真壁は頭を抱えた。


「その単語、本当に信用できないんですよ」


「存じています」


「存じてるなら使わないでください」


 セイルは地図を指で押さえる。


「ただし、この旧通路については、監査局側でも確認済みです。物理的な通行はできません」


「物理的には?」


 ララが問う。


 セイルは答える。


「空気と音は通ります」


 真壁の背筋が冷えた。


「それ、通ってるじゃないですか」


「人は通れません」


「アルゴさんは人が通れない場所大好きなんですよ」


「でしょうね」


 セイルの声が少しだけ低くなる。


「だから、あなたに見てもらいたい」


 真壁は口を閉じた。


 結局、それだ。


 この男は真壁を利用する気だ。


 隠していない。


 むしろ、利用することを合理として提示してくる。


 だから厄介だ。


 ララが静かに言う。


「真壁が見る範囲は、私が決める」


「それは構いません」


 セイルはあっさり頷く。


「彼が壊れては困りますから」


 真壁はその言葉に、嫌な寒気を覚えた。


 心配ではない。


 道具が壊れると困るという意味に聞こえた。


 ララの目が鋭くなる。


「言葉を選べ」


「失礼しました」


 セイルは頭を下げる。


 だが、やはり失礼と思っていない。


 真壁はその空気を見て、胸の奥が少し熱くなるのを感じた。


 怒りだった。


 最近、増えている感覚。


「……俺、壊れ物扱いも嫌ですけど、道具扱いはもっと嫌です」


 真壁は言った。


 セイルがこちらを見る。


 ララも少し驚いたように真壁を見る。


「だから、見るかどうかは俺が決めます」


 声は大きくなかった。


 むしろ震えていた。


 だが、言えた。


「ララさんが範囲を決めてくれるのは助かります。でも、セイルさんに見ろって言われたから見るわけじゃないです」


 セイルは黙った。


 真壁は続ける。


「危ないから見る。誰かが巻き込まれるから見る。腹が立つから見る。そういう理由なら見ます」


「……なるほど」


 セイルは静かに言った。


「分類を拒否するわけですね」


「分類?」


「道具でも、保護対象でも、観測対象でもないと」


「はい」


 真壁は即答した。


「面倒な無職です」


 部屋が一瞬だけ静まった。


 ララが少しだけ口元を抑えた。


 セイルも、初めて声を出して笑った。


 短い笑いだった。


 音があった。


 それまでの彼にはなかった音。


「それは、予想外でした」


「予想外ならよかったです」


 真壁は小さく言った。


「俺、あなたの予想通りに動くの嫌なので」


 セイルは真壁をしばらく見ていた。


 今度の視線は、さっきまでと少し違う。


 測っている。


 だが、測り切れていない。


 真壁はそれを見て、ほんの少しだけ胸が軽くなった。


 分類される側から、少しだけ外れた。


 そんな気がした。


   ◇


 午後。


 ガレウス・ノートの到着に合わせ、警護配置が敷かれた。


 真壁はララの斜め後ろにいた。


 場所は特別顧問室前の廊下。天井が高く、壁には古い戦役画が並んでいる。床は磨かれた石。足音がよく響く。廊下の奥には大きな扉があり、その向こうが顧問室だった。


 真壁は壁の絵を見ないようにしていた。


 戦役画。


 兵士。


 旗。


 勝利。


 そういうものが描かれている。


 だが、収容所跡を見たあとでは、その絵が気持ち悪く見えた。綺麗に整えられた戦争。死者の名前が消えた勝利。真壁にはそう見える。


 拾いすぎるな。


 ヴォルフの言葉を思い出す。


 真壁は視線を落とした。


 見る範囲を決める。


 セイルではなく、セイルの周囲。


 ガレウス本人ではなく、彼が作る空白。


 廊下の空気。


 人の流れ。


 扉の前。


 地下連絡路。


「……ララさん」


「何だ」


「床下、やっぱり音あります」


「旧通路か」


「はい。人は通れないかもしれないけど、空気が流れてる」


「危険か」


「まだ分かりません。でも、嫌です」


「分かった」


 ララは小さく頷く。


 以前なら、それだけで剣を抜く準備をしたかもしれない。だが今は違う。彼女も周囲全体を見る。直接の敵ではなく、空白を見る。


 その姿を見て、真壁は少しだけ思った。


 本当に覚えている。


 自分の変な感覚を。


 騎士団第三隊長が。


 少し恥ずかしくて、少し頼もしかった。


 廊下の奥から足音がした。


 複数。


 警備兵。


 役人。


 そして中央に老人。


 ガレウス・ノート。


 白髪を後ろへ撫でつけた、痩せた老人だった。年齢は七十近いだろうか。だが背筋はまっすぐで、目は鋭い。オルデンのような事務的な冷たさとは違う。もっと上から全体を眺めるような冷たさがある。


 真壁は見た瞬間、心の中で言った。


 苦手。


 絶対苦手。


 ガレウスの視線がララに向き、次に真壁へ向いた。


 その瞬間、真壁の背筋が冷えた。


 この老人は、セイルとは違う。


 見ているのではない。


 見下ろしている。


「君が真壁悠か」


 声は低く、よく通った。


「……はい」


「噂は聞いている」


「できれば忘れてください」


 ガレウスの眉がわずかに動く。


 周囲の役人が息を呑む。


 ララが横で小さく咳払いした。


 真壁は後悔した。


 だが遅い。


 ガレウスは怒らなかった。


「面白い男だ」


「最近それ言われるの本当に嫌なんです」


「ふむ」


 老人は真壁を値踏みするように見た。


「戦場を知らぬ目だ」


 真壁は黙った。


「だが、壊れたものを見る目はあるらしい」


 胸の奥がざわつく。


 ガレウスは顧問室へ向かう。


 その横を通り過ぎる瞬間、真壁にだけ聞こえる声で言った。


「アルゴも、最初はそうだった」


 真壁の息が止まる。


 老人は何事もなかったように歩き続ける。


 扉が開く。


 ガレウスが中へ入る。


 役人たちが続く。


 扉が閉まる。


 廊下に静けさが戻った。


 真壁は動けなかった。


 ララがすぐに近づく。


「何を言われた」


「……アルゴも、最初はそうだったって」


 ララの目が鋭くなる。


 その時。


 床下で、コツン、と音がした。


 真壁の顔が変わる。


「今」


「旧通路か」


「はい」


 音がまた鳴る。


 コツン。


 コツン。


 まるで、下から何かが歩いているような音。


 人は通れないはずの旧通路。


 物理的な通行はできない。


 セイルはそう言った。


 だが。


「……人じゃない」


 真壁は低く言った。


「何だ」


 ララが問う。


「針です」


 床下を、何か細いものが走っている。


 銀糸ではない。


 もっと硬い。


 もっと乾いた。


 針。


 それが旧通路を伝って、顧問室の下へ向かっている。


「ララさん!」


 真壁が叫ぶ。


「中じゃない! 下から来る!」


 ララが扉へ向かう。


 同時に、廊下の反対側からセイルが現れた。


 彼も気づいている。


 珍しく笑っていない。


「床下ですか」


「分かってたんじゃないんですか!」


 真壁が叫ぶ。


「可能性としては」


「最悪!」


 ララが顧問室の扉を開ける。


 中から役人たちの驚く声。


 ガレウスが椅子へ座りかけている。


 その真下。


 床の石目に、細い亀裂が走った。


「全員下がれ!」


 ララが叫ぶ。


 真壁には見える。


 針の向き。


 床下の圧。


 狙い。


 ガレウスではない。


 いや、ガレウスも危ない。


 だが本当の狙いは。


「机!」


 真壁が叫ぶ。


「書類!」


 セイルが反応した。


 黒手袋の手が動く。


 机の上に置かれていた書類束を掴み、横へ投げる。


 次の瞬間、床下から銀色の針が噴き上がった。


 机を貫く。


 椅子を貫く。


 そして、書類が置かれていた場所を串刺しにした。


 もし書類が残っていれば、全て破断していた。


 役人たちが悲鳴を上げる。


 ガレウスは立ったまま、目を細めている。


 ララが針の根元を見る。


「まだ動く!」


 真壁が叫ぶ。


「右! 床じゃなく壁!」


 針は床から出た。


 だが操作している糸は壁の中だ。


 ララが剣を抜く。


 白銀の斬撃。


 壁そのものではなく、壁に埋め込まれた古い金属管の留め具だけを斬る。


 管が外れ、銀糸が弛む。


 針の動きが止まる。


 セイルがすぐに動き、黒手袋で別の細糸を摘まんだ。


「こちらも止めました」


「触って大丈夫なんですか!」


 真壁が叫ぶ。


「訓練済みです」


「そういう問題ですか!」


 顧問室は騒然としていた。


 だが、死者はない。


 ガレウスも無事。


 書類も破れなかった。


 真壁は廊下にへたり込みかけ、壁に手をついた。


「……またか」


 セイルが止めた糸の先には、小さな金属片が結ばれていた。


 ズレた歯車。


 アルゴ。


 ララが布越しに拾う。


 そこには一文。


『嘘を守るか、命を守るか』


 沈黙。


 ガレウスの顔がわずかに硬くなる。


 真壁はその文字を見て、胃が冷たくなった。


 アルゴは、ガレウスを殺そうとしたのではない。


 書類を壊そうとした。


 その書類に何があるのか。


 そして、ガレウスはそれを守らせるために、どんな嘘をついているのか。


 真壁は顔を上げた。


 セイルが真壁を見ている。


 ララも。


 ガレウスも。


 全員が、真壁を見ている。


 分類される側。


 観測される側。


 利用される側。


 その視線が集まる。


 真壁は怖かった。


 怖かったが、なぜか今回は、目を逸らさなかった。


「……書類、見せてください」


 自分でも驚くほど、低い声だった。


 ガレウスの目が細くなる。


「君に見る権限はない」


「じゃあ、また壊されるかもしれませんね」


 言ってしまった。


 部屋が凍る。


 ララが真壁を見る。


 セイルの口元が、ほんの少しだけ動く。


 ガレウスは真壁を見下ろした。


「脅しか」


「違います」


 真壁は首を振る。


「俺は、権限とか政治とか分かりません。でも、アルゴさんがそれを狙ったなら、そこにズレがあります」


 床に散らばった書類を見る。


「そのズレを見ないなら、俺は帰ります」


 ララが小さく息を呑んだ。


 真壁は続けた。


「俺を道具みたいに置いて、危ない時だけ見ろって言うなら、俺は見ません。見るかどうかは、俺が決めます」


 沈黙。


 ガレウスが真壁を見る。


 長い沈黙の後、老人は低く言った。


「……見せろ」


 役人が驚く。


「顧問、それは」


「見せろと言った」


 書類が真壁の前へ運ばれる。


 真壁はそれを見る前に、ララへ視線を向けた。


「ララさん」


「何だ」


「見る範囲、決めてください」


 ララは一瞬だけ目を細め、それから頷いた。


「表題と署名だけ見ろ。本文はまだ読むな」


「はい」


 真壁は書類を見る。


 表題。


『北方戦役臨時収容施設・術式再利用計画報告』


 署名。


 ガレウス・ノート。


 そしてもう一人。


 セイル・グランツ。


 真壁の呼吸が止まった。


 セイルが静かに目を伏せる。


 ララの剣を握る手に力が入る。


 ガレウスは、表情を変えない。


 真壁はかすれた声で言った。


「……セイルさん」


 セイルは静かに答えた。


「はい」


「あなたも、関わってるんですか」


 セイルは微笑まなかった。


 初めて。


 完全に、笑わなかった。


「ええ」


 部屋の空気が、さらに冷たくなる。


「私は、アルゴの後継観測者です」


 その言葉が、評議会棟の静けさの中へ落ちた。


 真壁は書類から目を離せなかった。


 分類される側から外れたと思った。


 だが、盤面はさらに深かった。


 セイル・グランツ。


 観測官。


 評議会の猟犬。


 そして、アルゴの後継観測者。


「……最悪だ」


 真壁は呟いた。


 だが、その声は震えながらも、逃げてはいなかった。

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