第32話
評議会場で銀の粉が舞ったあと、真壁悠はその日の残りを、ほとんど覚えていなかった。
いや、正確には覚えている。
議長が再調査を命じたこと。評議員たちが青ざめたり、怒鳴ったり、急に黙り込んだりしたこと。工務局の幹部が記録の提出を求められて汗をかいていたこと。ララ・バーンが偽命令書を証拠として押収し、騎士団と評議会の合同調査班が即日編成されたこと。
そういう出来事は、記憶としては残っている。
だが、真壁自身はずっと少し遠くにいた。
音が遠い。
人の声も、足音も、紙をめくる音も、誰かが怒る声も、まるで厚い布の向こうから聞こえているようだった。
原因は分かっている。
『よく直した。次は、直せないものを見せよう』
あの金属片に刻まれた言葉が、頭から離れなかった。
直せないもの。
嫌な言葉だった。
直してはいけないもの、ならまだ分かる。直すと別の場所が壊れる。直すことで罠が動く。だから直さない判断が必要になる。それは嫌だが、理屈としては分かる。
斬ってはいけないものも分かる。支えているものを斬れば崩れる。繋がっているものを切れば反動が返る。だから、斬る前に見る。
読め、も分かる。腹立たしいが、分かる。アルゴは自分を読ませたい。真壁に理解されたい。壊れ方で会話しようとしている。
だが、直せないもの。
それは違う。
そもそも、何をしろと言っているのか分からない。
直せないなら、見せるな。
それが真壁の正直な感想だった。
騎士団宿舎へ戻った頃には、日は傾いていた。
自室に入ると、机の上に夕食が置かれていた。肉は二切れ。スープも温かい。パンもある。いつもならそれだけで少し元気になる。だが今日は、椅子に座ってもすぐには手が伸びなかった。
「……直せないものって何だよ」
小さく呟く。
答える者はいない。
窓の外にも誰もいない。
その静けさが、逆に怖かった。
真壁は食器を見つめた。
食べなければならない。腹が減れば、さらに悪い方向へ考える。これは経験で分かっている。前世でもそうだった。空腹の夜は、よくないことばかり考えた。金のこと。親のこと。外へ出られないこと。自分が何もできないこと。
だから、食べる。
肉を口に入れる。
噛む。
味はする。
うまいはずだ。
だが、今日は遠い。
「……もったいないな」
真壁はそれでも食べた。
食べることだけは、まだ自分の味方だった。
◇
夜。
真壁は眠れなかった。
寝台に横になり、石造りの天井を見ていた。紐はない。何度見てもない。四畳半の天井には、いつも紐があった。揺れるものが一つあり、それを止めれば時間が過ぎた。
今は、止めるものが多すぎる。
水門、鐘塔、蒸気管、昇降機、配送管制所、噴水、資材庫、橋、記録保管棟、測量塔、行政庁舎。
多すぎる。
そして次は、直せないもの。
「……無理だろ」
目を閉じる。
眠れない。
しばらくすると、扉が小さく叩かれた。
コン、コン。
ララのノックだった。
「起きているか」
「寝てます」
「寝ていない声だ」
「寝言です」
「入るぞ」
「どうぞ」
扉が開く。
ララは軽装だった。鎧ではない。剣はあるが、外套もない。手には小さな盆を持っている。茶と、焼いた菓子のようなものが乗っていた。
「夜食ですか」
「食堂に残っていた」
「神」
「騎士だ」
いつもの返し。
少しだけ、部屋の空気が緩んだ。
ララは盆を机に置き、椅子に座る。真壁も寝台から起き上がった。焼き菓子は硬そうだったが、甘い匂いがする。異世界に来てから甘いものは貴重だった。真壁は一つ手に取る。
「うまい」
「それはよかった」
「ララさんは?」
「食べた」
「本当に?」
「……少し」
「食べてない人の言い方ですね」
ララは目を逸らした。
真壁は菓子を一つ差し出した。
「どうぞ」
「お前の分だ」
「こういう時は一緒に食べた方が、たぶんいいです」
言ってから、自分で少し驚いた。
前世の真壁なら、誰かと一緒に食べること自体が苦手だった。今でも得意ではない。だが、ララが疲れているのは分かる。自分だけ食べるのは、少し落ち着かなかった。
ララは数秒だけ黙り、それから菓子を受け取った。
「……もらう」
「はい」
二人で無言のまま菓子を食べた。
硬い。
だが甘い。
こういうものも悪くない。
しばらくして、ララが口を開いた。
「考えているか」
「直せないもののことですか」
「ああ」
「考えたくないのに考えてます」
「だろうな」
ララは茶を見つめる。
「私も考えていた」
「ララさんも?」
「ああ。直せないものとは何か。設備か、人か、制度か、過去か」
過去。
その言葉で、真壁の手が止まった。
ララもそれに気づいた。
「すまない」
「いや、大丈夫です」
大丈夫ではない。
だが、言葉としてはそう出た。
過去。
直せないもの。
それは、設備よりずっと嫌だった。
壊れた水門なら、直せるかもしれない。歪んだ梁なら、支えられるかもしれない。嘘の台帳なら、正せるかもしれない。
だが、過去は直せない。
真壁が中学二年で部屋に閉じこもったこと。親が死んだ時に部屋から出なかったこと。二十年、天井の紐だけを相手にして生きてきたこと。誰かの期待も、怒りも、悲しみも、全部やり過ごしてきたこと。
それらは、もう直らない。
「……最悪ですね」
真壁は小さく言った。
「何がだ」
「直せないものって、過去のことかもしれないと思っただけで、かなり嫌です」
ララは否定しなかった。
安易に違うとも言わなかった。
だから、少しだけ話せた。
「俺、たぶん壊れたものを見る方が楽なんですよ」
「楽?」
「はい。壊れてるなら、まだ何かできるかもしれない。直すか、直さないか、触るか、逃げるか、選択肢がある。でも、もう終わったことは無理です。何もできない」
「……」
「親の葬式とか。学校戻らなかったこととか。二十年無駄にしたこととか。そういうの、見せられても困る」
言ってから、真壁は自分の声が少し震えていることに気づいた。
「困るんですよ。本当に」
ララは黙って聞いていた。
その沈黙は、責めるものではなかった。
真壁は茶を飲んだ。
温かい。
喉を通る。
「……すいません。変な話しました」
「変ではない」
「ララさん、それよく言いますね」
「本当にそう思っているからだ」
「そうですか」
「ああ」
ララは少しだけ視線を落とした。
「私にも、直せないものはある」
真壁はララを見る。
ララが自分から過去の話をするのは珍しい。
「騎士になる前のことですか」
「少し違う」
ララは茶の器を両手で持った。
「騎士になってすぐの頃、私は一度、守るべき相手を守れなかった」
真壁は何も言わなかった。
「盗賊の討伐任務だった。私は若く、剣には自信があった。敵を斬れば終わると思っていた。実際、敵は斬った。だが、斬るべきではない柱を斬った」
「柱……」
「古い小屋だった。人質が中にいた。敵が柱の近くに立っていた。私は敵を斬るため、柱ごと斬った」
ララの声は静かだった。
だが、真壁にはその静けさの奥が分かった。
「小屋は崩れた。人質の一人が亡くなった」
部屋が静まり返る。
真壁は呼吸を止めていた。
ララは続ける。
「私の剣は敵を倒した。だが、人を守れなかった。その時から、私は強くなれば守れると思っていた。もっと速く、もっと正確に、もっと迷わず斬れればいいと」
「……」
「だが、お前と出会ってから分かった。斬る前に見なければならなかったのだと」
真壁は何も言えなかった。
ララにも、直せないものがある。
そう分かってしまった。
「ララさん」
「何だ」
「それ、俺に話してよかったんですか」
「分からない」
「分からないんだ」
「だが、話すべきだと思った」
「なぜ」
「お前だけが、直せないものを抱えているわけではないからだ」
その言葉が、胸に重く落ちた。
救いにはならない。
ララの過去が消えるわけではない。真壁の過去も消えない。
だが、一人ではない。
それは少しだけ違った。
「……アルゴさん、最悪ですね」
真壁は低く言った。
「急にどうした」
「直せないものを見せようとか言って、人のそういうところ狙ってくるなら、本当に最悪です」
「ああ」
「嫌いです」
ララの目が少しだけ柔らかくなる。
「怒っているな」
「はい」
「それでいい」
「最近、怒りを肯定されるのに慣れてきました」
「良い傾向だ」
「本当ですか」
「ああ」
その時、窓の外から声がした。
「いい話してるとこ悪いんだけどさ」
真壁は反射的に茶の器を抱えた。
「出た!」
ヴォルフが窓枠に座っていた。
「今回は結構待ったぜ」
「待ったなら帰ってください」
「それは違うだろ」
ララは剣へ手を伸ばしかけ、すぐ止めた。慣れたのかもしれない。嫌な慣れだ。
「いつからいた」
「ララが過去の話を始めたあたり」
「ほぼ最悪のタイミングじゃないですか」
「だから黙ってた」
「聞くなとは言ってないけど、聞くな!」
ヴォルフは肩をすくめた。
「で、直せないものの話だが」
ララの表情が硬くなる。
「何か分かったのか」
「アルゴが見せたいなら、たぶん“戦場跡”だ」
真壁は眉をひそめた。
「戦場跡?」
「北方戦役の捕虜収容所跡。王都の外れにある。今は封鎖されてる」
「また封鎖済み」
「今回は本当に封鎖されてる。というか、誰も近づきたがらねえ」
ヴォルフの声が少し低くなった。
いつもの軽さが減っている。
「そこに何がある」
ララが聞く。
「直せないものだよ」
ヴォルフは夜空を見た。
「死んだ奴ら。失敗した救助。壊れた身体。戻らない時間。そういうのが、山ほど残ってる」
真壁は黙った。
行きたくない。
言葉にする前から、全身が拒否していた。
「アルゴはそこにいたんですか」
「たぶんな。北方戦役の末期、捕虜収容所の解体任務に関わってた。表向きは事故で全滅。実際は……」
ヴォルフは言葉を切った。
「まあ、ろくな場所じゃねえ」
ララが言う。
「お前もそこを知っているのか」
「ああ」
「なぜ」
「俺もいたから」
部屋が静かになった。
ヴォルフは笑っていなかった。
「捕虜じゃねえ。傭兵側だ。救助任務で入った。遅すぎたけどな」
直せないもの。
その言葉が、また重くなる。
アルゴが次に見せたい場所。
それは、王都の設備ではない。
制度でもない。
過去。
戦場の傷。
戻らないもの。
「……行かない方がいいのでは」
真壁は小さく言った。
「行かない方がいい場所って、ありますよね。普通に」
「ある」
ヴォルフが即答した。
「でも、アルゴがそこを使うなら、行かないと次に何が出るか分からねえ」
「ですよね……」
ララは真壁を見た。
「強制はしない」
真壁は即答できなかった。
行きたくない。
本当に行きたくない。
死んだ人、失敗、戻らない過去。そんなものを見せられて、自分に何ができるのか。何もできない。直せない。だからこそアルゴは見せようとしている。
だが。
ヴォルフの表情が、いつもと違った。
ララも静かにしている。
これは真壁だけの問題ではない。
「……ヴォルフさん」
「何だ」
「そこ、あなたにとっても嫌な場所ですよね」
ヴォルフは少しだけ目を細めた。
そして、軽く笑った。
「まあな」
「軽く言うな」
「重く言ったら行きづらいだろ」
真壁は息を吐いた。
「……俺、行ったら多分かなり駄目です」
「だろうな」
「でも、行かなかったらもっと嫌なことになりそうです」
「ああ」
「じゃあ行きます。でも、条件があります」
ララが真剣に聞く。
「何だ」
「無理ならすぐ帰る」
「ああ」
「触らない」
「可能な限り」
「そこ本当って言ってください」
ララは少し黙り、それから頷いた。
「本当だ。触らせない」
「あと、報酬」
ヴォルフが小さく吹き出した。
ララは真顔で言う。
「交渉する」
「神」
「騎士だ」
いつものやり取りだった。
だが今日は、いつもより少しだけ重かった。
◇
翌朝。
王都北外縁。
古い捕虜収容所跡へ向かう馬車の中で、真壁はずっと黙っていた。
窓の外には、王都の城壁が遠ざかっていく。街の喧騒が薄れ、石畳が土の道へ変わり、建物の密度が下がる。空が広くなった。風が冷たい。
ララは正面に座っている。
ヴォルフは御者台の横にいる。なぜか馬車の中には入らなかった。あの男なりの距離の取り方なのかもしれない。
同行する騎士は少数。ギルド技師はいない。工務局の職員もいない。今回は設備調査ではないからだ。
真壁は膝の上で手を握った。
指先が冷たい。
「大丈夫か」
ララが聞く。
「大丈夫じゃないです」
「正直だな」
「嘘ついても顔に出るので」
「そうだな」
馬車が揺れる。
その揺れが気持ち悪く感じるほど、真壁の神経は尖っていた。
「ララさん」
「何だ」
「直せないものを見たら、どうすればいいんですかね」
ララはすぐには答えなかった。
少し考えたあと、静かに言った。
「直そうとしないことだろう」
「……」
「受け止める、という言葉は簡単すぎる。忘れることもできない。なかったことにもできない。なら、直せないものとして、そこにあると認めるしかない」
「難しすぎる」
「ああ」
「ララさんはできてるんですか」
「できていない」
即答だった。
真壁は少し驚いた。
「できてないんだ」
「ああ。だから今も覚えている」
「……そうですか」
「それでも、次に同じことをしないようにはできる」
その言葉は、少しだけ真壁に残った。
直せないものを直すのではない。
次に同じ壊れ方をしないようにする。
それは、修理とは違う。
でも、少し似ている気がした。
やがて馬車が止まった。
御者台からヴォルフの声がする。
「着いたぜ」
真壁は外を見た。
灰色の丘。
崩れかけた石壁。
錆びた鉄柵。
かつて門だったもの。
そこに、古い看板が傾いて立っていた。
文字は読める。
北方戦役臨時収容施設。
封鎖。
立入禁止。
風が吹いた。
乾いた草が揺れる。
音は少ない。
だが、静かではなかった。
真壁には、そこに残っているものが分かった。
壊れた建物。
錆びた金具。
腐った木材。
そして。
戻らない時間。
「……帰りたい」
真壁は呟いた。
ヴォルフが御者台から降りる。
「俺もだ」
その言葉が、いつもの冗談に聞こえなかった。
ララが剣を腰に確かめる。
「入るぞ」
門を越えた瞬間、空気が変わった。
冷たい。
古い。
湿っている。
建物はほとんど崩れていた。収容棟、見張り塔、倉庫、診療小屋。どれも半壊し、草に埋もれている。だが、完全には消えていない。中途半端に残っている。壊れたまま、誰にも直されず、片づけられず、ただ時間だけが過ぎた場所。
真壁は一歩ごとに息苦しくなった。
「……ここ、嫌です」
「無理なら戻る」
ララが言う。
「まだ大丈夫です。大丈夫じゃないけど」
ヴォルフは先頭を歩いていた。
いつもの軽さがない。
足取りは静かで、視線はあちこちを避けているようにも見える。
「あっちは見るな」
ヴォルフが低く言った。
真壁は反射的にそちらを見そうになり、ララが手で視線を遮った。
「見るな」
「……はい」
見なかった。
たぶん、見ない方がいいものがある。
それだけで十分だった。
しばらく進むと、中央の広場跡に出た。
そこに、銀色の糸があった。
一本だけ。
地面から伸び、崩れた柱に結ばれている。
真壁はそれを見て、顔をしかめた。
「……これ」
「罠か」
ララが聞く。
「罠というより、案内です」
「案内」
「はい。見ろって言ってる」
糸の先は、診療小屋の方へ伸びていた。
ヴォルフの顔が少しだけ変わる。
「……そこか」
「知ってるんですか」
「俺が入った場所だ」
その声は低かった。
真壁は何も言えなかった。
診療小屋は、半分崩れていた。
中には古い寝台が並んでいる。朽ちた布。錆びた器具。割れた薬瓶。壁には黒い染みが残っている。血なのか、薬品なのか、もう分からない。
中央の寝台に、小さな金属箱が置かれていた。
ズレた歯車の刻印。
ララが周囲を見る。
「触るな」
「分かってます」
真壁は箱を見た。
気持ち悪い。
だが、これまでの仕掛けとは違う。
壊すためのものではない。
見せるためのもの。
ヴォルフが一歩近づく。
「……俺が開ける」
ララが止める。
「待て」
「これは俺宛てでもある」
「だとしても、危険だ」
「分かってる」
真壁は箱を見る。
開けると何が起きるか。
爆発はしない。
毒も出ない。
糸も動かない。
ただ、中身が出る。
それが一番嫌だった。
「……開けても、物理的には危なくないです」
真壁が言う。
「でも」
ララが問う。
「でも?」
「心には危ないと思います」
ヴォルフが小さく笑った。
「上等だ」
ララはしばらく黙り、それから手を離した。
「無理なら閉じろ」
「ああ」
ヴォルフが箱を開けた。
中に入っていたのは、古い認識票だった。
金属製の小さな札。
何十枚も。
名前が刻まれている。
兵士。
捕虜。
治療班。
子供の名前もあった。
真壁は息を止めた。
ヴォルフの手が、わずかに震えている。
その中に一枚、別の金属紙が入っていた。
ララが布越しに取り上げる。
文字が刻まれている。
『これは直せない。だが、なかったことにはできない』
誰も喋らなかった。
風だけが、壊れた診療小屋の隙間を通る。
直せないもの。
死んだ人。
戻らない時間。
失敗した救助。
なかったことにされた名前。
真壁は認識票を見つめた。
頭の奥が痛い。
これを直すことはできない。
誰も生き返らない。
建物を直しても、過去は戻らない。
名前を磨いても、時間は戻らない。
「……これ、どうしろって言うんですか」
真壁の声は震えていた。
「直せないもの見せて、何がしたいんですか」
誰も答えない。
アルゴはいない。
ただ、認識票がある。
ヴォルフが一枚を手に取った。
「こいつ、俺が運んだ奴だ」
声が低い。
「間に合わなかった。名前も聞けなかったと思ってた」
ララは何も言わない。
真壁も言えない。
ヴォルフは認識票を握りしめた。
「……残ってたんだな」
その一言で、真壁は少しだけ分かった。
直せない。
でも、なかったことにはできない。
アルゴが何をしたいのかは分からない。これが善意ではないことも分かる。人の傷を使っている。最悪だ。
だが、この認識票は本物だ。
ここにあった名前は、誰かに見つけられるのを待っていたのかもしれない。
真壁は顔を歪めた。
「……ララさん」
「何だ」
「これ、直せないです」
「ああ」
「でも、放置するのも違いますよね」
「ああ」
「じゃあ、どうするんですか」
ララは静かに答えた。
「記録する」
「記録」
「名前を確認し、遺族を探し、できるなら返す。できないなら、王都の記録に戻す」
「それは修理ですか」
「分からない」
ララは認識票を見る。
「だが、なかったことにはしない」
真壁は黙った。
修理ではない。
少なくとも、いつもの意味ではない。
壊れたものを元に戻すのではない。失われたものを取り戻すのでもない。
ただ、残っていたものを拾う。
名前を読む。
なかったことにしない。
「……これ、きついですね」
「ああ」
真壁は認識票を一枚だけ見た。
知らない名前だった。
知らない人。
知らない過去。
それでも、胸が重くなった。
「俺、こういうの苦手です」
「知っている」
「でも、アルゴに言われるのは腹立ちます」
「そうだな」
「だから、やります。できる範囲で」
ララが真壁を見る。
「無理はするな」
「無理はしません。触るのはちょっと無理です。でも、読むくらいなら」
ヴォルフが顔を上げる。
「読む?」
「名前です。ちゃんと」
真壁は認識票を見た。
これを構造として読む必要はない。
壊れ方を見る必要もない。
ただ、名前を読む。
一枚ずつ。
そこにいた人として。
ヴォルフが静かに箱を置いた。
「……頼む」
その声は、今まで聞いたことがないくらい素直だった。
真壁は小さく頷いた。
◇
診療小屋の外へ認識票を運び出し、簡易の布の上に並べた。
騎士たちが記録用の紙を用意する。
ララが名前を確認し、真壁が読めるものを読み、ヴォルフが覚えのある名前に短く補足を入れた。
一枚。
また一枚。
錆びて読みにくいものもある。
歪んでいるものもある。
名前の一部が欠けているものもある。
直せない。
だが、読めるところまで読む。
それは、真壁が今までやってきたどの作業とも違っていた。
静かだった。
重かった。
そして、妙に逃げられなかった。
やがて最後の一枚になった。
その認識票は、他よりも新しかった。
いや、保存状態がいいのではない。
意図的に磨かれている。
そこに刻まれた名前を見て、ヴォルフが止まった。
「……アルゴ」
真壁の背筋が冷えた。
認識票には、確かにその名があった。
針工師アルゴ。
所属欄は削られている。
死亡印が刻まれている。
だが、その上から、小さな文字が追加されていた。
『私はここで死んだ。では、今動いている私は何だ?』
真壁は言葉を失った。
ララの表情が硬くなる。
ヴォルフが低く呟く。
「……そう来るか」
真壁は認識票を見つめた。
アルゴは公式には死んでいる。
ここで死んだことになっている。
なら、今動いているアルゴは何か。
本人か。
生き残りか。
名を継いだ誰かか。
それとも、死んだはずの針工師という記録そのものを使っている何者か。
「……直せないものって」
真壁は小さく言った。
「アルゴさん自身のことでもあるんですかね」
ララは答えない。
ヴォルフも答えない。
風が吹いた。
認識票が小さく鳴る。
カン。
その音は、これまで聞いたどの金属音よりも、乾いていた。
真壁は目を閉じた。
直せない。
だが、なかったことにはできない。
アルゴが本当に死んだのか。
今のアルゴが何者なのか。
まだ分からない。
だが、少なくとも一つだけ分かった。
アルゴは、王都の壊れた設備だけを見ているのではない。
自分自身の壊れた記録も、真壁に読ませようとしている。
「……最悪だ」
真壁は呟いた。
だが、その声には恐怖だけではなく、怒りもあった。
人の死を使うことに。
ヴォルフの傷を使うことに。
ララの過去を刺激することに。
そして、自分を同類だと決めつけることに。
「ララさん」
「何だ」
「俺、やっぱりアルゴさん嫌いです」
「ああ」
「でも、読まないと駄目ですね」
「そうだな」
「嫌だなあ」
本当に嫌だった。
だが、真壁は認識票から目を逸らさなかった。
直せないものを見た。
直せなかった。
だが、なかったことにはしなかった。
それだけは、アルゴの思い通りではなく、自分たちの選択だった。
そう思いたかった。
ヴォルフが認識票を見下ろし、珍しく笑わずに言った。
「次は、あいつが何者かを読む番だな」
真壁は深くため息を吐いた。
「宿題が増えていく……」
ララが少しだけ口元を緩める。
「報酬は交渉する」
「神」
「騎士だ」
荒れた収容所跡に、いつものやり取りが小さく落ちた。
その音だけが、ほんの少しだけ、この場所の冷たさを和らげた気がした。




