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第27話


 中央広場の鐘が落ちた翌朝、王都は妙に静かだった。


 静か、と言っても音がないわけではない。荷車は動いている。露店は開いている。兵士の足音も、職人の金槌も、遠くの犬の鳴き声もある。だが、その全部が少しだけ抑えられている。誰もが声を潜め、誰もが空を見上げ、誰もが中央広場の方角を気にしていた。


 巨大な鐘が落ちた。


 それだけなら、大事故だ。


 だが、死者は出なかった。


 それが余計に噂を大きくしていた。


 鐘が落ちる直前、騎士団第三隊長が何かを斬った。黒い外套の男が鐘を殴って吹き飛ばした。灰色の奇妙な服を着た男が叫んだ方向へ、二人が動いた。広場にいた人間は助かった。だが鐘塔の上には仮面の男がいたらしい。銀色の糸が夜空に光っていたという話もある。


 王都は、静かなざわめきに包まれていた。


 真壁悠は、そのざわめきの中心から最も遠い場所にいたかった。


 具体的には、騎士団宿舎の自室の寝台である。


「……働きたくない」


 朝食前の第一声はそれだった。


 本人としてはかなり切実だった。昨夜は眠れなかった。目を閉じると、落ちてくる鐘が見える。銀色の糸が見える。鐘塔の上に立つ仮面の人影が見える。そして何より、自分たちの動きまで読もうとしている、という感覚が頭から離れなかった。


 街だけではない。


 建物だけではない。


 水路や鐘や蒸気管だけでもない。


 アルゴは人間の動きまで構造に含め始めている。


 それが、真壁にはどうしようもなく気持ち悪かった。


 コン、コン。


 扉が鳴る。


「起きているか」


 ララの声だった。


「働きません」


「まず食べろ」


「食べます」


 扉が開き、ララ・バーンが朝食の盆を持って入ってきた。今日の肉は二切れだった。鐘落下事件の翌日だからか、あるいは真壁が昨夜かなり消耗したからか。どちらにせよ、肉が二切れあるという事実だけは信用できる。


「神ですか」


「騎士だ」


 いつもの返答。


 その声に少し疲れが混じっていた。


 真壁は盆を受け取りながら、ララの顔を見た。


「ララさん、寝ました?」


「少し」


「それ寝てない人の答えですね」


「お前は?」


「目を閉じて後悔しました」


「そうか」


 ララは椅子に座った。


 完全に話がある時の姿勢だった。


 真壁は肉を見つめる。


「食べ終わってからで」


「分かった」


 本当に待ってくれた。


 真壁は少しだけ驚きながら、パンをスープに浸して食べた。肉も食べる。うまい。昨夜の銀糸も、落ちた鐘も、仮面の男も、肉を噛んでいる間だけは少し遠くなる。


 食事を終え、茶を飲み、逃げ場がなくなったところで、ララが口を開いた。


「昨日の件で、王都全域の警備が引き上げられた」


「でしょうね」


「中央広場は封鎖中。鐘塔の残骸と銀糸の一部は回収した。だが、糸の大半は消えた」


「消えた?」


「鐘が落ちた後、数刻のうちに細く崩れて粉になったそうだ」


 真壁は顔をしかめた。


「証拠隠滅ですか」


「おそらくな」


「性格悪い」


「同感だ」


 ララは机の上に小さな布包みを置いた。開くと、中に銀色の細い線が一本だけ入っていた。長さは指一本分ほど。月明かりの中で見たものと同じだ。今は動かない。揺れない。ただの金属線のようにも見える。


 だが真壁はすぐに視線を逸らした。


「……見たくないです」


「無理に見なくていい」


「じゃあ閉まってください」


 ララは少しだけ迷い、本当に包み直した。


 真壁はまた少し驚いた。


「今日は優しい」


「昨日の夜、お前はかなり限界だった」


「いつも限界ですけど」


「昨日は特にだ」


 ララは包みをしまう。


「真壁。アルゴは、王都を読むために糸を張った。お前はそう言ったな」


「はい」


「そして、人の動きまで読もうとしているとも」


「……はい」


「なら、こちらが取るべき対策は二つある」


「嫌な話ですね」


「一つは、糸の経路を調べること。もう一つは、こちらの動きを読ませないことだ」


 真壁は茶の器を両手で持ったまま固まった。


「読ませない」


「ああ」


「どうやって?」


「それを相談したい」


「俺に?」


「お前にしか分からない部分がある」


「便利ワード」


「事実だ」


 真壁は小さく呻いた。


 読まれる側から抜ける。


 理屈は分かる。アルゴが自分たちの反応を計算して仕掛けているなら、その計算を外せばいい。だが、真壁はそんな駆け引きが得意ではない。むしろ人生のほとんどを、他人との読み合いから逃げてきた男である。


「俺、人の裏をかくとか無理ですよ」


「お前に裏をかけと言っているわけではない」


「じゃあ何を」


「アルゴが何を読みたがるかを考える」


 真壁は嫌そうな顔をした。


「アルゴさんの気持ちになれってことですか」


「極端に言えば」


「嫌すぎる」


「分かる」


「分かるならやめましょう」


「やめられない」


「ですよね」


 ララの返事は容赦なかった。


 その時、窓の外から声がした。


「簡単だろ」


 真壁は反射的に器を抱えた。


「窓から来るな!」


 ヴォルフが窓枠に腰かけていた。くたびれた外套。寝癖。いつもの軽い顔。だが、昨日鐘を殴り飛ばした男だと思うと、改めて常識から外れている。


「簡単って何がですか」


「読まれない方法」


「あるんですか」


「ある」


 ヴォルフはにやりと笑った。


「馬鹿みたいに動けばいい」


 沈黙。


 真壁はララを見た。


 ララは少しだけ眉を寄せている。


「……もう少し説明しろ」


「アルゴは構造を見る。荷重、流れ、反応、習性。だから予測できる相手ほど読みやすい。騎士団は人命優先で動く。ギルドは設備を守ろうとする。技師は故障箇所を直そうとする。ほどき屋は気持ち悪いズレを見ると手を出す」


「俺の説明だけ雑じゃないですか」


「事実だろ」


「否定できないのが嫌です」


 ヴォルフは続けた。


「でも、予測できない奴は読みにくい。たとえば、目の前で床が抜けそうな時に、普通は避ける。でも急に座り込む奴がいたら、計算が狂う」


「それ死にません?」


「だから馬鹿みたいに動けって言ってんだよ」


「やっぱり駄目じゃないですか」


 ララは腕を組む。


「つまり、アルゴが想定する反応を外す必要がある、ということか」


「そういうこと」


「だが、人命救助や安全確保で常識外の動きを取れば被害が出る」


「だから全部じゃねえよ。一箇所だけ狂わせればいい」


 ヴォルフは真壁を指差す。


「こいつが鍵だ」


「嫌です」


「早いな」


「鍵とか言われると責任重いので」


「でも事実だ」


 ヴォルフは窓枠から部屋の中へ入ろうとして、ララに睨まれ、仕方なく窓枠に留まった。


「アルゴは、お前が気持ち悪いものを直すと思ってる。なら、お前が直さないだけで一回狂う」


「昨日やりましたよ。見ない判断」


「そう。あれは良かった。で、次はもう一段進める」


「嫌な予感」


「気持ち悪いものを、あえて残す」


 真壁は本気で顔をしかめた。


「無理です」


「無理か」


「無理です。見えたら気になります」


「だろうな」


「じゃあ何で言ったんですか」


「確認」


「最悪」


 ララが静かに言う。


「だが、必要になるかもしれない」


「ララさんまで」


「真壁。お前がすべてを直そうとすれば、アルゴはそこへ罠を置く。なら、直す場所と直さない場所をこちらで選ばなければならない」


「……」


「昨日の噴水もそうだった。直さないことで防いだ」


「それはそうですけど」


「今回は、さらに難しい。直すべきズレと、残すべきズレを分ける必要がある」


 真壁は頭を抱えた。


 見ない。


 直さない。


 残す。


 どんどん嫌な方向へ進化している。


「……俺、修理聖じゃなくて放置聖になりません?」


「名前はどうでもいい」


「結構大事です」


 ヴォルフが笑った。


「いいじゃん、放置聖」


「絶対嫌です」


    ◇


 訓練は、中庭で行われた。


 真壁は現場へ行かないと思っていたが、よく考えたら宿舎の中庭も現場の一種だった。石畳。排水溝。訓練用の木箱。吊るされた布。ララが用意したのは、簡単な仕掛けだった。


 木箱を三つ積み、その上に小さな金属輪を置く。箱の一つだけに細い紐を結び、引くと全体が少し傾くようになっている。崩れるほどではないが、見ていると気持ち悪い。


「……嫌な訓練ですね」


「お前が嫌がるように作った」


「正直すぎる」


 ララは紐を持つ。


「この箱はズレている。お前なら直したくなる」


「なります」


「だが直さない」


「もうつらい」


「見ているだけでいい」


「それがつらい」


 真壁は木箱を見た。


 一番下の箱が少し右にズレている。その上の箱が左へ補正するように乗っている。金属輪は落ちそうで落ちない。紐を少し引くと、全体が揺れる。


 気持ち悪い。


 だが、致命的ではない。


「……これは放置してもいいやつです」


 真壁は言った。


 ララが頷く。


「理由は」


「崩れても箱が落ちるだけ。人はいない。周りに壊れるものもない。気持ち悪いけど、危険じゃない」


「では、危険ではないズレは残せるか」


「視界に入れなければ」


「視界に入っている状態では」


「……つらいです」


「なら、見ながら残す練習をする」


「地獄」


 ララは紐を揺らした。


 箱が小さく揺れる。


 真壁の右手がぴくりと動く。


 左手で押さえる。


「動いたな」


「動きました」


「止められた」


「物理的に」


「それでいい」


 次にララは、箱の横に水の入った小さな器を置いた。


「これはどうだ」


 紐を引くと箱が揺れ、その振動で器の水面がわずかに波立つ。


 真壁の表情がさらに悪くなる。


「追加するのやめません?」


「危険度は」


「まだ低いです。でも水は嫌です」


「感情と危険度を分けろ」


「難しいこと言う」


 だが、重要だった。


 真壁は気持ち悪いものを危険と感じる。だが、実際に危険かどうかは別だ。水面が揺れるだけなら危険ではない。見ていて嫌なだけだ。


「……これは放置」


「よし」


 ララは水の器の横に、小さな油皿を置いた。


「これは」


「急に危ない」


「なぜ」


「水が揺れて油皿に触れると、たぶん混ざる。近くに火があったら危ない」


「火はない」


「ならまだ放置」


「火を置いたら」


「置くな」


「訓練だ」


「置くな」


 ララは少しだけ笑い、火は置かなかった。


 だが真壁には分かった。


 これは訓練だ。


 気持ち悪さと危険を分ける。


 直したい衝動と、直す必要性を分ける。


 見えるものすべてに反応しないために。


「……ララさん」


「何だ」


「これ、俺だけじゃなくてララさんにも必要ですよね」


 ララの手が止まった。


「なぜそう思う」


「ララさんも、危険を見たら斬りたくなるでしょう」


「……否定はしない」


「でも、斬っちゃ駄目なものがある。昨日の糸みたいに」


「ああ」


「だから、俺は直さない練習。ララさんは斬らない練習」


 ララはしばらく黙った。


 それから、ゆっくり頷いた。


「その通りだな」


 真壁は少しだけ驚いた。


「素直」


「必要な指摘だ」


「じゃあ、ララさんもやりましょう」


「何を」


「この箱、斬らないでください」


「斬る理由がない」


「じゃあ、ちょっと危険そうにします」


 真壁は木箱の横に訓練用の木剣を立てかけた。箱が倒れれば木剣が倒れ、少し離れた位置にある水器を割るかもしれない。実際には大したことはない。だが、ララの視線が一瞬だけ動いた。


「今、剣を抜きそうになりました?」


「少し」


「やっぱり」


 ララは苦い顔をした。


「私は危険の芽を先に潰す癖がある」


「それ自体はいいことなんでしょうけど、アルゴはそこを狙ってきますよね」


「ああ」


「じゃあ、一回止まってください」


 真壁は言った。


「見る。何が危険か。何を斬るとどう動くか。何を斬らない方がいいか」


「……分かった」


 ララは剣の柄から手を離した。


 その様子を見て、真壁は少しだけ変な気分になった。


 自分がララに何かを教えている。


 しかも、剣を抜くな、などと言っている。


 普通ならあり得ない。真壁は戦えない。剣も振れない。体力もない。すぐ帰りたがる。そんな男が、騎士団第三隊長へ「斬らない練習」をさせている。


「……人生、分からないな」


「何か言ったか」


「前世の俺が見たら卒倒するなって」


「そうか」


 ララは少しだけ笑った。


    ◇


 昼過ぎ、訓練は中断された。


 理由は、ギルド設備管理部門からの急報だった。


「南環状水路で異常振動! 水門が一部閉鎖され、市場裏の荷車橋に負荷が集中しています!」


 若い職員が息を切らして駆け込んできた時、真壁はちょうど「ズレた箱を見ても触らない訓練」の七回目で限界に近かった。


 つまり、精神的にはすでに疲れていた。


「……無理です」


 真壁は反射的に言った。


「まだ何も」


 職員が困惑する。


「だいたい分かります。水路って言いましたよね。橋も言いましたよね。絶対嫌です」


 ララが立ち上がる。


「状況は」


「水路自体の流れは弱いのですが、閉鎖された水門の一つが半端な位置で止まっており、そのせいで水圧が橋脚側へ逃げています。技師が水門を開けようとしたのですが、開けると橋が落ちるかもしれないと」


 真壁は目を閉じた。


「直したら別が壊れる系」


「はい……おそらく」


 最悪だった。


 ララは真壁を見る。


「行けるか」


「行きたくないです」


「分かっている」


「でも行かなきゃ駄目なやつですよね」


「可能なら、お前は遠くから見るだけでいい」


「水路を遠くから見ても嫌なんですけど」


「報酬は出る」


「行きます」


 職員が目を丸くした。


 ララは慣れた顔だった。


 ヴォルフはいつの間にか中庭の塀の上に座っていた。


「ほんと現金だな」


「窓だけじゃなく塀にも出るんですね」


「出るぜ」


「出なくていいです」


 ヴォルフは軽く笑って立ち上がった。


「俺も行く。水路と橋か。アルゴなら絶対何か仕込んでる」


「嬉しそうに言わないでください」


「面白いのと嬉しいのは別だ」


「どっちも嫌です」


    ◇


 南環状水路は、思ったより広かった。


 王都の南側をぐるりと回るように造られた石組みの水路。その上を、いくつもの小さな橋が渡っている。市場裏の荷車橋は、その中でも大きめの橋だった。荷車がすれ違える幅があり、普段は商人や職人が頻繁に通るらしい。


 今は封鎖されていた。


 橋の上には誰もいない。


 だが、橋脚が揺れている。


 水路の流れが片側へ偏り、橋脚の根元へ当たっている。


 真壁は遠くから見ただけで顔をしかめた。


「……嫌」


「危険か」


 ララが聞く。


「危険です。でも、すぐ落ちる感じじゃない」


「なら時間はある」


「たぶん」


 技師たちが駆け寄ってくる。


「ララ様! 水門を開ければ水圧は分散できますが、開けた瞬間に橋脚へ一気に流れが当たる可能性がありまして」


「閉じれば」


「上流側が溢れます」


「放置すれば」


「橋脚が削れます」


 全てが嫌な選択肢だった。


 真壁は水路を見た。


 流れ。


 水門。


 橋脚。


 周囲の石組み。


 そして、銀糸。


「……ある」


 ララがすぐ反応する。


「糸か」


「はい。水門の下」


 銀色の糸が、水の中に沈んでいる。


 見えないはずなのに、真壁には分かる。


 水流に合わせて揺れている。


 それが水門を半端な位置で固定している。


「切るなよ」


 ヴォルフが低く言った。


「分かってます」


 ララも剣を抜かない。


 真壁は少しだけ安心した。


 昨日の訓練が効いている。


「どうする」


 ララが聞く。


 真壁は水路を睨んだ。


 直したい。


 水門を正しい位置へ戻したい。


 糸を外したい。


 水流を逃がしたい。


 だが、それをやるとアルゴの想定通りかもしれない。


 アルゴは真壁が気持ち悪い場所を直すと読む。


 なら。


「……直しません」


 ララが目を細める。


「水門をか」


「はい」


 技師が慌てる。


「しかし、それでは橋脚が!」


「橋は守ります。でも水門は触らない」


「どうやって」


「橋脚側の流れだけ変えます」


 真壁は橋の手前、古い補助排水口を指差した。


「あそこ、開きますか」


 技師が驚く。


「あれは旧排水口です。今は使っていないはずですが」


「信用できない一位」


「すみません!」


「いや、いいです。たぶん使えます。そこを少しだけ開けて、橋脚へ当たる水を逃がす」


「水門を開けずに圧を逃がすのか」


 ララが言う。


「はい。アルゴは水門を触らせたいんです。たぶん。だから触らない」


 ヴォルフが笑った。


「いいねえ。読まれた道を外すか」


「うるさいです。こっちは必死です」


 技師たちは旧排水口へ走る。


 錆びている。


 固い。


 だが開く。


 少しずつ。


 水流が変わる。


 橋脚へぶつかっていた水圧が、横へ逃げる。


 揺れが弱まる。


「……いける」


 真壁が呟いた瞬間。


 銀糸が震えた。


 水門ではない。


 橋の上。


 封鎖されて誰もいないはずの橋上で、荷車が一台、ゆっくり動き出した。


「な……!」


 ララが叫ぶ。


「誰か荷車を止めろ!」


 荷車は無人だった。


 だが、重い。


 積み荷がある。


 しかも橋の中央へ向かっている。


「橋に負荷を乗せる気か!」


 技師が叫ぶ。


 アルゴは、水門だけではなかった。


 水門を触らない選択をした時のために、別の仕掛けを用意していた。


 読まれている。


 真壁は歯を食いしばった。


「……最悪だな!」


 ララが走る。


 だが真壁が叫ぶ。


「荷車を壊さないで!」


「理由は!」


「積み荷が偏ってる! 壊すと橋の中央に落ちる!」


 ララは速度を落とさない。


 剣を抜く。


 だが斬らない。


 荷車の車輪へ剣を差し込み、回転を殺すのではなく、向きを変える。


 荷車がギギ、と軋む。


 橋の端へ逸れる。


 だがまだ止まらない。


「右!」


 真壁が叫ぶ。


「右の前輪! 止めるんじゃなくて浮かせる!」


 ララは即座に動いた。


 剣をてこのように使い、前輪を浮かせる。


 荷車の重心がずれる。


 ヴォルフが飛び込み、後ろから荷台を蹴る。


「よっと!」


 荷車が橋の端へ押し出され、横倒しになった。


 積み荷の木箱が崩れる。


 だが橋の中央ではない。


 負荷は分散された。


 橋は落ちない。


 水流も逃げている。


 静寂。


 真壁はその場に座り込んだ。


「……今の絶対読まれてましたよね」


 ヴォルフが肩を回しながら笑う。


「半分な」


「半分?」


「ああ。アルゴはお前が水門を触らない可能性も読んでた。だが、荷車をどう逸らすかまでは読めてなかった」


 ララが剣を収める。


「なぜそう思う」


「荷車の仕掛けが雑だった。二段目の保険だ。完璧な読みじゃねえ」


 真壁は水路を見る。


 銀糸はまだ水中で揺れている。


 だが、動きが変わった。


 迷っているように見える。


 いや。


 これは。


「……少し外れた」


 真壁が呟く。


「何がだ」


 ララが聞く。


「アルゴの読み」


 水門には触らなかった。


 橋は落とさなかった。


 荷車も壊さなかった。


 ララが斬らずに逸らし、ヴォルフが押し、技師たちが排水口を開けた。


 真壁一人の反応ではない。


 だから、アルゴの読みから少し外れた。


「……これなら、いけるかもしれない」


 真壁は小さく言った。


「何が」


 ララが問う。


「俺だけが読まれるんじゃなくて、みんなでズラせば」


 言ってから、真壁は自分で驚いた。


 みんな。


 そんな言葉を自分が使うとは思わなかった。


 ヴォルフがにやりと笑う。


「いいじゃん」


 ララも静かに頷いた。


「ああ。こちらも、構造を変えればいい」


 真壁は水路の銀糸を見た。


 気持ち悪い。


 まだ嫌だ。


 だが、ほんの少しだけ。


 本当にほんの少しだけ。


 対抗できる気がした。


 もちろん、帰りたい気持ちは変わらない。


 働きたくない気持ちも変わらない。


 だが、アルゴの思い通りに動かされるのは、もっと嫌だった。


「……ララさん」


「何だ」


「今日の報酬、かなり欲しいです」


 ララは少しだけ笑った。


「交渉する」


「神」


「騎士だ」


 ヴォルフが笑う。


「そこはブレねえな」


 真壁は真顔で答えた。


「金は大事です」


 水路の銀糸が、微かに揺れた。


 まるで、どこか遠くで誰かが面白がっているように。


 真壁はそれを見て、初めて小さく睨み返した。


「……こっち見るな」


 声は小さかった。


 だが、その言葉には確かに怒りが混じっていた。


 読まれる側の都合を、少しだけ突き返すように。

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