第33話
王都へ戻る馬車の中で、誰もほとんど喋らなかった。
車輪が土道の小石を踏む音だけが、規則的に続いている。ガタ、ガタ、と車体が揺れるたび、木枠がきしみ、古い革紐が小さく鳴った。いつもならその音だけでも真壁悠は顔をしかめたかもしれない。揺れが気になる。車体の軋みが気になる。車輪の回り方が微妙に片寄っているのも気になる。だが、その日は気になっても、手を伸ばす気にはならなかった。
膝の上には、布に包まれた認識票の写しがある。
本物はララ・バーンが保管している。騎士団へ戻り、正式に記録班へ引き渡すためだ。だが、真壁の頭の中には、一枚一枚の名前が残っていた。
知らない名前。
読めなかった名前。
削れた名前。
そして最後に見つかった名前。
針工師アルゴ。
『私はここで死んだ。では、今動いている私は何だ?』
その一文が、どうしても離れない。
死んだはずの名前。
公式記録では死亡。
認識票にも死亡印。
だが、今も誰かがアルゴを名乗り、王都に銀糸を張り、黒い装置を仕掛け、真壁へ語りかけてくる。
本人なのか。
別人なのか。
それとも、もっと嫌な何かなのか。
「……考えたくない」
真壁は小さく呟いた。
正面に座っていたララが顔を上げる。
「大丈夫か」
「大丈夫じゃないです」
「そうだな」
「否定しないんですね」
「無理に大丈夫と言わせる場面ではない」
真壁は少しだけ目を伏せた。
そういうところだ。
ララは最近、本当に無理なことを無理に押し通さなくなった。もちろん、必要な時は容赦なく連れて行く。現場にも連れて行くし、図面も見せるし、嫌な話もする。だが、真壁が本当に折れそうな時には、止まる。待つ。食べさせる。休ませようとする。
その判断があるから、真壁はぎりぎり逃げ切らずにいられるのだと思う。
窓の外に目を向ける。
灰色の収容所跡が遠ざかっていく。壊れた石壁、錆びた鉄柵、風に揺れる草。あの場所には、直せないものが山ほど残っていた。壊れた建物なら、いつか片づけられるかもしれない。認識票なら記録へ戻せるかもしれない。だが、そこにいた人たちは戻らない。
その事実は、真壁の中に重く沈んでいる。
御者台の横に座っていたヴォルフは、ずっと無言だった。
普段なら、何かしら軽口を言う。真壁をからかい、ララに睨まれ、窓から入るなと言われる。そういう男だ。だが今は、背中だけが見えている。くたびれた外套。乱れた髪。肩の線はいつも通り力が抜けているように見えるのに、どこか硬い。
認識票にあった名前。
ヴォルフが運んだと言った人物。
間に合わなかった救助。
そして、アルゴの死亡印。
あの場所は、真壁だけでなく、ヴォルフにとっても直せないものだった。
「……ヴォルフさん」
真壁は思わず声をかけた。
御者台から返事が来る。
「何だ」
「大丈夫ですか」
一瞬、馬車の中が静かになった。
ララも真壁を見る。
ヴォルフは振り返らないまま、軽く笑った。
「お前に心配される日が来るとはな」
「俺もびっくりしてます」
「大丈夫じゃねえよ」
その答えは意外なほど素直だった。
「でも、まあ、死にはしねえ」
「それ、大丈夫の基準低くないですか」
「戦場帰りの基準なんてそんなもんだ」
真壁は何も言えなかった。
ヴォルフは続ける。
「それより、お前の方こそ平気か。名前読むの、きつかっただろ」
「きつかったです」
「だろうな」
「でも、読まない方がもっと嫌でした」
「そっか」
短い返事だった。
だが、それだけで十分な気がした。
ララが静かに言う。
「収容所跡は、騎士団と評議会へ報告する。認識票は正式に記録へ戻す。遺族が確認できる者には返還する」
「……ちゃんとやるんですよね」
真壁は思わず聞いた。
「やる」
ララの返事は迷いがなかった。
「今回、評議会は自分たちの壊れ方を認めた。なら、この件もなかったことにはさせない」
「そうですか」
「ああ」
それを聞いて、真壁は少しだけ息を吐いた。
直せない。
だが、なかったことにはしない。
それは小さなことではない。いや、むしろ大きすぎるほどだ。死者の名前を戻すことは、壊れた水門を直すよりずっと重い。真壁には、まだその重さの全ては分からない。
でも、やる意味はあると思えた。
その時、馬車の屋根がカン、と鳴った。
真壁は反射的に肩を跳ねさせた。
「何ですか今の」
ララが即座に剣へ手を伸ばす。
御者台のヴォルフも振り返る。
もう一度、カン。
軽い金属音。
屋根の上からだった。
「止めろ」
ララが御者に命じる。
馬車が止まる。
騎士が周囲を警戒する。
ヴォルフが屋根へ飛び乗った。数秒後、彼は小さな金属片を持って戻ってきた。
「やっぱりな」
真壁は嫌な顔をした。
「またですか」
「ああ」
ヴォルフは金属片をララへ渡す。
ズレた歯車の刻印。
そして文字。
ララが読む。
「『死者の名を読んだなら、次は生者の嘘を読め』」
真壁は目を閉じた。
「……宿題が増える」
ララの表情が険しくなる。
「生者の嘘」
ヴォルフが低く笑う。
「収容所跡に関わった生き残りを探せってことか」
「嫌な方向に分かりやすいですね」
真壁は言った。
死者の名を読んだ。
次は生者の嘘を読め。
つまり、あの場所に関わり、まだ生きている誰かが嘘をついている。あるいは、アルゴが死んだことになった経緯に、嘘がある。
ララが金属片を見つめる。
「北方戦役の記録を洗う必要がある」
「また記録ですか」
「そうだ」
「書類の敵、多すぎません?」
「書類は嘘も真実も残す」
ヴォルフが言った。
「戦場じゃ、死体より書類の方が長生きするからな」
真壁は嫌そうに顔をしかめた。
「その言い方、すごく嫌です」
「だが本当だ」
ララは金属片を布に包んだ。
「まず王都へ戻る。戦役記録、収容所記録、アルゴの死亡報告、救助任務の記録を照合する」
「俺も見るんですよね」
「無理のない範囲で」
「その言葉、最近かなり広い意味で使われてません?」
「努力する」
「信用度が……」
「低い、だろう」
「分かってるなら改善してください」
ララは少しだけ目を伏せた。
「改善する」
真壁は黙った。
その言葉は、少し信用できた。
◇
王都へ戻ったのは夕方だった。
騎士団宿舎へ戻る頃には、空は薄い朱色に染まっていた。王都の街並みはいつも通り騒がしい。だが真壁の耳には、どこか遠く感じられた。収容所跡の静けさが、まだ身体に残っているせいかもしれない。
宿舎に入ると、すぐに記録班が呼ばれた。
認識票は一枚ずつ番号を付けられ、状態を記録され、名前を写されていく。ララはその場に立ち会った。ヴォルフも、珍しく窓から消えずに部屋の隅にいた。真壁は少し離れた椅子に座っていた。
見るだけで疲れる。
だが、見ないわけにもいかない。
名前が記録へ戻されていく。
それは静かな作業だった。
水門を直す時のような派手さはない。鐘を止める時のような緊迫感もない。だが、一枚の認識票が紙に書き写されるたび、何かが少しだけ正しい場所へ戻るような感じがした。
真壁はその感覚に戸惑った。
修理ではない。
でも、似ている。
そんな曖昧な気持ちだった。
最後に、アルゴの認識票が机の上に置かれた。
記録官が眉をひそめる。
「針工師アルゴ……死亡印あり。所属欄削除。追加文あり」
ララが問う。
「この認識票は本物か」
「材質、刻印方式、戦役期の規格と一致しています。少なくとも当時作られたものです」
「死亡印は」
「こちらも当時のものと思われます。ただし、追加文は後年に刻まれた可能性があります」
真壁は顔をしかめた。
「追加文はアルゴさん本人?」
「断定はできません」
記録官は慎重に答える。
「ただ、刻み方はこれまでの金属片と類似しています」
真壁には分かっていた。
同じだ。
癖が同じ。
針の入れ方、線の終わり、わざと中心をずらす感じ。
だが、ここで問題なのはそれではない。
「死亡印が本物なら、アルゴさんは本当に死んだことになってるんですね」
「記録上はそうです」
「じゃあ、死亡報告を出した人がいる」
ララが真壁を見る。
真壁は自分で言って、嫌な方向へ進んでいると分かった。
「その人が嘘をついたか、嘘をつかされたか、間違えたか」
ヴォルフが腕を組む。
「生者の嘘、か」
ララは記録官へ言った。
「北方戦役のアルゴ死亡報告を取り寄せろ。収容所解体任務、救助任務、捕虜名簿、従軍工兵記録もだ」
「すぐに」
記録官が動く。
真壁は椅子の背にもたれた。
「また書類」
「今日はここまででいい」
ララが言った。
「本当ですか」
「ああ。認識票の読み上げで疲れているだろう」
「疲れてます」
「なら休め」
「神」
「騎士だ」
いつもの返し。
だが今日は、それを聞いていた記録官が少し驚いた顔をした。
真壁は目を逸らした。
「……変なやり取りが広まるの嫌なんですけど」
「もう遅いかもしれない」
ララが言う。
「最悪だ」
ヴォルフが小さく笑った。
◇
その夜、真壁は久しぶりに少し長く眠った。
夢は見た。
四畳半の夢ではなかった。
灰色の丘と、錆びた鉄柵と、名前の刻まれた金属札の夢だった。だが、悪夢というほどではなかった。夢の中で、認識票は一枚ずつ机の上に置かれ、誰かが名前を読んでいた。声は分からない。自分の声か、ララの声か、ヴォルフの声か。それとも、もういない誰かの声か。
目が覚めた時、胸は重かったが、昨日よりは少しましだった。
朝食の肉も食べられた。
それは大事なことだった。
「食べられているな」
朝食を運んできたララが言った。
「食べないと負けな気がして」
「何にだ」
「アルゴさんに」
ララは少しだけ目を細めた。
「なるほど」
「意味分かります?」
「少しな」
真壁は肉を噛む。
味がする。
昨日より近い。
「今日、記録見るんですか」
「午前中は私が先に確認する。お前には午後、必要な箇所だけ見てもらう」
「かなりありがたいです」
「全て見せると倒れるだろう」
「たぶん」
「だから絞る」
「成長してる……」
「お互いにな」
ララがそう言った。
お互い。
真壁は少しだけ照れくさくなり、スープを飲んで誤魔化した。
◇
午後。
騎士団宿舎の小会議室に、北方戦役関連の資料が並べられた。
真壁はそれを見た瞬間、帰りたくなった。
「……量」
「必要箇所だけだ」
ララが言う。
「これで?」
「ああ」
「全部だと?」
「机三つ分」
「死ぬ」
「だから絞った」
「ありがとうございます」
本気で言った。
机の上にあるのは、五種類の資料だった。
収容所解体任務報告。
救助任務行動記録。
針工師アルゴ死亡確認報告。
捕虜収容者名簿の一部。
従軍工兵部隊の損耗記録。
真壁は紙束を見つめる。
文字が多い。
だが、記録保管棟の図面とは違う嫌さがある。ここに書かれているのは、配管や梁ではない。人の行動、命令、死亡、確認、未確認、処理済み。
つまり、人間の記録だ。
ララ、ヴォルフ、記録官が同席している。
ヴォルフは椅子に座らず、壁際に立っていた。表情はいつもより薄い。
「まず、これだ」
ララが一枚の報告書を出す。
「針工師アルゴ死亡確認報告。報告者は当時の工兵監督官、オルデン・リース」
記録官が補足する。
「現在は退役し、王都に住んでいます。工務局の顧問として一部資料監修にも関わっています」
「生きてる」
真壁が呟く。
「生者の嘘、候補ですね」
「ああ」
ララは報告書を真壁の前に置いた。
「読めるか」
「文字を?」
「違和感を」
「嫌な頼み方」
真壁は報告書を見た。
文章は整っている。
堅い文体。
事務的。
現場で発生した爆発事故により、敵工兵アルゴ死亡を確認。遺体は損傷激しく本人確認困難。しかし所持認識票および工兵針具より同一人物と判断。施設崩落の危険により遺体回収不能。死亡印を付与。
真壁は眉をひそめた。
「……変」
ララがすぐ問う。
「どこがだ」
「文章が綺麗すぎる」
ヴォルフが目を細める。
「分かるのか」
「いや、俺こういう書類詳しくないです。でも、なんか……全部言い訳が先に用意されてる感じがします」
「具体的には」
「本人確認困難。でも認識票と針具で判断。施設崩落の危険で遺体回収不能。だから死亡印。全部、確認できない理由としては成立してるんですけど、逆に綺麗すぎる」
真壁は報告書を指差した。
「本当に混乱した現場なら、もっとぐちゃぐちゃな気がします」
ララが報告書を見る。
「確かに、この報告は整いすぎている」
ヴォルフが低く言う。
「オルデンらしいな」
「知っているのか」
ララが聞く。
「何度か顔を合わせた。嫌な奴だったよ。手続きの中に隠れるのが上手い」
真壁は顔をしかめる。
「手続きの中に隠れる」
「命令されたからやった。記録上は正しい。確認不能だった。そういう言い方で、全部逃げる」
「行政庁舎にいっぱいいそうなタイプですね」
「いるだろうな」
ララは次の資料を出す。
「救助任務行動記録。ヴォルフ、お前の部隊の記録だ」
ヴォルフの顔から笑みが消えた。
「ああ」
その紙には、救助隊の到着時刻、収容所の状態、負傷者数、回収できた認識票の数などが書かれていた。
真壁は読んでいて気づいた。
「……時刻が合わない」
ララが見る。
「どこだ」
「死亡確認報告だと、爆発事故は第六刻。でも救助記録だと、第六刻の後にまだ収容所内で生存者の声が聞こえてる」
ヴォルフが低く言った。
「そうだ」
ララがヴォルフを見る。
「知っていたのか」
「当時は分からなかった。記録を見比べる余裕なんてなかったしな。でも、覚えてる。俺たちが入った時、まだ声はあった」
真壁の喉が詰まる。
声。
生存者。
それが記録上では、すでに死亡確認後。
「じゃあ、アルゴさんが本当にその時死んだかどうか分からない」
「それだけじゃない」
ヴォルフが言う。
「死亡確認報告が出たあとも、施設内に誰かがいた」
ララの表情が険しくなる。
「オルデンは、生存者がいた可能性を知りながら死亡処理したのか」
「かもしれねえ」
記録官が青ざめる。
「しかし、報告上は崩落危険により立入不能と」
ヴォルフが笑った。
笑ったが、目は笑っていない。
「俺たちは入ったぜ」
部屋が静まり返った。
真壁は資料を見る。
オルデン・リース。
死亡確認。
本人確認困難。
遺体回収不能。
綺麗な言い訳。
生者の嘘。
「……この人に会うんですか」
真壁は嫌な予感を覚えながら聞いた。
ララは頷く。
「必要がある」
「ですよね」
「だが、お前を連れて行くかは」
「行きます」
自分でも驚くほど早く言葉が出た。
ララも驚いたようだった。
「真壁?」
「嫌ですけど、行きます」
「なぜ」
「その人、たぶん書類の中で嘘つくタイプなんですよね」
「ああ」
「なら、俺が見た方がいい気がします。人間関係は苦手ですけど、書類のズレなら……少し分かるかもしれない」
言ってから、真壁は自分がまた厄介な方向へ成長していることに気づいた。
嫌だ。
しかし、ここまで読んでしまった以上、知らないふりをする方がもっと嫌だった。
ヴォルフが少しだけ笑った。
「いいじゃん」
「よくないです」
「でも行くんだろ」
「行きます」
「なら、いいじゃん」
ララは真壁を見ていた。
「無理はするな」
「します」
「しないでください」
「敬語になったぞ」
「それくらい嫌なんです」
ララは小さく息を吐いた。
「分かった。ただし、私が止めたら下がれ」
「はい」
◇
オルデン・リースの屋敷は、王都西区の静かな通りにあった。
大きすぎず、小さすぎず、手入れの行き届いた石造りの家。庭には低木が整えられ、玄関の金具は磨かれている。いかにも、退役後も立場と金を保っている人間の家だった。
真壁は門の前で深く息を吐いた。
「……帰りたい」
「まだ入っていない」
ララが言う。
「人の家、苦手です」
「私も得意ではない」
「ララさんでも?」
「任務でなければな」
ヴォルフは同行していない。
来ると言ったが、ララが止めた。オルデンがヴォルフを見れば、話がこじれる可能性が高いからだ。代わりに、ヴォルフは近くの屋根か路地かどこかにいるらしい。見えないが、いるのだろう。いなければいないで不安だ。
扉が開き、老執事が現れた。
「ララ・バーン隊長ですね。主人がお待ちです」
通された応接室は、静かだった。
本棚、厚い絨毯、磨かれた机、壁にかかった古い測量器具。
真壁はそれを見て、少しだけ顔をしかめた。
測量器具。
金属の針。
古い目盛り。
嫌な偶然か。
それとも。
部屋の奥に、老人が座っていた。
白髪。細い顔。背筋は伸びている。年齢のわりに目は鋭い。手には杖。服装はきちんとしているが、どこか冷たい印象があった。
「ララ・バーン隊長。ご足労いただいた」
「オルデン・リース殿。北方戦役時の記録について確認したい」
「古い話ですな」
老人は静かに笑った。
「今さら掘り返しても、死者は戻りません」
真壁の指が少し動いた。
ララの声が低くなる。
「戻らないからこそ、記録を確認する」
「立派なお考えだ」
オルデンの視線が真壁へ向いた。
「そちらは?」
「協力者だ」
「また異界人ですかな」
また。
その言葉に、真壁は少し引っかかった。
「また?」
思わず聞いてしまった。
オルデンの目が細くなる。
「最近、王都で噂になっておりますので」
「そうですか」
真壁は視線を下げた。
だが、頭の中ではその言葉が残った。
また異界人。
普通なら「例の異界人」だ。
また、という言い方は何かを知っている。
ララも気づいたようだったが、すぐには突っ込まなかった。
「針工師アルゴの死亡確認報告についてだ」
ララが資料の写しを置く。
「報告者はあなたになっている」
「ええ。確かに私です」
「遺体は確認困難とある」
「爆発と崩落で損傷が激しかった」
「だが認識票と針具で本人と判断した」
「当時の状況では、それが限界でした」
言葉は滑らかだった。
すらすら出る。
まるで、何度も繰り返した説明のように。
真壁はその声を聞いていた。
水路や管のような音ではない。
だが、ズレがある。
言葉が綺麗すぎる。
綺麗すぎる言葉は、何かを隠す。
「救助記録では、死亡確認後も収容所内に生存者の声があったとされている」
ララが言う。
オルデンは眉一つ動かさない。
「混乱した現場では、錯覚や誤認も多い」
「救助隊が実際に内部へ入った」
「無謀な行動です」
「そのおかげで助かった者もいる」
「少数でしょう」
真壁は顔を上げた。
今の言葉。
少数。
オルデンは、救助された者がいたことを知っている。
そして、その価値を低く見ている。
ララの声が冷たくなる。
「少数なら見捨ててよいと?」
「全体を守るために切り捨てる判断は必要です」
「その判断を記録に残さなかった理由は」
「不要な混乱を避けるためです」
真壁は聞いていて、胸が気持ち悪くなった。
これは水漏れではない。
もっと乾いたものだ。
責任を逃がすのではない。
最初から切り捨てている。
「……オルデンさん」
真壁は気づけば口を開いていた。
ララがわずかにこちらを見る。
オルデンの目も向く。
「何ですかな」
「アルゴさん、本当に死んだんですか」
「記録上は死亡しています」
「記録じゃなくて」
真壁は自分の声が震えているのを感じた。
だが、止めなかった。
「あなたは見たんですか」
オルデンはしばらく真壁を見た。
その目は、感情が薄かった。
「若い方には分からないかもしれませんが、戦場では完全な確認などできません」
「見てないんですね」
部屋の空気が変わる。
ララが静かに身構える。
オルデンの口元が少しだけ歪んだ。
「言葉を選びなさい」
「すいません。でも、見てないんですよね」
真壁は続けた。
「認識票と針具があった。遺体は確認できない。声が残っていた。でも、死亡にした」
「戦場での判断です」
「その判断で、誰かが生き残った可能性を消した」
「可能性にすがれば、全体が崩れます」
「……」
真壁は息を吸った。
嫌な老人だ。
だが、ただ悪いだけではない。
彼は本気でそう思っている。
切り捨てることで全体を守る。
記録を整えることで混乱を防ぐ。
その考え方は、アルゴとは違う形で壊れている。
「アルゴさんは、あなたに似てるんですね」
真壁は言った。
オルデンの目が初めて動いた。
「何?」
「いや、逆かな。あなたがアルゴさんを作ったのかもしれない」
「真壁」
ララが低く呼ぶ。
止めるためではない。
慎重に、という声。
真壁は頷き、続けた。
「直せないものを、切り捨てた。記録を綺麗にして、なかったことにした。アルゴさんは多分、それが許せなかったんじゃないですか」
オルデンの手が杖を握る。
「くだらない」
「くだらなくないです」
真壁は珍しく、はっきり言った。
「死んだ人の名前は残ってました。認識票も残ってました。ヴォルフさんが運んだ人の名前もあった。なのに記録では、全部まとめて処理済みになってた」
「それが戦後処理だ」
「それが嘘なんじゃないですか」
沈黙。
真壁の心臓はうるさかった。
怖い。
偉い老人相手に何を言っているのか、自分でも分からない。
だが、止まれなかった。
「アルゴさんは最悪です。人を巻き込むし、街を壊すし、勝手に宿題出すし、俺は大嫌いです。でも、あなたたちがなかったことにしたものを、ずっと見てたんじゃないですか」
オルデンの顔から、少しずつ表情が消えていく。
「……あの男は、死んだ」
「そう書いたのはあなたです」
「死んだのだ」
「見てないのに?」
「死んだことにしなければならなかった!」
初めて、オルデンの声が荒れた。
真壁は息を止める。
ララの目が鋭くなる。
オルデンは肩で息をしていた。
今の言葉。
死んだことにしなければならなかった。
それが嘘の中心だった。
「なぜだ」
ララが問う。
オルデンは口を閉ざす。
だが、もう遅い。
部屋の空気は変わっている。
真壁には分かった。
中心に触れた。
「……アルゴさんは、何を見たんですか」
真壁が聞く。
オルデンは真壁を睨む。
「君には関係ない」
「関係ないなら、俺に宿題出さないでほしいです」
「何?」
「いえ、こっちの話です」
ララが一歩前へ出る。
「オルデン・リース。あなたは死亡確認報告に虚偽を記載した可能性がある。騎士団として、正式な聴取を行う」
「権限があるのか」
「王都評議会は一連の記録不備の再調査を命じている。あなたはその対象だ」
オルデンは黙った。
その時、壁の測量器具がカン、と鳴った。
真壁が反射的に振り向く。
古い測量針が震えている。
銀色の糸。
ほんの細い一本が、測量器具の裏から伸びていた。
「……また」
ララが剣へ手を伸ばす。
真壁が叫ぶ。
「切らないで!」
測量針が震える。
部屋の奥、本棚の中で何かが動いた。
カチ。
真壁には分かった。
仕掛けが動く。
オルデンを狙っている。
いや、違う。
オルデンの口を封じるためだ。
「伏せて!」
真壁が叫ぶ。
ララが即座に動いた。
オルデンを掴み、床へ倒す。
次の瞬間、本棚の一部が弾けた。
銀の針が飛ぶ。
ララの外套がそれを受ける。
針は壁に刺さった。
毒ではない。
だが、鋭い。
首に当たれば死んでいた。
「暗殺か」
ララの声が低い。
オルデンは床で青ざめている。
真壁は測量器具を見る。
銀糸はもう崩れ始めていた。
そこに、小さな金属片が落ちる。
ズレた歯車。
文字。
『嘘は、直る前に消される』
真壁は奥歯を噛んだ。
「……本当に最悪だな」
ララはオルデンを見下ろす。
「あなたを保護する」
「保護……」
「話してもらう。アルゴを死んだことにしなければならなかった理由を」
オルデンは震えていた。
さっきまでの冷たい威厳は、ほとんど崩れている。
真壁はその姿を見て、少しだけ分かった。
この老人も、壊れている。
だが、直せるかは分からない。
少なくとも、今消されるわけにはいかない。
「ララさん」
「何だ」
「この人、嫌いです」
「そうか」
「でも、死なせるのは違います」
「ああ」
「だから、守るんですよね」
「そうだ」
真壁は深く息を吐いた。
「難しいなあ……」
ララは一瞬だけ真壁を見た。
そして、静かに頷いた。
「そうだな」
外で騎士たちの足音が近づく。
屋敷は騒然となり始めていた。
真壁は床に落ちた金属片を見た。
アルゴは生者の嘘を読ませた。
そして、嘘が直る前に消そうとした。
つまり、アルゴにとってもこれは触れられたくない中心なのだ。
「……近づいてる」
真壁は小さく言った。
ララが聞く。
「アルゴにか」
「はい」
怖い。
嫌だ。
だが、間違いなく近づいている。
死んだはずの名前。
生者の嘘。
消されかけた証人。
アルゴの正体へ続く糸は、少しずつ見え始めていた。
その糸がどこへ繋がっているのか、真壁はまだ知りたくなかった。
それでも、もう目を逸らせないところまで来ている。
そんな気がした。




