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第23話

 翌朝、真壁悠は机の上に広げられた図面を見て、深刻な顔で言った。


「……これ、俺の部屋に置いていい量じゃないですよね」


 机には紙が積まれていた。中央広場の噴水機構、旧祝祭備品倉庫、南街区排水路、東市場の昇降機、旧配送管制所、騎士団宿舎地下蒸気管、北門見張り塔。昨日までに関わった設備の図面と報告書、さらに追加で確認が必要になった関連施設の簡易図が重ねられている。紙の端にはギルド設備管理部門の印があり、いくつかには赤い付箋のようなものが挟まっていた。


 真壁は朝食の肉を食べ終えたばかりだった。食後に茶を飲み、今日は何も起こらなければいいなと、かなり控えめな希望を抱いた瞬間、ララ・バーンがこれを持って部屋に来た。


 その時点で、希望は砕けていた。


「部屋に置き続けるわけではない」


 ララは淡々と言った。


「確認が終われば回収する」


「確認がある時点で休みじゃないんですよ」


「今日は現場には行かない」


「それ、最近の免罪符みたいになってますけど、図面見るのも普通に疲れますからね」


「分かっている」


「分かってます?」


「ああ。だから短時間で切る」


 そう言いながら、ララは机の横に椅子を置いた。座るつもりらしい。真壁は嫌な予感を覚えた。ララが立ったままなら報告で終わることもある。座った場合、話は長くなる。最近の経験で、それくらいは分かるようになっていた。


「……どれくらいですか」


「一刻」


「長い」


「半刻」


「まだ長いです」


「では、お前が限界と言ったら止める」


「本当ですか」


「本当だ」


 真壁は疑いの目でララを見た。ララは視線を逸らさない。嘘は言っていない顔だ。最近、真壁はララの「本当」と「努力する」と「可能な限り」の違いが少し分かるようになっていた。「本当」はかなり信用できる。「努力する」は怪しい。「可能な限り」はほぼ危険信号である。


「……じゃあ、やりますけど」


「助かる」


「報酬は」


「出る」


「なら、少しだけ」


 自分で言っていて、真壁は悲しくなった。金で動いている。完全に。だが、金は必要だ。食事にも宿にも、いつか自分の部屋を確保するにも、金がいる。働きたくないならなおさら金がいる。その矛盾を抱えたまま、真壁は図面の一枚を手に取った。


 最初は北門周辺の古い警報線だった。


 見張り塔の鐘が暴走した件を受け、騎士団は北門周辺に残る古い警報線を確認していた。魔導通信のような大層なものではなく、複数の塔と小屋を細い金属線で繋ぎ、異常時に振動を伝える仕組みらしい。真壁から見ると、嫌な予感しかしない設備だった。細い線、振動、古い接続。全部、苦手な言葉である。


「これは……まだ大丈夫そうです」


 真壁は図面を見ながら言った。


「ただ、ここ。北西の小屋へ伸びる線が一本だけ遠回りしてますよね」


「そうだな。昔の増築で経路が変わっている」


「たぶん、ここが緩みます。今すぐじゃないですけど、強い風か鐘の振動が入ったら、別の線に巻きつく」


「危険度は」


「低いです。人が死ぬ感じではない。うるさくなる感じ」


「記録しておく」


 ララは紙に書き込んだ。


 真壁はその手元を見て、少しだけ不思議な気分になった。ララの字は整っている。無駄がない。線の力の入り方まで安定している。剣だけでなく、文字にも性格が出るのかもしれない。


「何だ」


 ララが気づいた。


「いや、字も静かだなと思って」


「字が静か?」


「はい。見てて疲れないです」


 ララは一瞬だけ止まり、わずかに目を伏せた。


「……そうか」


「褒めてます。一応」


「一応か」


「かなり」


「なら受け取っておく」


 耳の先が少し赤くなった。真壁は気づいたが、言わなかった。言えばたぶん空気が変になる。そういうものは、見えても触らない方がいい。これも直さない修理の一種かもしれない。いや、違うかもしれない。


 次の図面は西倉庫街の荷車整備場だった。市場の昇降機の件で、荷重を扱う設備が再調査されているらしい。真壁は図面を見た瞬間、顔をしかめた。


「これは嫌です」


「危険か」


「危険というより、雑です。車輪止めの位置が全部ずれてる。たぶん誰かが仕掛けたんじゃなくて、昔から適当に使ってるだけです」


「事故の可能性は」


「あります。でも、普通に整備不良ですね。犯人の匂いはしないです」


「匂いが分かるのか」


「比喩です。いや、でも分かる気はします」


 真壁は自分で言って嫌になった。


 最近、仕掛けの「気持ち悪さ」に種類があることが分かってきている。自然な老朽化、使いすぎによる歪み、雑な修繕、そして針工師アルゴと思われる何者かの意図的なズレ。それぞれ嫌さが違う。自然に壊れかけたものは、疲れている感じがする。雑な整備は怒られていない怠慢のような感じがする。だがアルゴの仕掛けは違う。こちらの視線を待っている。見つけろ、と言っている。


「……嫌な分類能力がついてきた」


「有用だ」


「有用なのが嫌なんです」


 ララはまた記録した。


 三枚目、四枚目、五枚目。真壁は順番に図面を見た。危険なものは少ない。ほとんどは普通の老朽化や整備不足だった。だがそれでも、見れば気になる。全部直したいわけではない。むしろ直したくない。だが、どこが悪いのか分かってしまうと、頭の中に小さな引っかかりが残る。


 それが積み重なっていくと、疲れる。


 真壁は六枚目の図面を手に取ったところで、目を閉じた。


「限界です」


 ララは即座に筆を置いた。


「止める」


 本当に止めた。


 真壁は少し驚いた。


「……本当に止めるんですね」


「約束した」


「ララさん、そういうところは信用できます」


「他も信用しろ」


「訓練時間以外なら」


「それは今後改善する」


「改善予定なんだ」


 真壁は椅子の背にもたれた。頭が重い。身体は疲れていないが、目の奥が熱い。図面から流れを読むという作業は、現場に比べれば安全だが、別の種類の疲労がある。実物なら音や匂いや振動があり、情報が多すぎる代わりに直感で分かる。図面は逆だ。情報が足りない。足りない部分を頭の中で補おうとする。その補完が疲れる。


 ララは紙束をまとめかけて、ふと一枚だけ抜き出した。


「これは後でいい」


「何ですか」


「王都工務局の旧資材庫だ。黒い装置に使われていた旧規格部品の流出元候補の一つだ」


「後でいいなら後で」


「ああ」


 ララはそう言って紙を伏せた。


 その動きに、真壁は少しだけ違和感を覚えた。


 伏せ方。


 紙の端。


 見えた図面の一部。


 気にしない方がいい。今、限界と言ったばかりだ。ララも止めると言った。なら終わりでいい。見ない。考えない。そう思った。


 だが、図面の端に描かれた小さな記号が、どうしても頭に残った。


 旧資材庫。地下。部品棚。搬入口。魔導灯。換気口。そこへ伸びる細い排気管。


「……ララさん」


「何だ」


「それ、今すぐ危ないやつじゃないですよね」


 ララの手が止まった。


「なぜそう思う」


「伏せる時に、少しだけ見えました。排気管が変だった」


「限界ではなかったのか」


「限界です。なので嫌です」


「ではやめる」


「でも気になる」


 真壁は頭を抱えた。


「これ、最悪の状態ですね。見たくないのに見えた。気になる。もう終わりです」


 ララは少し考え、紙を表に戻した。


「無理なら見なくていい」


「もう見えました」


 真壁は図面を睨む。


 旧資材庫。王都工務局が管理している古い部品の保管場所。今はほとんど使われていないが、点検予定はあったらしい。図面上ではただの倉庫だ。危険な設備ではない。水も蒸気も鐘もない。普通なら安全な場所。


 だが、排気管が変だった。


「この換気経路、何で二つあるんですか」


「古い倉庫だからだろう。増築時に予備経路を足したと聞いている」


「この予備、途中で塞がってますよね」


「図面上は封鎖済みだ」


「信用できないランキング一位」


「分かっている」


 ララも同じ言葉を覚えていたらしい。


「ここ、もし封鎖されてないなら、外へ繋がってます」


「搬入口とは別の侵入経路になるな」


「はい。しかも、部品棚の裏に出る」


「……内部犯でなくとも、侵入可能ということか」


 ララの表情が変わった。


 真壁は嫌な予感を覚えた。


「ララさん」


「何だ」


「行く顔してません?」


「確認が必要だ」


「俺は行きません」


「連れて行かない」


 即答だった。


「本当ですか」


「ああ。これは騎士団と工務局の問題だ。お前は十分働いた」


「働いたって言いましたね」


「……協力した」


「もう遅いです」


 ララは少しだけ気まずそうに咳払いをした。それから紙を折りたたむ。


「私は確認へ向かう。お前は休め」


「はい。絶対休みます」


「何か思い出したら、扉の騎士へ伝えろ」


「思い出したくないです」


「なら寝ろ」


「それが一番」


 ララは部屋を出た。


 扉が閉まると、部屋に静けさが戻る。真壁はしばらく机に突っ伏していた。頭が疲れている。今度こそ休む。図面は回収された。見なくていい。現場へも行かない。なら寝るべきだ。


 そう思った矢先、窓の外から声がした。


「いい勘してんじゃん」


 真壁は顔を上げずに言った。


「帰れ」


 ヴォルフだった。


 窓枠に肘をつき、こちらを覗き込んでいる。今日は逆さまではない。普通に座っている。だからといって許されるわけではない。


「旧資材庫、当たりだと思うぜ」


「聞こえてたんですか」


「まあな」


「盗聴」


「窓開いてるし」


「開けてません」


「じゃあ隙間から」


「怖い」


 真壁は渋々顔を上げた。


「何しに来たんですか」


「ララが行くだろ。たぶん揉める」


「……不穏なこと言わないでください」


「工務局は身内の不祥事を嫌う。騎士団に踏み込まれたくねえ奴もいる。旧資材庫に何かあったとして、素直に見せると思うか?」


「大人の事情やめてください。俺そういうの苦手なんです」


「得意な奴の方が少ねえよ」


 ヴォルフは笑った。


「で、お前はどうする?」


「寝ます」


「ララが揉めても?」


 真壁は黙った。


 嫌な聞き方だった。


 ララは強い。騎士団第三隊長だ。剣も強いし、判断も早い。自分が心配するような相手ではない。むしろ、いつも真壁の方が守られている。


 だが、工務局で揉める。


 旧資材庫。


 封鎖済みの換気経路。


 部品棚の裏。


 そこに何かあるかもしれない。


「……ララさんなら大丈夫でしょう」


「そうだな。剣でどうにかなることなら」


 真壁は眉をひそめた。


「剣でどうにかならないこと?」


「扉の向こうの政治とか、書類上の嘘とか、壊すと罪になる設備とか」


「最悪」


「あと、ララは正面から行く。だから止められる。お前は裏から見える。そういう違いはある」


「俺を行かせようとしてます?」


「いや。行きたくねえなら行かなくていい」


 意外だった。


 ヴォルフは真壁を見て、にやりと笑う。


「ただ、気になるだろ?」


「……性格悪いですね」


「よく言われる」


 真壁は窓の外を見た。王都の空は青い。外はうるさい。出たくない。今日こそ休むつもりだった。だが、旧資材庫の図面が頭に残っている。排気管の違和感。部品棚の裏。封鎖済みのはずの経路。


 見ない訓練。


 ララはそういうことを言ったわけではない。だが、真壁には今、まさにその練習が必要なのかもしれないと思えた。


 見たもの全部に触らない。


 気になっても動かない。


 自分が行かなくても、他の人に任せる。


 それができれば、楽になるはずだ。


 真壁は目を閉じた。


「……行きません」


 ヴォルフの眉が少し上がる。


「へえ」


「ララさんが行くって言った。俺は休めって言われた。だから休みます」


「気になるのに?」


「気になります」


「それでも?」


「それでも」


 真壁は自分に言い聞かせるように言った。


「全部見に行ったら、終わりなので」


 ヴォルフはしばらく真壁を見ていた。からかうでもなく、笑うでもなく。ただ、少しだけ目を細めている。


「いいじゃん」


「何がですか」


「見ない判断もできるようになってきた」


「褒められてます?」


「たぶんな」


「たぶんか」


 ヴォルフは窓枠から降りた。


「じゃ、俺が見てくるわ」


「え」


「面白そうだし」


「それはそれで不安なんですけど」


「大丈夫。ララが死にそうなら教えてやる」


「そんな基準で報告しないでください!」


 真壁が叫ぶ前に、ヴォルフは姿を消した。


 本当に勝手な男だった。


 部屋に一人残された真壁は、しばらく窓を見つめていた。


「……見ない」


 小さく呟く。


 気になる。


 だが、見ない。


 それもたぶん、自分に必要なことなのだと、少しだけ思った。


    ◇


 ララ・バーンは、王都工務局の旧資材庫前で、予想していた通り足止めを受けていた。


 工務局の役人が三人、扉の前に立っている。いずれも剣を持ってはいない。武力では騎士団に勝てない。だが、彼らは書類と権限と手続きを盾にしていた。


「ララ隊長、申し訳ありませんが、この旧資材庫は現在、工務局の管理下にあります。騎士団といえど、正式な立入許可なしには」


「緊急調査だ」


「その緊急性を示す書面が必要です」


「破壊工作に使われた旧規格部品の流出元候補だ。十分な緊急性がある」


「それは承知しております。しかし、内部には王都設備に関わる機密部材も保管されておりますので」


 ララは相手を見据えた。


 正面から斬れる問題ではない。


 いや、物理的には斬れる。扉も、役人も、書類も、力ずくなら突破できる。だがそれをすれば、後の調査に支障が出る。騎士団と工務局の対立が表面化し、犯人を利する可能性がある。


 面倒だった。


 真壁なら、こういう時どうするだろうか。


 ふとそんなことを考えて、ララは少しだけ自分に驚いた。彼なら、おそらくまず「帰りたい」と言う。次に、扉ではなく壁や換気口を見る。正面から揉めるより、構造の違和感を探す。


 ララは旧資材庫を見上げた。


 石造りの建物。古いが頑丈。正面扉は重く、鍵も新しい。窓は少ない。通気口が高い位置にある。


 通気口。


 真壁が言っていた場所だ。


 部品棚の裏へ出る封鎖済みの換気経路。


 ララは役人と話しながら、視線だけを少し上へ流した。


 金網。


 古い留め具。


 その一つが、わずかに新しい。


「……」


 これか。


 ララは理解した。


 真壁は見ていない。現場にいない。それでも、彼の見方が頭に残っている。扉ではない。正面ではない。負荷がかかっていない場所。人が見ない場所。封鎖済みだと思い込まれている場所。


「ララ隊長?」


 役人が怪訝そうに言う。


 ララは視線を戻した。


「分かった。正式な許可状を用意する」


 役人たちが少しだけ安堵した顔をした。


「ご理解いただき感謝します」


「ただし、建物外周の確認は行う。工務局の管轄外だ」


「外周であれば……」


 言質は取った。


 ララは騎士二名に合図を送る。


「外壁を確認する。通気口、排水口、補助扉、全てだ」


「はっ」


 役人の顔色が少し変わった。


 それで十分だった。


 ララは旧資材庫の側面へ回る。役人たちが慌ててついてくる。外壁は日陰になっていて、石が湿っていた。高い位置に古い通気口がある。真壁が指摘した図面上の経路と一致する位置だ。


 ララは騎士に命じて梯子をかけさせた。


「確認する」


「お待ちください、そこは封鎖済みで」


「外周確認だ」


 ララは梯子を上り、通気口の金網を見た。


 新しい留め具。


 古い錆の上に、不自然に磨かれた跡。


 誰かが最近開けた。


 剣の鞘尻で軽く押す。


 金網は、音もなく外れた。


「……封鎖済み、か」


 下で役人が青ざめる。


 ララは中を覗いた。狭い。人一人が通るには厳しい。だが、小柄な者か、身体の柔らかい者なら通れなくもない。少なくとも道具や小さな部品を出し入れするには十分だった。


 奥に何かがある。


 布切れ。


 いや、紙だ。


 ララは剣の先で引っ掛け、外へ出した。


 細く丸められた金属紙。


 ズレた歯車の刻印。


「……」


 ララの胸の奥で、冷たい怒りが膨らんだ。


 また真壁宛てか。


 いや、違う。


 これは自分たちをここへ誘導するためのものだ。


 ララは金属紙を開いた。文字が刻まれている。


『彼は来なかった。なら、次は君が読む番だ』


 ララは黙った。


 君。


 誰のことだ。


 真壁ではない。


 おそらく、自分だ。


 ララ・バーンへ向けられた手紙。


 つまり、犯人は見ている。真壁が来なかったことも、ララが代わりにここへ来たことも。いや、それだけではない。ララが真壁の見方を使って通気口を見つけることまで、予想していた可能性がある。


 背筋に冷たいものが走った。


 その時、通気口の奥で小さな音がした。


 カチ。


 ララは迷わなかった。


「下がれ!」


 叫ぶと同時に、梯子を蹴って後ろへ飛んだ。


 次の瞬間、通気口の奥から黒い煙が噴き出した。爆発ではない。高温でもない。だが煙は粉のように重く、空気中に広がりながら周囲の金属にまとわりついた。


「毒か!?」


「違う、金属粉だ! 吸うな!」


 役人たちが悲鳴を上げる。


 ララは外套で口元を覆い、煙の流れを見た。


 煙はただ広がっているのではない。通気口から出て、外壁に沿って下へ落ち、正面扉の方へ流れようとしている。扉の鍵穴。蝶番。金属部品。


 そこへ向かっている。


 金属粉が噛み込めば、扉は開かなくなる。内部に証拠があっても、すぐには入れない。いや、それだけではない。鍵を無理に開けようとすれば摩擦で火花が出る可能性がある。旧資材庫には油や旧部品もあるだろう。


 直そうとすると、壊れる。


 また同じ思想。


「水をかけるな!」


 ララは叫んだ。


「金属粉を広げるだけだ! 布で押さえろ! 扉には触るな!」


 騎士たちが動く。


 役人たちは慌てている。


 ララは剣を抜きかけて、止めた。


 斬ればいいわけではない。


 斬れば、粉が舞う。


 真壁の言葉が頭をよぎる。


 負荷を見ろ。


 流れを見ろ。


 どこへ行きたがっているか。


 ララは煙を見た。


 真壁のようには見えない。水滴が消える瞬間も、埃の揺れも、彼ほど正確には分からない。だが、流れは見える。風向き。落ちる粉の重さ。外壁の凹凸。扉へ向かう経路。


「……こちらか」


 ララは外套を脱ぎ、地面へ叩きつけるように広げた。粉の流れを受ける位置。次に、騎士へ命じる。


「板を持ってこい! 風上から押さえる! 扉側へ流すな!」


「はっ!」


 数秒遅れていれば、粉は扉の機構へ入っていただろう。だが、ララの判断は間に合った。板と布で粉の流れを遮り、地面へ落とす。通気口からの噴出は長く続かなかった。仕掛けられていた量は少ない。目的は殺傷ではなく、妨害と挑発だ。


 ララは煙が収まったのを確認し、金属紙を握りしめた。


 真壁は来なかった。


 それでよかった。


 もし彼がここにいれば、たぶんこの粉の流れをもっと早く読んだだろう。だが同時に、また犯人の言葉に触れさせることになっていた。


 今日は違う。


 ララが読んだ。


 完全ではない。


 だが、読んだ。


「……なるほど」


 ララは小さく呟いた。


 真壁の見ている世界の端に、少しだけ触れた気がした。


    ◇


 夕方、ララが戻ってきた時、真壁は部屋で本当に寝ていた。


 机に突っ伏したまま、薄く口を開けて眠っている。図面を見ると頭が疲れるのだろう。あるいは、見ないと決めた緊張が切れたのかもしれない。


 ララはしばらく起こさずに見ていた。


 無防備だった。


 あれほど異常な力を持っているのに、眠っている姿はただ疲れた男にしか見えない。三十四歳。元引きこもり。異世界に放り出され、本人の望まぬまま、王都を壊そうとする誰かの視線にさらされている。


「……よく寝ているな」


 ララは小さく言った。


「よく寝かせてやれよ」


 窓の外から声がした。


 ララは振り返る。


 ヴォルフが窓枠に座っていた。


「またか」


「今日は入らねえよ」


「当然だ」


 ヴォルフは眠る真壁を見て、少しだけ笑った。


「で、どうだった?」


「手紙があった」


「内容は」


「『彼は来なかった。なら、次は君が読む番だ』」


「へえ」


 ヴォルフの目が細くなる。


「お前にも来たか」


「そうだな」


「読めた?」


 ララは少し黙った。


「完全ではない。だが、粉の流れは読んだ」


「おお」


「真壁ならもっと早かっただろう」


「そりゃな。でも、あいつがいない場所で読めたなら十分だろ」


 ララは机の上の空の皿を見た。朝食は食べきっている。昼食もおそらく食べた。報酬袋は触られた形跡がある。金を数えていたのだろう。


「真壁は、見ない判断をした」


「ああ」


「それは正しかった」


「そうだな」


 ヴォルフは珍しく茶化さなかった。


「でも、アルゴは次からお前も見るだろうな」


「私をか」


「真壁の周りにいる奴も試し始める。そういう奴だ」


 ララの表情は変わらない。


 だが、手は剣の柄に触れていた。


「なら、こちらも学ぶだけだ」


「何を」


「真壁の見方を」


 ヴォルフはにやりと笑った。


「いいじゃん。騎士さんがほどき屋の弟子か」


「弟子ではない」


「じゃあ何だよ」


 ララは少し考えた。


 答えはすぐには出なかった。


 保護対象。


 協力者。


 危険人物。


 異界人。


 修理役。


 そのどれも違う気がする。


「……相棒、ではまだないな」


 ララは小さく言った。


 ヴォルフが目を丸くし、それから声を殺して笑った。


「言うねえ」


「黙れ。起きる」


「はいはい」


 だが真壁は起きなかった。


 机に伏せたまま、かすかに寝言を呟いた。


「……今日は……働いてない……」


 ララはその言葉を聞いて、ほんの少しだけ笑った。


「そうだな」


 今日は、真壁は働かなかった。


 少なくとも、現場には行かなかった。


 見ない判断をした。


 そして、その代わりにララが少しだけ見た。


 それは小さな変化だった。


 だが、この先の関係を変えるには十分な一歩でもあった。


 窓の外では、王都の夕鐘が鳴っていた。


 以前より少し整った音。


 その響きを聞きながら、ララは初めて、ただ守るだけでは足りないのだと理解した。


 真壁が見ているものを、少しでも自分も見なければならない。


 でなければ、いつか彼だけが壊れる。


 その時、自分の剣はたぶん間に合わない。


 ララは眠る真壁の横で、静かに拳を握った。


「……次は、私も読む」


 その声は誰にも聞こえないほど小さかった。


 だが、窓枠のヴォルフだけは聞いていた。


 彼は笑わず、ただ少しだけ目を細めた。


「面白くなってきたな」


 そう呟いて、夕暮れの中へ消えた。

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