第35話
翌朝、真壁悠は目覚めた瞬間から帰りたかった。
これはいつものことではある。異世界に来てからというもの、真壁はだいたい目覚めるたびに帰りたいと思っている。石造りの天井を見るたび、四畳半の黄ばんだ天井が恋しくなる。窓の外から聞こえる騎士団宿舎の足音を聞くたび、古い冷蔵庫の低い唸りが恋しくなる。朝食の匂いを嗅ぐたび、ネットスーパーで買った安いカップ麺の存在が恋しくなる。人間とは不思議なもので、あれほど何もなかった部屋でも、失ってみれば帰る場所に思えるらしい。
だが、今日の帰りたいは少し違った。
身体の底に、冷たいものが沈んでいる。
行き先が分かっているからだ。
北方戦役臨時収容施設跡。
その地下。
ヴォルフが「失敗作」と呼んだものがある場所。
そしてアルゴが、待つと言った場所。
『地下で待つ。君なら、私を直せるか』
昨夜、扉の下から滑り込んできた金属片の文字が、まだ頭の中に残っている。
真壁は寝台の上で膝を抱え、しばらく動かなかった。動かなければ朝が進まないならよかった。だが現実は残酷で、動かなくても時間は勝手に進む。廊下の足音は増え、遠くで食堂の準備が始まり、窓の外の光は少しずつ明るくなる。
「……今日だけ時間止まらないかな」
呟いてみる。
止まらない。
当然だった。
コン、コン。
扉が鳴った。
真壁は布団を頭までかぶる。
「いません」
「声がした」
ララ・バーンの声だった。
「いません」
「いる」
「存在を否定したい日なんです」
「分かる」
分かるのか。
真壁は布団の中で少しだけ目を開けた。
扉が開く。ララが入ってくる気配。盆の音。朝食の匂い。パン、スープ、肉。肉は二切れ。さらに、焼き菓子が一つある。明らかに通常より待遇がいい。
「……最後の晩餐ですか」
「朝だ」
「そういう意味じゃなくて」
「生きて戻る」
ララは盆を机に置いた。
「そのために食べろ」
真壁は布団から顔を出す。
ララは完全な出動装備ではなかった。だが、いつもよりも重い装備だった。胸当て、籠手、厚手の外套、腰の剣。戦闘を想定している。あるいは、何が起きても動けるようにしている。
それだけで、今日の危険度が伝わってくる。
「ララさん」
「何だ」
「やっぱり危ないんですよね」
「ああ」
「ですよね」
「だが、行く人数は絞る。お前、私、ヴォルフ、騎士二名。外周には別動隊を置くが、地下へ入るのは少数だ」
「ギルド技師さんとか工務局の人は?」
「今回は連れて行かない。地下の状態が分からない。非戦闘員を増やす方が危険だ」
「俺は?」
「お前は非戦闘員だ」
「じゃあ」
「だが、お前でなければ読めない可能性が高い」
「便利に例外化されてる」
「すまない」
謝られると困る。
真壁は布団から出て、机へ向かった。スープは温かい。肉も温かい。食べる。食べなければならない。怖い時ほど、食べる。これは最近得た数少ない実用的な知恵だった。
ララは向かいに座らず、窓際に立っていた。外を見ている。ヴォルフが来るか警戒しているのかもしれない。だが今日は、ヴォルフは窓から来なかった。
代わりに、扉が普通に叩かれた。
コン、コン。
真壁は思わず顔を上げる。
「誰ですか」
「俺」
ヴォルフの声だった。
真壁はララを見る。
ララも少しだけ驚いた顔をしている。
「……扉から来た」
「珍しい」
ララが扉を開ける。
そこには、いつものくたびれた外套姿のヴォルフが立っていた。寝癖はそのまま。表情も軽い。だが、目だけは少し違った。眠そうな黄金の瞳の奥に、薄く硬いものがある。
「何だよ、その顔」
ヴォルフが言う。
「扉から来たのが衝撃で」
真壁が答える。
「今日はさすがにな」
「さすがに?」
「窓から入る気分じゃねえ」
それだけで、今日向かう場所の重さがまた増した。
ヴォルフは部屋に入らず、扉の外に立ったままだった。
「ほどき屋。飯食ったら行くぞ」
「食べても行きたくないです」
「俺もだ」
「ヴォルフさんも?」
「ああ」
即答だった。
その正直さが、かえって怖かった。
「なら中止にしません?」
「できるならな」
「ですよね……」
真壁は最後の肉を口に入れた。
味は分かる。
うまい。
だが、胃の底は冷たいままだった。
◇
収容所跡へ向かう馬車は、昨日より静かだった。
同行する騎士は二名。どちらもララが信頼しているらしい寡黙な騎士だった。余計な質問はせず、装備の確認だけを繰り返している。馬車の外周には別動隊がつき、一定距離を保ちながら進んでいた。アルゴの糸にまとめて捕まらないためだとララが説明した。
真壁はその説明を聞いて、ますます帰りたくなった。
窓の外には、王都の城壁が遠ざかっていく。
土道。
低い草。
灰色の空。
昨日見た景色と同じなのに、今日はさらに重く見える。
ヴォルフは御者台ではなく、馬車の中にいた。
珍しい。
真壁の向かい、ララの隣ではなく、斜め向かいに座っている。外を見るでもなく、目を閉じている。寝ているようにも見えるが、たぶん寝ていない。
「ヴォルフさん」
「何だ」
「地下、前に見たんですよね」
「ああ」
「行きたくないですよね」
「ああ」
「じゃあ、なんで行くんですか」
ヴォルフは目を開けた。
少しだけ考えるように、馬車の天井を見た。
「置いてきたからだな」
「何を」
「色々。見たものも、見なかったことにしたものも、助けられなかった奴らも」
声は軽くなかった。
「俺はあの時、地下を見て、封鎖した。報告は上げた。けど、それ以上は追わなかった。戦争中だったし、俺は傭兵だったし、できることなんて限られてた」
「それは、仕方ないんじゃ」
「そうだな」
ヴォルフは薄く笑った。
「仕方なかった。だから余計に嫌なんだよ」
真壁は何も言えなくなった。
仕方ない。
その言葉は便利だ。
でも、便利な言葉ほど後で重くなるのかもしれない。
ララが静かに言う。
「今回は見なかったことにはしない」
「ああ」
ヴォルフは頷いた。
「だから行く」
真壁は自分の手を見た。
自分は何のために行くのか。
直すためではない。
直せないと言うため。
なかったことにしないため。
言葉としては分かる。だが、実際に何ができるのかは分からない。地下にあるものを見て、自分は耐えられるのか。それも分からない。
「……俺、途中で駄目になるかもしれません」
「その時は戻る」
ララが言った。
「本当に?」
「ああ」
「でも地下で何か起きたら」
「命を優先する」
「俺の?」
「お前も、全員もだ」
ララはまっすぐ答えた。
「真壁。お前が読むことは重要だ。だが、お前が壊れてまで読む必要はない」
その言葉は、ありがたくて重かった。
真壁は小さく頷いた。
「はい」
◇
収容所跡は、昨日と同じ場所にあった。
当たり前だ。
だが、真壁はどこかで、なくなっていてくれないかと思っていた。風に吹かれ、夜のうちに崩れ、何もかも消えていてくれればいいと。そんな都合のいいことは起きない。壊れた石壁も、錆びた鉄柵も、傾いた立入禁止の看板も、そのままそこにあった。
門をくぐる。
空気が変わる。
昨日よりも、さらに冷たく感じた。
真壁は深く息を吸い、すぐに後悔した。湿った土、錆、古い木材、薬品の残り香、そして言葉にしづらい重い匂い。鼻の奥に残る。吐き出しても消えない。
「……もう帰りたい」
「まだ門だ」
ヴォルフが言う。
「門で帰りたい場所は帰った方がいいのでは?」
「正論だな」
「じゃあ」
「でも行く」
「ですよね」
昨日、認識票を見つけた診療小屋の前を通る。
今日は立ち止まらない。
真壁は視線を向けそうになり、ララがさりげなく歩く位置をずらした。視界を遮ってくれたのだと気づく。ありがたい。だが、その気遣いで、逆に昨日の認識票を思い出す。
名前。
死者。
アルゴの認識票。
真壁は唇を噛んだ。
ヴォルフが先頭を歩く。
収容所の奥、崩れた倉庫の裏手。そこに、草に埋もれた石階段があった。鉄の蓋が半分ずれ、古い封鎖札が貼られている。封鎖札は割れていた。最近割れたものではない。何年も前から、そのまま放置されていたように見える。
「ここだ」
ヴォルフが言った。
声が低い。
真壁は階段を見る。
下へ続いている。
暗い。
湿っている。
空気が動いていない。
階段の縁に、銀色の糸が一本だけ絡んでいた。
「……案内ですね」
真壁が言う。
ララが頷く。
「罠か」
「罠でもあります」
「どちらだ」
「両方です。たぶん、触らなければ動かない。でも、入るだけで見せたいものがある」
「つまり、入ること自体が誘導か」
「はい」
真壁は笑いそうになった。
嫌な笑いだった。
「招待されてますね」
「断るか」
ララが聞く。
真壁は少し黙った。
断りたい。
全力で断りたい。
だが、ここまで来て、断る方が気持ち悪い。階段の下にあるものを、また封鎖済みとして残す。その選択肢は、オルデンと同じ匂いがした。
「……行きます」
真壁は言った。
「本当に嫌ですけど」
ララは短く頷く。
「私が先頭に立つ」
ヴォルフが首を振る。
「いや、俺だ。中を少し覚えてる」
「覚えているなら、お前が崩れる可能性もある」
「騎士さん、言うようになったな」
「事実だ」
ヴォルフは薄く笑った。
「なら、俺が半歩先。ララが横。ほどき屋は後ろ。騎士二人はさらに後ろ。これでいいだろ」
ララは少し考え、頷いた。
「無理をするな」
「それ、お前らに言われると変な感じだな」
ヴォルフは階段へ足をかけた。
軋む音。
真壁の胃が縮む。
下へ。
一段。
また一段。
光が遠ざかる。
◇
地下は、想像より狭く、想像より広かった。
通路そのものは人二人が並べば窮屈なほど狭い。天井も低い。石壁は湿っており、ところどころに鉄の補強が打ち込まれている。だが、奥へ進むほど枝分かれが増え、いくつもの小部屋が口を開けていた。治療室、保管庫、術式室、遺体安置所。そういう用途が、文字ではなく空気で伝わってくる。
真壁は壁を見ないようにしていた。
見ると分かってしまう。
鉄の補強が後から打たれたこと。
壁が一度内側から膨らんだこと。
床に刻まれた溝が、排水ではなく何かを流すためだったこと。
見たくない。
見たくないのに、入ってくる。
「……情報が多すぎる」
真壁はかすれた声で言った。
ララがすぐ振り返る。
「戻るか」
「まだ……大丈夫です。大丈夫じゃないけど」
「無理はするな」
「はい」
ヴォルフは黙って進んでいた。
いつもの冗談がない。
その背中が、真壁には少し怖かった。
やがて、通路の先に鉄扉が見えた。
扉は半分開いていた。
封鎖されていたはずの場所。
だが、今は開いている。
扉の中央には、ズレた歯車の刻印が刻まれた金属片が打ち付けられていた。
文字はない。
ただ、刻印だけ。
「ここだ」
ヴォルフが言った。
声が少しだけ掠れている。
ララが剣へ手を伸ばす。
抜かない。
真壁を見る。
「読めるか」
「……扉は罠じゃないです」
真壁は言った。
「罠は、中」
「中に入ったら動く?」
「たぶん、見るだけで動く」
言ってから、自分で気分が悪くなった。
見るだけで動く罠。
つまり、精神に仕掛けるもの。
アルゴらしい。
「どうする」
ララが問う。
真壁は目を閉じた。
帰りたい。
でもここまで来た。
直せないと言うために来た。
「……入ります」
鉄扉の向こうは、広い円形の部屋だった。
中央に作業台。
周囲に古い器具。
壁には針、糸、金属板、認識票、骨片らしきもの、破れた名簿、古い術式図が並んでいる。床には円形の溝が刻まれ、そこへ銀色の糸が何本も這っていた。
そして、部屋の中央。
作業台の上に、それはあった。
人の形をしていた。
いや、人の形を真似ていた。
骨のような白い部品。金属の関節。細い銀糸。胸の位置には、何枚もの認識票が重ねられている。頭部らしき部分は布で覆われ、顔はない。腕は二本あるが、長さが合っていない。脚は途中で途切れ、台に固定されている。
動いてはいない。
ただ、そこにある。
真壁は息を止めた。
脳が理解を拒否する。
だが、目は離れない。
壊れたものを集めて、人の形に戻そうとした何か。
死者の名前を、骨を、金属を、糸で繋いだもの。
修理の失敗作。
「……っ」
真壁は口を押さえた。
胃が跳ねる。
ララが即座に肩を支える。
「見るな」
「……見えました」
「戻るか」
真壁は答えられなかった。
ヴォルフは作業台の前で立ち尽くしていた。
顔色は悪い。
それでも目を逸らしていない。
「……まだ残ってたか」
その声は、ほとんど息だった。
部屋の奥から、音がした。
カチ。
真壁の身体が固まる。
作業台の上の失敗作ではない。
壁の針。
一本だけが動いた。
銀糸が震える。
そして、部屋の中央に声が響いた。
『見たね』
アルゴの声だった。
どこから聞こえているのか分からない。壁か、針か、糸か。声そのものが部屋の構造を通って響いているようだった。
ララが剣を抜く。
だが、どこを斬ればいいか分からない。
ヴォルフが低く言う。
「出てこい、アルゴ」
『私はここにいる。少なくとも、一部は』
「一部?」
真壁は震える声で聞いていた。
『真壁悠。君なら分かるだろう。これは失敗作だ』
「……分かりたくないです」
『直せなかった。戻せなかった。名前はあった。形もあった。材料もあった。なのに、戻らなかった』
声は楽しそうではなかった。
それが逆に怖かった。
怒りでも、悲しみでも、喜びでもない。長い時間をかけて感情が削れたような声。
『なぜだと思う?』
真壁は答えなかった。
答えたくなかった。
『魂が足りないからだと言う者もいた。術式が不完全だったからだと言う者もいた。材料が腐っていたからだと言う者もいた。オルデンは記録を閉じれば終わると言った。ヴォルフは見なかったことにした』
ヴォルフの拳が握られる。
「……黙れ」
『君は?』
声は真壁へ向く。
『君なら、これを見て何と言う』
真壁は作業台の上のものを見た。
見たくない。
だが見る。
これは壊れているのか。
違う。
これは直せなかったものではない。
これは、作ってはいけなかったものだ。
胸の認識票が小さく鳴る。
名前。
複数の名前。
一人ではない。
何人もの死者を、一つの形に押し込もうとしている。
「……これは」
真壁の声は震えていた。
「修理じゃないです」
部屋の空気が変わった。
銀糸がわずかに震える。
『では何だ』
「分かりません。でも、修理じゃない」
『なぜ』
「戻る場所がないから」
言葉が出た瞬間、真壁自身が少し驚いた。
四畳半の紐。
戻る場所。
中心。
揺れは、戻る場所があるから止められる。
壊れた設備も、戻れる形があるから直せる。
だが、これは違う。
「この人たちは、もう同じ場所に戻れない。名前も、身体も、時間も、別々だった。それを無理に一つへ戻そうとしてる」
『名前は残っている』
「名前は部品じゃない」
真壁は言った。
声が少し強くなった。
「認識票は部品じゃない。骨も、記録も、誰かの思い出も、材料じゃない」
銀糸が強く震えた。
ララが一歩前へ出る。
「真壁」
「大丈夫じゃないです。でも言います」
真壁は作業台を見た。
「これは直せない。直せないものを、直せるみたいに扱った結果です」
『では、何もするなと?』
「違います」
真壁は首を振る。
「名前を読む。記録へ戻す。誰かに返す。なかったことにしない。それはできる。でも、生き返らせることはできない。壊れる前に戻すことはできない」
『それは諦めだ』
「たぶんそうです」
真壁は認めた。
「でも、諦めないといけないこともあるんじゃないですか」
沈黙。
部屋の銀糸が、細かく震える。
『君は、私を直せないと言うのか』
真壁は目を閉じた。
怖い。
だが言う。
「はい」
はっきり言った。
「俺は、あなたを直せません」
ララが静かに息を呑む。
ヴォルフも黙っている。
真壁は続けた。
「あなたが何者なのか、まだ分かりません。本当にアルゴさん本人なのか、死んだ名前を使ってる何かなのか、それも分かりません。でも、俺はあなたを直せない」
『……』
「できるのは、あなたが何をしたか見ることだけです。なかったことにしないことだけです」
声が震える。
でも、止めない。
「だから、俺に直せって言わないでください」
長い沈黙。
その後。
部屋の奥で、誰かが笑った。
声ではない。
糸の震えが、笑いの形を取ったような感覚だった。
『そうか』
アルゴの声は、薄く響いた。
『君は、私を拒むのか』
「はい」
『それでも、見るのか』
「……見ます」
『なぜ』
「あなたがまた誰かを巻き込むからです」
真壁は奥歯を噛んだ。
「あと、腹が立つからです」
ララが少しだけ目を見開いた。
ヴォルフがかすかに笑った。
『腹が立つ』
アルゴの声が繰り返す。
『よい感情だ』
「褒めないでください。気持ち悪い」
銀糸が震える。
その瞬間、作業台の上の失敗作が動いた。
ほんのわずかに。
胸の認識票が鳴る。
カン。
真壁の顔色が変わる。
「動くのかよ……!」
ララが剣を構える。
「下がれ!」
失敗作の腕が、ぎこちなく持ち上がる。
生きているわけではない。
糸で動かされている。
だが、その動きはあまりにも嫌だった。
人を真似ている。
戻れなかったものが、無理やり動かされている。
「止めてください!」
真壁が叫んだ。
「何を斬る!」
ララが問う。
「本体じゃない! 糸!」
「どの糸だ!」
真壁は見る。
銀糸が多すぎる。
胸、腕、首、床、壁。
全部を切れば、作業台ごと崩れる。認識票も飛ぶ。骨も壊れる。見たくないものがさらに壊れる。
違う。
止める糸は一本だけ。
動かしている中心。
「右奥! 壁の針! 三本並んだ真ん中!」
ララが動く。
白銀の斬撃。
だが、針を壊さない。
針の根元に絡んだ糸だけを、剣先で弾く。
キン、と音がした。
失敗作の腕が止まる。
だが、今度は床の溝が光った。
ヴォルフが舌打ちする。
「二段目だ!」
「アルゴさん、しつこい!」
真壁は叫ぶ。
床の溝を銀糸が走る。
作業台ごと円形に回そうとしている。
動かすのではない。
起動する。
この部屋全体の術式を。
「駄目! これ起こしちゃ駄目です!」
真壁の声が裏返る。
ララが問う。
「止め方は!」
「分かんない!」
「真壁!」
「見てます!」
見る。
床の円。
銀糸。
針。
作業台。
認識票。
戻る場所。
ない。
ないなら、戻さない。
回すな。
中心を失わせる。
「ヴォルフさん!」
「ああ!?」
「作業台、押さないで! 逆に揺らしてください!」
「は?」
「固定すると起動します! 揺らして中心を外す!」
ヴォルフは一瞬だけ笑った。
「無茶言うな!」
「無茶です!」
ヴォルフが作業台へ飛び込む。
押さえない。
殴らない。
蹴らない。
肩で軽くぶつかり、台をわずかに揺らす。
作業台の中心がずれる。
床の円が歪む。
銀糸の流れが乱れる。
「ララさん、左の針!」
「承知!」
ララが左壁の針を叩く。
切らない。
角度を変える。
銀糸が空回りする。
術式の光が弱まる。
だが最後に、作業台の胸の認識票が光った。
真壁は息を呑む。
名前が、呼ばれようとしている。
誰かを戻そうとしている。
駄目だ。
それは駄目だ。
真壁は反射的に前へ出た。
「真壁!」
ララが叫ぶ。
真壁は作業台へ手を伸ばす。
触らない。
触る直前で止める。
認識票の揺れ。
名前の震え。
その戻れない中心。
そこに、拳ではなく、指先を置く。
――パツン。
乾いた音がした。
認識票の光が消えた。
銀糸が一斉に緩む。
作業台の上の失敗作は、静かに沈黙した。
部屋に、長い静寂が落ちる。
真壁はその場に膝をついた。
「……触ってない。触ってないですよね、今」
声が震えている。
ララがすぐそばに来る。
「触れてはいない」
「よかった……」
「だが、無茶をした」
「すいません」
「謝るのは後だ」
ヴォルフが作業台の横で息を吐いた。
「止まったな」
「はい……たぶん」
真壁は顔を上げる。
アルゴの声はもうしない。
だが、部屋の奥に小さな金属片が落ちていた。
ララが拾う。
文字。
『拒絶もまた、応答だ』
真壁は目を閉じた。
「……もう本当に嫌い」
心の底から言った。
◇
地下を出た時、外の光は夕方に近かった。
真壁はほとんどララに支えられるように歩いていた。足に力が入らない。頭が重い。吐き気は少し収まったが、胸の奥の気持ち悪さは消えない。
でも、外の空気は吸えた。
冷たい風が顔に当たる。
それだけで、少しだけ生き返った気がした。
ヴォルフは地下の入口の前で立ち止まり、しばらく黙っていた。
ララが言う。
「封鎖するか」
「いや」
ヴォルフは首を振った。
「今度は、封鎖するだけじゃ駄目だ」
真壁は顔を上げる。
「じゃあ、どうするんですか」
「記録する。調べる。片づける。名前を戻す。あの失敗作も、材料じゃなくて、誰のものだったか分ける」
ヴォルフの声は静かだった。
「できるかは知らねえ。でも、見なかったことにはしない」
真壁は小さく頷いた。
「それ、修理ですかね」
「知らねえよ」
ヴォルフは少しだけ笑った。
「でも、お前がそういう方へ持ってったんだろ」
「俺のせいですか」
「お前のおかげって言ってほしいか?」
「それはそれで重いです」
「面倒くせえな」
ララが静かに言う。
「だが、必要なことだ」
真壁は地下入口を見た。
直せない。
あれは直せない。
戻せない。
なかったことにもできない。
なら、残ったものを一つずつ分けるしかない。名前を読むしかない。材料にされたものを、材料ではなく、誰かのものとして戻すしかない。
それは修理とは違う。
でも、真壁がやらなければならないことの近くにある気がした。
「……疲れました」
「戻ろう」
ララが言う。
「今日の報酬、高めで」
「交渉する」
「神」
「騎士だ」
いつものやり取り。
だが、今日はその後にヴォルフが付け加えた。
「俺も少し出す」
真壁は驚いて見る。
「え?」
「今回のは、俺の宿題でもあったからな」
「……じゃあ、ありがたく」
「現金だな」
「金は大事です」
ヴォルフは笑った。
その笑いは、いつもより少しだけ弱かった。
それでも笑った。
真壁はそれを見て、少しだけ安心した。
地下で見たものは消えない。
直せない。
だが、外へ出ることはできた。
それだけは、確かだった。
そして遠く、収容所跡の壊れた壁の向こうで、風が鳴った。
まるで、緩んだ糸がようやく少しだけほどけたような音だった。




