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第33話

 王都へ戻る馬車の中で、誰もほとんど喋らなかった。


 車輪が土道の小石を踏む音だけが、規則的に続いている。ガタ、ガタ、と車体が揺れるたび、木枠がきしみ、古い革紐が小さく鳴った。いつもならその音だけでも真壁悠は顔をしかめたかもしれない。揺れが気になる。車体の軋みが気になる。車輪の回り方が微妙に片寄っているのも気になる。だが、その日は気になっても、手を伸ばす気にはならなかった。


 膝の上には、布に包まれた認識票の写しがある。


 本物はララ・バーンが保管している。騎士団へ戻り、正式に記録班へ引き渡すためだ。だが、真壁の頭の中には、一枚一枚の名前が残っていた。


 知らない名前。


 読めなかった名前。


 削れた名前。


 そして最後に見つかった名前。


 針工師アルゴ。


『私はここで死んだ。では、今動いている私は何だ?』


 その一文が、どうしても離れない。


 死んだはずの名前。


 公式記録では死亡。


 認識票にも死亡印。


 だが、今も誰かがアルゴを名乗り、王都に銀糸を張り、黒い装置を仕掛け、真壁へ語りかけてくる。


 本人なのか。


 別人なのか。


 それとも、もっと嫌な何かなのか。


「……考えたくない」


 真壁は小さく呟いた。


 正面に座っていたララが顔を上げる。


「大丈夫か」


「大丈夫じゃないです」


「そうだな」


「否定しないんですね」


「無理に大丈夫と言わせる場面ではない」


 真壁は少しだけ目を伏せた。


 そういうところだ。


 ララは最近、本当に無理なことを無理に押し通さなくなった。もちろん、必要な時は容赦なく連れて行く。現場にも連れて行くし、図面も見せるし、嫌な話もする。だが、真壁が本当に折れそうな時には、止まる。待つ。食べさせる。休ませようとする。


 その判断があるから、真壁はぎりぎり逃げ切らずにいられるのだと思う。


 窓の外に目を向ける。


 灰色の収容所跡が遠ざかっていく。壊れた石壁、錆びた鉄柵、風に揺れる草。あの場所には、直せないものが山ほど残っていた。壊れた建物なら、いつか片づけられるかもしれない。認識票なら記録へ戻せるかもしれない。だが、そこにいた人たちは戻らない。


 その事実は、真壁の中に重く沈んでいる。


 御者台の横に座っていたヴォルフは、ずっと無言だった。


 普段なら、何かしら軽口を言う。真壁をからかい、ララに睨まれ、窓から入るなと言われる。そういう男だ。だが今は、背中だけが見えている。くたびれた外套。乱れた髪。肩の線はいつも通り力が抜けているように見えるのに、どこか硬い。


 認識票にあった名前。


 ヴォルフが運んだと言った人物。


 間に合わなかった救助。


 そして、アルゴの死亡印。


 あの場所は、真壁だけでなく、ヴォルフにとっても直せないものだった。


「……ヴォルフさん」


 真壁は思わず声をかけた。


 御者台から返事が来る。


「何だ」


「大丈夫ですか」


 一瞬、馬車の中が静かになった。


 ララも真壁を見る。


 ヴォルフは振り返らないまま、軽く笑った。


「お前に心配される日が来るとはな」


「俺もびっくりしてます」


「大丈夫じゃねえよ」


 その答えは意外なほど素直だった。


「でも、まあ、死にはしねえ」


「それ、大丈夫の基準低くないですか」


「戦場帰りの基準なんてそんなもんだ」


 真壁は何も言えなかった。


 ヴォルフは続ける。


「それより、お前の方こそ平気か。名前読むの、きつかっただろ」


「きつかったです」


「だろうな」


「でも、読まない方がもっと嫌でした」


「そっか」


 短い返事だった。


 だが、それだけで十分な気がした。


 ララが静かに言う。


「収容所跡は、騎士団と評議会へ報告する。認識票は正式に記録へ戻す。遺族が確認できる者には返還する」


「……ちゃんとやるんですよね」


 真壁は思わず聞いた。


「やる」


 ララの返事は迷いがなかった。


「今回、評議会は自分たちの壊れ方を認めた。なら、この件もなかったことにはさせない」


「そうですか」


「ああ」


 それを聞いて、真壁は少しだけ息を吐いた。


 直せない。


 だが、なかったことにはしない。


 それは小さなことではない。いや、むしろ大きすぎるほどだ。死者の名前を戻すことは、壊れた水門を直すよりずっと重い。真壁には、まだその重さの全ては分からない。


 でも、やる意味はあると思えた。


 その時、馬車の屋根がカン、と鳴った。


 真壁は反射的に肩を跳ねさせた。


「何ですか今の」


 ララが即座に剣へ手を伸ばす。


 御者台のヴォルフも振り返る。


 もう一度、カン。


 軽い金属音。


 屋根の上からだった。


「止めろ」


 ララが御者に命じる。


 馬車が止まる。


 騎士が周囲を警戒する。


 ヴォルフが屋根へ飛び乗った。数秒後、彼は小さな金属片を持って戻ってきた。


「やっぱりな」


 真壁は嫌な顔をした。


「またですか」


「ああ」


 ヴォルフは金属片をララへ渡す。


 ズレた歯車の刻印。


 そして文字。


 ララが読む。


「『死者の名を読んだなら、次は生者の嘘を読め』」


 真壁は目を閉じた。


「……宿題が増える」


 ララの表情が険しくなる。


「生者の嘘」


 ヴォルフが低く笑う。


「収容所跡に関わった生き残りを探せってことか」


「嫌な方向に分かりやすいですね」


 真壁は言った。


 死者の名を読んだ。


 次は生者の嘘を読め。


 つまり、あの場所に関わり、まだ生きている誰かが嘘をついている。あるいは、アルゴが死んだことになった経緯に、嘘がある。


 ララが金属片を見つめる。


「北方戦役の記録を洗う必要がある」


「また記録ですか」


「そうだ」


「書類の敵、多すぎません?」


「書類は嘘も真実も残す」


 ヴォルフが言った。


「戦場じゃ、死体より書類の方が長生きするからな」


 真壁は嫌そうに顔をしかめた。


「その言い方、すごく嫌です」


「だが本当だ」


 ララは金属片を布に包んだ。


「まず王都へ戻る。戦役記録、収容所記録、アルゴの死亡報告、救助任務の記録を照合する」


「俺も見るんですよね」


「無理のない範囲で」


「その言葉、最近かなり広い意味で使われてません?」


「努力する」


「信用度が……」


「低い、だろう」


「分かってるなら改善してください」


 ララは少しだけ目を伏せた。


「改善する」


 真壁は黙った。


 その言葉は、少し信用できた。


   ◇


 王都へ戻ったのは夕方だった。


 騎士団宿舎へ戻る頃には、空は薄い朱色に染まっていた。王都の街並みはいつも通り騒がしい。だが真壁の耳には、どこか遠く感じられた。収容所跡の静けさが、まだ身体に残っているせいかもしれない。


 宿舎に入ると、すぐに記録班が呼ばれた。


 認識票は一枚ずつ番号を付けられ、状態を記録され、名前を写されていく。ララはその場に立ち会った。ヴォルフも、珍しく窓から消えずに部屋の隅にいた。真壁は少し離れた椅子に座っていた。


 見るだけで疲れる。


 だが、見ないわけにもいかない。


 名前が記録へ戻されていく。


 それは静かな作業だった。


 水門を直す時のような派手さはない。鐘を止める時のような緊迫感もない。だが、一枚の認識票が紙に書き写されるたび、何かが少しだけ正しい場所へ戻るような感じがした。


 真壁はその感覚に戸惑った。


 修理ではない。


 でも、似ている。


 そんな曖昧な気持ちだった。


 最後に、アルゴの認識票が机の上に置かれた。


 記録官が眉をひそめる。


「針工師アルゴ……死亡印あり。所属欄削除。追加文あり」


 ララが問う。


「この認識票は本物か」


「材質、刻印方式、戦役期の規格と一致しています。少なくとも当時作られたものです」


「死亡印は」


「こちらも当時のものと思われます。ただし、追加文は後年に刻まれた可能性があります」


 真壁は顔をしかめた。


「追加文はアルゴさん本人?」


「断定はできません」


 記録官は慎重に答える。


「ただ、刻み方はこれまでの金属片と類似しています」


 真壁には分かっていた。


 同じだ。


 癖が同じ。


 針の入れ方、線の終わり、わざと中心をずらす感じ。


 だが、ここで問題なのはそれではない。


「死亡印が本物なら、アルゴさんは本当に死んだことになってるんですね」


「記録上はそうです」


「じゃあ、死亡報告を出した人がいる」


 ララが真壁を見る。


 真壁は自分で言って、嫌な方向へ進んでいると分かった。


「その人が嘘をついたか、嘘をつかされたか、間違えたか」


 ヴォルフが腕を組む。


「生者の嘘、か」


 ララは記録官へ言った。


「北方戦役のアルゴ死亡報告を取り寄せろ。収容所解体任務、救助任務、捕虜名簿、従軍工兵記録もだ」


「すぐに」


 記録官が動く。


 真壁は椅子の背にもたれた。


「また書類」


「今日はここまででいい」


 ララが言った。


「本当ですか」


「ああ。認識票の読み上げで疲れているだろう」


「疲れてます」


「なら休め」


「神」


「騎士だ」


 いつもの返し。


 だが今日は、それを聞いていた記録官が少し驚いた顔をした。


 真壁は目を逸らした。


「……変なやり取りが広まるの嫌なんですけど」


「もう遅いかもしれない」


 ララが言う。


「最悪だ」


 ヴォルフが小さく笑った。


   ◇


 その夜、真壁は久しぶりに少し長く眠った。


 夢は見た。


 四畳半の夢ではなかった。


 灰色の丘と、錆びた鉄柵と、名前の刻まれた金属札の夢だった。だが、悪夢というほどではなかった。夢の中で、認識票は一枚ずつ机の上に置かれ、誰かが名前を読んでいた。声は分からない。自分の声か、ララの声か、ヴォルフの声か。それとも、もういない誰かの声か。


 目が覚めた時、胸は重かったが、昨日よりは少しましだった。


 朝食の肉も食べられた。


 それは大事なことだった。


「食べられているな」


 朝食を運んできたララが言った。


「食べないと負けな気がして」


「何にだ」


「アルゴさんに」


 ララは少しだけ目を細めた。


「なるほど」


「意味分かります?」


「少しな」


 真壁は肉を噛む。


 味がする。


 昨日より近い。


「今日、記録見るんですか」


「午前中は私が先に確認する。お前には午後、必要な箇所だけ見てもらう」


「かなりありがたいです」


「全て見せると倒れるだろう」


「たぶん」


「だから絞る」


「成長してる……」


「お互いにな」


 ララがそう言った。


 お互い。


 真壁は少しだけ照れくさくなり、スープを飲んで誤魔化した。


   ◇


 午後。


 騎士団宿舎の小会議室に、北方戦役関連の資料が並べられた。


 真壁はそれを見た瞬間、帰りたくなった。


「……量」


「必要箇所だけだ」


 ララが言う。


「これで?」


「ああ」


「全部だと?」


「机三つ分」


「死ぬ」


「だから絞った」


「ありがとうございます」


 本気で言った。


 机の上にあるのは、五種類の資料だった。


 収容所解体任務報告。


 救助任務行動記録。


 針工師アルゴ死亡確認報告。


 捕虜収容者名簿の一部。


 従軍工兵部隊の損耗記録。


 真壁は紙束を見つめる。


 文字が多い。


 だが、記録保管棟の図面とは違う嫌さがある。ここに書かれているのは、配管や梁ではない。人の行動、命令、死亡、確認、未確認、処理済み。


 つまり、人間の記録だ。


 ララ、ヴォルフ、記録官が同席している。


 ヴォルフは椅子に座らず、壁際に立っていた。表情はいつもより薄い。


「まず、これだ」


 ララが一枚の報告書を出す。


「針工師アルゴ死亡確認報告。報告者は当時の工兵監督官、オルデン・リース」


 記録官が補足する。


「現在は退役し、王都に住んでいます。工務局の顧問として一部資料監修にも関わっています」


「生きてる」


 真壁が呟く。


「生者の嘘、候補ですね」


「ああ」


 ララは報告書を真壁の前に置いた。


「読めるか」


「文字を?」


「違和感を」


「嫌な頼み方」


 真壁は報告書を見た。


 文章は整っている。


 堅い文体。


 事務的。


 現場で発生した爆発事故により、敵工兵アルゴ死亡を確認。遺体は損傷激しく本人確認困難。しかし所持認識票および工兵針具より同一人物と判断。施設崩落の危険により遺体回収不能。死亡印を付与。


 真壁は眉をひそめた。


「……変」


 ララがすぐ問う。


「どこがだ」


「文章が綺麗すぎる」


 ヴォルフが目を細める。


「分かるのか」


「いや、俺こういう書類詳しくないです。でも、なんか……全部言い訳が先に用意されてる感じがします」


「具体的には」


「本人確認困難。でも認識票と針具で判断。施設崩落の危険で遺体回収不能。だから死亡印。全部、確認できない理由としては成立してるんですけど、逆に綺麗すぎる」


 真壁は報告書を指差した。


「本当に混乱した現場なら、もっとぐちゃぐちゃな気がします」


 ララが報告書を見る。


「確かに、この報告は整いすぎている」


 ヴォルフが低く言う。


「オルデンらしいな」


「知っているのか」


 ララが聞く。


「何度か顔を合わせた。嫌な奴だったよ。手続きの中に隠れるのが上手い」


 真壁は顔をしかめる。


「手続きの中に隠れる」


「命令されたからやった。記録上は正しい。確認不能だった。そういう言い方で、全部逃げる」


「行政庁舎にいっぱいいそうなタイプですね」


「いるだろうな」


 ララは次の資料を出す。


「救助任務行動記録。ヴォルフ、お前の部隊の記録だ」


 ヴォルフの顔から笑みが消えた。


「ああ」


 その紙には、救助隊の到着時刻、収容所の状態、負傷者数、回収できた認識票の数などが書かれていた。


 真壁は読んでいて気づいた。


「……時刻が合わない」


 ララが見る。


「どこだ」


「死亡確認報告だと、爆発事故は第六刻。でも救助記録だと、第六刻の後にまだ収容所内で生存者の声が聞こえてる」


 ヴォルフが低く言った。


「そうだ」


 ララがヴォルフを見る。


「知っていたのか」


「当時は分からなかった。記録を見比べる余裕なんてなかったしな。でも、覚えてる。俺たちが入った時、まだ声はあった」


 真壁の喉が詰まる。


 声。


 生存者。


 それが記録上では、すでに死亡確認後。


「じゃあ、アルゴさんが本当にその時死んだかどうか分からない」


「それだけじゃない」


 ヴォルフが言う。


「死亡確認報告が出たあとも、施設内に誰かがいた」


 ララの表情が険しくなる。


「オルデンは、生存者がいた可能性を知りながら死亡処理したのか」


「かもしれねえ」


 記録官が青ざめる。


「しかし、報告上は崩落危険により立入不能と」


 ヴォルフが笑った。


 笑ったが、目は笑っていない。


「俺たちは入ったぜ」


 部屋が静まり返った。


 真壁は資料を見る。


 オルデン・リース。


 死亡確認。


 本人確認困難。


 遺体回収不能。


 綺麗な言い訳。


 生者の嘘。


「……この人に会うんですか」


 真壁は嫌な予感を覚えながら聞いた。


 ララは頷く。


「必要がある」


「ですよね」


「だが、お前を連れて行くかは」


「行きます」


 自分でも驚くほど早く言葉が出た。


 ララも驚いたようだった。


「真壁?」


「嫌ですけど、行きます」


「なぜ」


「その人、たぶん書類の中で嘘つくタイプなんですよね」


「ああ」


「なら、俺が見た方がいい気がします。人間関係は苦手ですけど、書類のズレなら……少し分かるかもしれない」


 言ってから、真壁は自分がまた厄介な方向へ成長していることに気づいた。


 嫌だ。


 しかし、ここまで読んでしまった以上、知らないふりをする方がもっと嫌だった。


 ヴォルフが少しだけ笑った。


「いいじゃん」


「よくないです」


「でも行くんだろ」


「行きます」


「なら、いいじゃん」


 ララは真壁を見ていた。


「無理はするな」


「します」


「しないでください」


「敬語になったぞ」


「それくらい嫌なんです」


 ララは小さく息を吐いた。


「分かった。ただし、私が止めたら下がれ」


「はい」


   ◇


 オルデン・リースの屋敷は、王都西区の静かな通りにあった。


 大きすぎず、小さすぎず、手入れの行き届いた石造りの家。庭には低木が整えられ、玄関の金具は磨かれている。いかにも、退役後も立場と金を保っている人間の家だった。


 真壁は門の前で深く息を吐いた。


「……帰りたい」


「まだ入っていない」


 ララが言う。


「人の家、苦手です」


「私も得意ではない」


「ララさんでも?」


「任務でなければな」


 ヴォルフは同行していない。


 来ると言ったが、ララが止めた。オルデンがヴォルフを見れば、話がこじれる可能性が高いからだ。代わりに、ヴォルフは近くの屋根か路地かどこかにいるらしい。見えないが、いるのだろう。いなければいないで不安だ。


 扉が開き、老執事が現れた。


「ララ・バーン隊長ですね。主人がお待ちです」


 通された応接室は、静かだった。


 本棚、厚い絨毯、磨かれた机、壁にかかった古い測量器具。


 真壁はそれを見て、少しだけ顔をしかめた。


 測量器具。


 金属の針。


 古い目盛り。


 嫌な偶然か。


 それとも。


 部屋の奥に、老人が座っていた。


 白髪。細い顔。背筋は伸びている。年齢のわりに目は鋭い。手には杖。服装はきちんとしているが、どこか冷たい印象があった。


「ララ・バーン隊長。ご足労いただいた」


「オルデン・リース殿。北方戦役時の記録について確認したい」


「古い話ですな」


 老人は静かに笑った。


「今さら掘り返しても、死者は戻りません」


 真壁の指が少し動いた。


 ララの声が低くなる。


「戻らないからこそ、記録を確認する」


「立派なお考えだ」


 オルデンの視線が真壁へ向いた。


「そちらは?」


「協力者だ」


「また異界人ですかな」


 また。


 その言葉に、真壁は少し引っかかった。


「また?」


 思わず聞いてしまった。


 オルデンの目が細くなる。


「最近、王都で噂になっておりますので」


「そうですか」


 真壁は視線を下げた。


 だが、頭の中ではその言葉が残った。


 また異界人。


 普通なら「例の異界人」だ。


 また、という言い方は何かを知っている。


 ララも気づいたようだったが、すぐには突っ込まなかった。


「針工師アルゴの死亡確認報告についてだ」


 ララが資料の写しを置く。


「報告者はあなたになっている」


「ええ。確かに私です」


「遺体は確認困難とある」


「爆発と崩落で損傷が激しかった」


「だが認識票と針具で本人と判断した」


「当時の状況では、それが限界でした」


 言葉は滑らかだった。


 すらすら出る。


 まるで、何度も繰り返した説明のように。


 真壁はその声を聞いていた。


 水路や管のような音ではない。


 だが、ズレがある。


 言葉が綺麗すぎる。


 綺麗すぎる言葉は、何かを隠す。


「救助記録では、死亡確認後も収容所内に生存者の声があったとされている」


 ララが言う。


 オルデンは眉一つ動かさない。


「混乱した現場では、錯覚や誤認も多い」


「救助隊が実際に内部へ入った」


「無謀な行動です」


「そのおかげで助かった者もいる」


「少数でしょう」


 真壁は顔を上げた。


 今の言葉。


 少数。


 オルデンは、救助された者がいたことを知っている。


 そして、その価値を低く見ている。


 ララの声が冷たくなる。


「少数なら見捨ててよいと?」


「全体を守るために切り捨てる判断は必要です」


「その判断を記録に残さなかった理由は」


「不要な混乱を避けるためです」


 真壁は聞いていて、胸が気持ち悪くなった。


 これは水漏れではない。


 もっと乾いたものだ。


 責任を逃がすのではない。


 最初から切り捨てている。


「……オルデンさん」


 真壁は気づけば口を開いていた。


 ララがわずかにこちらを見る。


 オルデンの目も向く。


「何ですかな」


「アルゴさん、本当に死んだんですか」


「記録上は死亡しています」


「記録じゃなくて」


 真壁は自分の声が震えているのを感じた。


 だが、止めなかった。


「あなたは見たんですか」


 オルデンはしばらく真壁を見た。


 その目は、感情が薄かった。


「若い方には分からないかもしれませんが、戦場では完全な確認などできません」


「見てないんですね」


 部屋の空気が変わる。


 ララが静かに身構える。


 オルデンの口元が少しだけ歪んだ。


「言葉を選びなさい」


「すいません。でも、見てないんですよね」


 真壁は続けた。


「認識票と針具があった。遺体は確認できない。声が残っていた。でも、死亡にした」


「戦場での判断です」


「その判断で、誰かが生き残った可能性を消した」


「可能性にすがれば、全体が崩れます」


「……」


 真壁は息を吸った。


 嫌な老人だ。


 だが、ただ悪いだけではない。


 彼は本気でそう思っている。


 切り捨てることで全体を守る。


 記録を整えることで混乱を防ぐ。


 その考え方は、アルゴとは違う形で壊れている。


「アルゴさんは、あなたに似てるんですね」


 真壁は言った。


 オルデンの目が初めて動いた。


「何?」


「いや、逆かな。あなたがアルゴさんを作ったのかもしれない」


「真壁」


 ララが低く呼ぶ。


 止めるためではない。


 慎重に、という声。


 真壁は頷き、続けた。


「直せないものを、切り捨てた。記録を綺麗にして、なかったことにした。アルゴさんは多分、それが許せなかったんじゃないですか」


 オルデンの手が杖を握る。


「くだらない」


「くだらなくないです」


 真壁は珍しく、はっきり言った。


「死んだ人の名前は残ってました。認識票も残ってました。ヴォルフさんが運んだ人の名前もあった。なのに記録では、全部まとめて処理済みになってた」


「それが戦後処理だ」


「それが嘘なんじゃないですか」


 沈黙。


 真壁の心臓はうるさかった。


 怖い。


 偉い老人相手に何を言っているのか、自分でも分からない。


 だが、止まれなかった。


「アルゴさんは最悪です。人を巻き込むし、街を壊すし、勝手に宿題出すし、俺は大嫌いです。でも、あなたたちがなかったことにしたものを、ずっと見てたんじゃないですか」


 オルデンの顔から、少しずつ表情が消えていく。


「……あの男は、死んだ」


「そう書いたのはあなたです」


「死んだのだ」


「見てないのに?」


「死んだことにしなければならなかった!」


 初めて、オルデンの声が荒れた。


 真壁は息を止める。


 ララの目が鋭くなる。


 オルデンは肩で息をしていた。


 今の言葉。


 死んだことにしなければならなかった。


 それが嘘の中心だった。


「なぜだ」


 ララが問う。


 オルデンは口を閉ざす。


 だが、もう遅い。


 部屋の空気は変わっている。


 真壁には分かった。


 中心に触れた。


「……アルゴさんは、何を見たんですか」


 真壁が聞く。


 オルデンは真壁を睨む。


「君には関係ない」


「関係ないなら、俺に宿題出さないでほしいです」


「何?」


「いえ、こっちの話です」


 ララが一歩前へ出る。


「オルデン・リース。あなたは死亡確認報告に虚偽を記載した可能性がある。騎士団として、正式な聴取を行う」


「権限があるのか」


「王都評議会は一連の記録不備の再調査を命じている。あなたはその対象だ」


 オルデンは黙った。


 その時、壁の測量器具がカン、と鳴った。


 真壁が反射的に振り向く。


 古い測量針が震えている。


 銀色の糸。


 ほんの細い一本が、測量器具の裏から伸びていた。


「……また」


 ララが剣へ手を伸ばす。


 真壁が叫ぶ。


「切らないで!」


 測量針が震える。


 部屋の奥、本棚の中で何かが動いた。


 カチ。


 真壁には分かった。


 仕掛けが動く。


 オルデンを狙っている。


 いや、違う。


 オルデンの口を封じるためだ。


「伏せて!」


 真壁が叫ぶ。


 ララが即座に動いた。


 オルデンを掴み、床へ倒す。


 次の瞬間、本棚の一部が弾けた。


 銀の針が飛ぶ。


 ララの外套がそれを受ける。


 針は壁に刺さった。


 毒ではない。


 だが、鋭い。


 首に当たれば死んでいた。


「暗殺か」


 ララの声が低い。


 オルデンは床で青ざめている。


 真壁は測量器具を見る。


 銀糸はもう崩れ始めていた。


 そこに、小さな金属片が落ちる。


 ズレた歯車。


 文字。


『嘘は、直る前に消される』


 真壁は奥歯を噛んだ。


「……本当に最悪だな」


 ララはオルデンを見下ろす。


「あなたを保護する」


「保護……」


「話してもらう。アルゴを死んだことにしなければならなかった理由を」


 オルデンは震えていた。


 さっきまでの冷たい威厳は、ほとんど崩れている。


 真壁はその姿を見て、少しだけ分かった。


 この老人も、壊れている。


 だが、直せるかは分からない。


 少なくとも、今消されるわけにはいかない。


「ララさん」


「何だ」


「この人、嫌いです」


「そうか」


「でも、死なせるのは違います」


「ああ」


「だから、守るんですよね」


「そうだ」


 真壁は深く息を吐いた。


「難しいなあ……」


 ララは一瞬だけ真壁を見た。


 そして、静かに頷いた。


「そうだな」


 外で騎士たちの足音が近づく。


 屋敷は騒然となり始めていた。


 真壁は床に落ちた金属片を見た。


 アルゴは生者の嘘を読ませた。


 そして、嘘が直る前に消そうとした。


 つまり、アルゴにとってもこれは触れられたくない中心なのだ。


「……近づいてる」


 真壁は小さく言った。


 ララが聞く。


「アルゴにか」


「はい」


 怖い。


 嫌だ。


 だが、間違いなく近づいている。


 死んだはずの名前。


 生者の嘘。


 消されかけた証人。


 アルゴの正体へ続く糸は、少しずつ見え始めていた。


 その糸がどこへ繋がっているのか、真壁はまだ知りたくなかった。


 それでも、もう目を逸らせないところまで来ている。


 そんな気がした。

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