第25話
真壁悠は、夢を見ていた。
四畳半だった。
薄暗い部屋。黄ばんだ天井。閉め切られたカーテン。積み上がったカップ麺の容器。畳のささくれ。古いエアコンの低い唸り。
そして、天井から垂れる蛍光灯の紐。
揺れている。
ゆら、ゆら、と。
真壁はいつものように、その揺れを見ていた。
――パツン。
拳が触れる。
止まる。
静かになる。
それだけ。
いつもの夢だった。
だが今日は違った。
紐の向こうに、人が立っていた。
銀髪。
赤い瞳。
ララ・バーンだった。
「……ララさん?」
ララは紐を見ている。
真壁ではなく、紐を。
「真壁」
「はい」
「これは、斬っていいのか」
真壁は答えられなかった。
ララの腰には剣がある。
だが、彼女は抜かない。
抜けない。
紐の揺れが変わる。
左右ではない。上下でもない。空間そのものが歪むように、ゆっくりと揺れ方が崩れていく。
真壁は顔をしかめた。
気持ち悪い。
嫌な揺れだ。
「真壁」
今度は別の声だった。
ヴォルフ。
気づけば、部屋の壁にもたれかかっている。
「なあ」
黄金の瞳が細くなる。
「もし、その紐を斬ったらどうなると思う?」
「……知らないです」
「知ってる顔してるぜ」
真壁は黙る。
知っていた。
いや、分かってしまった。
この紐は、ただの紐じゃない。
何かを支えている。
揺れを止めれば、別の何かが壊れる。
「ほら」
ヴォルフが笑う。
「読めてんじゃん」
その瞬間。
ララが剣を抜いた。
白銀の軌跡。
紐へ向かう斬撃。
真壁は叫んだ。
「駄目――」
斬撃が届く直前。
紐が、人間の首に変わった。
真壁は飛び起きた。
「――っ!!」
荒い呼吸。
冷や汗。
石造りの天井。
異世界。
夢だった。
「……最悪だ」
心臓がうるさい。
胸が気持ち悪い。
今までで一番嫌な夢だった。
コン、コン。
扉が叩かれる。
真壁は呻いた。
「……タイミング悪すぎる」
「起きているか」
ララの声。
「最悪な起き方しました」
「ならちょうどいい。こちらも少し最悪だ」
「嫌な一致」
扉が開く。
ララの表情は硬かった。
真壁はそれを見た瞬間、胃が沈んだ。
「……何かありました?」
「ああ」
「アルゴ系ですか」
「たぶんな」
真壁は布団を頭まで被りたくなった。
「今日は休みません?」
「難しい」
「ですよね」
ララは机に一枚の紙を置いた。
地図だった。
王都南区画。
その一角に赤い印がある。
「昨夜、商会の倉庫で事故が起きた」
「事故」
「倉庫の一部が崩落。三名負傷。一名が重体」
真壁は眉をひそめた。
「……死者は」
「まだいない」
まだ。
その言い方が嫌だった。
「原因は?」
「最初は老朽化と思われた。だが」
ララは小さな金属片を机へ置いた。
歯車の刻印。
アルゴ。
真壁は頭を抱えた。
「……またですか」
「現場の構造が妙だ」
「妙」
「崩落したのは南側の壁だけだ。だが荷重計算が合わない。普通なら中央から落ちる」
「支えを抜かれた」
「ああ。しかも」
ララは一瞬言葉を止めた。
「崩落直前、現場にいた人間の証言がある」
「何て?」
「“誰かが壁を斬った”」
真壁は顔を上げた。
「……斬った?」
「壁に剣痕が残っているらしい」
「騎士?」
「分からない」
「でも、それが原因で崩れた?」
「可能性がある」
真壁は嫌な夢を思い出した。
斬ってはいけないもの。
支えているもの。
見えているのに、斬れば終わるもの。
「……行きたくない」
「分かる」
「ララさんも嫌ですよね」
「ああ」
珍しく即答だった。
「だが、見に行く必要がある」
「……はい」
◇
現場は王都南区画の商業倉庫街だった。
朝だというのに空気が重い。
人が集まり、騎士が規制線を張り、商人たちが不安そうにざわついている。
真壁はその時点で帰りたかった。
「うるさい」
「なるべく近づかなくていい」
ララが少し前を歩く。
ヴォルフもいる。
なぜいるのかは誰も聞かなかった。聞いても意味がないからだ。
「いやー」
ヴォルフは周囲を見回した。
「派手にやったな」
「嬉しそうに言わないでください」
「嬉しくはねえよ。面白そうなだけ」
「最低」
崩落した倉庫は、半分だけが潰れていた。
石造りの壁。
木製の梁。
積み上がった木箱。
その南側だけが、不自然に崩れている。
真壁は入口で止まった。
「……変だ」
「何が見える」
ララが聞く。
真壁はすぐには答えなかった。
見る。
壊れ方。
崩れ方。
石の流れ。
梁の折れ方。
粉塵の残り方。
そして――斬撃。
「あ」
真壁は壁へ近づいた。
そこに、細い線がある。
剣痕。
一見すると浅い。
だが、違う。
「……これ、斬ったんじゃない」
「違うのか」
「ほどいてる」
ララの目が細くなる。
「真壁と同じ?」
「いや、違う。俺よりずっと雑です。でも、似てる」
ヴォルフが口笛を吹いた。
「へえ」
真壁は剣痕を見つめた。
「この壁、最初からここだけ負荷が集中してたんです。たぶん荷重を逃がすための継ぎ目があった。でも、ここを切ったせいで支えが消えた」
「だから南側だけ落ちた」
「はい」
ララは崩れた壁を見る。
「斬るべきではない場所を斬ったか」
「……たぶん、分かっててやってます」
「アルゴ」
「はい」
真壁は嫌そうに顔をしかめた。
「見えてるんですよ。どこを壊せば、全体が崩れるか。でも、それを普通にやる」
「普通ではないだろ」
「俺の中では最悪って意味です」
その時。
奥から怒鳴り声が聞こえた。
「まだ中に人がいるんだぞ!」
騎士と商人が揉めていた。
「危険です! これ以上入れば二次崩落の可能性が!」
「だが帳簿室に息子が!」
真壁の胃が沈む。
嫌な予感。
非常に嫌な流れ。
ララがすぐ動いた。
「状況は」
騎士が敬礼する。
「ララ隊長。内部に取り残された可能性のある少年が一名。ただし通路が不安定です」
「救助班は」
「中央通路までは進みましたが、奥で構造が歪み――」
その瞬間。
ギギ、と嫌な音が響いた。
真壁の顔色が変わる。
「下がって!」
ララが叫ぶ。
騎士たちが振り返る。
次の瞬間、倉庫内部の梁が一つ沈んだ。
崩れる。
真壁には分かった。
今、支えが移った。
中央。
いや、違う。
「左じゃない……右!」
ララが即座に動いた。
右側へ飛ぶ。
剣を抜く。
だが、斬らない。
真壁は目を見開いた。
ララは剣を床へ突き刺した。
石畳へ。
梁そのものではない。
荷重が逃げる場所へ。
ガン、と重い音。
剣が床へ食い込み、沈みかけた木材を支える。
崩落が止まった。
一瞬だけ。
「今だ!」
ララが叫ぶ。
騎士たちが内部へ突入する。
真壁は呆然としていた。
「……今」
ヴォルフが笑う。
「見たか?」
「斬らなかった」
「だな」
ララは剣を支点として使った。
壊すのではなく、支えるために。
昨日の訓練。
斬る前に見る。
支えを読む。
その結果だった。
ララは歯を食いしばりながら剣を押さえている。
「真壁!」
「は、はい!」
「次に崩れる場所を読め!」
「嫌です!」
「読め!」
「うぅ……!」
真壁は半泣きで内部を見る。
崩れ方。
軋み。
木材。
荷重。
右。
左。
違う。
奥。
「奥の梁!」
「どっちだ!」
「上じゃなくて下! 下の支え!」
ララが動く。
今度は斬った。
だが切断ではない。
剣先で下の木材を弾き、荷重の向きを変える。
ギギギ、と構造が鳴る。
だが崩れない。
騎士たちが少年を抱えて戻ってきた。
「救助完了!」
その瞬間。
ララが叫ぶ。
「全員下がれ!!」
全員が飛び退く。
次の瞬間、倉庫中央部が完全に崩落した。
轟音。
粉塵。
石片。
木材。
空気が震える。
真壁は反射的にしゃがみ込んだ。
静寂。
やがて、誰かが呟く。
「……助かった」
少年は無事だった。
ララも無事。
騎士たちもいる。
真壁はその場にへたり込んだ。
「寿命縮んだ……」
ヴォルフが笑う。
「お前、毎回縮んでんな」
「もう残ってないかもしれない」
ララがゆっくり剣を抜く。
刃を見つめる。
その表情は、少しだけ複雑だった。
「……今、迷った」
真壁が顔を上げる。
「迷った?」
「ああ」
ララは崩れた倉庫を見る。
「以前の私なら、最初の梁を斬っていた」
「……」
「だが、それをやれば全体が落ちていた」
真壁は黙る。
ララは続けた。
「お前の言う通りだった。斬る前に、何を支えているか見なければならない」
ヴォルフが肩をすくめる。
「成長してんじゃん、騎士さん」
「黙れ」
「怖」
だが、その時だった。
真壁の視線が、崩落した瓦礫の奥で止まる。
「……あれ?」
「どうした」
ララが振り返る。
瓦礫の隙間。
そこに、何かがある。
細い線。
銀色。
真壁の顔色が変わった。
「……紐?」
ララが目を細める。
「違うな」
「え?」
「糸だ」
蜘蛛の糸みたいな、極細の銀線。
瓦礫の奥から奥へ。
まるで構造全体を繋ぐように張られている。
真壁の背筋が冷えた。
「……これ、最初から?」
「いや」
ヴォルフの笑みが消える。
「後付けだ」
ララは剣を構えた。
だが、動かない。
真壁の夢が蘇る。
斬ってはいけないもの。
支えている糸。
「待ってください!」
ララの動きが止まる。
「……真壁?」
「それ、切ったら駄目かも」
「理由は」
「分からない。でも嫌です。すごく嫌な感じする」
ヴォルフも珍しく真顔だった。
「俺も同意見」
「ヴォルフも?」
「ああ。これ、単なる罠じゃねえ」
ララは糸を見る。
揺れている。
ほんのわずかに。
真壁は気持ち悪くなった。
あの紐と似ている。
戻る場所。
中心。
支え。
「……誰かが繋いでる」
真壁が呟く。
「この倉庫だけじゃない。たぶん、別の場所とも」
ララの目が鋭くなる。
「王都全体か」
「分かりません。でも……これ、切った瞬間に別の何かが崩れる感じがする」
ヴォルフが低く笑った。
「はは。なるほどな」
「何ですか」
「アルゴの野郎、“斬らせる”つもりだ」
ララが眉を寄せる。
「どういう意味だ」
「騎士は問題を見たら斬る。真壁はズレを見たらほどく。だから、その習性そのものを罠にする」
真壁は息を呑んだ。
「……じゃあ、この糸は」
「お前らが触るの待ってんだよ」
空気が重くなる。
ララは剣を下ろした。
「……切らない」
「はい」
真壁は即答した。
「絶対切らない方がいいです」
「ならどうする」
「……見ます」
「見るだけか」
「今は」
真壁は糸を見つめる。
揺れ。
張力。
繋がり。
どこへ向かっているのか。
どこを支えているのか。
それを読む必要がある。
だが、読むということは。
アルゴの視界へ近づくということでもあった。
「帰りたい……」
真壁は本気で呟いた。
ヴォルフが笑う。
「無理そうだな」
ララは静かに糸を見つめていた。
斬るべきではないもの。
支えているもの。
そして、誰かが意図的に張り巡らせた構造。
これはもう、単なる破壊工作ではない。
王都そのものが、一つの巨大な仕掛けへ変わり始めていた。




