第31話
王都で最も壊れている場所。
その言葉を口にしたあと、真壁悠はしばらく地図から目を離せなかった。
行政庁舎。王都評議会場。王城の隣にありながら、王城ほど華やかではない石造りの建物。王都の水路、道路、修繕予算、警備配置、商業区画、古い設備の封鎖記録。そういうものを決め、残し、時に見なかったことにする場所。
建物が壊れているわけではない。
少なくとも、地図の上では。
だが真壁には、それが一番嫌だった。
水門なら水門を見ればいい。鐘塔なら鐘と梁を見ればいい。蒸気管なら圧を見ればいい。荷車橋なら橋脚と水流を見ればいい。嫌ではある。とても嫌ではある。だが、対象が物なら、まだ分かる。ズレがある。負荷がある。触るべき場所と触らない方がいい場所がある。
人間の集まりは違う。
誰がどこを支えているのか、誰が何を隠しているのか、誰が責任を逃がし、誰が負荷を押しつけられているのか。
そういうものは、見えたところで直せる気がしない。
「……無理では?」
真壁は地図を前にして、極めて正直な感想を述べた。
会議室には、ララ・バーン、ヴォルフ、ギルド設備管理部門の職員、工務局の測量士、騎士数名が残っていた。旧鋳造区でアルゴと接触したあとの緊急整理会議はすでに一度終わっている。だが、真壁が「王都で最も壊れている場所は、行政庁舎かもしれない」と言ったことで、話は終わらなくなった。
終わらせてほしかった。
真壁個人としては、もう充分働いたつもりだった。
「無理とは」
ララが聞く。
「人間関係です」
真壁は即答した。
「俺が一番苦手なやつです。水路とか蒸気管も嫌ですけど、人間関係はもっと嫌です。しかも相手が偉い人たちなんですよね。絶対無理です」
ヴォルフが窓際ではなく壁際に立っていた。会議室に窓が少ないからだ。かなり不満そうだったが、口は元気だった。
「でも、お前が言い出したんだぜ」
「言い出したというか、見えちゃったというか」
「出た、見えちゃった」
「好きで見てるわけじゃないんです」
「知ってる」
ヴォルフは笑う。
真壁はその笑顔を見て、少しだけ腹が立った。だが、完全に嫌いになれないのも腹立たしい。ヴォルフは面倒で、危険で、勝手で、窓から来るが、こういう場面では妙に逃げ道を塞がない。茶化しはするが、真壁が本当に限界の時は一歩引く。
それが分かってきているのが、また嫌だった。
ララは地図を見下ろした。
「行政庁舎を調べるには、物理的な設備調査だけでは足りない。評議会の記録、工務局の報告、修繕予算の流れ、封鎖命令の決裁経路まで見る必要がある」
「ほら無理」
「だが、やる必要がある」
「ですよね」
真壁は深く息を吐く。
工務局の測量士が遠慮がちに手を上げた。
「行政庁舎の地下には、古い記録庫と、王都各区画へ繋がる通達用の気送管があります」
「気送管?」
真壁が聞く。
「筒の中へ書簡を入れ、空気圧で各部署へ送る古い設備です。現在は一部しか使われていませんが」
真壁は顔をしかめた。
「空気圧。古い設備。一部使用。閉鎖済みあります?」
測量士は目を逸らした。
「……あります」
「はい、一位」
会議室の何人かが、もうその言葉に慣れたように微妙な顔をした。
ララが測量士へ問う。
「その気送管は、評議会場と繋がっているのか」
「はい。議事録や緊急決裁書を送るための管が残っています。ただし、現在は通常の伝令が主で、気送管は予備扱いです」
真壁は地図ではなく、行政庁舎の簡易図面を見た。
見たくない。
だが見る。
気送管。
地下記録庫。
評議会場。
通達室。
工務局窓口。
王城連絡廊。
管が多い。
線が多い。
人の流れも多い。
「……うるさい」
真壁は小さく呟いた。
ララがすぐ反応する。
「図面がか」
「はい。管も多いし、人の動きも多い。どこが中心か分かりにくいです」
「中心」
「はい。水路とか鐘塔は、まだ中心が見えるんです。どこに負荷が集まってるか。でも行政庁舎は、中心がいくつもある感じがする」
ヴォルフが壁にもたれたまま言う。
「政治ってそういうもんだろ。責任の中心がぼやけてる」
「嫌な現実を言わないでください」
「本当のことだぜ」
ララは腕を組んだ。
「アルゴがそこを狙うなら、物理的な破壊よりも混乱を狙う可能性が高い」
「混乱?」
「評議会中に気送管が暴走する。虚偽の命令書が送られる。封鎖済みの旧管から毒煙や粉塵が流れる。あるいは、古い記録が一斉に散らばる」
「全部嫌です」
「同感だ」
真壁は行政庁舎の図面を見たまま、眉を寄せた。
違う。
何かが違う。
アルゴは、ただ混乱させるだけならもっと簡単にできる。鐘を落とせる男だ。水路も、蒸気管も、塔も動かせる。行政庁舎を騒がせたいだけなら、建物の一部を壊せばいい。
でも、アルゴは言った。
王都で最も壊れている場所。
つまり、壊れていることを見せたい。
「……アルゴさんは、たぶん暴れたいんじゃないです」
「何?」
ヴォルフが見る。
「見せたいんです」
真壁は嫌そうに言った。
「この場所が壊れてるって、みんなに分からせたい。たぶん」
ララの目が細くなる。
「行政の腐敗や怠慢を露呈させる、ということか」
「そこまで難しく言われると分かんないですけど……。でも、封鎖済みのまま放置した場所とか、嘘の台帳とか、危険な薬剤を安全処理済みにしてたこととか、そういうのを全部“ほら見ろ”ってやってる感じがします」
ヴォルフが低く笑った。
「告発者気取りか」
「一番嫌なタイプですね」
「しかも腕がある」
「さらに嫌です」
ララは行政庁舎の図面を見た。
「明日、王都評議会の臨時会議がある」
真壁の胃が沈んだ。
「……その流れ、嫌です」
「鐘塔事件、旧測量塔、銀糸、旧鋳造区での接触。これらを受けて、王都の各部署の責任者が集まる予定だ」
「めちゃくちゃ狙われそうじゃないですか」
「ああ」
「中止しましょう」
「簡単にはできない。評議会が止まれば、王都全体の対策も遅れる」
「でも集めたら危ない」
「だから事前に調べる」
ララの視線が、真壁に向いた。
真壁は自分を指差した。
「俺?」
「お前だけではない」
「だけじゃないって言い方、結局俺も含まれてる」
「含まれる」
「ですよね」
ヴォルフが笑う。
「安心しろ。偉い奴らの会議に放り込まれるだけだ」
「全然安心できない」
「魔物よりマシだろ」
「俺には同じくらい怖いです」
ララは少し考えたあと、静かに言った。
「真壁。お前は評議会に出る必要はない」
「本当ですか」
「ああ。ただし、事前点検には同行してほしい」
「行政庁舎へ?」
「そうだ」
「偉い人に会います?」
「おそらく何人かはいる」
「帰っていいですか」
「まだ行っていない」
「行く前から帰りたいです」
ララはほんの少し笑った。
「分かっている。だが、今度は物だけではない。人の動きも見る必要がある」
「だから一番苦手なんですけど」
「私もいる」
「ララさんがいると、偉い人相手はむしろ空気が硬くなりません?」
「否定はできない」
ヴォルフが手を上げた。
「俺は?」
「お前は連れて行かない」
ララが即答した。
「何でだよ」
「指名手配犯だからだ」
「細かいな」
「細かくない」
真壁は思わず頷いた。
「行政庁舎に指名手配犯連れて行くのは、さすがに駄目では?」
「お前に常識を語られるとはな」
「俺でも分かる常識です」
ヴォルフは肩をすくめた。
「じゃあ俺は外から見る。アルゴが本気なら、行政庁舎の外にも何か置くはずだ」
ララは少しだけ迷い、それから頷いた。
「勝手に動くな」
「努力する」
「信用度が低い」
「真壁みたいなこと言うな」
「それはどういう意味ですか」
真壁が抗議する。
会議室に、わずかに笑いが生まれた。
だが、すぐに消える。
行政庁舎。
王都評議会。
王都で最も壊れている場所。
次の舞台は、今までの水門や鐘塔とは違う。
壊れているのは、石や金属だけではない。
そう分かっているから、真壁の胃はずっと重かった。
◇
翌日の午前、真壁は行政庁舎の前で立ち尽くしていた。
建物は、想像していたよりも大きかった。
王城ほど装飾はない。だが、重厚だった。高い石段。太い柱。大きな扉。壁には王都の紋章が彫られ、門前には衛兵が立っている。出入りする人間は皆、きちんとした服を着ていた。役人、記録官、商会代表、騎士、使者。誰もが何かの用事と権限を持っている顔をしている。
その中で、真壁はグレーのスウェットではなかった。
さすがにララに止められた。
今は、騎士団が用意した簡素な外套を羽織っている。だが中身は真壁だ。姿勢は猫背、目線は下、社会性は低い。服を変えても本質は変わらない。
「……帰りたい」
石段の下で呟く。
ララが隣に立つ。
「今日は何度目だ」
「数えてないです」
「私もだ」
「じゃあ聞かないでください」
ララは騎士団の正式な外套を着ていた。第三隊長としての姿だ。通行人たちは彼女を見ると、自然に道を空ける。尊敬と緊張が混じった視線。真壁はその横にいるだけで肩が凝った。
「ララさん、有名人ですね」
「職務上な」
「俺、横にいていいんですか」
「必要だから連れてきた」
「必要って言葉、重い」
「今日はお前を前に出さない。私の補佐として入る」
「補佐って何するんですか」
「必要な時に小声で言え」
「それならできます。たぶん」
「たぶんか」
「偉い人の前だと声出ないかもしれません」
「なら、私が聞く」
ララの声はいつも通り落ち着いている。
そのことに、少し救われた。
中へ入る。
行政庁舎の中は、外よりさらに疲れる場所だった。
音が反響する。
革靴の音、紙をめくる音、羽ペンの音、扉の開閉、役人たちの低い声。水門や鐘塔のような物理的な騒音ではない。だが、別の意味でうるさい。規則正しく、固く、逃げ場がない。
匂いは紙とインクと革。記録保管棟に近いはずなのに、落ち着かない。あちらの紙は静かだった。ここにある紙は、責任や命令や手続きの匂いがする。
「……ここ苦手です」
「顔に出ている」
「隠せません」
案内役の役人が近づいてきた。
「ララ隊長。本日はご足労いただきありがとうございます。こちらの方は?」
「真壁悠。異常構造の確認に協力している」
役人の視線が真壁へ向く。
値踏みするような目。
真壁は瞬時に視線を下げた。
「……どうも」
「彼が例の異界人ですか」
例の。
その言葉だけで、真壁は帰りたくなった。
ララの声が少し低くなる。
「協力者だ」
「失礼しました」
役人はすぐ頭を下げた。
だが、真壁は分かってしまう。
言葉を取り繕っただけで、見方は変わっていない。彼の中で真壁は「異界人」「得体の知れない力を持つ者」「騎士団が連れている不審な男」だ。
別にそれでいい。
実際、得体は知れない。
だが、視線は疲れる。
「まず評議会場を確認したい」
ララが言う。
「かしこまりました。ただ、まもなく評議員の皆様がお集まりになるため、短時間でお願いできますか」
「危険があれば会議は中止させる」
「それは……我々だけでは判断いたしかねます」
ララの目が少し細くなる。
真壁はその横で、胸が詰まるのを感じた。
出た。
判断しない。
できない。
上に確認。
責任の逃げ道。
真壁は思わず、役人ではなく廊下の壁を見た。
壁に細い管が走っている。
気送管。
そこから空気の流れが微かにする。
「……ララさん」
真壁は小声で言った。
「何だ」
「この建物、人の声より管の方が正直です」
ララは一瞬だけ真壁を見る。
「どういう意味だ」
「人は隠してます。でも管は隠してない」
自分でも変な説明だと思った。
だが、そう感じた。
役人たちの言葉は、いちいち何かを避けている。責任、判断、危険、過去の記録。だが、壁の中を通る管はただ空気を通している。詰まれば詰まるし、漏れれば漏れる。嘘をつかない。
ララは小さく頷いた。
「まず管を見る」
「はい」
役人が戸惑う。
「評議会場ではなく?」
「評議会場へ繋がる気送管から確認する」
「しかし、時間が」
「危険を確認するためだ」
ララの言葉は短く、拒否を許さなかった。
案内役は渋々頷く。
◇
気送管室は、行政庁舎の一階奥にあった。
壁一面に金属製の管が並び、それぞれに区画名や部署名が書かれている。王城連絡、工務局、警備局、商務局、評議会場、地下記録庫。小さな筒に書簡を入れ、圧をかけて送る仕組みらしい。今はほとんど使われていないと言われたが、管のいくつかはまだ微かに暖かかった。
使っている。
真壁にはすぐ分かった。
「……一部使用って、結構使ってません?」
役人が曖昧に笑う。
「緊急時の補助として、多少は」
「多少」
真壁は管を見る。
多少ではない。
流れが残っている。
特に、評議会場へ繋がる管。
「ここ」
真壁は指差した。
「評議会場への管、詰まってません?」
「いえ、昨日点検した際には異常なしと」
「詰まってるというか、引っかかってます」
「引っかかり?」
ララが近づく。
「危険か」
「まだ分かりません。でも、これ……書簡が途中で止まってる?」
役人の顔色が変わった。
「そんなはずはありません。管内に書簡が残れば、送達記録に」
「送達記録は信用できます?」
真壁が聞く。
役人は黙った。
ララが言う。
「開けられるか」
「管を分解するには技師が必要で」
「呼べ」
「しかし、評議会が」
「呼べ」
役人は慌てて人を走らせた。
真壁は評議会場への管を見続ける。
気持ち悪い。
詰まりではない。
書簡が止まっている。
しかも、ただ止まっているのではない。
待っている。
「……ララさん」
「何だ」
「これ、会議が始まったら動くやつです」
「根拠は」
「今、止まってるのが不自然すぎる。圧がかかった時に、一気に送られるようになってる」
「中身は」
「分かりません。でも、紙だけじゃない」
ララの顔が険しくなる。
「異物か」
「はい」
技師が来るまでの数分が、妙に長かった。
真壁は管から目を離したかった。だが離せない。気持ち悪い引っかかりがそこにある。見なければ楽になるが、見なければ悪化する。そういう最悪の種類の違和感だった。
やがて行政庁舎付きの技師が工具を持ってやって来た。
「本当に開けるのですか」
技師は役人を見る。
役人はララを見る。
ララは短く言った。
「開けろ」
管の接続部が外される。
カン、と小さな音。
中から細い筒が出てきた。
書簡筒だ。
だが、その表面に銀色の糸が巻かれている。
さらに、筒の後ろには小さな針が取り付けられていた。
真壁は見た瞬間、全身に鳥肌が立った。
「……触らないで」
技師の手が止まる。
「全員、触らないでください」
ララが一歩前へ出る。
「何だ」
「これ、開けたら駄目です」
「中身が危険か」
「中身じゃない。開ける動作が危険」
真壁は筒を見る。
糸。
針。
封印。
そして、書簡筒の口。
「たぶん、偽の命令書です」
「命令書?」
「はい。でもそれより、これを誰かが開けると、針が動く。針が動くと、管の中の別の何かが……」
真壁は言葉を切った。
管の中。
評議会場。
他の管。
連動。
「……評議会場で別の筒が開く」
ララが低く言う。
「偽命令書を評議会場へ送る仕掛けか」
「たぶん。しかも、こっちで発見して開けることまで読まれてる」
役人が青ざめる。
「では、どうすれば」
真壁は書簡筒を睨んだ。
開けたい。
中身を確認したい。
でも開けてはいけない。
開けないと何が書かれているか分からない。
開けると罠が動く。
嫌すぎる。
「……開けません」
真壁は言った。
「中身は見ない」
「だが、命令書なら」
ララが問う。
「中身より、これを送りたい相手が大事です」
「評議会場か」
「はい。アルゴさんは、会議中にこれを届けたい。あるいは、俺たちが開けて止めると思ってる」
「なら」
「送らせます」
役人が目を剥いた。
「送らせる!?」
「中身は送らない。筒だけ送るふりをする」
真壁は管を指差した。
「空の筒を別に用意して、同じタイミングで評議会場へ送る。罠付きの筒はここで固定。でも圧だけ流す」
技師が慌てて図を確認する。
「圧だけ流せば、向こう側の受け口は作動します」
「それでいいです」
ララが理解する。
「アルゴに、書簡が届いたと思わせる」
「はい。読ませる罠です」
真壁は嫌そうに言った。
「もうこの言葉使いたくないんですけど」
「有効だ」
「有効なのが嫌です」
作業は急いで行われた。
罠付きの筒は動かさず、管内の圧だけを流す準備。代わりの空筒を別管で評議会場へ送る。技師たちは汗を流しながら調整し、ララは周囲を警戒し、真壁はずっと管の揺れを見ていた。
会議開始まで、あとわずか。
遠くで鐘が鳴る。
評議員たちが集まり始めた合図だ。
「今です」
真壁が言う。
技師が圧をかける。
シュー、と空気が管を走る。
罠付きの筒は動かない。
だが、評議会場側の受け口は作動する。
同時に、別管から空筒が送られる。
カン。
遠くで音がした。
届いた。
その瞬間。
管室の壁の奥で、細い音が鳴った。
キン。
真壁が叫ぶ。
「左!」
ララが動く。
剣を抜く。
だが斬るのは管ではない。
壁に取り付けられた古い圧力弁。
そこだけを、柄で打つ。
弁がずれ、余分な圧が抜ける。
壁の中で何かが空回りした。
真壁には分かった。
アルゴの仕掛けが外れた。
偽命令書が届いたと読ませた。
そして、連動した罠だけを空振りさせた。
「……止まった」
技師が呟く。
役人が腰を抜かしそうになっている。
ララは剣を収めた。
「評議会場は」
騎士が走って戻る。
「異常なし! 空の筒が届き、受け口が開いたのみです!」
真壁はその場に座り込んだ。
「……心臓に悪い」
ララが近づく。
「よく読んだ」
「人間関係は読んでないです。管を読んだだけです」
「それで十分だ」
「十分ならいいですけど……」
真壁は罠付きの書簡筒を見た。
まだ開けていない。
開けたくない。
だが、今なら安全処理できるだろう。
「中身、確認します?」
ララが技師へ指示する。
「安全処理後に開封する。真壁は離れていろ」
「助かります」
真壁は数歩下がる。
ララと技師が慎重に針と糸を固定し、書簡筒を開ける。
中から出てきたのは、一枚の命令書だった。
役人が読んで、顔を青ざめさせる。
「これは……」
ララが受け取る。
真壁には距離があるので読めない。
読みたくもない。
だが、ララの表情で分かった。
良くない内容だ。
「何て書いてあるんですか」
ララは低く答えた。
「南環状水路の全水門を緊急開放せよ、という命令書だ」
真壁の背筋が冷えた。
「それ、やったら」
「市場裏と低地が浸水する」
「最悪」
「さらに、発信者名は王都評議会議長になっている」
役人が震える。
「偽造です! 議長はこのような命令を」
「分かっている」
ララは命令書を見つめた。
「だが、会議中にこれが届き、混乱の中で処理されれば、現場が動く可能性はあった」
真壁は理解した。
アルゴは、行政庁舎を爆破するつもりではなかった。
偽の判断を流すつもりだった。
壊れているのは、判断する場所。
なら、その場所から間違った命令を出させればいい。
人が死ぬ。
でも、命令書の上では正しい手続きに見える。
「……気持ち悪い」
本当に、心底気持ち悪かった。
ララが命令書を握る。
「これで評議会は止められる」
「中止ですか」
「いや」
ララの目は鋭かった。
「逆だ。評議会でこれを突きつける」
「え」
「王都の中枢が狙われていること。偽命令書が通れば大災害になったこと。封鎖済みの設備や虚偽の台帳が、アルゴに利用されていること。全てを出す」
真壁は一瞬、何を言われたのか理解できなかった。
「それ、偉い人たちの前でやるんですか」
「ああ」
「俺は?」
「隣にいろ」
「嫌です!」
即答だった。
「無理です! 偉い人たちの前とか絶対無理です!」
「証人が必要だ」
「証人って何ですか怖い!」
「お前に喋らせるつもりはない。必要なら私が話す」
「本当に?」
「ああ」
ララは真壁を見た。
「だが、お前が見つけた。お前が読んだ。だから、そこにいてほしい」
「……」
「無理なら強制はしない」
真壁は言葉に詰まった。
強制はしない。
ララはそう言った。
なら逃げてもいい。
ここで逃げても、きっとララは責めない。
だが。
偽命令書。
南環状水路。
低地の浸水。
もしこれが通っていたら、多くの人が巻き込まれた。
そして、その原因をまた誰かが隠すかもしれない。手続き上の誤りだったとか、現場の判断ミスだったとか、古い設備の偶発事故だったとか。
アルゴはそれを見せようとしている。
この場所が壊れていると。
そのやり方は最悪だ。
だが、壊れていること自体までなかったことにすれば、また同じことが起きる。
「……喋らないでいいんですよね」
「必要なら、私が代わりに言う」
「じゃあ、います」
真壁は小さく言った。
「隅っこに」
ララの表情が少しだけ柔らかくなる。
「それでいい」
「あと報酬」
「交渉する」
「神」
「騎士だ」
いつものやり取り。
だが今日は、その言葉が少しだけ頼もしかった。
◇
王都評議会場は、真壁がこれまで入ったどの部屋よりも居心地が悪かった。
広い。
天井が高い。
円形に並んだ席。中央の議長席。壁に掲げられた王都の紋章。ずらりと並ぶ評議員、各部署の責任者、商会代表、工務局幹部、警備局、騎士団関係者。
人が多い。
視線が多い。
責任を持っていそうな顔と、責任を逃がしそうな顔が混ざっている。
真壁はララの後ろ、なるべく目立たない位置に立った。外套のフードを深く被りたい衝動に駆られたが、室内でそれをやると逆に怪しいので我慢した。
評議会は、最初から空気が悪かった。
鐘塔事件、旧測量塔、旧鋳造区、南環状水路。各部署が互いに責任を押しつけ合っている。
「工務局の管理不備ではないのか」
「警備局の巡回が不足していたのでは」
「騎士団がもっと早く情報共有していれば」
「古い設備の修繕予算は商業区優先で削られていたはずだ」
言葉が飛ぶ。
真壁は聞いているだけで疲れた。
これは音としてうるさいのではない。
流れが気持ち悪い。
責任が、あちこちへ逃げている。
誰も中心に置かない。
押しつけ、逸らし、戻し、また押しつける。
まるで、壊れた管の中で圧だけが逃げ場を探しているみたいだった。
「……これか」
真壁は小さく呟いた。
ララがわずかに振り返る。
「何か見えたか」
「はい」
「何だ」
「人間の水漏れ」
ララは一瞬だけ目を瞬かせた。
「……後で詳しく聞く」
「今のは忘れてください」
その時、ララが中央へ進み出た。
場の空気が変わる。
「発言を求める」
評議会議長が頷く。
「ララ・バーン隊長。発言を許可する」
ララは偽命令書を掲げた。
「先ほど、評議会場へ送られるはずだった偽命令書を押収した。内容は、南環状水路の全水門緊急開放命令。発信者名は議長」
会場がざわめく。
議長が立ち上がる。
「私はそのような命令を出していない!」
「分かっている。偽造だ」
ララの声はよく通った。
「だが、この命令が通れば、南低地と市場裏は浸水していた。被害は甚大だっただろう」
「なぜそのようなものが」
「行政庁舎内の気送管に仕掛けられていた。管の点検記録は異常なし。だが実際には、書簡筒が途中で止められていた」
工務局幹部の顔色が変わる。
「それは……」
ララは続ける。
「これまでの一連の破壊工作は、古い設備、封鎖済みとされた経路、虚偽の台帳、安全処理済みとされた危険物、未修繕の負荷を利用している。つまり、敵は王都の外からだけではなく、我々が放置したズレを使っている」
会場が静かになる。
真壁はララの背中を見ていた。
強い。
剣を抜いていない。
誰も斬っていない。
だが、今のララは確かに斬っている。
責任逃れの流れを。
曖昧に押し流されていた言葉を。
正面から。
「王都で最も壊れているのは、設備だけではない」
ララが言う。
「壊れていることを見ない判断だ」
その言葉に、真壁の胸が少しだけ震えた。
それは、真壁が思っていたことに近かった。
だが真壁には言えなかった言葉だった。
ララが言った。
代わりに。
会場のあちこちで、視線が揺れる。
怒り。
戸惑い。
反発。
羞恥。
責任を感じた者もいれば、逃げ道を探す者もいる。
その時。
真壁の視界の端で、何かが光った。
銀色。
細い糸。
評議会場の天井近く。
紋章の裏。
「……ララさん」
真壁が低く言う。
ララの肩がわずかに動く。
「どこだ」
「上。紋章の裏」
ララは剣へ手を伸ばしかける。
だが、抜かない。
場に気づかれないように視線だけを上げる。
「切るなよ」
いつの間にか、会場後方の扉の陰にヴォルフがいた。
なぜ入っているのか。
分からない。
だが今は突っ込む余裕がない。
「分かっている」
ララが小さく答える。
銀糸は揺れている。
だが、これまでとは違う。
支えているのではない。
聞いている。
会場の声。
責任の流れ。
誰が何に反応するか。
アルゴは、ここでも読んでいる。
真壁は顔をしかめた。
「……気持ち悪い」
「どうする」
ララが小声で聞く。
真壁は考える。
切るのは駄目。
触るのも駄目。
でも放置すれば、アルゴにこの会議の反応が読まれる。
なら。
「読ませます」
「何を」
「一番聞きたい言葉を」
真壁は評議会場を見る。
アルゴが聞きたい言葉。
壊れていることを認めるか。
誰が責任を取るか。
修繕するのか。
隠すのか。
ララの言葉だけでは足りない。
この場の誰かが言う必要がある。
真壁は議長を見た。
高齢の男。顔色は悪い。先ほど偽命令書の発信者にされたばかりだ。怒りと恐怖と屈辱が混ざっている。だが、逃げてはいない。
「議長に」
真壁が言う。
「何を」
「壊れているって、認めさせてください」
ララは一瞬だけ真壁を見る。
そして、すぐに中央へ向き直った。
「議長」
「何だ」
「この偽命令書は、あなたの名で出されようとした。だが問題は、偽造されたことだけではない。この命令が通る可能性が、この行政庁舎にあったことだ」
議長は黙った。
「気送管の点検は異常なしとされていた。封鎖済みの管は実際には使われていた。安全処理済みの危険物は残っていた。各部署の記録は食い違っている。これは、一部署の問題ではない」
ララは真っ直ぐ言う。
「王都の判断そのものが壊れている」
会場が凍る。
議長の拳が震えた。
長い沈黙。
真壁は天井の銀糸を見る。
揺れが強くなる。
聞いている。
待っている。
議長が、ゆっくり口を開いた。
「……認める」
その声は、小さかった。
だが、会場に響いた。
「王都評議会は、古い設備と記録の不整合を放置してきた。予算の都合、部署間の対立、責任の曖昧さ。そうしたものが、今回の敵に利用された」
ざわめきが起きる。
だが議長は続けた。
「本日より、王都全設備の封鎖記録、安全処理記録、修繕延期記録を再調査する。各部署は責任の所在を隠すな。隠した者は、敵に協力したものと見なす」
銀糸が強く震えた。
真壁は叫びそうになった。
切れる。
いや、違う。
自壊する。
聞きたかった言葉を聞いた瞬間、糸が役目を終えた。
「下がって!」
真壁が叫ぶ。
天井の紋章裏で、銀糸が弾けた。
細かな銀の粉が舞い落ちる。
ララが外套を翻し、真壁と周囲の評議員を庇う。
ヴォルフが机を蹴って粉の流れを逸らす。
騎士たちが布を広げる。
粉は床へ落ちた。
誰も怪我をしない。
会場は騒然となる。
だが、真壁には分かった。
今のは攻撃ではない。
記録だ。
アルゴが聞いていた糸が、自壊した。
つまり。
「……聞かれた」
真壁は呟いた。
ララが問う。
「何を」
「この場所が、壊れてるって認めたこと」
ヴォルフが低く笑う。
「アルゴは満足したかもな」
「満足されたくないです」
真壁は評議会場を見る。
議長は立ったまま、銀の粉を見下ろしている。
逃げなかった。
責任を認めた。
それがどこまで本気なのか、真壁には分からない。人間は難しい。言葉だけならいくらでも言える。
だが、少なくとも今。
責任の流れは、少しだけ止まった。
逃げ続けていた圧が、一つの場所へ戻った。
真壁には、そう見えた。
「……人間の水漏れ、ちょっと止まりました」
思わず呟く。
ララが小さく笑った。
「そうか」
「変なこと言いました」
「いや、分かりやすい」
「本当ですか」
「ああ」
評議会場はまだ混乱している。
しかし、さっきまでの責任の押しつけ合いとは違う空気になっていた。
壊れていることを認めた。
そこから始めるしかない。
真壁は、そのことに少しだけ安心した。
そして同時に、嫌な予感もしていた。
アルゴはこれを見た。
聞いた。
なら次は、どう動く。
その時、会場の床に落ちた銀粉の中から、一枚の小さな金属片が現れた。
真壁はもう驚かなかった。
驚くのも疲れた。
ララが布越しに拾う。
刻まれた文字は短かった。
『よく直した。次は、直せないものを見せよう』
真壁は目を閉じた。
「……また宿題」
ヴォルフが笑う。
ララは笑わなかった。
真壁も笑えなかった。
直せないもの。
その言葉は、これまでのどれよりも嫌だった。
直してはいけないもの。
斬ってはいけないもの。
読め。
来い。
そして次は、直せないもの。
アルゴの遊びは、まだ終わらない。
だが、真壁は評議会場の中央を見た。
壊れていることを認めた場所。
少しだけ水漏れが止まった場所。
そして、自分の代わりに言葉を斬ってくれたララ。
「……ララさん」
「何だ」
「今日の俺、喋ってないですよね」
「ああ」
「じゃあ報酬、補佐分で」
ララは一瞬だけ目を瞬かせた。
それから、少しだけ笑った。
「交渉する」
「神」
「騎士だ」
そのやり取りだけが、騒然とした評議会場の中で、妙にいつも通りだった。
真壁はそれに少し救われながら、手の中の震えを隠すように外套を握った。
直せないもの。
見たくない。
絶対に見たくない。
それでも、たぶん見ることになる。
そう分かってしまう自分が、真壁は何より嫌だった。




