第29話
報酬袋の下から出てきた金属片を前にして、真壁悠はしばらく動けなかった。
机の上。小さな金属片。ズレた歯車の刻印。そして、たった一行の文字。
『では次は、君が私を読め』
腹立たしいほど短い。
だが、その短さが余計に気持ち悪かった。長々と説明されるより、ずっと嫌だ。こちらが考える余地をわざと残している。何を読めばいいのか。どこまで読めばいいのか。そもそも読めると思っているのか。それら全部を、真壁の頭の中へ投げ込んでくる。
「……勝手に宿題出すな」
真壁はもう一度、低く呟いた。
ララ・バーンは机の向かいで、金属片を見つめている。赤い瞳に怒りはあるが、剣へ手は伸びていない。以前なら、この場に残された挑発物をすぐ危険物として隔離しようとしたかもしれない。だが今の彼女は違う。まず見ている。触る前に、斬る前に、動かす前に。
その変化が、真壁には少しだけ分かった。
そして、それがまた嫌だった。
自分の面倒な見方が、ララに移っている。
役に立っているのは分かる。分かるから余計に困る。
「触るな」
ララが言った。
「触りません」
真壁は即答した。
「絶対触りません。触ったら何か分かりそうで嫌です」
「分かりそうなのか」
「分かりたくないです」
「質問に答えていない」
「分かりそうです」
真壁は観念して言った。
金属片を見ているだけで、微妙な違和感がある。刻印の中心が、やはりわずかにズレている。針の角度。歯車の欠け方。文字の刻みの深さ。全部が同じ方向を向いている。
同じ人間の手だ。
それが分かる。
分かってしまう。
「……これ、今までの手紙と同じです」
「アルゴ本人か」
「たぶん」
真壁は眉をひそめた。
「でも、ちょっと違う」
「何がだ」
「今までより雑です」
ララの表情が変わる。
「雑?」
「はい。いや、雑っていうか……急いでる?」
言葉にすると、自分でも引っかかった。
急いでいる。
そう見える。
これまでのアルゴの仕掛けは、嫌になるほど丁寧だった。水門も、鐘塔も、蒸気管も、配送管制所も、中央広場も、記録保管棟も、どれも人間の反応まで想定した作りだった。悪意が細かく、几帳面で、気持ち悪いくらい綺麗に歪んでいた。
だが、この金属片は違う。
刻みの端が少し粗い。
歯車の円がわずかに乱れている。
文字の最後の線だけ、力が入りすぎている。
「……焦ってる?」
真壁は思わず呟いた。
ララの目が鋭くなる。
「アルゴが?」
「分かりません。でも、そう見えます」
その時、窓の外から声がした。
「へえ。そこまで分かるか」
真壁は反射的に叫んだ。
「出た!」
ヴォルフが窓枠に座っていた。くたびれた外套。眠そうな目。いつもの軽薄な顔。だが、その目は金属片へ向いている。
「出たって何だよ」
「窓から来る人の扱いです」
「ひでえ」
「扉から来てください」
「面倒くせえ」
ララはヴォルフを睨む。
「お前、いつからいた」
「“勝手に宿題出すな”のあたり」
「ほぼ最初からではないか」
「面白そうだったからな」
ヴォルフは窓枠からひょいと降りようとしたが、ララの視線を受けて、仕方なく窓枠に留まった。最近、ほんの少しだけ学習しているらしい。
「で、焦ってるって?」
真壁は金属片を見たくないので、机の端を見ながら答えた。
「刻みがいつもより荒いんです。これまでの手紙は、もっと嫌な感じで整ってた。今回は、最後だけ力が入りすぎてる」
「最後ってどこだ」
「“読め”のところ」
ヴォルフが笑った。
「なるほどな。読ませたい欲が出たか」
「嫌な言い方」
「でも当たりかもな」
ヴォルフの声が少しだけ低くなる。
「アルゴは、昨日の記録保管棟で読みを外された。しかも、お前一人じゃなく、ララも職員も俺も使って外した。あいつからすれば面白い反面、計算が崩れ始めてる」
ララが腕を組む。
「だから焦っている?」
「焦りというより、前のめりだな。自分を読めって挑発してる時点で、かなり乗ってきてる」
「……乗ってきてるって」
真壁は嫌そうに顔をしかめた。
「俺、勝負してるつもりないんですけど」
「向こうはしてる」
「迷惑すぎる」
「そういう奴だ」
ヴォルフは机の上の金属片を見つめた。
「読んでみろよ」
「嫌です」
「即答だな」
「読んだら、アルゴさんのこともっと分かりそうじゃないですか」
「分かるだろうな」
「それが嫌なんです」
真壁は低い声で言った。
「俺、あの人に似てるって思いたくない」
部屋が静かになった。
言ってから、真壁は少し後悔した。だが、もう遅い。
似ている。
それはずっと引っかかっていた。
構造を見る。
ズレを見る。
どこを動かせば全体が変わるか分かる。
真壁は直す側だ。アルゴは壊す側だ。目的は逆だとヴォルフは言った。ララも違うと言った。真壁自身もそう信じたい。
だが、見ているものが近い。
それが気持ち悪い。
「真壁」
ララが静かに言った。
「お前はアルゴではない」
「分かってます」
「本当に分かっているか」
「……半分くらい」
「なら残り半分は、私が言う。お前は違う」
真壁は何も言えなかった。
ララは続ける。
「アルゴは人を道具として配置する。お前は人が巻き込まれると動いてしまう。そこが違う」
「でも、動くことで相手に読まれてます」
「だから私たちがいる」
「……」
「お前一人の反応にしないために」
その言葉は、真壁の胸の奥へゆっくり沈んだ。
お前一人の反応にしない。
昨日の水路で、確かにそうだった。真壁が読む。ララが逸らす。ヴォルフが押す。技師が排水口を開く。全員で動いたから、アルゴの読みが外れた。
真壁一人ではない。
その事実は、少しだけ息をしやすくした。
「……じゃあ」
真壁は金属片を見た。
「読むだけなら」
ララの表情がわずかに変わる。
「無理はするな」
「無理はしません。たぶん」
「たぶんは信用度が低い」
「ララさんもよく言いますよね」
「……そうだな」
真壁は深く息を吐いた。
触らない。
見るだけ。
見る場所を絞る。
文字全体ではなく、線の終わり。
歯車全体ではなく、中心のズレ。
刻印ではなく、力の入り方。
アルゴ本人を読むのではなく、アルゴが何を見せたかったのかを見る。
「……」
視界が少し静かになる。
金属片の中に残った癖が浮かび上がる。
急いでいる。
いや、違う。
急いでいるのではない。
待てなくなっている。
「……待てない」
真壁が呟く。
ララが聞く。
「何がだ」
「アルゴは、俺たちが答えるのを待てなくなってる」
「答え?」
「はい。今までは問題を置いて、反応を見てた。水門、鐘塔、蒸気管、糸、記録保管棟。全部、こっちの反応を見るためだった。でもこれは違う」
真壁は金属片を指差した。
「これは、返事を催促してる」
ヴォルフの目が細くなる。
「なるほどな」
「“君が私を読め”って、言葉は命令っぽいですけど、たぶん違う」
「何だ」
「誘ってる」
自分で言って、真壁は吐き気がした。
誘っている。
アルゴは真壁に読ませたい。
自分の居場所か、思想か、次の仕掛けか。どれかは分からない。だが、読んでほしい。理解してほしい。答えてほしい。
「気持ち悪い……」
本音が漏れた。
ヴォルフは頷く。
「寂しがり屋の最悪版だな」
「言い方が嫌ですけど、そうかも」
ララは金属片を見下ろす。
「なら、誘いに乗る必要はない」
「普通はそうなんですけど」
真壁は眉を寄せた。
「たぶん、乗らないと次がもっと悪くなる」
「なぜ分かる」
「文字の最後」
「“読め”か」
「はい。力が入りすぎてる。たぶん、次は待たない」
部屋に重い沈黙が落ちた。
次は待たない。
つまり、こちらに読む余地を与えず、大きく動かす可能性がある。
ララの顔が険しくなる。
「先に読めということか」
「はい」
「何を読む」
真壁は地図を思い出す。
水路、鐘塔、記録保管棟、旧資材庫、中央広場。
アルゴは王都を巨大な構造物として読んでいる。
では、アルゴ本人はどこにいるのか。
どこから王都を読むのか。
どこなら全体の揺れを見られるのか。
真壁は目を閉じた。
糸の揺れを思い出す。
中央広場の鐘。
南環状水路。
記録保管棟。
銀糸は、ただ各所に伸びていたわけではない。
震えには中心があった。
「……高いところ」
真壁が言う。
ララがすぐ反応する。
「鐘塔か」
「違います。鐘塔は支点です。アルゴが見てる場所じゃない」
「では」
「王都全体の揺れを見られて、でも目立たない場所。高くて、古くて、今はあまり使われてない」
ヴォルフが呟く。
「旧測量塔か」
ララの目が鋭くなる。
「北東の?」
「そう」
ヴォルフは地図を指差す。
「昔、王都の拡張工事で使った測量塔がある。今はほぼ廃棄。高いが、鐘塔ほど目立たねえ。工務局の古い測量器具も残ってるはずだ」
「そこから王都を読む?」
ララが問う。
真壁は目を閉じたまま頷いた。
「たぶん」
「根拠は」
「糸の揺れが、そこへ戻る感じがする」
「曖昧だな」
「俺の全部が曖昧です」
真壁は目を開けた。
「でも、たぶんそこです。少なくとも、アルゴが“見たい場所”に近い」
ヴォルフが笑った。
「いいじゃん。読めてきたな」
「嫌です」
「でも読んだ」
「嫌ですけど読んだ」
ララは立ち上がった。
「旧測量塔を確認する」
「今からですか?」
「急ぐ必要がある」
「ですよね……」
真壁は椅子からずり落ちそうになった。
だが、ララは首を振った。
「お前は行かなくていい」
「え?」
「まず騎士団で外周確認をする。お前はここで待機だ」
真壁は少しだけ驚いた。
「本当に?」
「ああ。お前は今、金属片を読んだばかりだ。負荷が大きい」
「ララさん、最近本当に優しいですね」
「必要な判断だ」
「そういうところも含めて」
言ってから、真壁は少し気まずくなった。
ララも一瞬だけ視線を逸らす。
ヴォルフがにやにやする前に、ララが睨んだ。
「何も言ってねえよ」
「顔が言っている」
「怖」
ララは金属片を布で包み直す。
「旧測量塔の外周を確認する。内部侵入はまだしない。異常があれば戻る」
「気をつけてください」
真壁は自然に言った。
ララは少しだけ目を見開いた。
「……ああ」
その返事は、いつもよりわずかに柔らかかった。
◇
ララが出て行ったあと、真壁は部屋に一人残された。
正確には、扉の外に騎士がいる。窓の外にはヴォルフがまだいる。だから一人ではない。だが、部屋の中には誰もいない。
静かだった。
金属片は持って行かれた。
図面もない。
銀糸もない。
嫌なものはない。
のに、頭の中では旧測量塔のことが離れない。
「……行かなくていいって言われたんだから、寝ろ」
自分に言う。
寝台に横になる。
目を閉じる。
旧測量塔。
高い場所。
古い測量器具。
王都全体を見渡せる位置。
糸の揺れが戻る場所。
気になる。
嫌になるくらい気になる。
「……見ない訓練」
呟く。
行かない。
気になっても行かない。
ララが行った。騎士団が確認する。自分がすべて見る必要はない。
そう思った。
その時、窓の外からヴォルフが言った。
「よく我慢してんな」
「帰ってなかったんですか」
「暇だからな」
「暇つぶしに人の我慢を観察しないでください」
「面白いぜ」
「最悪」
ヴォルフは窓枠に肘をつく。
「でも、お前が我慢できるようになったのはでかい」
「褒めてます?」
「半分」
「残り半分は?」
「我慢しすぎると死ぬぞ」
真壁は顔をしかめた。
「どっちですか」
「見ない判断と、見るべき判断。その境目を間違えるなってこと」
「難しすぎる」
「だから仲間がいるんだろ」
ヴォルフがさらりと言った。
真壁は少し黙った。
仲間。
その単語は、まだ慣れない。
前世の真壁には縁が薄い言葉だった。学校にも、仕事にも、チームにも、友人関係にも、長く属したことがない。人と一緒にいると疲れる。自分の部屋だけが安全だった。
だが今は。
ララがいる。
ヴォルフがいる。
ギルドの職員や技師、騎士たちも少しずつ顔を覚えてきた。
それを仲間と呼ぶのかどうか、真壁には分からない。
「……俺、仲間とか苦手なんですけど」
「見れば分かる」
「顔に出ます?」
「全身に出てる」
「最悪」
ヴォルフは笑った。
「でも、今のお前は一人で閉じこもるよりマシに見えるぜ」
「本当ですか」
「ああ」
「ヴォルフさんに言われると微妙です」
「ひでえな」
その時、廊下の方から足音がした。
急いでいる。
扉が叩かれる。
「真壁殿!」
扉の外の騎士だった。
真壁の胃が沈む。
「……何ですか」
「ララ隊長より伝令です。旧測量塔の外周に異常なし。ただし、塔内から微弱な振動を確認。内部調査は一時待機とのことです」
「じゃあ待機で」
「それと、隊長から追加で……」
騎士は一枚の紙を差し出した。
簡易図だった。
旧測量塔の断面図。
「……見たくない」
真壁は本気で言った。
「ですが隊長が、見られる範囲でいいと」
「ララさん、優しいのか厳しいのか分からない」
真壁は紙を受け取った。
見る。
旧測量塔。
円筒形の石塔。
内部階段。
最上部の測量室。
地下の基準石。
古い測量線。
塔の中心を貫く垂直の金属軸。
真壁は見た瞬間、顔色を変えた。
「……あ」
ヴォルフが窓から覗き込む。
「何だ」
「これ、塔じゃない」
「は?」
「いや、塔なんですけど……」
真壁は断面図の中心を指差す。
「これ、糸巻きです」
「糸巻き?」
「銀糸を巻き取るための芯みたいになってる」
騎士が青ざめる。
「では、塔内にアルゴが?」
「分かりません。でも、そこに何かある。絶対あります」
ヴォルフの笑みが消えた。
「ララに伝えろ。中へ入るな」
「はい!」
騎士が走ろうとした瞬間。
遠くで鐘が鳴った。
ゴォン。
一度だけ。
真壁の全身が凍る。
「……まずい」
窓の外を見る。
北東の空。
旧測量塔の方角。
細い銀の光が、夜でもないのに一瞬だけ走った。
ヴォルフが低く呟く。
「起動したか」
真壁は紙を握りしめた。
ララは塔の近くにいる。
中へは入っていないはずだ。
だが、塔そのものが糸巻きなら。
外にいても危ない。
「……行きます」
自分でも驚くほど、早く言葉が出た。
ヴォルフが目を細める。
「我慢は?」
「今は見るべき方です」
真壁は立ち上がった。
足は震えている。
怖い。
嫌だ。
でも、分かった。
あの塔は、アルゴが自分を読ませるための場所ではない。
ララを巻き込むための場所だ。
「ララさんが危ない」
真壁はそう言った。
ヴォルフは一瞬だけ黙り、それから笑った。
「いい判断だ」
「笑ってないで連れてってください」
「走れ」
「無理です」
「じゃあ担ぐぞ」
「もっと嫌です!」
結局、真壁は走った。
騎士団宿舎の廊下を。
外へ。
北東へ。
旧測量塔へ向かって。
働きたくない。
帰りたい。
それは変わらない。
だが、今はそれよりも。
ララを、アルゴの糸に巻き込ませる方が嫌だった。
◇
旧測量塔は、王都北東区画の外れに立っていた。
王都の中にありながら、そこだけ少し時間から取り残されたような場所だった。周囲には新しい建物が少なく、低い石塀と古い作業小屋が並んでいる。昔、この辺りがまだ都市の端だった頃、測量と拡張工事の基準点として使われていた塔だと、走りながらヴォルフが雑に説明してくれた。
「息……切れる……」
「喋れるならまだ走れる」
「体育教師みたいなこと言わないでください……!」
真壁は死にそうだった。
身体は以前より動く。
それは確かだ。
異世界に来てから、歩き、走り、逃げ、現場へ連れて行かれ、以前では考えられないほど外に出ている。前世の自分なら、ここまで走る前に玄関で倒れていたかもしれない。
だが、きついものはきつい。
呼吸は乱れるし、胸は痛いし、足は重い。
それでも止まれなかった。
旧測量塔へ近づくにつれ、空気が変わっていく。
音が細くなる。
いや、違う。
音が一本へ集まっていく。
風の音、石畳の反響、遠くの鐘、騎士たちの声。それらがばらばらに聞こえるのではなく、どこか一つの中心へ引かれているように感じる。
「……気持ち悪い」
真壁は息を切らしながら呟いた。
「見えるか」
ヴォルフが隣で聞く。
「見えるっていうか、引っ張られてます」
「塔に?」
「はい」
旧測量塔の姿が見えてきた。
高い。
だが、中央広場の鐘塔ほど目立つものではない。細く、古く、灰色で、上部に円形の測量室がある。窓は小さい。塔の外壁には古い金属の補強環がいくつも巻かれていた。
その補強環が、真壁には糸巻きの溝に見えた。
「……やっぱり」
塔の周囲には騎士たちがいた。
ララもいる。
無事だ。
真壁は一瞬だけ肩の力が抜けた。
だが、すぐに戻る。
ララは塔の正面に立ち、剣を抜かずに上を見ていた。彼女も何かを感じ取っているのだろう。騎士たちは塔から一定距離を取っている。真壁が来る前に、ララが退避させたらしい。
「真壁!」
ララが振り向く。
少し驚いた顔だった。
「来るなと言ったはずだ」
「言われてません! 見られる範囲でいいって図面渡されました!」
「中へ入るなとは伝えた」
「塔そのものが危なそうだったので!」
真壁は息を切らしながら塔を指差した。
「あれ、糸巻きです!」
ララの顔が変わる。
「やはりか」
「分かってたんですか」
「見ていれば、少しな」
彼女は塔の補強環を見る。
「外壁の金属環が、ただの補強に見えなかった。何かを受けるための溝に見える」
「それです」
真壁は少し驚いた。
ララが読んでいる。
完全ではないかもしれないが、確かに真壁の見方へ近づいている。
そのことに感心する暇もなく、塔の中から低い音が響いた。
ゴォ……。
鐘ではない。
石と金属が内側から震える音。
塔全体が、ゆっくり鳴っている。
「来ます」
真壁が言った。
「何がだ」
「巻き取り」
その瞬間、塔の外壁に銀色の光が走った。
一本。
二本。
三本。
遠くから伸びた銀糸が、塔の補強環へ巻きついていく。目に見えるほど太くはない。だが、光を受ける角度で一瞬だけ輝く。そのたびに、塔全体がかすかに震える。
騎士たちがざわめく。
「糸だ!」
「どこから伸びている!」
「触るな!」
ララの声が響く。
「全員、塔から離れろ! 糸には触れるな! 剣を抜くな!」
以前なら、まず切断を考えただろう。
だが今は違う。
彼女は斬らない。
見る。
真壁はその判断に一瞬だけ救われた。
だが、状況は悪い。
「これ、王都中の糸を巻き取ってます」
「目的は」
ララが問う。
「分かりません。でも、巻き取るってことは……集めてる」
「何を」
「揺れ」
答えた瞬間、真壁の胃が冷えた。
そうだ。
アルゴは王都に張った銀糸で、各所の揺れを読んでいた。建物、水路、橋、人の動き。その情報が、この塔へ集まっている。なら、巻き取るとは何か。
回収。
あるいは、蓄積。
もっと嫌な可能性。
「……一気に戻す気かも」
ヴォルフが低く言った。
真壁は振り向く。
「戻す?」
「張った糸を巻き取る時、繋がってた場所に反動が出る。弓の弦みたいなもんだ。王都中から集めた揺れを、どこか一点へ返すつもりかもしれねえ」
ララの顔が険しくなる。
「どこへ」
真壁は塔を見る。
糸の流れ。
巻き取り。
中心軸。
地下の基準石。
そして、塔の向き。
「……王城じゃない」
「では」
「中央広場でもない。水路でもない」
真壁は息を止めた。
見える。
塔の中心軸から、地下へ伸びる細い流れ。
そこから、旧地下測量線を通って、北東区画のさらに外れへ。
「……工務局の古い地下基準点」
ララが反応する。
「何がある」
「知らないです」
ヴォルフが答えた。
「昔の話なら、多分“都市芯石”だ」
「都市芯石?」
「王都の拡張工事で、最初に置かれた基準石。建物の高さ、水路の勾配、街路の角度、全部の基準になった石だって聞いたことがある」
真壁は顔をしかめた。
「それ、壊れたらどうなるんですか」
「物理的にはただの石だ。だが、古い測量術式が残ってたら」
ヴォルフの声が少し低くなる。
「王都の測量基準が狂う」
ララが即座に言う。
「建物や水路が突然ずれるわけではないだろう」
「突然じゃねえ。でも、工務局の図面、魔導測量器、古い自動調整機構は狂うかもな」
真壁は理解してしまった。
記録保管棟を守った。
だからアルゴは、図面そのものではなく、図面の基準を狙っている。
基準が狂えば、正しい図面も信用できなくなる。
「……性格悪すぎる」
本当に、心からそう思った。
ララが塔を見る。
「止める方法は」
「糸を切るのは駄目です」
真壁は即答した。
「反動が来る。たぶん、余計に都市芯石へ流れます」
「巻き取りを止めるのは」
「塔が壊れる」
「なら」
「……巻き取らせるけど、空回りさせる」
言葉が出た瞬間、真壁は自分で嫌になった。
分かってしまった。
塔は糸巻きだ。
なら、糸を切るのでも止めるのでもなく、巻き取る中心をずらせばいい。糸は巻かれる。だが力は芯へ伝わらず、空回りする。四畳半の紐を止める時に、揺れを真正面から受けるのではなく、戻る先を少しずらすのと似ている。
似ているのが嫌だった。
「具体的には」
ララが聞く。
「中心軸です。塔の中の金属軸を少しだけずらす。でも壊しちゃ駄目。ずらしすぎると塔が崩れる」
「少しだけ」
「はい。ほんの少し」
ララは塔の入口を見る。
「内部へ入る必要があるな」
「嫌です」
「分かっている」
「でも入るんですよね」
「ああ」
真壁は頭を抱えた。
ここまで来て、外から指示だけでは無理だ。塔の中心軸を見なければならない。触るかどうかは別として、近くで読む必要がある。
ヴォルフが軽く肩を回す。
「じゃ、行くか」
「軽い」
「重くしても状況変わんねえし」
「そうですけど」
ララは騎士へ指示を飛ばす。
「周囲を封鎖。糸に触れるな。塔から半径三十歩以内へ入るな。工務局へ都市芯石の位置確認を急がせろ」
「はっ!」
そして、ララは真壁へ向き直った。
「私が先に入る」
「俺が後ろですね」
「ああ。無理なら即座に出る」
「即座に出たいです」
「入る前から出るな」
「はい……」
◇
塔の内部は、狭かった。
螺旋階段が壁沿いに上へ伸び、中央には太い金属軸が通っている。古い測量器具の一部なのだろう。塔の頂上から地下まで、一本の軸が貫いている。その軸に、外壁を走る銀糸の揺れが伝わっていた。
ゴォン、ではない。
キィン、でもない。
もっと細く、もっと深い音。
糸が震え、金属軸が鳴り、塔そのものが低く唸る。
真壁は一歩入った瞬間、顔をしかめた。
「……無理」
「まだ一歩だ」
ララが言う。
「一歩で分かる無理があります」
「だが読めるか」
「読めます。読みたくないだけです」
ヴォルフは後ろから入ってきた。
「いい音してんな」
「感性が終わってる」
「褒め言葉として受け取るわ」
「褒めてない」
内部の軸には、いくつもの古い金具が取り付けられていた。歯車、目盛り、針、測量用の重り。真壁には詳しい用途は分からない。だが、中心軸が王都のどこかと繋がっていることだけは分かる。
「これ、塔の軸というより、王都の物差しですね」
真壁が呟く。
ララが聞く。
「物差し?」
「はい。何かを測るための中心。ここが狂うと、全部の測り方が狂う」
「都市芯石へ力を流す理由はそれか」
「たぶん」
塔がまた震えた。
外の銀糸が巻き取られていく音がする。
時間がない。
「どこをずらす」
ララが聞く。
真壁は軸を見る。
全部ずれているように見える。
いや、違う。
全部がずれているのではなく、ずれが集まっている。
どこか一点へ。
「……上じゃない。下」
「地下か」
「はい。でも地下まで行く必要はない。ここ」
真壁は階段下、軸の根元近くの小さな調整輪を指差した。
「この輪、動きますか」
ヴォルフが覗き込む。
「古いな。固そうだ」
「動かすなら慎重に」
ララが言う。
「どちらへ」
真壁は目を閉じた。
糸の巻き取り。
力の流れ。
都市芯石へ向かう圧。
それを真正面から止めるのではない。
逃がす。
空回りさせる。
「右……いや、違う。右に動かすふりして、左へ少し戻す」
ララが眉を寄せる。
「なぜふりが必要だ」
「アルゴが見てる」
真壁は低く言った。
「たぶん、この軸も読まれてます。こっちが止める方向へ回すと、それに合わせて糸が締まる。だから一度、アルゴが想定する方向へ動かしてから、戻す」
ヴォルフが笑った。
「読ませる罠か」
「はい」
ララは頷いた。
「分かった。私が右へ回す。戻す合図はお前が出せ」
「はい」
真壁の手が震える。
責任が重い。
失敗すれば、塔が壊れるか、都市芯石へ反動が流れる。
だが、やるしかない。
ララが調整輪へ手をかける。
ヴォルフが軸の反対側で支える。
「いくぞ」
ララが力を入れる。
ギギ、と古い金属が鳴った。
調整輪が右へわずかに動く。
その瞬間、塔全体の銀糸が反応した。
締まる。
アルゴが読んだ。
真壁には分かった。
今だ。
いや、まだ。
もう少し引きつける。
締まりきる直前。
「戻して!」
ララが即座に逆へ力を入れる。
だが固い。
動かない。
「っ……!」
ララの腕に力が入る。
ヴォルフが反対側から押す。
「重てえな!」
「無理にやると折れます!」
真壁が叫ぶ。
折れば終わる。
ずらすだけ。
ほんの少し。
真壁は思わず前へ出た。
「真壁、触るな!」
ララが叫ぶ。
「触りません!」
真壁は調整輪へ手を伸ばした。
触らない。
触る直前で止める。
空気の中の揺れに、指先を置く。
四畳半の紐を打つ時のように。
力ではない。
位置。
戻る先。
そこへ。
――パツン。
音がした。
調整輪が、わずかに左へ戻った。
たった数ミリ。
だが、塔の音が変わった。
ゴォ……と低く唸っていた振動が、ふっと抜ける。
銀糸の巻き取りが続く。
だが、力は芯へ届かない。
軸の周りを空回りする。
「抜けた!」
真壁が叫んだ。
ララが調整輪を固定する。
ヴォルフが軸を押さえる。
塔全体が一度大きく震え、それから静かになった。
外から騎士たちの声が聞こえる。
「糸の光が消えました!」
「塔の振動、低下!」
「都市芯石への反応なし!」
真壁はその場に座り込んだ。
「……寿命が」
「縮んだか」
ヴォルフが聞く。
「粉になりました」
「そりゃ大変だ」
「笑うな」
ララは軸から手を離し、真壁の前にしゃがんだ。
「無事か」
「無事じゃないけど生きてます」
「よく読んだ」
「読まされました」
「それでも、お前が読んだ」
真壁は何も言えなかった。
ララの声は静かだった。
責任を押し付ける声ではない。
ただ、事実を認める声だった。
◇
塔の外へ出ると、空気が少し軽くなっていた。
銀糸はほとんど消えていた。外壁に巻きついていた光はなく、補強環だけが残っている。塔は古い石塔に戻っていた。少なくとも、今は。
騎士たちが安堵の声を上げる。
工務局の職員が都市芯石への異常なしを報告する。
真壁はその全てを遠くの出来事のように聞いていた。
疲れた。
本当に疲れた。
だが、アルゴの仕掛けを止めた。
しかも、今回はアルゴの読みを読んで外した。
それは、真壁にとってかなり嫌な成長だった。
ヴォルフが塔の外壁を見上げる。
「アルゴ、かなり喜ぶだろうな」
「最悪なこと言わないでください」
「いや、今のはいい返事だったぜ」
「返事したつもりないです」
「でも返った。右へ回すと読ませて、左へ戻す。あいつ好みの会話だ」
真壁は心底嫌そうな顔をした。
「じゃあ二度とやりません」
「無理だろうな」
「無理とか言うな」
ララが静かに口を挟む。
「ただし、今回は私たちが主導した」
真壁はララを見る。
「主導?」
「ああ。アルゴの仕掛けに乗っただけではない。こちらから読ませ、外した。そうだろう」
「……そうですね」
「なら、これはアルゴの会話ではない。私たちの対抗だ」
その言葉は、真壁の中で少しだけ形を変えた。
会話。
返事。
アルゴの誘い。
そればかり考えると気持ち悪い。
だが、対抗なら。
勝手な宿題に対する、雑な答案ではなく。
こちらの都合を押し返す行為なら。
「……少しはましですね」
「そうか」
「はい。ほんの少し」
ララは少しだけ笑った。
その時、塔の入口付近で騎士が声を上げた。
「ララ隊長! これを!」
全員が振り向く。
塔の扉の裏に、小さな金属紙が貼られていた。
ズレた歯車の刻印。
ララが布越しに剥がす。
真壁は嫌そうに目を細めたが、読めてしまった。
『よく読んだ。なら次は、私の居場所まで来い』
沈黙。
ヴォルフが低く笑った。
「招待状だな」
真壁は即座に言った。
「行きません」
ララも金属紙を見たまま言う。
「罠だな」
「罠ですね」
「だが、居場所の手がかりでもある」
「そう言うと思いました」
真壁は深くため息を吐いた。
金属紙の刻みは、さっきのものより整っている。
もう焦っていない。
むしろ、楽しんでいる。
それが分かってしまった。
「……腹立つ」
真壁は小さく言った。
ララが見る。
「怒っているか」
「はい」
今度は自分で認められた。
「勝手に読めとか言って、読んだら来いとか言って。人を何だと思ってるんですかね」
「道具ではないと言わせに行くか」
「行きたくはないです」
「だが」
「でも、読まれっぱなしも嫌です」
真壁は金属紙から目を逸らした。
「あと、ララさんを巻き込まれるのも嫌です」
言ってしまってから、気まずくなった。
ララが少しだけ目を見開く。
ヴォルフは笑いかけたが、今度は黙った。
真壁は早口で続ける。
「いや、騎士団全体とか、王都とか、そういう意味で」
「……そうか」
ララは静かに答えた。
「なら、王都のために行くことにしよう」
「そこ拾わないでくれるの助かります」
「拾ってはいる」
「拾ってた」
ララは金属紙をしまった。
「まずは戻る。情報を整理する。アルゴの居場所を読むのは、それからだ」
「今日は終わり?」
「ああ」
「本当に?」
「本当だ」
真壁は心の底から息を吐いた。
「神」
「騎士だ」
旧測量塔の上空を、風が通り抜けた。
銀糸の光はもうない。
だが真壁には、まだどこかで細い揺れが残っているような気がした。
アルゴは待っている。
自分を読め、と。
自分の居場所まで来い、と。
真壁は、それが嫌で嫌で仕方なかった。
だが同時に、ほんの少しだけ思ってしまった。
読んでやる。
そして。
できれば、その鼻を明かしてやる。
「……いや、やっぱり帰りたい」
慌てて言い直す。
ヴォルフが笑った。
ララも少しだけ笑った。
真壁はその二人を見て、やはり帰りたいと思いながらも、少しだけ足を前に出した。
騎士団宿舎へ戻るために。
そして、次にアルゴを読むために。




