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第36話


 収容所跡の地下から戻った翌日、真壁悠は朝食の肉を見ても、すぐには手を伸ばせなかった。


 肉は二切れあった。さらに、卵らしきものを焼いた料理までついている。明らかに普段より豪華だった。ララ・バーンが気を回したのか、騎士団の食堂が昨日の件を重く見たのか、それともヴォルフが何か言ったのかは分からない。分からないが、いつもの真壁なら「神」と言ってから即座に食べていたはずだ。


 だが、その朝の真壁は、盆の前で固まっていた。


 昨日見たものが、胃の底に残っている。


 地下の円形部屋。


 作業台の上に置かれた、人の形を真似た何か。


 骨のような白い部品。金属の関節。銀糸。胸に重ねられた何枚もの認識票。動かされた腕。光りかけた名前。乾いた「パツン」という音。


 そして、アルゴの声。


『君なら、私を直せるか』


 真壁は木製のフォークを持ったまま、深く息を吐いた。


「……朝から思い出すものじゃない」


 呟いた声は、自分で思ったより弱かった。


 コン、コン。


 扉が鳴る。


「起きているか」


 ララの声だった。


「起きてはいます」


「入るぞ」


「はい」


 扉が開き、ララが入ってくる。今日の彼女は軽装だった。剣はあるが、鎧ではない。現場へ行く格好ではない。そのことに、真壁は少しだけ安心した。


 ララは盆の上を見て、まだほとんど手がついていないことに気づいた。


「食べられないか」


「食べたい気持ちはあります」


「なら、少しでいい」


「そうします」


 真壁は卵を少し切って口に運んだ。


 味はする。


 昨日よりは遠いが、完全に消えてはいない。


「……うまいです」


「それはよかった」


 ララは椅子に座った。話がある時の姿勢だが、今日はすぐには切り出さなかった。真壁が少しずつ食べるのを待っている。こういう待ち方をされると、逆に申し訳なくなる。


「今日、行くんですか」


 真壁の方から聞いた。


「地下へは行かない」


「本当ですか」


「ああ」


「神」


「騎士だ」


 返しはいつも通りだった。


 それだけで、少し息がしやすくなる。


「ただし、後始末は始まる」


「ですよね」


 分かっていた。


 昨日、地下で見たものを、そのまま封鎖して終わりにはできない。そう決めた。真壁自身も、そう言った。直せない。だが、なかったことにはしない。つまり、そこから先の面倒な作業が始まるということだ。


「地下の部屋は、今朝から騎士団と記録班が封鎖管理している。ギルド技師は外周のみ。内部へ入るのは、精神負荷に耐えられる者に限る」


「精神負荷って言い方、事務的だけどかなり嫌ですね」


「他に言い方がない」


「あります。見たらかなり駄目になる部屋」


「それでは報告書に書きづらい」


「たしかに」


 真壁はスープを飲んだ。


 温かいものが胃へ落ちる。


 少しだけ、身体が現実へ戻る。


「で、後始末って何をするんですか」


「まず、あの作業台に組み込まれていた認識票の確認。次に、骨片や所持品らしきものの分類。可能であれば、元の人物ごとに分ける」


 真壁はフォークを置いた。


 胸の奥が重くなる。


「……分ける」


「ああ」


「昨日、ヴォルフさんが言ってたやつですね」


「そうだ。材料ではなく、誰のものだったかを戻す」


 材料。


 その言葉が嫌だった。


 あの失敗作は、誰かの名前や骨や記録を材料として扱っていた。修理のために。蘇生のために。あるいは、アルゴの言う“戻す”ために。


 だが、人は材料ではない。


 真壁は昨日、そう言った。


 なら、今度はそれを実際にやらなければならない。材料にされたものを、材料ではなく、名前へ戻す。個人へ戻す。少なくとも、混ぜられたままにはしない。


「俺もやるんですか」


「無理ならやらなくていい」


「……その言い方、ずるいです」


「ずるいか」


「強制されたら嫌だって言えるのに、やらなくていいって言われると、考えちゃうじゃないですか」


 ララは少し黙った。


「すまない」


「謝らないでください。責めづらいので」


 真壁は天井を見た。


 行きたくない。


 見たくない。


 触りたくない。


 でも、あのままにしておくのはもっと嫌だ。


「……現物は見ないで、記録だけなら」


 真壁は言った。


「できます。たぶん」


「それでいい。記録班が写しを作る。お前には、認識票の名前と地下の配置図だけ確認してもらう」


「配置図」


「どの認識票が、どこに組み込まれていたかだ」


 真壁は顔をしかめた。


「それ、見たくないやつです」


「分かっている」


「でも、必要なんですね」


「ああ」


「ですよね」


 真壁は残りの肉を口に入れた。


 噛む。


 飲み込む。


 食べることは、今日も何とかできた。


   ◇


 午前の小会議室には、昨日の地下の写しが並べられていた。


 現物はない。


 それはララが約束してくれた。机の上にあるのは、記録班が描いた簡略図と、認識票の写しだけだ。骨片や部品の詳細な絵は伏せられている。真壁が見る必要のあるものだけ、できるだけ情報を絞ってある。


 それでも、十分にきつかった。


 中央の作業台を上から見た図。


 胸部に重ねられていた認識票の位置。


 左腕の金属関節に結ばれていた札。


 右肩の支柱に挟まれていた名簿片。


 床の溝に絡んでいた小さな身元札。


 図面という形になっても、そこには明らかに人を材料として配置した意図が残っていた。


「……気持ち悪い」


 真壁は低く呟いた。


 ララは隣に立っている。


 ヴォルフは壁際にいる。今日は窓からではなく、最初から部屋にいた。外套の襟を立て、腕を組んでいる。表情はいつもより薄い。


 記録官が慎重に言った。


「無理であれば、すぐ中断します」


「大丈夫じゃないですけど、やります」


 真壁は図を見る。


「まず、名前が読める認識票から」


「はい」


 記録官が紙を出す。


 名前が並んでいた。


 兵士。


 捕虜。


 医療担当。


 工兵補助。


 所属不明。


 一つずつ、読み上げる。


 昨日、診療小屋で名前を読んだ時と似ていた。だが今回は、もっと嫌だった。あの失敗作に組み込まれていたという事実があるからだ。名前を読むたび、その人がどこかの部位に使われていたことを思い出してしまう。


「……これ、順番がおかしいです」


 真壁は言った。


 ララが見る。


「どういう意味だ」


「配置が、身体の場所と関係ない。腕だから腕を失った人、とかじゃない。たぶん、名前の響きとか、認識票の重さとか、金属の状態で選んでる」


「術式上の都合か」


「たぶん」


 真壁は顔をしかめる。


「人としてじゃなくて、部品として選んでる感じです」


 部屋の空気が沈む。


 ヴォルフが低く言った。


「アルゴらしいな」


「らしいって言えるのが嫌ですね」


「ああ」


 記録官が別の写しを出す。


「こちらは認識票の裏面です。いくつかに追加の刻印がありました」


「追加」


 真壁は嫌な予感を覚えた。


 紙には、認識票の裏に刻まれていた短い記号が写されていた。


 戻す。


 足りない。


 繋がらない。


 声なし。


 名前あり。


 骨なし。


 反応弱い。


 失敗。


 失敗。


 失敗。


 真壁は途中で目を閉じた。


「……実験記録だ」


 ララの声が冷たくなる。


「ああ」


 ヴォルフが答える。


「こいつらを、一人ずつ試したんだろうな」


「やめてください」


 真壁は思わず言った。


「分かってるけど、言わないでください」


「悪い」


 ヴォルフはすぐ謝った。


 珍しく、茶化さなかった。


 真壁は紙を見た。


 失敗。


 失敗。


 失敗。


 その文字が、認識票の裏に刻まれている。


 人の名前の裏に、失敗。


 それが、どうしようもなく腹立たしかった。


「……この文字、消せませんか」


 真壁が言う。


 記録官が戸惑う。


「刻印を物理的に削ることは可能ですが、証拠としては」


「あ、いや、今じゃなくて。記録が終わったら」


 真壁は自分でも声が低くなっているのを感じた。


「名前の裏に失敗って残したくないです」


 ララが真壁を見る。


 しばらくして、静かに頷いた。


「記録後、遺族返還分については相談する。少なくとも、失敗という記載をそのまま晒す必要はない」


「はい」


 ヴォルフが壁際で小さく笑った。


 真壁が見ると、彼は肩をすくめる。


「いや、いいと思ってな」


「何がですか」


「怒る場所が、だいぶお前らしくなってきた」


「褒めてます?」


「かなり」


「……なら、受け取っておきます」


 真壁はまた図へ目を落とした。


 作業は続いた。


 名前を読む。


 配置を確認する。


 部品ではなく、人として分ける。


 簡単な言葉にすればそれだけだが、実際には時間がかかった。一つの認識票が複数の糸に繋がれている。名簿片と認識票が食い違う。所属が削られている。名前の綴りが違う。骨片との対応は専門家でなければ分からない。


 それでも、一つずつ進める。


 真壁は、自分が何をしているのか分からなくなる瞬間があった。


 修理ではない。


 調査でもない。


 弔いという言葉も、少し違う気がする。


 ただ、混ぜられたものを分けている。


 材料にされた名前を、人へ戻している。


「……名前を分ける」


 真壁は小さく言った。


 ララが聞く。


「何だ」


「今日やってることです。名前を分けてる」


「そうだな」


「変な作業ですね」


「だが、必要な作業だ」


「はい」


 必要。


 その言葉は重いが、今日は少しだけ嫌ではなかった。


   ◇


 昼過ぎ、真壁は限界を迎えた。


 自分で分かった。


 文字が滑り始める。名前が名前として頭に入らなくなる。図面の線が糸に見え、糸が人の血管のように見え、胃が冷たくなる。これは駄目な兆候だ。


「……限界です」


 真壁が言うと、ララは即座に頷いた。


「中断する」


 本当に即座だった。


 記録官もすぐ紙を伏せる。


 ヴォルフも何も言わない。


 真壁は椅子の背にもたれ、深く息を吐いた。


「……助かります」


「今日は十分だ」


 ララが言う。


「十分進んだんですか」


「ああ。少なくとも、十七名分は分けられた」


「十七名」


 その数字を聞いて、真壁は胸が少し重くなった。


 十七名。


 まだ全部ではない。


 だが、十七人分の名前が、材料から人へ戻った。


「……少しは、意味ありましたかね」


「ある」


 ララは即答した。


「断言する」


「そこまで言います?」


「言う」


 真壁は少しだけ目を伏せた。


「なら、よかったです」


 その時、扉が叩かれた。


 若い騎士が入ってくる。


「ララ隊長。オルデン・リースの聴取準備が整いました」


 真壁の肩が少し強張った。


 ララがすぐ言う。


「真壁は休ませる」


「はい」


 騎士は頷いたが、少し迷う顔をした。


 ララの目が細くなる。


「何かあるのか」


「オルデンが、真壁殿の同席を求めています」


「嫌です」


 真壁は反射で言った。


 即答だった。


 ララも騎士へ言う。


「却下だ」


「しかし、本人が、真壁殿がいなければ話さないと」


「なら話すまで待つ」


 ララの声は冷たかった。


 真壁は少し驚いた。


「いいんですか」


「お前は限界だと言った」


「言いました」


「なら休む」


「でも、情報が」


「情報は重要だ。だが、お前を削ってまで今すぐ得るものではない」


 真壁は黙った。


 ララの言葉は強かった。


 強すぎて、少し困る。


 ヴォルフが壁際から口を出した。


「俺が行く」


 ララが見る。


「お前が?」


「ああ。オルデンの爺さん、俺なら話すかもしれねえ」


「逆に話がこじれる可能性もある」


「それもある」


「認めるな」


 ヴォルフは小さく笑った。


「でも、真壁を今連れてくよりはマシだろ」


 ララは少し考えた。


「私も同席する」


「そう来ると思った」


「真壁は部屋で休め」


「はい」


 真壁は素直に頷いた。


 本当に、これ以上は無理だった。


 ララとヴォルフが出ていく。


 会議室に、記録官と真壁だけが残った。


 記録官は遠慮がちに言う。


「お茶をお持ちしましょうか」


「お願いします」


 遠慮なく頼んだ。


 温かいものが必要だった。


   ◇


 オルデン・リースの保護室は、騎士団宿舎の奥にあった。


 牢ではない。


 だが自由でもない。


 窓には格子、扉の外には騎士、室内には最低限の家具。医療保護という名目に合わせ、寝台と椅子、机、湯の入った器が置かれている。オルデンは椅子に座っていた。昨日より老けたように見える。背筋はまだ伸びているが、目の奥の鋭さは鈍っていた。


 ララとヴォルフが入ると、オルデンは顔を上げた。


「真壁悠は」


「休ませている」


 ララが答える。


「彼を呼べ」


「呼ばない」


「私は彼に話す」


「なら話さなくていい」


 ララの返答は容赦なかった。


 ヴォルフが壁にもたれる。


「振られたな、爺さん」


「黙れ、傭兵崩れ」


「お、元気じゃん」


 ララがヴォルフを睨む。


「煽るな」


「はいはい」


 オルデンはしばらく黙り、それから低く言った。


「君たちは分かっていない」


「何を」


 ララが問う。


「あの男は、真壁悠と話したがっている」


「アルゴか」


「あれをまだアルゴと呼ぶならな」


 ララの目が鋭くなる。


「どういう意味だ」


 オルデンは手元を見た。


「私が知るアルゴは、確かに狂っていた。だが、あれほどではなかった」


「今のアルゴは別人だと?」


「分からん」


「曖昧な言い方だな」


「本当に分からないのだ」


 オルデンの声が少し震えた。


「収容所の地下で、彼は死んだ。少なくとも、私が知る彼はあそこで終わった」


 ヴォルフの表情が消える。


「それを詳しく話せ」


 オルデンは目を閉じた。


「アルゴは、失われた兵を戻す術式を研究していた。上層部は黙認した。戦況は悪かった。兵は足りず、士気は落ち、北方戦線は崩れかけていた。死者を戻せる可能性があるなら、誰も止めたがらなかった」


「お前も止めなかった」


 ヴォルフの声は冷たい。


「ああ」


 オルデンは認めた。


「私は止めなかった。止めるべきだった。だが、成果が出れば戦争が変わるかもしれないと考えた」


「結果は」


「失敗だ」


 部屋が静まる。


「名前は反応した。認識票も、骨片も、名簿も、術式糸も。だが戻らなかった。戻ったのは、形だけだ。声もなく、意志もなく、ただ反応するだけのものだった」


 ララは黙って聞いている。


「アルゴは、それでも諦めなかった。足りないものを探し続けた。魂、記憶、名前の重み、死の直前の声。彼は何かを足せば戻せると信じていた」


「そして?」


 ヴォルフが問う。


「最後の実験で、彼は自分自身を術式へ接続した」


 ララの眉が動く。


「自分を?」


「そうだ。生者を媒介にすれば、死者の側へ橋をかけられると言った。狂気だ。私は止めようとした。遅すぎたがな」


「何が起きた」


 オルデンは震える息を吐いた。


「地下が崩れた。術式が暴走した。認識票が鳴り、銀糸が全て彼へ繋がった。彼は叫んでいた。戻せる、今度こそ戻せる、と」


 ヴォルフの拳が握られる。


「その後は」


「分からない。爆発と崩落で、地下は閉じた。私は地上へ逃げた。後で認識票と針具を見つけた。彼のものだった」


「遺体は」


「見ていない」


 沈黙。


「だが、彼は死んだことにしなければならなかった」


 ララが言う。


「なぜ」


「上が命じた。実験など存在しなかった。失敗作もなかった。アルゴは敵の爆発事故で死んだ。それで処理しろと」


「誰が命じた」


 オルデンは口を閉じた。


 ララの声がさらに低くなる。


「誰だ」


「当時の王都軍務局長、ガレウス・ノート」


 ヴォルフが低く舌打ちした。


「まだ生きてるのか」


「生きている。今は王都評議会の特別顧問だ」


 ララの顔が硬くなる。


「評議会の中枢か」


「ああ」


 オルデンは疲れたように椅子へ沈んだ。


「生者の嘘は、私だけではない」


   ◇


 真壁がその報告を聞いたのは、少し休んだ後だった。


 ララは約束通り、すぐには呼ばなかった。夕方近くになり、真壁が茶を飲み、焼き菓子を少し食べ、顔色が戻ってから、必要な部分だけを説明してくれた。


 アルゴは自分自身を術式へ接続した。


 地下で暴走が起きた。


 遺体は見つかっていない。


 死亡処理は上層部の命令。


 命じたのは、ガレウス・ノート。


 現在、王都評議会特別顧問。


 真壁は黙って聞いていた。


 聞き終わったあと、頭を抱えた。


「……終わったと思ったら上が出てくる」


「むしろ、最初から上に繋がっていたのだろう」


 ララが言う。


「アルゴさんは、自分を直してほしいんじゃなくて、そこまで読ませたかった?」


「可能性はある」


「でも、地下で待つって言ったし、俺なら直せるかって」


「それも本心かもしれない」


 ララは静かに答えた。


「複数の目的が重なっているのだと思う」


 真壁は深く息を吐いた。


 アルゴが何者なのか、少し見えてきた。


 本人かもしれない。


 だが、地下の暴走で何かが変わった可能性がある。


 死んだはずの針工師。


 名前だけが残ったのではない。


 生者だった彼自身が、死者を戻すための術式に接続され、そのまま壊れた。


 今動いているアルゴは、あの時の本人なのか。


 それとも、術式に焼きついた何かなのか。


 まだ分からない。


 だが、一つだけはっきりした。


「……ガレウスって人、絶対嫌な人ですよね」


 ララは少しだけ目を伏せた。


「評議会特別顧問だ。影響力は大きい」


「つまり、会いたくないタイプ」


「そうだな」


「会うんですよね」


「いずれは」


「ですよね」


 真壁は机に突っ伏した。


「偉い人、苦手なんですけど」


「知っている」


「しかも、たぶん責任逃れが上手い人ですよね」


「おそらく」


「最悪」


 ララは少しだけ沈黙した後、言った。


「だが、今日はもう終わりだ」


「本当に?」


「ああ」


「神」


「騎士だ」


 真壁はその返しに、少しだけ笑った。


 笑える程度には戻ってきた。


 その時、窓の外から声がした。


「俺も報酬出すって言ったよな」


 ヴォルフだった。


 いつもの窓枠。


 いつもの外套。


 少しだけ疲れた顔。


 真壁はため息を吐く。


「今日は扉から来る流れじゃなかったんですか」


「もう日常に戻った」


「戻らなくていい日常」


 ヴォルフは窓枠に小さな袋を置いた。


 金属音。


 硬貨だ。


「約束分」


「本当に出すんですか」


「言ったからな」


「じゃあ、ありがたく」


 真壁は袋を見た。


 重そうだ。


 少しだけ元気が出る。


 自分でも現金だと思う。


 でも、金は大事だ。


 ヴォルフは真壁を見た。


「今日、お前が止めたあれ」


「失敗作ですか」


「ああ。あれを壊さず止めたのは、よかった」


「壊すの、嫌だったので」


「俺は壊したかった」


 ヴォルフは静かに言った。


「見た瞬間、壊して終わりにしたかった。でも、お前が止めた」


「……壊しても、終わらなかったんですかね」


「たぶんな」


 ヴォルフは窓の外を見る。


「ありがとな」


 真壁は言葉に詰まった。


 ヴォルフがそんなふうに言うのは、ずるい。


「……報酬もらったので」


「そういうことにしとくか」


「はい」


 ララが少しだけ笑った。


 部屋の中に、ほんのわずかな静けさが戻る。


 その静けさは、地下のものとは違った。


 冷たくない。


 息ができる。


 真壁は机の上の二つの報酬袋を見た。


 騎士団からの分。


 ヴォルフからの分。


 かなり重い。


 疲れた。


 怖かった。


 見たくないものを見た。


 だが、名前を分けた。


 失敗作を壊さず止めた。


 直せないと言った。


 そして、アルゴの奥にいる別の名前が見えた。


 ガレウス・ノート。


 王都評議会特別顧問。


 真壁はその名前を心の中で繰り返し、顔をしかめた。


「……また宿題だ」


 ララが言う。


「明日以降でいい」


「今日は?」


「休め」


 真壁は深く息を吐いた。


「本当に神」


「騎士だ」


 いつもの言葉。


 それに、ヴォルフが小さく笑う。


 真壁も少しだけ笑った。


 直せないものは、直せない。


 だが、混ざった名前を分けることはできた。


 失敗作を壊さず、止めることはできた。


 そのことが、ほんの少しだけ、真壁の中の冷たいものを緩めていた。


 完全には消えない。


 消えるはずもない。


 それでも、今日は眠れるかもしれない。


 そう思えただけで、十分だった。

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