第37話
王都評議会特別顧問、ガレウス・ノート。
その名前を聞いてから三日後。
真壁悠は、騎士団宿舎の食堂で、焼いた芋を半分に割りながら死んだ目をしていた。
「嫌だなぁ……」
声に力がない。
向かいに座るララは紅茶を飲みながら、淡々と答えた。
「まだ会うと決まったわけではない」
「でも会う流れですよね」
「可能性は高い」
「つまり、ほぼ会う」
「そうとも言う」
真壁は机へ突っ伏した。
「俺、偉い人苦手なんですよ」
「知っている」
「しかも絶対あれですよね。“善意でした”って顔で面倒押し付けてくるタイプ」
「……その可能性は否定できない」
「嫌すぎる」
真壁は芋を口へ放り込む。
最近、少し食事量が増えた。
王都へ来たばかりの頃は、常に緊張で胃が縮み、まともに食べられない日も多かった。だが今は、少なくとも騎士団宿舎の中なら、多少は気が抜ける。
慣れ。
それは恐ろしい。
真壁は最近、自分が“外”へ慣れ始めていることに気づいていた。
もちろん好きではない。人混みも嫌いだし、大声も苦手だし、視線も落ち着かない。だが、以前のように「外へ出ただけで呼吸が詰まる」ほどではなくなっていた。
代わりに増えたのは、“違和感”だった。
人の歩き方。
空気の流れ。
視線の止まり方。
音の重なり。
以前は情報量が多すぎて全部ノイズだったものが、最近は逆に細かく見え始めている。
それが良いことなのか悪いことなのか、真壁にはまだ分からない。
「そういえば」
ララが紅茶を置いた。
「今日は街へ出る」
真壁の顔が曇る。
「なんでですか」
「巡回補助だ」
「嫌な単語が聞こえた」
「安心しろ。戦闘任務ではない」
「巡回も十分嫌です」
「お前を正式に騎士団へ所属させる気はない。だが、最近の件で街側の警戒が強まっている。収容所跡の件も含め、空気を見ておきたい」
「空気って言い方、急に俺みたいですね」
「多少は影響を受ける」
「やめてください。俺の影響、ろくなもんじゃないので」
ララは少しだけ笑った。
その時、食堂の扉が勢いよく開いた。
「おー、いたいた」
ヴォルフだった。
相変わらず外套は適当、髪も寝癖のまま、だが妙に周囲へ溶け込んでいる。真壁は最近ようやく分かってきた。この男は“目立つのに目立たない”。
視線を向ければ確かにいる。
だが、意識を切れば途端に背景へ沈む。
あれは技術だ。
しかも、おそらく無意識ではない。
「朝から来ないでください」
「酷くね?」
「窓から入ってこないだけマシだと思ってください」
「今日はちゃんと扉だぞ」
「そこを褒める世界嫌だなぁ」
ヴォルフは勝手に椅子を引き、真壁の隣へ座った。
「で、今日の予定聞いたか?」
「街へ出るらしいです」
「お、じゃあ丁度いい」
嫌な予感がした。
真壁は即座に顔をしかめる。
「丁度よくない話ですよね」
「評議会側も動き始めた」
「うわぁ……」
最悪だった。
「昨日から、収容所跡関連の聞き取りが急に増えてる。ギルドにも、騎士団にも、街の商人にもな」
ララの表情が少し硬くなる。
「早いな」
「むしろ遅いくらいだ。地下見つかった時点で動くと思ってた」
「ガレウス本人か」
「直属かは知らん。でも、“過去の戦時資料への接触制限”って通達まで出た」
真壁は頭を抱えた。
「隠す気満々じゃないですか」
「だろ?」
「俺、こういうの嫌いなんですよ」
「知ってる」
「絶対“お前は知らなくていい”って感じで来るやつじゃないですか」
ヴォルフは少し笑った。
「鋭くなってきたな」
「嫌な方向にだけ」
ララが立ち上がる。
「準備するぞ。巡回は予定通り行う」
「行くんですね」
「空気を見る必要がある」
真壁は嫌そうな顔のまま立ち上がった。
「俺、最近ちょっと分かるんですよ」
「何がだ」
「嫌な予感って、大体当たる」
ヴォルフが吹き出した。
「はは、違いねえ」
◇
王都中央区。
昼前の大通りは、今日も人が多かった。
商人。
荷運び。
旅人。
騎士。
露店。
子ども。
雑音。
匂い。
視線。
真壁は相変わらずララの半歩後ろを歩いていた。
ララは今日は鎧姿だった。
銀の胸甲。青い外套。腰の細剣。
人混みの中でも目立つ。だが、その目立ち方には不思議な安心感がある。少なくとも、真壁にとっては。
「……人多い」
「今日はまだ少ない方だ」
「嘘ですよね?」
「本当だ」
「終わった」
ヴォルフは少し離れた位置を歩いている。
護衛という感じではない。
むしろ“偶然そこにいる通行人”に近い。だが、真壁には分かる。あれは周囲全部を見ている歩き方だ。
人とぶつからない。
視線を止めない。
でも、全部知っている。
あれもまた、真壁とは別方向の異常だった。
「……ん?」
その時、真壁は足を止めた。
ララが振り返る。
「どうした」
「今、変な音しました」
「音?」
真壁は周囲を見る。
露店。
馬車。
人混み。
普通の通り。
だが、何かが引っかかった。
「……違うな」
「何だ」
「音じゃない」
真壁は目を細めた。
「ズレてる」
ララの手が自然に剣へ近づく。
「どこだ」
「分からないです。でも、なんか……流れがおかしい」
「流れ?」
「人の避け方が変です」
ララはすぐ周囲を見渡した。
普通の騎士なら分からなかったかもしれない。
だが、ララは真壁の“ズレ感覚”を何度も見てきた。だから否定しない。
「具体的には」
「人が、同じ場所を避けてる」
真壁は通りの奥を指差した。
「あそこ」
広場へ続く石畳。
一見、何もない。
だが、よく見ると、人の流れが微妙に歪んでいる。
誰も立ち止まらない。
誰も触れない。
自然に避けている。
そこだけ、空白がある。
ヴォルフの顔から笑みが消えた。
「……おい」
彼の声が低くなる。
「下がれ」
「え?」
次の瞬間だった。
――ドン!!
爆音。
石畳が内側から吹き飛んだ。
真壁の視界が揺れる。
土煙。
悲鳴。
飛び散る石。
人が倒れる。
だが、その瞬間。
真壁の右手が動いていた。
――パツン。
飛来した石片が、空中で消える。
もう一つ。
――パツン。
鋭い破片が砕ける。
真壁自身は、何をしているのか分かっていない。ただ、“来る場所”へ手を置いているだけだ。
「避難しろ!!」
ララの声が通りへ響く。
その瞬間、煙の中から黒い影が飛び出した。
人間。
黒装束。
短剣。
一直線に、ララへ。
「っ!」
ララが剣を抜く。
鋼と鋼がぶつかる。
火花。
だが、相手は止まらない。
速い。
しかも、一人ではない。
煙の中からさらに二人。
「狙いは隊長か!」
ヴォルフが舌打ちする。
真壁は硬直した。
怖い。
無理。
無理無理無理。
だが、身体は違うものを見ていた。
短剣の軌道。
重心。
踏み込み。
殺気。
そして。
「……ララさん!」
真壁は叫んだ。
「右、入っちゃ駄目です!!」
ララの身体が反応する。
反射的に右へ踏み込もうとしていた足を止める。
次の瞬間。
そこへ、石畳の下から細い針が飛び出した。
「!」
ララの目が見開かれる。
罠。
もし踏み込んでいたら、足裏を貫かれていた。
その一瞬の停止。
だが、敵はそこを狙っていた。
背後。
黒装束の一人が、死角から短剣を振る。
「ララ!!」
ヴォルフが動く。
間に合わない。
真壁の視界が、妙に静かになった。
短剣。
首筋。
ララの体勢。
敵の肘。
刃の重み。
全部見える。
「そこ」
真壁の拳が動いた。
――パツン。
短剣の刃が消えた。
「な――」
黒装束が目を見開く。
ララの剣が、そのまま相手の胴を叩き飛ばした。
轟音。
男が石畳を転がる。
残る二人が一瞬怯む。
その隙にヴォルフが踏み込んだ。
速い。
真壁ですら、一瞬見失う。
気づいた時には、黒装束の一人が地面へ沈んでいた。
喉。
肘。
膝。
最短。
最小。
迷いがない。
最後の一人が逃げようとする。
だがララの剣がその前へ滑り込んだ。
「動くな」
冷たい声。
男は止まった。
いや、止まらざるを得なかった。
首筋へ向けられた細剣が、一切ブレていない。
通りに静寂が落ちる。
煙が流れ。
悲鳴が遠ざかり。
騎士たちが駆けつける。
真壁はその場でへたり込んだ。
「……死ぬかと思った」
ララが振り返る。
「無事か」
「精神は無事じゃないです」
「身体は」
「たぶん」
ヴォルフが倒れた黒装束を蹴って確認する。
「毒持ちだな」
「毒?」
真壁の顔が青くなる。
「え、さっきの針?」
「ああ。掠っただけでも危ねえやつだ」
「うわぁ……」
真壁は心底嫌そうな顔をした。
「やっぱり嫌な予感当たったじゃないですか」
ララは短く息を吐いた。
「助かった」
「いや、俺ほぼ叫んだだけで」
「それで十分だ」
真壁はララを見る。
彼女の右足。
もし、あの時踏み込んでいたら。
たぶん、終わっていた。
そう思った瞬間、胃が冷たくなる。
「……あの」
「何だ」
「ララさん」
真壁は少し迷ってから言った。
「ズレの中、入らない方がいいです」
「ズレ?」
「さっきの。ああいう変な空白」
真壁は通りを見る。
「人って、危ない場所を無意識で避ける時あるんですよ」
ララは静かに聞いている。
「俺、最近それが少し見えるんです。流れの中で、そこだけ変な場所」
「……なるほど」
「だから、直感で“なんか嫌だ”って思った場所には、なるべく入らない方がいいです」
ヴォルフが笑う。
「感覚論だなぁ」
「でも当たったじゃないですか」
「当たった」
ララは少し考えたあと、真壁を見る。
「どうやって見ている」
「分かりません」
「感覚か」
「はい。でも……」
真壁は少し考えた。
「無理に見ようとすると駄目です」
「?」
「流れを追うと、逆に分からなくなる」
ララの目が細くなる。
それは、以前真壁が紐について話した内容と似ていた。
「見るな、ということか」
「正確には、“追わない”です」
真壁は空中へ指を動かす。
「狙うと遅れる。だから、全体をぼんやり見る。すると、変な場所だけ浮く」
ララは黙った。
彼女は剣士だ。
だから分かる。
その感覚は、理屈としては無茶苦茶だ。だが、一流ほど理解できる部分がある。
“集中しすぎると逆に遅れる”。
それは戦闘でも起こる。
「……試してみる」
ララは静かに言った。
真壁は驚く。
「え、やるんですか」
「ああ」
「俺の変な感覚ですよ?」
「お前の変な感覚に、さっき命を救われた」
真壁は言葉に詰まった。
ヴォルフが肩を揺らす。
「師匠っぽくなってきたな」
「やめてください」
「もう無理だろ」
「嫌です。弟子とか責任発生するので」
「そこなんだよなぁ」
その時。
捕縛された黒装束が、小さく笑った。
全員の空気が変わる。
「……何がおかしい」
ララが冷たく問う。
男は血を吐きながら笑う。
「もう、遅い」
ヴォルフの目が細くなる。
「何がだ」
「評議会は……もう動いてる」
男の口元から黒い液体が流れた。
「っ、自害毒!」
ララが駆け寄る。
だが、遅い。
男は痙攣し、そのまま動かなくなった。
通りの空気が重く沈む。
真壁は青ざめた。
「……うわ」
ヴォルフが低く舌打ちする。
「最悪だな」
ララは立ち上がった。
その顔は、いつもより遥かに冷えていた。
「評議会側が直接動いた可能性が高い」
「ですよね」
真壁は頭を抱えた。
「なんか急に国家陰謀みたいになってません?」
「元からだろ」
ヴォルフが言う。
「お前、収容所の地下見つけた時点で、もう巻き込まれてんだよ」
真壁は空を見上げた。
青い。
平和そうだ。
なのに全然平和じゃない。
「……四畳半帰りたい」
ララが真壁を見る。
「帰ったら、おそらくお前はもう外へ出られなくなる」
「それはかなり魅力的」
「だが、今は無理だ」
「ですよねぇ……」
真壁は深くため息を吐いた。
だが、その視線は自然と、さっき罠があった石畳へ向く。
空白。
ズレ。
流れの歪み。
ララは、真壁の横で静かにその場所を見ていた。
そして、ほんの少しだけ。
彼女の立ち方が変わっていた。
以前より、“空間全体”を見ている。
真壁はそれに気づき、少しだけ変な顔をした。
「……本当にやるんだ」
「何をだ」
「俺の感覚」
「有効だった」
「でも理論とかないですよ?」
「なら、感覚から覚える」
ララは静かに答える。
「剣も最初はそうだ」
真壁は困ったように頭を掻いた。
自分の暇潰しから生まれた感覚が、王都騎士団第三隊長へ伝わろうとしている。
意味が分からない。
だが。
ほんの少しだけ。
悪くないとも思ってしまった。




