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第30話


 旧測量塔から戻ったあと、真壁悠はしばらく自室の椅子に座ったまま、何もしなかった。


 報酬袋は机の上にある。夕食も置かれている。湯気の立つスープと、今日も肉が二切れ。普段ならまず肉へ視線が吸い寄せられる。真壁にとって食事はかなり重要だ。空腹は人間を弱くする。異世界へ来てから、それは身に沁みて分かった。


 だが、その夜だけは肉を見てもすぐには手が伸びなかった。


 頭の中に、旧測量塔の音が残っていた。


 銀糸が塔へ巻き取られていく時の、細い振動。塔の中心軸が王都全体の揺れを受け止め、都市芯石へ力を流そうとしていたあの気持ち悪い感覚。右へ回すと読ませ、左へ戻す。数ミリのズレで空回りさせた瞬間、塔の音が変わったこと。


 読んだ。


 読んでしまった。


 そして、アルゴはそれを喜んでいた。


『よく読んだ。なら次は、私の居場所まで来い』


 金属紙の文字は、もうララ・バーンが持っていった。騎士団の証拠保管に回すと言っていた。だから部屋にはない。目の前にはない。触れない。見なくていい。


 それなのに、文字は頭の中に残っている。


「……来いって何だよ」


 真壁は机へ突っ伏した。


「行かないだろ、普通」


 誰もいない部屋で言う。


 いや、誰もいないと思った瞬間に、窓の方が気になった。最近、この部屋で「誰もいない」と断言するのは危険だ。窓から来る男がいる。来るなと言っても来る。鍵をかけても来る。世界の防犯意識が崩れている。


 だが今夜、窓枠には誰もいなかった。


 それが逆に不気味だった。


「……来ないなら来ないで落ち着かないな」


 自分で言って、真壁は嫌になった。


 慣れている。


 ヴォルフが窓にいる状況に、少し慣れてきている。


 人間の適応力は怖い。


 コン、コン。


 扉が鳴った。


 窓ではない。扉。正常な入口。


「入るぞ」


 ララの声だった。


「はい」


 扉が開く。


 ララは軽装のままだった。外套は脱いでいるが、剣はある。疲れが顔に出ている。旧測量塔の一件で彼女もかなり神経を使ったはずだ。にもかかわらず、姿勢は崩れていない。


 真壁はその姿を見て、少しだけ申し訳なくなった。


「ララさん、休まなくていいんですか」


「お前に言われるとは思わなかった」


「俺は常に休みたい側なので、休みの大切さには詳しいです」


「説得力があるのかないのか分からないな」


 ララは机の向かいに座った。


 完全に話が長い時の姿勢だった。


 真壁は顔をしかめる。


「……作戦会議ですか」


「ああ」


「今から?」


「今は概要だけだ。正式には明日、ギルドと騎士団、工務局の技師も交えて行う」


「俺も出るんですか」


「出てもらう」


「ですよね」


 真壁は深くため息を吐いた。


 だが、完全に拒否する気にはなれなかった。


 旧測量塔で見たものがある。


 アルゴが王都を巨大な構造物として読み、都市芯石まで狙ったこと。記録保管棟を守ったら、今度は記録の基準へ来たこと。つまり、こちらが守った場所を見て、次の手を変えていること。


 放置すれば悪化する。


 それが分かっている。


 分かりたくないのに、分かってしまっている。


「……アルゴの居場所、読むんですよね」


「ああ」


 ララは頷いた。


「ただし、お前一人に読ませるつもりはない」


「そこは本当に助かります」


「明日は、情報を集める。お前が感覚で読んだものを、図面、記録、証言、戦場知識と照合する」


「戦場知識ってヴォルフさんですか」


「そうだ」


「信用していいんですか」


「完全にはできない」


「ですよね」


「だが、アルゴに関してはあいつが最も詳しい」


「それも嫌ですね」


 ララは少しだけ口元を緩めた。


「同感だ」


 真壁は机の上の夕食を見た。


 肉が冷めかけている。


 もったいない。


 どれだけ嫌な状況でも、肉を無駄にするのはよくない。


 真壁はようやく箸代わりの木製フォークを手に取った。


「食べながらでいいですか」


「ああ。食べろ」


「ララさんも食べました?」


「まだだ」


「食べた方がいいです」


 自然に言った。


 言ってから、少しだけ気まずくなる。


 ララは一瞬だけ目を瞬かせた。


「……そうだな」


「いや、別に深い意味じゃなくて。疲れてる時に食べないと判断力落ちるっていうか」


「分かっている」


「はい」


「気遣いとして受け取っておく」


「……はい」


 変な空気になった。


 真壁は肉を口に入れて誤魔化した。


 うまい。


 やはり肉は偉い。


 ララは立ち上がる。


「私も食事を取ってから戻る」


「戻るんですか」


「長くはかからない。明日の会議で話す内容を、少し整理しておきたい」


「働きすぎでは?」


「お前ほどではない」


「俺は働いてる自覚ないです」


「だから余計に働いているように見える」


「最悪だ」


 ララは扉へ向かい、そこで振り返った。


「真壁」


「はい」


「今日はもう読まなくていい」


 その一言に、真壁は少しだけ救われた。


 読まなくていい。


 見なくていい。


 考えなくていい。


 そう言われるだけで、頭の中の糸が少し緩む。


「……はい」


「休め」


「努力します」


「そこは即答しろ」


「休むのも難しいんです」


「知っている」


 ララはそう言って出ていった。


 部屋に静けさが戻る。


 真壁は夕食を食べた。


 肉を食べ、スープを飲み、パンを噛んだ。腹が満ちると、少しだけ世界がまともになる。アルゴの文字も、銀糸の揺れも、ほんの少し遠くなる。


 ただ、完全には消えない。


 真壁は食器を端へ寄せ、机に突っ伏した。


「……読まなくていいって言われたのに、考えてる」


 自分が嫌になる。


 だが、それでも。


 旧測量塔。


 都市芯石。


 記録保管棟。


 南環状水路。


 中央広場。


 それらを頭の中で繋げると、一つだけ気になることがあった。


 アルゴは高い場所で王都を読む。


 それは分かる。


 だが、居場所まで来いと言った。


 自分の居場所を読ませたい。


 なら、旧測量塔はたぶん本拠地ではない。


 あれは、読ませるための装置だ。


 では、本当にいる場所はどこか。


「……考えるな」


 自分に言い聞かせる。


 今日はもう読まない。


 そう決めて、真壁は寝台に倒れ込んだ。


 だが、眠る直前。


 ふと、変な考えが浮かんだ。


 アルゴが本当に見たいのは、王都ではない。


 真壁たちが、どこまで自分を追えるか。


 つまり。


「……こっちが追いかける動きも、読まれてるんじゃないか」


 言ってから、真壁は目を閉じた。


 見なかったことにした。


 今日だけは。


    ◇


 翌朝、会議室には、いつもより多くの人間が集まっていた。


 王宮騎士団第三隊長ララ・バーン。


 ギルド設備管理部門の技師と職員。


 王都工務局の記録官と測量士。


 騎士数名。


 そして、窓際に勝手に立っているヴォルフ。


 真壁悠は、一番端の椅子に座っていた。


 目立ちたくないからだ。


 だが、全員が時々こちらを見る。


 非常に居心地が悪い。


「……帰りたい」


 小声で呟く。


 隣に座っていた若いギルド職員が、困ったように笑った。


「ええと、まだ始まったばかりです」


「始まる前から帰りたいです」


「真壁さんらしいですね」


「それ、褒めてます?」


「たぶん」


「たぶんか……」


 会議室の中央には大きな地図が広げられている。


 王都全域。


 赤い印は、これまでアルゴが仕掛けた場所。


 青い線は、水路や蒸気管、地下配送路などの都市機能。


 緑の印は、工務局の古い基準点。


 そして、銀色の細い糸で、旧測量塔から各地点へ推定経路が引かれていた。


 視覚化されると、かなり嫌だった。


 王都が巨大な蜘蛛の巣に見える。


 ララが会議を始める。


「昨日、旧測量塔に仕掛けられていた銀糸巻き取り機構を停止した。都市芯石への反動は確認されていない。だが、アルゴは明確に次の段階へ移った」


 ララは金属紙の写しを机へ置く。


『よく読んだ。なら次は、私の居場所まで来い』


 会議室の空気が重くなる。


 工務局の記録官が震えた声で言った。


「アルゴというのは、本当に北方戦役の針工師アルゴなのですか」


 ヴォルフが答える。


「確定じゃねえ。だが手口はほぼ同じだ」


「しかし、公式記録では死亡と」


「戦場の公式記録ほど信用できねえもんはない」


 記録官は青ざめた。


 ララが話を戻す。


「問題は、アルゴの居場所だ。こちらは、旧測量塔が拠点ではなく中継装置だったと見ている」


 工務局の測量士が頷く。


「旧測量塔の中心軸は、確かに都市芯石と古い測量術式で繋がっています。しかし、人が常駐できる施設ではありません。隠れ場所として使うには目立ちます」


「では、どこなら可能か」


 ララの問いに、場が沈黙する。


 真壁は目を伏せた。


 こういう時、自分を見るな、と思う。


 だが、全員が見る。


「……言いますけど、俺のは感覚ですからね」


 前置きする。


 ララが頷く。


「それでいい」


「よくない気もしますけど」


 真壁は地図を見る。


 見たくない。


 だが見る。


 全部ではない。


 銀糸の経路だけ。


 旧測量塔から各地点へ伸びた推定経路。そこには偏りがある。中央広場、水路、記録保管棟、旧資材庫。どれも重要地点だ。だが、一本だけ変な線がある。


「……ここ」


 真壁は地図の西側を指差した。


 ララが見る。


「西旧市街か」


「はい。でも、ここ自体が怪しいんじゃなくて」


 真壁は線をなぞる。


「この線、途中で一回“戻ってる”感じがします」


「戻っている?」


「はい。普通は目的地へ伸びるはずなのに、一度ここへ寄ってから、また別の場所へ行ってる」


 指先が止まった。


 西旧市街の地下。


 古い排水路と、閉鎖された職人工房群の近く。


 工務局の測量士が顔をしかめる。


「そこは、旧鋳造区です。昔は金属加工の工房が並んでいましたが、今はほとんど廃棄されています」


 ヴォルフが目を細めた。


「鋳造区か」


 真壁はヴォルフを見る。


「何かあるんですか」


「針工師が隠れるなら悪くねえ。金属加工の道具がある。古い炉もある。地下排気路も残ってる」


 ララが問う。


「人が住めるのか」


「普通は無理だな。暑いし臭いし、空気が悪い」


「普通じゃない人なら?」


「あり得る」


 真壁は嫌な顔になった。


「じゃあそこが居場所ですか」


「まだ早い」


 ララが言う。


「アルゴは読ませたいと言っている。なら、そこへ誘導するために痕跡を残した可能性もある」


「罠の可能性」


「ああ」


 真壁は頷いた。


「たぶん罠です」


 会議室が静かになる。


「なぜそう思う」


 ララが聞く。


「居場所まで来い、って言われたからです」


「それだけか」


「はい」


 真壁は本気で言った。


「来いって言われた場所に素直に行くの、危なすぎません?」


 ヴォルフが吹き出した。


「正論だな」


 ララも少しだけ目を伏せる。


「確かに」


 真壁は地図を見る。


「でも、罠だとしても、意味はあると思います」


「どういう意味だ」


「アルゴさんが、俺たちに見せたい場所ではある」


 自分で言って、真壁はまた気持ち悪くなった。


「本拠地じゃないかもしれない。でも、何かを見せたい。たぶん、自分の考え方とか、次の仕掛けとか」


 ヴォルフが頷く。


「あり得る。あいつが本当にアルゴなら、“見せ場”は用意する」


「その見せ場に乗るのは危険だ」


 ララが言う。


「はい」


 真壁は頷く。


「だから、行くなら素直に行かない方がいいです」


「また読ませる罠か」


「はい。たぶん」


 だんだん自分が嫌な作戦を考えることに慣れてきている気がする。


 それが嫌だった。


「アルゴは、俺が旧鋳造区を読んで、そこへ来ると思ってるかもしれない」


「なら、逆へ行くか」


 ヴォルフが言う。


 真壁は首を振った。


「逆へ行くことも読まれてそうです」


「面倒だな」


「はい」


「じゃあどうする」


 真壁は少し考えた。


 考えたくないが、考える。


 四畳半の紐を思い出す。


 揺れを見る時、先端を追うと遅れる。


 戻る中心を見る。


 でも、相手がこちらに先端を見せているなら。


 中心は別にある。


「……行かない人を作ります」


 ララが反応する。


「行かない人?」


「はい。俺たち全員が旧鋳造区へ行くと読まれる。逆に全員行かないと、それも読まれる。だから、行く人と行かない人を分ける」


「部隊を分けるのか」


「はい。でも、普通に分けるんじゃなくて」


 真壁は地図を指した。


「俺は旧鋳造区へ行かない」


 ララの目が少し変わった。


「真壁は残るのか」


「はい」


「理由は」


「アルゴさんは、多分俺に来てほしい。だったら、俺が行かないだけで嫌がると思います」


 ヴォルフが笑った。


「いい性格になってきたな」


「嬉しくないです」


「でも正解かもな」


 ララは少し考えた。


「なら、誰が行く」


「ララさんとヴォルフさん」


「お前を残してか」


「はい」


「それは危険だ」


「俺が行っても危険です」


「それはそうだが」


 ララの声には迷いがあった。


 真壁は少しだけ分かった。


 彼女は自分を現場に連れて行きたくない。だが、完全に離すのも不安なのだ。アルゴが真壁を狙っている以上、どちらも危険である。


「真壁さんを騎士団宿舎で保護するのは?」


 若い騎士が言った。


 真壁は即答する。


「窓から人が来るので不安です」


 会議室が微妙な空気になる。


 ヴォルフが笑う。


「俺のせいみたいに言うなよ」


「あなたのせいですよ」


 ララは地図の東側を指した。


「なら、真壁は記録保管棟に置く」


「え?」


「記録保管棟は警備を強化済み。図面もある。お前が遠隔で読むなら、そこがいい」


 真壁は少し考えた。


 記録保管棟。


 静か。


 紙の匂い。


 比較的ましな場所。


「……ありです」


「そこへギルド技師と騎士を配置する。何かあれば伝令を走らせる」


 ヴォルフが指を鳴らす。


「俺とララが旧鋳造区へ行く。真壁は記録保管棟で図面を見る。アルゴは真壁が来ると思って仕掛けてる。そこで読みがズレる」


「さらに」


 真壁は続けた。


「俺が記録保管棟にいることを、アルゴさんに読ませてもいいと思います」


 ララが目を細める。


「なぜだ」


「記録保管棟はこの前守った場所です。アルゴさんも見てる。俺がそこにいるなら、たぶん何か仕掛けたくなる」


「それを利用するのか」


「はい。嫌ですけど」


 真壁は正直に言った。


「俺を餌にする感じですね」


「却下だ」


 ララが即答した。


 真壁は驚く。


「早い」


「お前を餌にはしない」


「でも、アルゴさんは俺を見てます」


「だからといって、こちらがお前を餌として扱う理由にはならない」


 声が強かった。


 会議室が静かになる。


 真壁は何も言えなくなった。


 ヴォルフが珍しく茶化さず、ララを見ていた。


 ララは少しだけ息を整え、言い直す。


「真壁は餌ではない。誘導役だ。危険を最小限にした上で、相手の反応を見る」


「……言い方の違いでは?」


「違う」


「違いますか」


「違う」


 二度目は、さらに強かった。


 真壁は小さく頷いた。


「分かりました。誘導役で」


「無理はさせない」


「そこは信じてます」


 言ってから、真壁は少し気まずくなった。


 だが本心だった。


 ララは少しだけ表情を緩めた。


「なら、作戦はこうだ」


 ララは地図を示す。


「第一班。私とヴォルフ、騎士二名で旧鋳造区へ向かう。正面からは入らず、外周確認のみ。内部侵入は真壁の指示を待つ」


「俺の指示って言われると胃が痛いです」


「判断と言い換える」


「少しだけましです」


「第二班。真壁は記録保管棟で図面と旧鋳造区の台帳を確認する。ギルド技師と騎士が補助。異常があれば即時連絡」


「はい」


「第三班。工務局は旧鋳造区周辺の地下排気路と水路を封鎖。ただし完全封鎖ではなく、逃がし口を残す」


 真壁が頷く。


「全部閉じると、別の場所へ跳ねる可能性があります」


「そうだ」


 ララは会議室を見回した。


「目的はアルゴの捕縛ではない。まずは、アルゴが何を見せようとしているかを読むこと。そして、こちらの読みを一つでも外させることだ」


 ヴォルフが笑う。


「攻めるようで守る作戦だな」


「その方が真壁に合っている」


「ですね」


 真壁は即答した。


 戦いたくない。


 捕まえに行きたくもない。


 だが、読まれっぱなしは嫌だ。


 なら、守りながらズラす。


 それが今の自分たちに合っている気がした。


    ◇


 作戦開始は昼過ぎになった。


 真壁は記録保管棟の一室にいた。


 前回守った北東書庫とは別の閲覧室だ。大きな机があり、旧鋳造区の図面、工房台帳、排気路図、地下水路図、古い測量記録が並べられている。紙の匂い。乾いた空気。静かな部屋。


 現場よりは圧倒的にましだった。


 ただし、机の上の情報量は地獄だった。


「……これ全部見るんですか」


 真壁は呻いた。


 隣のギルド技師が申し訳なさそうに言う。


「必要なものだけで構いません。こちらで分類します」


「必要なものが分からないんですよね」


「そこは……真壁さんの感覚で」


「感覚頼り、怖い」


 若い騎士が扉の近くで警備している。窓も閉められている。今回はヴォルフが来る心配は少ない。彼はララと旧鋳造区へ向かっているからだ。


 それはそれで不安だった。


 ララとヴォルフ。


 相性がいいのか悪いのか分からない二人だ。戦力としては強い。だが、真壁の目が届かない場所で何かが起きるのは、落ち着かない。


 いや、目が届いても落ち着かない。


 結局落ち着く場面がない。


「……まず、見ないものを決めます」


 真壁は自分に言い聞かせるように言った。


「はい」


 ギルド技師が頷く。


「工房の所有者名は後。細かい部品台帳も後。見るのは、排気路と炉と水路。あと、閉鎖済みって書いてある場所」


「閉鎖済みですね」


「信用できない一位なので」


 技師はすでに慣れたように頷いた。


 真壁は図面を見る。


 旧鋳造区は、かなり複雑だった。


 地上には古い工房群。地下には炉の熱を逃がす排気路、冷却水路、資材搬入用の小型軌道、廃材穴、煙突基部。かつて金属加工の中心だった場所だけあって、熱、風、水、金属、すべてが絡んでいる。


 アルゴが好きそうだ。


 それだけで嫌だった。


「……ここ」


 真壁は古い排気路を指差した。


「この線、変です」


 技師が覗き込む。


「排気路三号ですね。現在は崩落で封鎖済みのはずですが」


「はい。一位」


「すみません」


「いや、いいです。ここ、崩落で封鎖されたなら、本来は行き止まりのはずですよね。でも別の図面だと、ここで冷却水路と交差してる」


「交差していますが、接続はしていません」


「本当に?」


 技師は別の台帳をめくる。


「……修繕記録があります。十八年前、排気路三号の一部を冷却水路の排水補助に転用」


「繋がってるじゃないですか」


「記録上はその後封鎖……」


「一位!」


「すみません!」


 真壁は頭を抱えた。


 旧鋳造区の図面は、想像以上に信用できない。


 古い記録、修繕、転用、封鎖、再利用。それらが重なり、図面と現実がズレている。アルゴが隠れるには最悪の、いや最高の場所だった。


「ララさんたちは、今どこですか」


 騎士が伝令板を確認する。


「旧鋳造区外周、西側工房跡に到着。異常なしとのこと」


「異常なしが一番怖い」


 真壁は図面を見る。


 西側工房跡。


 外周。


 そこには排気路三号の地上口がある。


「……ララさんに伝えてください。西側工房跡の地面、踏む前に確認。特に石畳の色が違う場所」


「はっ」


 騎士が伝令へ走る。


 真壁はさらに図面を見る。


 気持ち悪い。


 どこも怪しい。


 怪しい場所が多すぎると、逆に分からなくなる。


 だが、アルゴが見せたい場所があるはずだ。


 旧鋳造区。


 金属。


 針工師。


 自分の居場所まで来い。


 なら、見せたいのは何か。


「……工房じゃない」


 真壁は呟いた。


 ギルド技師が聞く。


「何がですか」


「アルゴさんは、自分の作業場を見せたいんじゃない。たぶん」


「では何を」


「作ったもの」


 真壁の視線が地下へ向かう。


 工房で作ったもの。


 糸。


 金属片。


 黒い装置。


 水袋。


 仕掛け。


 その材料と加工の痕跡。


 でも、それだけではない。


 旧鋳造区にある、最もアルゴらしいもの。


「……針」


「針?」


「針工師って呼ばれてたんですよね」


「はい、ヴォルフさんはそう言っていました」


「なら、針を作る場所があるはず」


 技師が台帳をめくる。


「針……細工針、測量針、術式刻印針……あ、旧鋳造区東地下に、精密針具工房があります」


「東地下」


「ただし、ここは二十年前に閉鎖済みで」


「一位」


「……はい」


 真壁は東地下の図面を見る。


 精密針具工房。


 細い金属加工。


 術式刻印。


 ここだ。


 見た瞬間、背中が冷えた。


「……ここ、絶対あります」


「何が」


「アルゴさんの匂い」


「匂い」


「比喩です」


 真壁は図面に指を置く。


「ララさんたちは西。ここは東地下。アルゴさんはたぶん、俺たちが西から入ると思ってる。でも本命は東地下」


「伝えます」


 騎士が再び走る。


 真壁はその背中を見送りながら、息を吐いた。


 遠隔で読む。


 現場にいない。


 安全なはず。


 なのに、心臓がうるさい。


 ララは現場にいる。


 ヴォルフもいる。


 自分の読みが外れたら、二人が危ない。


 責任が重い。


 触っていないのに、現場の重さが部屋まで来る。


「……最悪だな」


 小さく呟く。


 その時だった。


 閲覧室の奥で、カン、と音がした。


 真壁の身体が固まる。


 ギルド技師も騎士も振り向く。


 音のした場所。


 書棚の隙間。


 そこに、小さな金属片が落ちていた。


 ズレた歯車。


 真壁の喉が鳴る。


「……ここにも?」


 騎士が剣へ手を伸ばす。


「触らないで」


 真壁が言った。


 声は震えていたが、はっきりしていた。


「全員、そのまま。近づかないで」


「真壁さん?」


「アルゴさんは、俺がここにいることを読んでた」


 背筋が寒い。


 やはりそうだ。


 記録保管棟も誘導の一部。


 真壁を安全地帯に置いたつもりでも、そこまで読まれている。


 だが。


 真壁は深く息を吐いた。


「でも、これもたぶん読ませるため」


「どうしますか」


 ギルド技師が震える。


 真壁は金属片を見た。


 触らない。


 見るだけ。


 刻印。


 文字。


 今回の刻みは、驚くほど丁寧だった。


 楽しんでいる。


 だが、焦りはない。


 文字は短い。


『東を読んだか。では西を見よ』


 真壁はしばらく黙った。


 それから、ものすごく嫌な顔をした。


「……性格悪い」


「どういう意味ですか」


「東を読ませたかったんです。俺が東地下を見つけるところまで読んでた。でも今度は西を見ろって言ってる」


「では西が本命?」


「たぶん違う」


「違う?」


 真壁は地図を見る。


 東。


 西。


 読め。


 見よ。


 アルゴは、東と西で真壁の視線を動かそうとしている。


 その間に何がある。


 中央。


 旧鋳造区の中心。


 炉。


 大炉。


 古い中央炉。


「……中央です」


「中央?」


「東でも西でもない。中央炉」


 技師が台帳を見る。


「中央炉は完全停止済みです。燃料も撤去され、炉心も」


「その言葉もう禁止にしません?」


 真壁は図面を掴む。


「ララさんに伝えてください。東にも西にも入らない。中央炉を見る。でも近づきすぎない」


「はっ!」


 騎士が走る。


 真壁は書棚の金属片を見た。


 初めて、少しだけ分かった気がした。


 アルゴは誘導している。


 だが、誘導が多すぎる。


 見せたいものを隠すために、別のものを見せている。


 東を読ませ、西を見せ、中央を隠す。


 なら、こちらは中央を見る。


「……読んだぞ」


 真壁は小さく呟いた。


 声には、わずかに怒りが混じっていた。


    ◇


 旧鋳造区、中央炉跡。


 ララは伝令を受け取った瞬間、進路を変えた。


 西側工房跡の石畳は確かに怪しかった。色が違う場所があり、その下に空洞があった。踏み抜けば地下排気路へ落ちていただろう。東地下の精密針具工房も、明らかに怪しい。だが、真壁の伝令はさらにその先を指していた。


 東でも西でもない。


 中央炉。


 ララは中央炉跡を見上げる。


 巨大な円形の炉だった。


 今は火が入っていない。黒く焼けた石壁。錆びた鉄枠。天井へ伸びる太い煙突。周囲には古い作業台が並び、床には金属粉が染みついている。


 ここは、静かすぎた。


「……当たりっぽいな」


 ヴォルフが言う。


 ララは剣へ手をかけたまま、抜かない。


「何が見える」


「俺には、ただ嫌な場所に見える」


「真壁なら」


「あいつなら、気持ち悪いって言うだろうな」


「だろうな」


 その時、炉の奥で音がした。


 カチ。


 小さな音。


 ララは即座に止まる。


 斬らない。


 動かない。


 見る。


 何が動いた。


 炉の縁。


 鉄枠。


 床。


 煙突。


 違う。


 中央。


 炉心跡。


 そこに、細い針が立っていた。


 一本だけ。


 銀色の針。


「ヴォルフ」


「ああ」


「触るな」


「分かってる」


 針の根元に、金属紙が巻かれていた。


 ヴォルフが目を細める。


「招待状の本体かもな」


「罠でもある」


「だろうな」


 ララは周囲を確認する。


 炉全体が、何かを待っているようだった。


 真壁はいない。


 だが、真壁の言葉がある。


 見ない場所を決める。


 危険と不快を分ける。


 斬る前に、何を支えているか見る。


 ララは針ではなく、針の周囲を見る。


 床の金属粉。


 古い炉心の溝。


 煙突から下りる空気。


 中央炉の円形構造。


「……これは、支えではない」


 ララが呟く。


 ヴォルフが見る。


「何だ」


「針そのものは、何も支えていない」


「じゃあ触っていい?」


「駄目だ」


「だよな」


 ララはさらに見る。


 針は支えではない。


 なら何か。


 目印。


 中心。


 真壁がよく言う、戻る場所。


「これは、中心だ」


 ララは言った。


 その瞬間、炉の奥から声がした。


「正解だ」


 ララとヴォルフが同時に身構える。


 声。


 男の声。


 乾いていて、薄く、どこか楽しそうな声。


 炉の反対側、煙突の影。


 仮面の男が立っていた。


 黒い外套。


 細い身体。


 手には銀色の針。


 ララは剣を抜きかける。


 だが、止めた。


 仮面の男――アルゴは、楽しそうに首を傾けた。


「斬らないのか」


 ララは低く言う。


「斬るべきものを見極めている」


「なるほど。彼の影響だな」


 ヴォルフが笑みを消した。


「久しぶりだな、アルゴ」


「その声は……ヴォルフか。まだ生きていたのか」


「お互い様だろ」


「私は死んだことになっている」


「便利だな」


 アルゴは仮面の奥で笑った。


「便利だ。死者は記録の外を歩ける」


 ララは一歩も動かない。


 動けないのではない。


 動かない。


 周囲の構造が分からない。


 この中央炉全体が罠だとすれば、踏み込み一つで何かが起きる。


「真壁悠は来ていないのか」


 アルゴが言った。


 ララの目が鋭くなる。


「来させると思ったか」


「半分は。半分は、来ないと思っていた」


「なら、なぜここへ誘った」


「彼に読ませるためだ」


「お前の居場所をか」


「違う」


 アルゴは銀色の針を持ち上げた。


「私の癖を」


 ララは黙る。


「彼は読める。壊れ方を。戻る場所を。構造の悲鳴を。そして、こちらが何を見せたいかを」


「人を巻き込むな」


 ララの声が低くなる。


「巻き込む?」


 アルゴは首を傾げる。


「人も構造の一部だ。動き、支え、迷い、恐れ、守り、斬る。君もそうだ、ララ・バーン。君は危険を見ると前へ出る。守るために斬る。だから、斬るべきではないものを置いた」


「……」


「だが、君は少し変わった。斬る前に見るようになった。実に興味深い」


 ヴォルフが一歩横へ動く。


 アルゴの針がわずかに向く。


「動くな。そこは落ちる」


 ヴォルフが止まった。


 足元の床が、微かに鳴った。


「相変わらず性格悪いな」


「君ほどではない」


「褒め言葉として受け取るわ」


 ララはアルゴを見据える。


「目的は何だ」


「修理だ」


 その言葉に、ララの眉が動いた。


「修理?」


「王都は壊れている。古い図面、嘘の台帳、封鎖済みという怠慢、使われない経路、見ないふりをされた負荷。私は壊しているのではない。壊れていることを教えている」


「そのために人を殺しかけるのか」


「死んでいない」


「詭弁だ」


「事実だ」


 ララの手に力が入る。


 斬りたい。


 真壁がいれば、そう言ったかもしれない。


 だが、斬らない。


 今は見る。


 アルゴは続ける。


「だが、彼は違う。真壁悠は、壊れたものと対話する。彼なら分かる。王都はもう、直されるのを待っている」


「お前は真壁を何だと思っている」


「同類だ」


 その言葉だけは、許せなかった。


 ララの声が冷える。


「違う」


「違うか?」


「違う」


「なぜ」


「真壁は、壊すために見ていない」


 アルゴは少し黙った。


 仮面の奥で、笑ったような気配がした。


「では、彼は何のために見る」


 ララは答えに迷った。


 守るため。


 直すため。


 逃げるため。


 休むため。


 金のため。


 全部、少しずつ正しい。


 だが、一つに絞るなら。


「放っておけないからだ」


 ララは言った。


「本人は嫌がっている。逃げたがっている。休みたがっている。それでも、人が巻き込まれれば動く。壊れ方を見てしまえば、苦しみながら考える」


「美化だな」


「事実だ」


 アルゴは静かに笑った。


「やはり、君も面白い」


 その瞬間、炉の針が鳴った。


 キン。


 ララが反応する。


 針が震える。


 中央炉の床に、細い銀糸が浮かび上がる。


 円。


 測量線。


 術式。


 ララは理解した。


 これは会話ではない。


 時間稼ぎだった。


「ヴォルフ!」


「分かってる!」


 ヴォルフが動く。


 今度はアルゴの読まない方向へ。


 足元の落ちる場所ではなく、壁を蹴る。


 だがアルゴも針を振る。


 銀糸が走る。


 ララは剣を抜く。


 斬る。


 だが、アルゴではない。


 足元の銀糸でもない。


 炉の上部、煙突へ繋がる古い鎖。


 そこを斬った。


 重い鎖が落ちる。


 銀糸の円へ入り、術式の流れを乱す。


 アルゴが初めて、わずかに動きを止めた。


「……それを斬るか」


「斬るべきものを見た」


 ララが言う。


 ヴォルフが笑った。


「いいねえ、騎士さん!」


 だが、次の瞬間。


 アルゴの姿が煙のように薄れた。


 逃げる。


 ララが踏み込もうとして、止まる。


 追えば罠。


 それが分かった。


 アルゴは最後に言った。


「真壁悠へ伝えろ。君は正しく読んだ。だから次は、彼自身に来てもらう」


「来させない」


「来る」


 声だけが残る。


「壊れたものは、彼を呼ぶ」


 アルゴは消えた。


 中央炉に残ったのは、折れた銀糸と、針一本。


 そして、炉の床に刻まれた新しい文字。


『次は、王都で最も壊れている場所へ』


    ◇


 記録保管棟で報告を聞いた時、真壁はしばらく無言だった。


 アルゴがいた。


 ララとヴォルフが直接会った。


 会話をした。


 逃げられた。


 そして、次の言葉を残した。


 王都で最も壊れている場所。


「……何それ」


 真壁は低く呟いた。


「抽象的すぎる」


 ララは戻ってきていた。外套には煤がついている。怪我はない。だが、疲労はある。


 真壁はそれだけで、少しだけ腹が立った。


 アルゴに。


 ララを巻き込んだことに。


 自分に向けた言葉を、ララへ伝えさせたことに。


「真壁」


 ララが言う。


「お前はアルゴと同類ではない」


 真壁は驚いて顔を上げた。


「何ですか急に」


「アルゴがそう言った」


「……でしょうね」


「違うと答えた」


「ララさんが?」


「ああ」


 真壁は何も言えなかった。


 ララは続ける。


「お前は、壊すために見ていない」


「……」


「放っておけないから見る。そう言った」


 真壁は視線を落とした。


 胸の奥が変な感じになった。


 重いような、痛いような、少しだけ温かいような。


「……買いかぶりです」


「そうかもしれない」


「否定しないんだ」


「だが、私はそう見ている」


 真壁は黙った。


 ヴォルフが壁際で腕を組む。


「で、王都で最も壊れてる場所。心当たりは?」


「ありません」


 真壁は即答した。


 そして、すぐに顔をしかめた。


「いや……あるような気もします」


「どっちだよ」


「嫌な質問すぎて脳が拒否してるんです」


 王都で最も壊れている場所。


 建物か。


 水路か。


 鐘塔か。


 工務局か。


 旧鋳造区か。


 それとも、もっと別のものか。


 真壁は地図を見た。


 王都全域。


 赤い印。


 銀の推定線。


 そして、中心。


 王城。


 行政庁舎。


 大聖堂。


 中央広場。


 上水制御塔。


 どれも重要だ。


 だが、“最も壊れている”という言い方なら。


「……場所じゃないかもしれない」


 真壁が呟く。


 ララが目を細める。


「どういうことだ」


「アルゴさん、王都を構造として見てますよね」


「ああ」


「建物も、水路も、人も、記録も、全部構造に入れてる」


「そうだな」


「なら、最も壊れている場所って、物理的な場所じゃなくて」


 真壁は言葉を探した。


 嫌な予感がしていた。


「王都の“判断する場所”かもしれない」


 ヴォルフの笑みが消える。


「行政庁舎か」


 ララの表情が鋭くなる。


「王都評議会場」


 真壁は地図の中心を見る。


 王城の隣。


 行政庁舎。


 王都の工事、警備、物流、水路、修繕予算、すべてを決める場所。


 そこが壊れている。


 図面の嘘。


 封鎖済みの放置。


 虚偽の安全処理。


 工務局の隠蔽。


 それらは設備の問題だけではない。


 判断の問題だ。


 見ないふりをしてきた場所。


 王都で最も壊れている場所。


「……上か」


 真壁は小さく言った。


「設備じゃなくて、上の人たちだ」


 ララは静かに頷いた。


「おそらくな」


 ヴォルフが笑った。


「面白くなってきたな」


「全然面白くないです」


 真壁は本気で言った。


 アルゴは次に、物理的な設備だけではなく、王都の中枢を狙う。


 しかも、そこには人が集まる。


 判断する人間。


 責任を取らない人間。


 壊れていることを見ないふりしてきた人間。


 真壁が一番苦手な、人間関係と権力の場所。


「……帰りたい」


 真壁は呟いた。


 だが、その声には逃避だけではなく、はっきりとした怒りも混じっていた。


 自分を呼ぶために、街を壊す。


 人を置く。


 ララを試す。


 そして今度は、王都の壊れた判断そのものを揺らそうとしている。


 放っておけば、たぶん多くの人が巻き込まれる。


「……ほんと、迷惑な人だな」


 真壁は低く言った。


 ララが静かに見る。


「読むか」


 真壁は即答できなかった。


 読みたくない。


 見たくない。


 関わりたくない。


 でも。


 読まなければ、アルゴの思い通りになる。


 そして、それはもっと嫌だ。


「……読みます」


 真壁は小さく言った。


「でも、俺一人では嫌です」


「ああ」


 ララが頷く。


「一人ではさせない」


 ヴォルフも肩をすくめる。


「俺もいるしな」


「そこはまだ不安です」


「ひでえな」


 真壁は地図を見た。


 王都評議会場。


 行政庁舎。


 王都で最も壊れている場所。


 そこに、次の糸が張られる。


 そんな予感がした。


 そして真壁は、心底嫌がりながらも、初めて自分から地図へ手を伸ばした。


 見るために。


 読まれる側ではなく。


 今度こそ、こちらから読むために。

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