第26話
その日の夜、真壁悠は夕食を半分しか食べられなかった。
かなり異常事態だった。
「……本当に大丈夫か?」
向かいに座るララが珍しく心配そうに聞く。
真壁はスープを見つめたまま答えた。
「糸が気持ち悪すぎて胃が死んでます」
「食欲に勝つほどか」
「勝ちました」
「重症だな」
真壁は深く息を吐いた。
今日見た銀色の糸。
瓦礫の奥に張り巡らされていた極細の線。
あれを思い出すだけで、背中がざわつく。
見た目はただの糸だ。
だが、違う。
あれは“繋がっている”。
しかも一本ではない。
真壁には分かってしまった。
あの倉庫だけで終わっていない。
もっと遠くへ。
もっと広く。
王都のどこかへ伸びている。
「……ララさん」
「何だ」
「もし、あれを誰かが斬ったらどうなると思います?」
ララは少し考えた。
「分からない」
「ですよね」
「だが、良い結果にはならない気がする」
「はい」
真壁は即答した。
「すごく嫌な感じします」
嫌な感じ。
最近、そればかりだ。
だが真壁にとっては、その曖昧な感覚こそが最も信用できる。
四畳半で二十年。
揺れを見続けてきた。
ズレを見続けてきた。
説明できなくても、“嫌なズレ”だけは外さなかった。
「ヴォルフは?」
ララが聞く。
「今日はどこ行ったんですかね、あの人」
「分からん」
「自由すぎる」
「だが、あいつも糸を警戒していた」
「それが一番怖いです」
ララは静かに頷いた。
あの男は危険を面白がる。
そんなヴォルフが、今日は笑いながらも踏み込まなかった。
つまり、本当に危険なのだ。
「……寝ます」
真壁は立ち上がった。
「逃避ではないぞ」
「半分逃避です」
「残り半分は」
「脳が疲れました」
それは本当だった。
今日は見すぎた。
崩落。
荷重。
斬撃。
そして糸。
特に最後の糸は駄目だった。
見た瞬間から、脳のどこかがずっと引っ張られている感じがする。
「真壁」
部屋へ戻ろうとした時、ララが呼び止めた。
「はい」
「無理をするな」
真壁は少しだけ目を丸くした。
「……ララさん」
「何だ」
「最近ちょっと優しくないですか」
「以前が厳しすぎた可能性はある」
「自覚あったんだ」
「少しな」
真壁は小さく笑った。
それだけで、少し気が楽になる。
「おやすみなさい」
「ああ。休め」
◇
だが、休めなかった。
真夜中。
真壁は目を開けた。
理由は分からない。
音がしたわけではない。
気配でもない。
ただ、妙に静かだった。
「……?」
身体を起こす。
部屋は暗い。
窓から月明かりが入っている。
騎士宿舎の夜は、普段なら微かに音がする。廊下を歩く足音。遠くの見張り。風に鳴る旗。
だが今は、静かすぎた。
「……嫌だな」
真壁は呟いた。
その瞬間。
視界の端で、何かが揺れた。
「っ」
反射的に振り向く。
窓際。
月明かりの中。
そこに、銀色の糸があった。
「……は?」
真壁の全身が固まる。
糸。
あの糸。
極細の銀線が、窓の外から室内へ伸びている。
一本だけではない。
二本。
三本。
壁際を這うように。
床を横切るように。
まるで部屋の構造を読むように。
「なんで……」
真壁は息を呑む。
糸は揺れていた。
ほんのわずかに。
そして――
コン。
扉が鳴った。
真壁は飛び上がった。
「ま、真壁だ。入るぞ」
ララの声。
だが、真壁の視線は糸から離れない。
扉が開く。
ララが入ってくる。
「起きていたか。妙な気配を――」
ララも止まった。
銀色の糸を見る。
赤い瞳が細くなる。
「……来たか」
「来たかじゃないですよ!」
真壁は半泣きだった。
「なんで部屋の中に!?」
「分からん」
「嫌すぎる!」
ララはゆっくり剣へ手を伸ばく。
真壁が叫ぶ。
「切らないでください!」
「分かっている」
ララは止まった。
以前なら抜いていた。
だが今は違う。
まず見る。
何を支えているか。
何と繋がっているか。
「……真壁」
「はい」
「読めるか」
「読みたくないです」
「だろうな」
「でも読みます」
真壁は深呼吸した。
見る。
全部じゃない。
見る場所を絞る。
糸そのものではなく――“揺れ”。
どこへ戻ろうとしているか。
中心。
繋がり。
「……あ」
真壁の顔色が変わる。
「どうした」
「これ、部屋に来てるんじゃない」
「何?」
「逆です」
真壁は窓を見る。
「王都の中心から伸びてる」
ララの目が鋭くなる。
「王城か」
「たぶん。でも途中でいっぱい分岐してる」
糸は、張られているのではない。
“通っている”。
まるで血管みたいに。
王都の構造そのものを巡るように。
「……気持ち悪い」
真壁は本気で震えた。
これは罠じゃない。
もっと根本的な何かだ。
「真壁」
ララが低く言う。
「糸の揺れが変わった」
「え?」
その瞬間だった。
銀糸が、一斉に震えた。
ビィン――
音はない。
だが、空気が鳴った気がした。
真壁は反射的に耳を押さえる。
「う、ぁ……!」
「真壁!」
糸が揺れる。
一本だけじゃない。
全部。
王都全体に張り巡らされた糸が、どこかで同時に震えた。
真壁には分かってしまう。
どこかで何かが動いた。
「……中央区画」
「分かるのか!」
「はい……っ!」
頭が痛い。
だが読める。
揺れが伝わってくる。
まるで巨大な蜘蛛の巣みたいに。
「誰かが……触った」
「糸をか?」
「たぶん!」
ララが即座に立ち上がる。
「中央区画へ行く」
「嫌です!」
「分かる!」
「分かるなら休みません!?」
「今動かなければもっと悪くなる!」
真壁は頭を抱えた。
正論だった。
最悪。
◇
中央区画へ向かう途中、真壁はずっと気持ち悪そうだった。
ララは半歩前。
真壁は後ろ。
そして。
「おー、行くと思った」
屋根の上からヴォルフが降ってきた。
「うわぁ!」
「失礼だな」
「毎回びっくりするんですよ!」
「慣れろ」
「無理」
ヴォルフは真壁の顔を見る。
「お前、かなり来てんな」
「糸が脳に悪いです」
「だろうな」
「ヴォルフは平気なんですか」
「平気じゃねえよ」
珍しく即答だった。
「ただ、俺はこういう“構造”を何度か見たことがある」
ララが視線を向ける。
「知っているのか」
「断片だけな」
ヴォルフは夜空を見上げた。
「昔、似たような術式を使う奴がいた。街そのものを一個の道具に変えるタイプの狂人」
「……アルゴ」
「たぶんな」
真壁は顔をしかめた。
「街を道具って」
「建物、道路、水路、鐘塔、地下通路、人の流れ。全部を“繋ぐ”んだよ。そんで、一箇所動かすだけで別の場所へ影響を飛ばす」
「最悪だ……」
「まあ最悪だな」
中央区画へ近づくにつれ、人のざわめきが増えていく。
騎士。
野次馬。
商人。
そして――鐘の音。
ゴォン、と低い音が夜空へ響く。
真壁の顔色が変わった。
「……鐘」
「どうした」
「揺れてる」
ララが鐘塔を見る。
中央広場の巨大な鐘塔。
夜警用の鐘が鳴っている。
だが。
真壁には分かった。
あの鐘、“揺らされている”。
「急ぐぞ!」
ララが駆け出す。
真壁は本気で嫌そうな顔をしながら追いかけた。
◇
中央広場は混乱していた。
「鐘が止まらないんだ!」
「中に誰かいるぞ!」
「塔が揺れてる!」
真壁は鐘塔を見上げた。
銀糸。
あった。
鐘塔の内部へ。
いや、鐘そのものへ。
何本もの糸が繋がっている。
「……あれだ」
ララも見る。
「鐘を支点にしているのか」
「たぶん……王都全体の揺れを集めてる」
ヴォルフが低く口笛を吹いた。
「趣味悪ぃ」
鐘が鳴る。
ゴォン。
その度に、糸が震える。
そして。
王都全体へ揺れが流れていく。
真壁は気づいた。
「これ……測ってる」
「何?」
ララが振り返る。
「アルゴ、王都の揺れを読んでる」
「揺れ?」
「人の移動、建物の軋み、荷重、振動……全部」
真壁の声が震える。
「街全体を一個の生き物みたいに扱ってる」
ララの顔が険しくなる。
「止められるか」
真壁は鐘塔を見る。
糸。
鐘。
支点。
構造。
切るだけなら簡単だ。
だが。
「……切ったら駄目です」
「理由は」
「鐘が落ちる」
「それだけか」
「違う。たぶん、他の場所も連動する」
ヴォルフが笑う。
「だろうな」
「楽しそうに言わないでください」
「いや、ここまで来ると感心する」
その時。
鐘塔の上。
人影が現れた。
黒い外套。
細い体。
仮面。
真壁の背筋が凍る。
「……アルゴ」
人影は笑った気がした。
距離が遠い。
顔も見えない。
なのに、“笑われた”と分かる。
アルゴは鐘へ手を触れる。
次の瞬間。
糸が、一斉に張った。
「っ!」
真壁が叫ぶ。
「来る!」
鐘が落ちた。
いや。
“落とされた”。
巨大な鐘が支えを失い、鐘塔内部を崩しながら落下する。
ララが動く。
「下がれ!!」
広場の人々が悲鳴を上げる。
真壁は鐘を見る。
巨大。
重い。
速い。
普通なら無理だ。
だが。
鐘と糸が見える。
どこが支えで。
どこがズレていて。
どこを変えれば軌道が逸れるか。
「ララさん!」
「何だ!」
「右側! 三本目の糸!」
ララが跳ぶ。
白銀の斬撃。
だが、糸そのものではない。
糸を支える鐘塔の金具。
そこだけを斬る。
ギン、と嫌な音。
鐘の落下軌道がズレる。
広場中央ではなく、横へ逸れる。
だがまだ危ない。
「まだ来る!」
真壁が叫ぶ。
ヴォルフが笑った。
「任せろ!」
初めてだった。
ヴォルフが真正面から動いた。
黒い外套が翻る。
黄金の瞳。
そして。
拳。
ヴォルフは落下する鐘へ拳を叩き込んだ。
――バギィッ!!
空気が割れた。
鐘が横へ吹き飛ぶ。
石畳へ激突。
轟音。
粉塵。
広場が揺れる。
だが、人のいる場所からは外れた。
静寂。
そして悲鳴。
混乱。
ララが叫ぶ。
「負傷者確認! 広場を封鎖しろ!」
真壁は鐘塔を見上げた。
アルゴ。
もういない。
ただ。
銀糸だけが揺れていた。
「……逃げた」
ヴォルフが舌打ちする。
「速ぇな」
ララは剣を握りしめていた。
「真壁」
「はい」
「今のは、お前が読まなければ間に合わなかった」
真壁は鐘を見る。
砕けた鐘。
広場。
逃げ遅れた人々。
泣いている子供。
震える商人。
そして、まだ揺れている銀糸。
「……でも」
真壁は低く言った。
「アルゴは、もっと嫌なこと考えてる」
ララが目を細める。
「分かるのか」
「はい」
真壁は糸を見つめる。
「これ、“壊す”ためだけじゃない」
「何だと?」
「読んでるんです」
「王都を?」
「人を」
ヴォルフの笑みが消える。
「……なるほどな」
真壁は寒気を覚えた。
アルゴは、王都を巨大な構造物として扱っている。
建物も。
鐘も。
道路も。
そして――人間も。
「俺たちの動きまで、読もうとしてる」




