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第28話


 南環状水路の一件から戻ったあと、真壁悠はしばらく報酬袋を握ったまま動かなかった。


 袋は重い。


 かなり重い。


 危険手当、緊急対応手当、橋梁保全補助、荷車被害軽減、技師班支援。聞かされた名目は多かったが、真壁にとって重要なのは一つだけだった。


 金が入った。


 しかも、今回は少しだけ違う。


 水門を直接ほどいたわけではない。橋を支え続けたわけでもない。鐘を止めたわけでも、魔物の絡みを解いたわけでもない。真壁は読んだ。ララが動いた。ヴォルフが押した。技師たちが旧排水口を開けた。複数の人間がそれぞれ違う方向へ動き、結果としてアルゴの読みを少し外した。


 その報酬だった。


「……複雑だな」


 机の上に袋を置き、真壁は小さく呟いた。


 嬉しい。


 それは間違いない。金が増えるのは嬉しい。異世界で家もなく、元の不労所得も口座もネットスーパーも失った真壁にとって、金は安心そのものだ。銅貨や銀貨の重みは、そのまま今日と明日の食事へ繋がる。


 だが同時に、怖い。


 金が入るということは、役に立ってしまったということだ。役に立つと、また呼ばれる。呼ばれると、また見る。見ると、また気持ち悪くなる。気持ち悪くなると、放っておけない。


「(……稼げるほど逃げづらくなるって、人生バグってない?)」


 真壁は椅子に座ったまま、机へ額をつけた。


 部屋は静かだった。


 騎士団宿舎の自室。石造りの壁。簡素な寝台。小さな机。椅子。窓。余計な装飾はない。まだ四畳半ほど馴染んではいないが、少なくとも最近では、この部屋にいる時が一番ましだった。


 ただ、今日は静かすぎるのが少し怖い。


 銀糸の感覚が残っている。


 王都全体に張り巡らされ、鐘を鳴らし、建物を繋ぎ、人の動きまで測ろうとする糸。あれはもう、ただの罠ではない。アルゴは王都を読んでいる。都市を構造として捉え、その中にいる人間の反応まで含めて揺らそうとしている。


 なら、真壁たちはどうするのか。


 水門を直す。


 鐘を止める。


 蒸気を逃がす。


 橋を守る。


 それだけでは足りない。


 アルゴが読んでくるなら、その読みを外す必要がある。


「……無理だろ」


 誰に聞かせるでもなく言った。


 読み合い。


 駆け引き。


 心理戦。


 そういう言葉が真壁は苦手だった。昔から、人の考えを読むのが得意ではない。クラスメイトの空気が読めず、教師の期待が読めず、親の怒りの限界も読めず、結局部屋へ逃げ込んだ男だ。


 それなのに今、王都を壊そうとしている針工師の読みを外せと言われている。


 人生の課題設定がおかしい。


 コン、コン。


 扉が鳴った。


 真壁は机に額をつけたまま言う。


「今日はもう働きません」


「作戦会議だ」


 ララ・バーンの声だった。


「働きの別名では?」


「今回は椅子に座ったままでいい」


「最近それで許されると思ってません?」


「思っている」


「正直すぎる」


 扉が開く。


 ララは数枚の図面と、小さな布包みを持っていた。表情は硬いが、昨日よりは少し落ち着いている。腰には剣。軽装。現場へ行く装備ではないが、完全な休みでもない。


 真壁はララの手元を見て、すぐ嫌な顔になった。


「その布包み、銀糸ですか」


「一部だ」


「見たくないです」


「見せない」


 そう言って、ララは布包みを机の端へ置いた。開かない。真壁は少しだけ安心した。


「本当に作戦会議だけですか」


「ああ」


「誰と」


「私とお前と、ヴォルフ」


「三人目いらなくないですか」


 その瞬間、窓の外から声がした。


「いるだろ」


「いらないって言った直後に来るな!」


 ヴォルフが窓枠に腰かけていた。相変わらず気配がない。最近、窓を閉めても鍵をかけても意味がない気がしてきている。住環境の安全性が低すぎる。


 ララは軽く睨む。


「入るなら扉を使え」


「扉は騎士が見張ってるだろ」


「だからだ」


「面倒くせえ」


「お前が面倒なんだ」


 ヴォルフは笑って窓枠から部屋の中へ降りようとしたが、ララの視線を受けてぎりぎり窓枠の上に留まった。


「で、作戦会議って何すんの?」


 ララは机に図面を広げた。


 王都全域の簡略地図。


 水門、鐘塔、北門見張り塔、蒸気管設備、東市場、旧配送管制所、中央広場、旧資材庫、南環状水路。これまでの異常地点が赤い印で示されている。そして、そのいくつかを細い線が結んでいた。


 真壁は見た瞬間、胃が重くなった。


「……見たくない地図ランキング一位」


「分かる」


 ララが言う。


「だが、見る必要がある」


「ですよね」


「アルゴは各所に仕掛けを置き、私たちの反応を見ている。昨日の水路で分かったのは、あいつの読みは完璧ではないということだ」


 ヴォルフが頷く。


「完璧なら荷車の二段目ももっと綺麗に詰めてた。あれは保険だな。外れた時用の雑な保険」


「つまり、アルゴは予測しているが、全てを支配しているわけではない」


「そういうこと」


 ララは真壁を見る。


「だから、こちらから読みを外しにいく」


「俺、そういうの苦手です」


「知っている」


「知ってるなら」


「だが、お前は昨日、自分で言った。みんなでズラせばいい、と」


 真壁は少し黙った。


 言った。


 確かに言った。


 だが、言ったからといって、次の日に作戦会議を開かれるとは思っていなかった。人間はその場の勢いで変なことを言う。言質として扱われると困る。


「……勢いです」


「良い勢いだった」


「褒められてる気がしない」


 ララは地図へ指を置いた。


「アルゴが読んでいるものは、大きく三つだと思う」


「三つ?」


「設備の構造。人の動き。そして、私たちの癖だ」


 真壁は嫌そうに頷いた。


「俺は気持ち悪いものを直したくなる」


「私は危険を斬りたくなる」


 ヴォルフが笑う。


「俺は面白い方へ行きたくなる」


「最後の人、制御不能じゃないですか」


「そこがいいんだろ」


「よくないです」


 ララは続ける。


「だから、作戦は単純だ。癖をそのまま使わない」


「どういう意味ですか」


「お前は、すぐ直さない。私は、すぐ斬らない。ヴォルフは」


「俺は?」


「勝手に動くな」


「一番難しいな」


 真壁は思わず頷いた。


「本当に一番難しそう」


 ヴォルフは肩をすくめる。


「まあ、でも理屈は分かる。アルゴは“いつもの反応”を読みたい。なら、いつもの反応を見せてから、途中でズラせばいい」


「見せてから?」


 真壁が聞く。


「そう。最初から変な動きをすると警戒される。けど、一旦いつも通りに見せる。ほどき屋が気持ち悪い場所を見る。騎士さんが剣を構える。俺が突っ込む素振りをする。で、実際には別の奴が動く」


 ララの目が細くなる。


「囮か」


「もっと雑に言えばな」


 真壁は地図を見る。


「……それ、アルゴにこっちを読ませるってことですか」


「読ませる。で、その読みを外す」


 ヴォルフの声は軽い。


 だが、内容は真壁の胸に引っかかった。


 読ませる罠。


 アルゴがこちらを読むなら、こちらは読まれること自体を使う。


「……嫌な発想ですね」


「戦場だと普通だぜ」


「戦場怖い」


「怖いよ」


 ヴォルフの声が一瞬だけ低くなった。


「だから、生き残る奴はだいたい性格悪くなる」


「ヴォルフさん、納得感ありますね」


「褒めてんのか」


「一応」


 ララは地図の一点を指した。


「次にアルゴが狙う可能性が高い場所を考える」


 真壁は身構えた。


「行く前提ですか」


「まだ考えるだけだ」


「その言い方、信用度五十パーセント」


「昨日の糸の経路から推測すると、中央広場から南環状水路へ伸びた流れは、その先で東側市場と西倉庫街へ分岐している。だが、一本だけ不自然に北東へ抜けている」


「北東には何が?」


「王都工務局の記録保管棟」


 真壁は嫌な顔になった。


「書類の場所ですか」


「ああ。古い都市設備の図面と台帳がある」


 ヴォルフが口笛を吹く。


「本命っぽいな」


「アルゴが台帳を書き換えた可能性がある。あるいは、まだ書き換えようとしている」


 真壁は地図を見る。


「でも、記録保管棟って壊して意味あるんですか」


「ある」


 ララが即答した。


「図面が失われれば、古い設備の修復が遅れる。どの水路がどこへ繋がり、どの支柱が何を支え、どの倉庫に何が残っているか分からなくなる」


「あー……」


「つまり、王都そのものが読みにくくなる」


 真壁は気づいた。


 アルゴは王都を読んでいる。


 なら、こちらが王都を読み返すための情報を壊す可能性がある。


 記録保管棟。


 そこがやられれば、真壁たちは図面を使えなくなる。現場へ行くしかなくなる。真壁が嫌がる状況だ。


「……性格悪いな」


「そうだな」


 ララは頷いた。


「だから、先に確認する」


「やっぱり行くんじゃないですか」


「現場確認ではあるが、戦闘ではない」


「最近その分類も信用できません」


 真壁は深くため息を吐いた。


 でも、分かる。


 記録保管棟が壊されるとまずい。


 図面が消えれば、真壁が現場に引っ張り出される回数が増える。つまり、自分の休みを守るためにも記録保管棟を守った方がいい。


「……俺の休みのために行くと思えば、少しだけ意味ありますね」


「そう思っていい」


 ララが言う。


「報酬も出る」


「行きます」


 ヴォルフが笑った。


「判断早ぇ」


    ◇


 王都工務局記録保管棟は、石造りの重厚な建物だった。


 派手ではない。


 むしろ地味だ。


 だが、壁は厚く、窓は少なく、扉は大きい。火事や湿気を避けるためだろう。建物の周囲には排水溝が巡らされ、屋根の上には避雷針のような金属棒が立っている。


 真壁は見た瞬間、顔をしかめた。


「……静かだけど、重い」


「何がだ」


 ララが聞く。


「建物全体が重いです。紙が多いからですかね」


「記録保管棟だからな」


「あと、湿気を嫌ってる感じがします」


「感じ?」


「水が近づくと嫌がりそうな建物」


 ララは頷く。


「火と湿気を避ける構造だと聞いている」


「じゃあアルゴが狙うなら、水か火ですね」


「その可能性が高い」


 入口には工務局の職員と騎士がいた。


 昨夜の鐘塔事件以降、重要施設には警備が増えている。普通なら安心材料だ。だが真壁は、警備が増えている場所ほど嫌な予感がするようになっていた。人が多いと、アルゴが読む材料も増える。


 職員が深く頭を下げる。


「ララ隊長。お待ちしておりました。館内は現在閉鎖しております。職員は最小限です」


「異常は」


「今のところありません。ただ、北東の書庫で湿度計の数値が少し上がっていると報告が」


 真壁が即座に顔をしかめる。


「水じゃん」


「まだ水漏れは確認されていません」


「“まだ”って言いましたよね」


 職員が困った顔になる。


 ララは真壁を見る。


「行くぞ」


「はい……」


 保管棟の中は、外よりさらに静かだった。


 紙の匂いがする。


 古い紙。乾いた革。インク。木棚。わずかな防虫香。


 真壁は少し意外だった。


 うるさくない。


 むしろ、落ち着く。


「……ここ、ちょっとましです」


 ララが驚いたように見る。


「珍しいな」


「音が少ないです。紙は静か」


 ヴォルフが後ろから言う。


「お前、図書館タイプだったのか」


「本は読まなかったですけど、静かな場所は好きです」


「じゃあ働くなら記録係だな」


「働かない方向で」


 通路の両側に書棚が並ぶ。


 巻物、冊子、金属板、図面筒。王都の過去が、ぎっしり詰まっている。もしここが燃えたり濡れたりすれば、大変なことになるだろうと真壁にも分かった。


 北東の書庫へ近づくと、空気が変わった。


「……あ」


 湿っている。


 ほんの少し。


 だが分かる。


 紙の匂いの中に、水の気配が混ざっている。


「水です」


 ララの表情が引き締まる。


「場所は」


「まだ見えません。でも、上じゃない」


「下か」


「たぶん壁の中」


 北東書庫。


 壁一面に棚がある。


 床には排水溝などない。


 火と湿気を避けるため、水回りから離してあるはずだ。


 なのに湿っている。


「職員さん」


 真壁が言う。


「この壁の裏、何があります?」


「外壁です。配水管などはありません」


「じゃあ、外からじゃない。中」


「中?」


「壁の中に古い管か何か、あります?」


 職員が慌てて台帳をめくる。


「少々お待ちを……。あ、古い温度調整用の空気管が通っています。現在は封鎖済みですが」


「封鎖済み信用できないランキング」


 ララが静かに言う。


「一位だな」


 真壁は少しだけ笑いそうになったが、すぐに顔をしかめた。


「その空気管、湿ってます。たぶん水を通されてる」


「水を?」


「はい。でも、直接書庫へ漏らすためじゃない」


「では何だ」


 真壁は壁を見た。


 水の気配。


 紙。


 棚。


 湿度。


 そして、微かな銀の揺れ。


「……糸」


 ララが剣へ手を伸ばす。


 だが抜かない。


 真壁は頷いた。


「壁の中にあります。銀糸。水を使って揺らしてる」


 ヴォルフが低く笑う。


「やっぱり本命か」


「どういう仕掛けだ」


 ララが問う。


「たぶん、湿気で紙を駄目にするんじゃないです」


 真壁は棚を見る。


「湿度が上がると、職員さんは換気しようとする」


 職員が青ざめる。


「はい、通常なら換気窓を開けます」


「それが罠です」


 真壁は換気窓を見る。


 上部に小さな窓。


 開ければ外気が入る。


 だが、今は夜ではない。風がある。


「開けたら、糸が揺れる。そこから何か動く」


 ヴォルフが窓へ近づき、見上げる。


「窓枠に細工があるな」


「触るな」


 ララが鋭く言う。


「触らねえよ」


 ヴォルフはにやにやする。


「なるほどな。換気すると、窓枠の仕掛けが動いて棚の留め具が外れる。棚が倒れる。記録が散る。そこへ湿気。最悪、紙が床で濡れる」


「壊し方が地味すぎません?」


 真壁が言う。


 ヴォルフは肩をすくめる。


「地味な方が効くんだよ。記録を全部燃やすと事件になる。少しずつ湿らせて、倒して、混ぜて、読めなくする。復旧に時間がかかる」


「性格悪い」


「アルゴだからな」


 ララは書庫の全体を見た。


「止めるには」


 真壁は考える。


 壁の中の水。


 銀糸。


 換気窓。


 棚の留め具。


 普通なら、湿気を止めたい。換気したい。壁を開けたい。糸を切りたい。


 全部、アルゴが読みそうな行動だ。


「……読ませます」


 自分で言って、真壁は嫌な気分になった。


 ララが真壁を見る。


「どうする」


「職員さんに、いつも通り換気するふりをしてもらいます」


 職員が震える。


「ふり、ですか」


「はい。窓を開ける動作だけ。でも実際には開けない」


「その間に?」


「ララさんが棚の留め具を見る」


 ララが頷く。


「私は窓ではなく棚を見る」


「はい。アルゴは窓を開けたら棚が外れるようにしてる。なら、窓を開けるふりをした時に、棚のどこが動こうとするかを見る」


「動く前に押さえるのか」


「違います。押さえない」


 ララの目が細くなる。


「押さえない?」


「押さえると、たぶん別の棚が動く。だから、動こうとする場所を見つけるだけ」


 真壁は壁を見る。


「本当に止めるのは、壁の中の水です。たぶん、旧空気管の入口を閉じれば揺れが止まる。でも、それを先にやるとアルゴに読まれる気がする」


 ヴォルフが笑う。


「だから、窓を開けるって読ませる」


「はい。窓を見ると思わせる。実際は壁の中を探る」


 ララはしばらく真壁を見ていた。


「真壁」


「何ですか」


「お前、かなり嫌な作戦を考えるようになったな」


「俺も今そう思いました」


 ヴォルフは楽しそうに笑う。


「いいじゃん。性格悪くなってきた」


「嬉しくない!」


 だが、作戦は通った。


 職員が換気窓へ近づく。


 真壁は遠くから見る。


 ララは棚を見る。


 ヴォルフは壁際。


 全員が、それぞれ違う場所を見ている。


 職員の手が窓の取っ手へ伸びる。


 開けるふり。


 ほんの少し、取っ手が動く。


 その瞬間。


 棚の奥で、カチ、と音がした。


「そこ」


 ララが言う。


 真壁ではない。


 ララが言った。


 彼女は剣を抜かず、棚の右下を指した。


「右下の留め具が動こうとした」


「当たりです!」


 真壁が叫ぶ。


 ヴォルフが壁を叩く。


「こっちも当たりだ。壁の中、流れが変わった!」


「入口は?」


 ララが聞く。


 真壁は目を閉じた。


 水。


 銀糸。


 壁の中。


 空気管。


 流れ。


「……廊下側! 入口じゃなくて床下!」


 ヴォルフが即座に動いた。


 床板を蹴る。


 石板の一部が浮く。


 中から古い空気管が現れた。


 そこに、水袋のようなものが取り付けられている。


 銀糸が巻かれていた。


「壊すか?」


 ヴォルフが聞く。


 真壁が叫ぶ。


「壊さないで! 水を抜くだけ!」


「はいよ」


 ヴォルフは水袋を器用に外し、逆さにした。


 水が床の桶へ流れる。


 銀糸の揺れが弱くなる。


 棚の留め具が止まる。


 湿気が落ち着く。


「……止まった」


 職員が呟く。


 ララは棚を見たまま言った。


「まだ触るな。全ての留め具を確認してからだ」


 真壁はその言葉を聞いて、少しだけ息を吐いた。


 ララが読んだ。


 斬らずに。


 押さえずに。


 棚の動こうとする場所を見た。


 そして、真壁の読みと繋げた。


「……いけた」


 真壁が呟く。


 ヴォルフが水袋を持ち上げる。


 そこには、小さな金属板が貼られていた。


 ズレた歯車。


 そして文字。


『読ませ方を覚えたか』


 真壁は顔をしかめた。


「見てますね、完全に」


 ララの表情は冷たい。


「ああ」


「でも」


 真壁は小さく言った。


「今回は、こっちも読ませた」


 ヴォルフが笑う。


「だな」


 職員たちは震えながら書庫を見回していた。


 記録は守られた。


 棚も倒れない。


 紙も濡れていない。


 火も出ていない。


 被害なし。


 それは今までの中でも、かなり良い結果だった。


 だが、真壁は楽観できなかった。


 アルゴは見ている。


 そして、こちらが読み返し始めたことも理解した。


 次は、もっと厄介になる。


 それでも。


 真壁は水袋の金属板を見ながら、ほんの少しだけ胸の奥に熱を感じた。


 怖い。


 嫌だ。


 帰りたい。


 働きたくない。


 でも。


「……読まれっぱなしは、腹立つ」


 小さな声だった。


 ララが真壁を見る。


 ヴォルフがにやりと笑う。


「いい顔になってきたじゃねえか」


「なってません」


 真壁は即答した。


「俺はただ、休みを守りたいだけです」


「そういうことにしといてやるよ」


 ヴォルフは笑った。


    ◇


 その夜。


 騎士団宿舎へ戻った真壁は、机の上に置かれた報酬袋を見て、深く悩んでいた。


 今回は被害なし。


 現場には行った。


 嫌なものも見た。


 だが、誰も怪我をしなかった。


 紙も守られた。


 図面も残った。


 そして報酬も出た。


「……これ、結構いい仕事だったのでは?」


 認めたくない。


 だが、そう思ってしまった。


 危険はあった。


 疲れた。


 気持ち悪かった。


 でも、火傷もしなかったし、濁流にも飲まれなかったし、鐘も落ちてこなかった。現場に行ったわりには、かなりましだった。


 ララは向かいに座っている。


 今日は珍しく、夕食も一緒だった。


「真壁」


「はい」


「今日の作戦は、お前が考えた」


「やめてください。責任が重くなるので」


「成功した」


「たまたまです」


「たまたまでも、成功は成功だ」


「……」


「そして、私は今日、お前の見方を少し使えた」


 真壁はララを見る。


 彼女の表情は穏やかだった。


「棚の留め具が動こうとした瞬間が見えた。以前なら、あそこまで待てなかった。先に棚を押さえるか、窓を斬っていただろう」


「斬る対象が窓なの怖いですね」


「必要なら斬る」


「でしょうね」


 ララは少しだけ笑う。


「だが、今日は斬らなかった」


「はい」


「お前のおかげだ」


 真壁は目を逸らした。


「そういうの苦手です」


「分かっている」


「じゃあ控えめに」


「控えめに言う。助かった」


「……はい」


 真壁は報酬袋を握った。


 照れくさい。


 重い。


 でも、少し嬉しい。


 その感覚がまた嫌だった。


 嬉しいと、逃げづらくなる。


「……ララさん」


「何だ」


「俺、たぶん本当に働くの嫌なんですよ」


「知っている」


「でも、アルゴに読まれっぱなしはもっと嫌です」


「それも知っている」


「何で分かるんですか」


「顔に出る」


「そんなに出ます?」


「ああ」


 真壁は顔を覆った。


「最悪だ……」


 ララは静かに言った。


「なら、働くためではなく、読まれないために動けばいい」


「結局動くんですよね」


「そうだな」


「ですよね」


 真壁は深くため息を吐いた。


 だが、不思議と最悪ではなかった。


 いや、最悪ではある。


 だが、どうしようもない絶望ではなかった。


 読まれる側ではなく、読ませる側になる。


 その発想は嫌だった。


 でも、少しだけ自分を守る方法にも思えた。


 窓の外で、夜風が鳴る。


 今日はヴォルフは来なかった。


 珍しい。


「……来ないと逆に不安ですね」


「呼ぶか?」


「絶対嫌です」


 ララは少しだけ笑った。


 真壁も、ほんの少しだけ笑った。


 その時。


 机の上の報酬袋の下で、何かがカン、と鳴った。


 真壁とララは同時に動きを止めた。


 袋をどける。


 そこに、小さな金属片があった。


 いつの間に。


 誰が。


 ズレた歯車の刻印。


 そして、一行。


『では次は、君が私を読め』


 真壁はしばらく金属片を見つめていた。


 それから、低く呟いた。


「……勝手に宿題出すな」


 ララの目が鋭くなる。


 王都の夜は、静かだった。


 だが、その静けさの奥で、また新しい糸が張られた気がした。

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