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第24話

 翌朝、真壁悠は珍しく自分から目を覚ました。


 理由は単純だった。腹が減ったからだ。


 悪夢でも、金属音でも、窓の外にぶら下がったヴォルフでもない。ただ腹が減って目が覚める。これはかなり健全なのではないか、と真壁は寝台の上でしばらく考えた。人間らしい。少なくとも、街の壊れ方が夢に出てくるよりはずっとましだ。


 もっとも、目を開けた先にあったのは相変わらず石造りの天井で、四畳半の黄ばんだ天井ではなかった。


「……帰りたい」


 反射的に呟く。


 だがその声には、以前ほどの絶望はなかった。帰りたいという気持ちは本物だ。今でも前の部屋に戻れるなら戻りたい。ネットスーパーの配達日を確認し、カップ麺の在庫を数え、蛍光灯の紐を打って一日を潰す生活に、未練がないわけではない。


 それでも、この部屋の音も少しずつ覚えてきた。


 廊下を歩く騎士の足音。朝の食堂から漂うスープの匂い。遠くの訓練場で木剣がぶつかる音。窓枠の小さな軋み。ララ・バーンが扉を叩く時の、規則正しいノック。


 知らない音が、少しずつ知っている音になっていく。


 それが嬉しいのか、怖いのかはまだ分からない。


 コン、コン。


 ちょうど考えていた音がした。


「起きているか」


 ララの声。


「腹で起きました」


「健康的だな」


「異世界に来て初めて健康的な理由で起きた気がします」


「なら良いことだ」


 扉が開き、ララが盆を持って入ってきた。朝食。パン、スープ、肉。肉は一切れ半。二切れではない。昨日より少し減っている。


 真壁は無言で肉を見た。


「……減りました?」


「昨日は特別だ」


「世知辛い」


「今日は訓練がある」


「じゃあ増やすべきでは?」


「訓練後に交渉する」


「労働前払い制度はないんですか」


「ない」


 真壁は肩を落とした。


 だが食べる。空腹には勝てない。パンをスープに浸し、柔らかくして口に運ぶ。最近、硬いパンへの対処法も覚えてきた。人間は環境に適応する。したくなくてもする。


 食事の途中、真壁はララの服装を見た。


 訓練服だった。


 軽装だが、動きやすい。腰には剣。外套はない。完全に現場ではない。だが休みでもない。つまり訓練である。


「……今日は何の訓練ですか」


「見る訓練だ」


「嫌な言葉ですね」


「お前ではない」


「え?」


 真壁は顔を上げた。


 ララは椅子に座り、まっすぐ真壁を見た。


「私がやる」


 真壁は少しだけ固まった。


「ララさんが?」


「ああ」


「俺じゃなくて?」


「お前にも協力してもらう」


「結局俺も働くじゃないですか」


「教えるだけだ」


「教えるって、俺がですか」


「ああ」


 真壁は本気で困った。


 教える。


 自分が。


 この騎士団長に。


 何を。


「……いや、無理ですよ。俺、人に何か教えたことないです」


「構造の見方だ」


「余計無理です。俺もよく分かってません」


「分かっていないなら、分かっている範囲でいい」


「そういうの一番困るやつです」


 ララは机の上に小さな布袋を置いた。中から取り出したのは、木片、金属の輪、細い紐、小さな歯車、曲がった釘だった。真壁が以前の訓練で見たようなものばかりだ。


「昨日、旧資材庫で私は真壁の見方を少し使った」


「聞きました」


「通気口の留め具、金属粉の流れ、扉へ向かう経路。完全ではないが、見えた」


「すごいですね」


「足りない」


 ララは即答した。


「もしあれがもっと複雑な仕掛けだったら、私は間に合わなかった可能性がある」


「でもララさん、ちゃんと防いだんですよね」


「結果としてはな」


「ならいいじゃないですか」


「結果だけで判断するな、とお前が言った」


 真壁は言葉に詰まった。


「……俺の言葉を俺に返すのやめません?」


「有用だからな」


「有用なのが嫌なんです」


 ララは小さく息を吐いた。


「真壁。私は剣で斬ることならできる。敵を止めることも、前に出ることも、守ることもできる。だが、斬る前に何が壊れるかを読む力は足りない」


「……」


「今後、アルゴが私にも仕掛けてくるなら、私はお前の横に立つために学ぶ必要がある」


 横に立つ。


 その言葉が、少しだけ引っかかった。


 守るでもない。監視するでもない。利用するでもない。横に立つ。


 真壁はスープの中の豆を見つめた。


「……俺、教え方下手ですよ」


「構わない」


「たぶん擬音多いですよ」


「構わない」


「気持ち悪いとか、うるさいとか、そういう説明になりますよ」


「それでいい」


「本当に?」


「ああ」


 ララの目は真剣だった。


 真壁は深く息を吐いた。


「じゃあ、ちょっとだけ」


「助かる」


「報酬は」


「肉を増やす」


「やります」


 ララが少しだけ笑った。


    ◇


 訓練場所は、騎士団宿舎裏の小さな整備場だった。


 普段は訓練用の木剣や盾、簡易防具を修理する場所らしい。広すぎず、騒がしすぎず、人も少ない。真壁にとっては比較的ましな場所だった。もちろん、比較的であって、好きな場所ではない。壁には工具が並び、作業台には金属片や木材が置かれている。見ようと思えば気になるものだらけだった。


 ララは作業台の前に立った。


 真壁はその向かいに座った。立っていると疲れるし、教える側らしい姿勢を取ると責任が重いので、座ることにした。


「まず何をする」


 ララが聞く。


「見ないことです」


 真壁は即答した。


 ララが少し目を細める。


「見る訓練ではないのか」


「見る前に、見ない練習です」


「どういうことだ」


「全部見たら死にます。頭が」


 真壁は作業台の上を指差した。


「ここに木片と金属の輪と紐と歯車と釘がありますよね」


「ああ」


「全部ちゃんと見ようとすると、それぞれ気になるところが出ます。木片のささくれ、金属の継ぎ目、紐の揺れ、歯車の欠け、釘の曲がり。全部同時に入ってくると、うるさいです」


「……うるさい」


「はい。視界がうるさい」


 ララは作業台を見る。


 彼女には、ただの訓練用素材に見えているのだろう。少なくとも、真壁のように顔をしかめるほどではない。


「だから最初は、見ない場所を決めます」


「どこを見るのではなく、どこを見ないか」


「はい」


 真壁は木片を一つ取ろうとして、やめた。触るとささくれを取りたくなる。代わりに指差すだけにする。


「例えばこの木片なら、ささくれは見ない。見たら取りたくなるので。見るのは全体の傾きだけ」


「傾き」


「はい。壊れてる場所そのものじゃなくて、壊れたせいで全体がどうズレてるかを見る感じです」


 ララは木片を持ち上げた。


 視線が鋭くなる。


「ささくれではなく、全体の傾き」


「そうです」


「……少し右へ重い」


「たぶんそれです」


「たぶん?」


「俺も感覚なので」


「曖昧だな」


「そうなんですよ。俺、曖昧に嫌なんです」


 ララは少し考えるように木片を回した。


「では、壊れた一点ではなく、周囲がどう無理をしているかを見るのか」


「それです。俺より説明うまいですね」


「お前の説明を整理しただけだ」


「じゃあ今後それでお願いします」


 次に金属の輪。


 これは真壁にとってかなり苦手だった。継ぎ目がある。見れば外したくなる。しかも金属の輪というものは、閉じているようで閉じていない。継ぎ目に小さな歪みがあるだけで、全体が気持ち悪くなる。


「これは?」


 ララが輪を持つ。


「継ぎ目を見ない」


「また見ないのか」


「見たら終わります」


「では何を見る」


「音です」


「音?」


「軽く叩いてください」


 ララは指で金属の輪を弾いた。


 チン、と小さな音が鳴る。


 真壁は顔をしかめた。


「気持ち悪い」


「どこがだ」


「音の終わりが引っかかってます」


 ララはもう一度弾く。


 真壁は耳を押さえたくなったが我慢した。


「……分からない」


「ですよね」


「だが、完全に澄んでいないことは分かる」


「それです」


 真壁は少しだけ身を乗り出す。


「見ると継ぎ目に引っ張られる。でも音なら、全体のズレが分かる時があります。たぶん。鐘とかそうでした」


「鐘塔か」


「はい。鐘は嫌でした。音がでかいので」


「それはそうだろうな」


 ララは輪を耳元で軽く鳴らした。


「終わり際を見る……いや、聞く」


「はい。鳴った瞬間じゃなくて、消えるところです」


「消えるところに歪みが残る」


「たぶん」


「なるほど」


 ララは真剣だった。


 その真剣さが、少しだけ真壁には怖かった。自分が適当に「気持ち悪い」と言ってきた感覚を、ララは本気で拾い、言葉にしようとしている。自分の中にしかなかったものが、他人の中へ少しずつ移っていくような奇妙な感じがした。


「次は紐か」


 ララが細い紐を手に取る。


 真壁は顔をしかめた。


「紐は……俺の専門みたいで嫌ですね」


「二十年やっていたのだろう」


「言い方がつらい」


「事実だ」


「事実が一番つらい時ありますよね」


 ララは紐を指先から垂らした。


 微かに揺れる。


 真壁の右手が、反射的に動きかけた。


「……」


 左手で右手を押さえる。


 ララはすぐ気づいた。


「まだ動くか」


「動きますね」


「止められるようにはなっている」


「左手で物理的に」


「それも制御だ」


 真壁は紐から視線を外しながら言った。


「紐は、先端を追うと負けます」


「負ける?」


「はい。先端を見てから動くと遅い。だから、先端じゃなくて、戻ってくる場所を見る」


「戻ってくる場所」


「揺れてるものって、どこかへ戻ろうとするんです。完全に自由に動いてるわけじゃない。たぶん、重さとか、空気とか、支点とかで、戻りたい場所がある」


 自分で言いながら、真壁は少しだけ驚いていた。


 今まで、こんなふうに言葉にしたことはなかった。紐は紐だった。揺れる。止める。ただそれだけだった。


 だがララに説明しようとすると、長年の感覚が少しずつ形を持っていく。


「だから、揺れそのものを見るんじゃなくて、戻る先を見る」


 ララは紐を揺らす。


 少しだけ目を細める。


「……中心か」


「はい」


「今ある位置ではなく、戻ろうとする中心」


「それです」


 ララはしばらく紐を見ていた。


 右手が剣の柄へ伸びかける。


 そして、止まった。


 真壁は思わず言った。


「今、斬ろうとしました?」


「少し」


「紐を?」


「中心を取りたくなった」


「騎士怖い」


 ララは少し気まずそうに紐を置いた。


「私は、見えたものを斬る癖がある」


「でしょうね」


「お前は、見えたものをほどく癖がある」


「やめたいです」


「似ているな」


「嫌です」


 即答した。


 だが、少しだけ分かった。


 ララも衝動を持っている。敵を見れば斬る。危険を見れば前へ出る。真壁がズレを見て手を出してしまうのと同じように、ララも脅威を見れば剣が動く。


 だからこそ、見ないことが必要なのかもしれない。


 真壁だけではなく、ララにも。


「ララさん」


「何だ」


「たぶん、斬る前に一回止まるのが大事です」


「戦闘中に止まれば死ぬ」


「そうなんですけど、止まるって完全停止じゃなくて……えっと、なんだろう」


 真壁は言葉を探した。


「一拍置くんじゃなくて、確認を挟む感じです」


「確認」


「その敵を斬ったら何が動くか。支えてるものがあるか。繋がってるものがあるか。剣を入れた先に、別の何かが崩れないか」


 ララは黙った。


「全部見ろって意味じゃないです。全部見たら死にます。でも、一番大きく動きそうなところだけ見る」


「一番大きく動きそうなところ」


「はい。そこを間違えると、直したつもりで別の場所が壊れます」


 昨日の噴水のように。


 ララは真剣な顔で頷いた。


「分かった」


「本当に分かりました?」


「半分は」


「正直」


「残り半分は、実戦でないと分からない」


「嫌な予感する言い方やめてください」


 その時、整備場の入口から若い騎士が顔を出した。


「ララ様」


 ララが振り返る。


「何だ」


「ギルド設備管理部門より連絡です。旧資材庫の調査で見つかった部品棚を移動させようとしたところ、棚が崩れかけているとのことです。中に閉じ込められた職員が一名」


 真壁は顔を覆った。


「来た……」


 ララは立ち上がる。


「怪我は」


「今のところなし。ただし、棚が動けば部品が崩れる恐れがあると」


 ララは真壁を見た。


 真壁は即座に言った。


「嫌です」


「まだ頼んでいない」


「でも頼む顔です」


「……現場は旧資材庫だ」


「聞きました」


「閉じ込められた職員がいる」


「それも聞きました」


「お前の見方が必要かもしれない」


「ずるい」


「事実だ」


 真壁は深く息を吐いた。


 今の今まで、ララに見る訓練をしていた。斬る前に見る。支えを読む。動かす前に何が崩れるか確認する。まさにその直後に、棚が崩れかけて人が閉じ込められた。


 物語か。


 いや、現実だ。


 現実の方が都合が悪い。


「……行きます。ただし俺は触りません」


「分かった」


「本当に触りません」


「可能な限り」


「出た。危険ワード」


 ララは少しだけ申し訳なさそうに目を伏せた。


「危険なら撤退する」


「人がいるなら撤退しづらいじゃないですか」


「だから、慎重に行く」


 真壁は立ち上がった。


 足が重い。


 さっきまでは訓練だった。理屈だった。木片や紐や金属の輪だった。だが、これからは現場だ。部品棚。閉じ込められた職員。崩れかけ。おそらくアルゴの仕掛けか、少なくともそれに近いもの。


 行きたくない。


 本当に行きたくない。


 だが、ララが学ぶなら。


 自分が少しだけ教えられるなら。


 触らずに済むかもしれない。


 そう思ってしまった。


    ◇


 旧資材庫の内部は、真壁が想像していたよりもずっと埃っぽかった。


 石造りの建物の中に、古い棚が並んでいる。金属部品、木箱、巻かれた鎖、古い滑車、錆びた工具、用途不明の魔導具らしきもの。全部が古い。全部が重い。そして、全部が少しずつズレている。


「……視界がうるさい」


 真壁は入口で立ち止まった。


 ララがすぐ横に立つ。


「どこを見る」


「見ないところを決めます」


 真壁は自分に言い聞かせるように言った。


「棚全体は見ない。部品も見ない。今見るのは、崩れそうな棚と、人がいる場所だけ」


「分かった」


 ララは真壁の言葉を繰り返すように頷いた。


 現場の職員が青ざめた顔で案内する。資材庫の奥、部品棚の一つが斜めに傾いていた。棚は背が高く、金属製の枠に木板がはめ込まれている。上段には古い歯車や金属管、下段には木箱が積まれている。棚の向こう側から、かすかに声が聞こえた。


「誰か……! 助けてくれ!」


「落ち着け!」


 ララが声をかける。


「今助ける。動くな」


「動けません!」


 職員の声は震えていた。


 真壁は棚を見た。


 見たくない。


 だが見る。


 傾き。支点。荷重。床の歪み。棚の足元。奥の壁。上段の金属部品。どれが動くと、何が落ちるか。


 気持ち悪い。


 だが、見える。


「……触らない方がいいです」


 真壁が言った。


「どこもか」


「棚を戻そうとすると上段が落ちます。上段を押さえると下の木箱が潰れます。木箱を抜くと足元が滑る」


 ララが棚を見る。


 眉を寄せる。


「では、支えは」


「右奥の壁。そこに少し預けてる。だから棚が完全には倒れてない」


「右奥」


 ララは棚の右奥を見る。


 真壁は驚いた。


 ララの視線が、以前より少し遅い。いや、遅いというより、すぐに剣へ行かない。対象を斬るのではなく、まず支えを探している。


「……今、分かりました?」


「少しだけ。棚が倒れているように見えるが、右奥だけが壁に噛んでいる」


「そうです」


「なら、そこを外すと倒れる」


「はい」


「逆に、そこを固定すれば時間が稼げる」


「たぶん」


 ララは騎士へ指示した。


「右奥を支える。剣を使うな。木材を当てろ。押すのではなく、受ける」


「はっ!」


 騎士たちが動く。真壁は思わず身を固くした。木材が棚へ触れる。ギシ、と嫌な音。だが、崩れない。支えが増える。棚の揺れが少し収まる。


「……いける」


 真壁が呟く。


 ララは続ける。


「次は」


「人を出す道を作ります。でも棚は動かさない。隙間を広げるんじゃなくて、落ちるものを減らす」


「落ちるもの」


「上段の左側。あの歯車、最初に落ちます」


 ララは上段を見る。


「歯車を取るか」


「駄目です。取ると隣の管が転がる」


「なら」


「受けるだけ」


 ララは頷いた。


「騎士一名、布を広げて下で受けろ。直接触るな。落ちる前提で待つ」


「はっ!」


 指示が飛ぶ。


 真壁は自分が触らずに現場が動いていくのを見ていた。変な感覚だった。自分の頭の中に見える崩れ方を言葉にし、ララがそれを整理し、騎士たちが動く。真壁が直接ほどかなくても、棚の崩壊が少しずつ制御されていく。


「……ララさん」


「何だ」


「俺、触らなくていいかも」


「そのために来た」


 ララの返事は短かった。


 だが、力強かった。


 棚の向こうの職員を救出するには、下段の木箱を一つずつ抜く必要があった。だが順番を間違えれば棚が落ちる。真壁は順番を読む。ララはそれを騎士たちへ伝える。


「一番下の右。次に中央じゃなくて左。中央はまだ触らない」


「中央が支えているのか」


「支えてるというか、引っかかってる。最後まで残す」


「分かった」


 木箱が抜かれる。


 棚が小さく鳴る。


 真壁の胃が縮む。


 だが崩れない。


「次は」


「上の小さい箱。軽そうだけど、中で片寄ってる。騎士さん、開けないでそのまま横へ」


「了解!」


 作業が進む。


 ララの動きは、いつもより慎重だった。普段なら前へ出て力で押さえる場面でも、今は一度見る。真壁の言葉を待つ。そして、自分でも支えと流れを探す。


 それが分かった。


 ララが学んでいる。


 真壁の見ている世界の端を、本当に掴もうとしている。


「真壁」


「はい」


「最後の中央箱は、まだか」


「まだです。人が出る瞬間まで残します」


「なぜ」


「それを抜くと、棚が前に倒れます。でも、人が出るにはそこを抜く必要がある。だから……」


 真壁は棚の上を見る。


「抜く瞬間に、上の歯車を落とす」


 ララが振り返る。


「落とす?」


「はい。歯車が落ちると一瞬、棚の重さが右へ逃げる。その間に中央箱を抜く」


「落下を利用するのか」


「嫌ですけど、それしかないです」


 ララは少しだけ目を閉じた。


「分かった」


 真壁は驚いた。


「本当に?」


「お前の読みを信じる」


 その言葉が、真壁の胸に重く落ちた。


 信じる。


 失敗したら、棚が崩れる。閉じ込められた職員も、近くの騎士も危ない。真壁は戦わない。触らない。ただ読むだけだ。それなのに、ララは信じると言った。


「……責任重いんですけど」


「一人ではない」


「でも」


「私も見る」


 ララは棚を見た。


「歯車が落ちる。重さが右へ逃げる。その瞬間、中央を抜く。違うか」


「……合ってます」


「なら、やる」


 ララは騎士たちへ配置を指示した。


「歯車を受ける者、中央箱を抜く者、職員を引き出す者。合図は私が出す。真壁、合図のタイミングを言え」


「はい」


 真壁は棚を見た。


 歯車。揺れ。重さ。引っかかり。


 心臓がうるさい。


 でも、視界は妙に静かだった。見るものを絞ったからだ。全部ではない。今見るのは一つだけ。歯車が落ちる瞬間。その一瞬だけ。


「……今じゃない」


 棚が鳴る。


「まだ」


 歯車がわずかに動く。


「まだ」


 ララの手が上がる。


 騎士たちが息を止める。


 歯車の下の小さな支えが、限界を迎える。


「今!」


「抜け!」


 ララの声が重なる。


 歯車が落ちる。


 布が受ける。


 棚の重心が右へ逃げる。


 中央箱が抜かれる。


 隙間が開く。


 閉じ込められていた職員の腕が出る。


 ララが踏み込み、職員の身体を引きずり出した。


 次の瞬間、棚が前へ倒れかける。


「下がれ!」


 ララが職員を抱えて飛ぶ。


 騎士たちも退く。


 棚は大きく傾き、支えの木材にぶつかって止まった。完全には倒れない。真壁が読んだ通り、右奥の支えが最後に耐えた。


 静寂。


 数秒後、職員が震えながら息を吐いた。


「た、助かった……」


 真壁はその場に座り込んだ。


「……よかった」


 本音だった。


 触らなかった。


 ほどかなかった。


 だが助かった。


 ララが職員を騎士に預け、真壁の方へ歩いてくる。


「よく読んだ」


「ララさんも、よく見ました」


 言ってから、真壁は少し照れた。


 褒め返す形になったからだ。


 ララも一瞬だけ目を瞬かせた。


「……そうか」


「はい。俺が言うのも変ですけど、さっきララさん、ちゃんと見てました」


「まだお前ほどではない」


「お前ほど見えたら人生終わりますよ」


「それは困るな」


「本当に困ります」


 ララは少しだけ笑った。


 その時、棚の裏から小さな金属音がした。


 カン。


 真壁の顔色が変わる。


 ララも即座に剣へ手を伸ばす。


「まだ何かある」


 真壁は棚の裏を見た。


 部品棚の奥、壁際。そこに小さな金属片が挟まっていた。


 ズレた歯車の刻印。


 そして、金属紙。


 真壁は嫌そうに顔をしかめる。


「……また手紙」


 ララが布越しに拾う。


 刻まれた文字を読む。


『彼女は少し読んだ。次は、斬るべきものを間違えるな』


 ララの表情が硬くなった。


 真壁は金属紙を見つめる。


「……ララさん宛てですね」


「ああ」


「俺だけじゃなくなった」


「そうだな」


 ヴォルフの声が、棚の上から降ってきた。


「合格通知じゃん」


 真壁は叫んだ。


「どこにいたんですか!」


「棚の上」


「危ないでしょ!」


「だから見てた」


 ヴォルフは笑って飛び降りた。


「いやー、良かったぜ。ほどき屋は読んで、騎士さんは見て、誰も直接壊さなかった。アルゴが喜びそうだ」


「喜ばせたくないです」


 真壁は低く言った。


 ララも同じ顔をしていた。


「斬るべきものを間違えるな、か」


 ララが呟く。


 ヴォルフは肩をすくめる。


「次はたぶん、剣で選ばせる気だな」


「私を試すつもりか」


「だろうな。真壁に読ませて、ララに斬らせる。お前らの連携を見てる」


 真壁は胃の奥が重くなるのを感じた。


 嫌な方向へ進んでいる。


 自分だけが見られているのも嫌だった。だが、ララまで巻き込まれるのは、もっと嫌だった。


「……ララさん」


「何だ」


「俺のせいで」


「違う」


 ララは即座に遮った。


「これはアルゴの仕掛けだ。お前のせいではない」


「でも」


「違う」


 二度目は、さらに強かった。


 真壁は言葉を失った。


 ララは真壁を見て、静かに言った。


「私が学ぶと決めた。お前の横に立つために。だから、これは私の選択だ」


 真壁は何も言えなかった。


 横に立つ。


 またその言葉。


 今度は、前よりはっきり響いた。


 ヴォルフがにやにやしそうになって、ララに睨まれて口を閉じた。


 珍しく空気を読んだらしい。


 資材庫の中には、まだ埃と古い鉄の匂いが残っている。救出された職員は無事。棚は崩れず、部品も大きく破損していない。作業としては成功だった。


 だが、真壁には分かる。


 次の問題は、もう始まっている。


 斬るべきものを間違えるな。


 それはララへの挑発であり、真壁への警告でもある。


 見るだけでは足りない。


 次は、判断する。


 何を斬り、何を斬らないか。


 それは真壁が一番苦手なことだった。


 そして、ララがこれから学ぼうとしていることでもあった。


「……帰りたい」


 真壁は呟いた。


 ララは金属紙を握りしめたまま、静かに頷いた。


「今日は帰る」


「本当に?」


「ああ」


 ヴォルフが笑う。


「明日は?」


 真壁とララの声が重なった。


「来るな」


 資材庫の埃っぽい空気の中で、その声だけがやけに綺麗に揃った。

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