第22話
真壁悠は、休みという言葉の意味について、真剣に考えていた。
前世の四畳半では、休みとは何もしないことだった。朝起きる時間を決めず、昼なのか夕方なのか分からないまま布団から這い出て、冷えた部屋でカップ麺を啜り、動画を流し、気が向いたら天井から垂れた紐を打つ。誰かに呼ばれない。予定がない。責任もない。失敗して怒られることもない。そういう空白こそが休みだった。
だが異世界に来てからの休みは、どうも様子が違う。
現場には連れて行かれない。そこまではいい。だが、扉の外には護衛兼監視の騎士が立っている。朝食は出る。肉も増える。それはありがたい。ありがたいが、昼前にはララ・バーンが「少しだけ話がある」と言ってやって来る。ヴォルフは窓から来る。ギルドから報告書は届く。どこかで金属音が鳴る。頭の中には、針工師アルゴという名前と、金属紙に刻まれた文字が残り続ける。
これを休みと呼んでいいのか。
真壁は寝台の上で仰向けになり、石造りの天井を睨んでいた。
「……詐欺では?」
声に出してみたが、誰も答えない。
答えない方がいい。答えがあると、たぶん仕事の話になる。
昨日、ララは約束通り、真壁を現場へ連れて行かなかった。黒い装置の解析会議にも出さなかったし、ギルド設備管理部門の説明にも立ち会わせなかった。夕食には肉が増えた。そこだけ見れば、確かに休みだったと言える。
だが、気持ちは休まらなかった。
金属紙の文字。
『やはり君は読める。次は、直してはいけないものを用意する』
何度も頭に浮かぶ。
直してはいけないものとは何か。
壊れているものなら、直した方がいいはずだ。ズレているものなら戻した方がいい。詰まっているものならほどいた方がいい。負荷が偏っているなら逃がした方がいい。少なくとも、これまで真壁がやってきたことはそうだった。水門も、鐘塔も、蒸気管も、昇降機も、配送管制所も、放置すれば人が死ぬか、街のどこかが壊れるものばかりだった。
だから動いた。
嫌々ながら。
本当に嫌々ながら。
だが次は、直してはいけないもの。
「……知らねえよ」
布団を頭までかぶる。
知らない。考えたくない。そんな問題を勝手に出されても困る。自分は受験生ではない。工兵でもない。勇者でもない。三十四歳の引きこもり上がりで、今も働きたくない男である。
コン、コン。
扉が鳴った。
真壁は布団の中で目を閉じた。
「寝てます」
「朝食だ」
ララの声だった。
その言葉だけで、真壁は少しだけ布団から顔を出した。
「肉は」
「ある」
「起きます」
「現金だな」
「生存本能です」
ララが扉を開けて入ってくる。今日の彼女は軽装の騎士服だった。完全な出動装備ではないが、腰には剣がある。最近、真壁はララの服装でその日の危険度を読むようになっていた。重装なら現場。軽装なら話。私服に近ければ休み。今日の格好は、その中間だった。
嫌な予感がする。
だが、盆の上には肉があった。
肉があるなら、一旦聞く価値はある。
真壁は寝台から起き上がり、机に着いた。パン、スープ、肉、湯気の立つ茶。食事の匂いがするだけで、部屋が少し現実的になる。空腹は世界を敵に見せるが、食事は少しだけ味方を増やす。
「今日は休みですよね」
真壁はまず確認した。
ララは盆を置きながら答える。
「少なくとも午前は休みだ」
「少なくとも、という言葉が入った時点で信用度が下がりました」
「午後に何かがあると決まったわけではない」
「何かが起きる可能性はあるんですね」
「可能性は常にある」
「人生が嫌になる」
真壁は肉を食べた。うまい。人生は嫌だが、肉はうまい。この二つは両立する。
ララは机の向かいに座らず、窓際へ立った。外を確認できる位置だ。ヴォルフ対策なのだろう。窓から来る男がいる世界では、窓際に立つことにも意味がある。
「昨日の解析結果が出た」
「食事中に嫌な話するのやめません?」
「食後にするか」
「いや、気になるので今してください」
「どちらだ」
「俺も分かりません」
ララは少しだけ息を吐いた。
「黒い装置に使われていた部品のいくつかは、王都工務局の旧規格品だった」
「工務局」
「都市設備を管理する役所だ。現在はギルド設備管理部門や騎士団とも連携しているが、古い設備の台帳は工務局に残っている」
「内部の人間が関わってるってことですか」
「可能性はある。ただし、部品自体は十年以上前に廃棄扱いになっている。倉庫から盗まれたのか、過去に流出したものかは調査中だ」
「嫌な感じですね」
「ああ」
ララの顔は険しい。
「さらに、ヴォルフの言った針工師アルゴについても古い記録が見つかった。北方戦役時代、敵軍の工兵として存在が確認されている。公式には十二年前、砦の爆破に巻き込まれて死亡」
「公式には」
「遺体は確認されていない」
「完全に生きてるやつじゃないですか」
「断定はできない」
「物語だったら生きてます」
「物語ではない」
「最近の俺の人生、物語より展開が雑ですけど」
ララは否定しなかった。
真壁はパンをかじる。硬い。だが噛める。最近、顎が少し強くなった気がする。それはそれで嫌だった。異世界で最初に鍛えられるのが戦闘力ではなく咀嚼力というのは、どうなのか。
「で、そのアルゴさんが犯人だとして」
「まだ容疑者だ」
「はい。容疑者だとして、何で俺なんですかね」
ララは少し黙った。
「お前にしか見えないからだろう」
「それは分かるんですけど。俺が見えるって、いつ分かったんですか」
「最初から見ていた可能性がある」
「最初?」
「お前が王都に放り出された直後だ」
真壁の手が止まる。
ララは続ける。
「城での召喚記録は騎士団にも回っている。失敗作として放逐された異界人。魔力ゼロ、スキルなし、職業なし。普通なら注目されない。だが、その直後にお前は兵士の鎧留め具をほどき、街中で水滴や埃を消している」
「……見られてた?」
「私も見た。ヴォルフも見た。なら、他にも見ていた者がいてもおかしくない」
真壁は朝食を見つめた。
急に肉の味が遠くなる。
自分が一番無防備だった時。腹を空かせ、右も左も分からず、城から放り出され、街を彷徨っていた時。すでに誰かに見られていたかもしれない。
気持ち悪い。
「……最悪ですね」
「ああ」
「俺、あの時ただ腹減ってただけなんですけど」
「知っている」
「それを観察されてたってことですよね」
「そうなる」
真壁は両手で顔を覆った。
「もう外歩きたくない……」
「今日は歩かせない」
「本当ですか」
「少なくとも午前は」
「そこ戻るんですね」
ララは少しだけ口元を緩めたが、すぐに真剣な表情へ戻した。
「もう一つある」
「嫌な話ですか」
「重要な話だ」
「だいたい嫌な話ですね」
ララは小さな紙片を机へ置いた。金属紙ではない。普通の紙だ。だが、そこには簡単な見取り図が描かれている。
真壁は見た瞬間、顔をしかめた。
「……何ですかこれ」
「中央広場の噴水機構だ」
「水じゃないですか」
「今回は現場へ行く話ではない」
「本当ですか」
「ああ。相談だ」
真壁は疑いながら図を見る。中央広場。大きな噴水。地下に貯水槽。水を循環させるポンプ。古い魔導機構。水門の時ほど大きくはないが、水の流れがある。絶対に嫌な設備だ。
「昨日の夜、中央広場の噴水で異常が報告された。水の出が一時的に弱まり、その後、自然に戻った。被害はない」
「自然に戻ったならいいじゃないですか」
「本当に自然ならな」
ララは別の紙を出す。
「現場の技師が簡易点検をしたところ、仕掛けらしいものは見つからなかった。ただ、噴水の中心に一枚の金属片が置かれていた」
真壁は嫌な予感を覚えた。
「刻印?」
「ズレた歯車だ」
「ですよね」
「そして、金属片には短い文字が刻まれていた」
「読みたくないです」
「私が読む」
ララは紙を見た。
「『これは直してはいけないものではない』」
真壁はしばらく無言だった。
それから、低い声で言った。
「……腹立つ」
「同感だ」
「完全に遊んでますよね」
「挑発だ」
「でも、直してはいけないものじゃないってことは、直していいものってことですか」
「そう誘導しているように見える」
「じゃあ逆に直しちゃ駄目な気がする」
ララは頷いた。
「私もそう考えている」
真壁は図を見つめる。噴水。水路。貯水槽。ポンプ。中心から放射状に広がる水の流れ。もしそこに仕掛けがあるなら、水門のように詰まりか、圧力か、流れの偏りだろうか。
だが、文字が気になる。
これは直してはいけないものではない。
二重否定。回りくどい。読ませたい文章だ。真壁を混乱させるためにわざと書いている。
「……性格悪すぎる」
「そうだな」
「俺なら絶対友達になりたくない」
「向こうはなりたがっているかもしれない」
「やめてください」
真壁は茶を飲んだ。温かい液体で喉を落ち着かせる。
「で、相談って何ですか」
「お前なら、現場へ行かずにこの見取り図だけで何か読めるか」
「図だけで?」
「無理ならいい」
真壁は図を見る。
正直、見たくない。だが、現場へ行かなくて済むなら図で済ませたい。その動機は強かった。
「……ざっくりなら」
ララの目が少し変わる。
「分かるのか」
「分かるってほどじゃないです。でも、ここ」
真壁は噴水中央の下、貯水槽へ繋がる細い管を指差す。
「ここだけ変です」
「なぜ」
「他の流れに比べて、細すぎる。いや、細いのは設計としてあり得るのかもしれませんけど、ここが詰まると全部止まる。だから普通なら、予備経路があるはず」
「ある」
ララは別の紙を開く。
「予備経路はここだ」
「ああ、じゃあこっち」
真壁は予備経路の合流部を指した。
「ここが気持ち悪い」
「図だけで気持ち悪いのか」
「はい。たぶん、ここに何か入ってます」
ララはじっと図を見る。
「技師の点検では異物は見つかっていない」
「なら、異物じゃないんじゃないですか」
「どういう意味だ」
「元からある部品を、少しだけズラしてるとか」
言ってから、真壁は嫌な顔になった。
「あー、これ嫌な感じします」
「何がだ」
「噴水を止める仕掛けじゃない」
ララの表情が変わる。
「では何だ」
「直すと、逆に別の流れが動くやつ」
真壁は指で図をなぞる。
「たぶん、中央の流れを直すと、予備経路に水が回る。そこに負荷が行く。そうすると……」
視線が図の端へ流れる。
中央広場の地下から、近くの街路へ伸びる排水路。
「……別の場所が壊れる?」
ララが言う。
「たぶん」
真壁は背中が寒くなった。
「これ、直してはいけないものじゃない。つまり、直していい。でも直すと、別の場所が壊れる。そういう意味じゃないですか」
部屋の空気が重くなる。
ララは無言で図を見つめていた。
「直してはいけないもの、ではない」
ララが低く呟く。
「だが、直すことで別のものが壊れる」
「最悪の言葉遊びですね」
「ああ」
真壁は頭を抱えた。
「なんで俺、朝食中にこんなこと考えてるんですか」
「すまない」
「謝られると責めづらい」
「だが、今のお前の推測は重要だ」
「重要なこと言いたくないんですよ、本当は」
ララは立ち上がった。
「現場へ連絡する。噴水の中央部には触らせるな。予備経路と排水路を先に確認させる」
「俺は行かなくていいですか」
「現時点ではな」
「神」
「騎士だ」
ララは扉へ向かった。
その時、窓の外から軽い声がした。
「おー、やるじゃん」
真壁は即座に窓を見た。
ヴォルフが窓枠に座っていた。
「休みの日に窓から来るな!!」
「図面だけで読んだのか。便利になってんな」
「嬉しくないです」
ララの手が剣へ伸びる。
「お前、いつから聞いていた」
「噴水のあたりから」
「最初からではないか」
「細かいな」
ヴォルフはひらひらと手を振る。
「でも、ほどき屋の読みは当たりだと思うぜ」
「根拠は」
ララが問う。
「アルゴはそういうの好きだからな。修理させて別の場所を壊す。助けたつもりで被害を広げる。いい性格してるだろ」
「最悪ですね」
真壁は吐き捨てるように言った。
「直したら駄目じゃなくて、直し方を間違えると駄目ってことか」
ヴォルフは頷く。
「そう。で、普通の技師なら中央の詰まりを見て直す。そしたら予備経路が吹く。たぶん人が集まってる場所でな」
ララの顔がさらに険しくなる。
「中央広場周辺を封鎖する必要がある」
「早めにな」
ヴォルフは窓枠から降りようとした。
ララが止める。
「待て。お前も来る」
「やだ」
「知識が必要だ」
「騎士に命令される筋合いはねえな」
「では依頼だ」
ヴォルフの動きが止まる。
「報酬は」
「出させる」
「乗った」
真壁は呆然とした。
「俺と同じレベルで釣られてる……」
「生きるには金がいるからな」
ヴォルフは笑った。
ララは真壁へ向き直る。
「真壁。お前は部屋にいろ」
「はい」
即答だった。
「もし追加で確認が必要なら、図面を持ってくる。現場には連れて行かない」
「本当に助かります」
「ただし、何か気づいたらすぐ言え」
「分かりました」
ララは部屋を出た。ヴォルフは窓からではなく、なぜか普通に扉から出ていった。そこは少しだけ評価したい。いや、できれば最初から扉を使ってほしい。
部屋に静けさが戻る。
朝食の残りが冷め始めていた。
真壁はスープを飲み、深く息を吐いた。
「……現場行かずに済んだ」
それだけで少し勝った気がした。
だが同時に、胸の奥が落ち着かない。
図面だけで読めた。
それはつまり、真壁の見る力がまた広がっているということだ。現場に行かなくても、構造図からズレを想像できる。気持ち悪さを拾える。事故が起きる前に、壊れ方を読める。
「……本当に悪化してるな」
真壁は自分の手を見た。
できることが増えるのは、普通なら成長だ。
だが真壁にとっては、逃げ道が減ることでもあった。
◇
昼過ぎ、ララは戻ってこなかった。
代わりに若い騎士が一度だけ来て、「中央広場は封鎖済みです。団長から、部屋で待機してくださいとのことです」と伝えて去っていった。
真壁は素直に部屋で待機した。
素直というより、外に出たくなかった。窓から中央広場は見えない。音も遠い。だが、時折、街の方角から騒ぎの気配が届く。人の声。馬車の音。遠くで鳴る鐘。全部がいつもより少しだけ緊張しているように聞こえた。
待つだけというのも、落ち着かない。
現場に行きたくはない。
だが、何が起きているか分からないまま待つのも、それはそれで苦しい。
「……人間って面倒くさいな」
真壁は机に突っ伏した。
しばらくして、扉が叩かれた。
入ってきたのは、ギルド設備管理部門の若い職員だった。顔色が悪い。手には追加の図面がある。
「真壁さん、団長からこちらを」
「現場に行けって話ですか」
「いえ、図面確認だけです」
「よかった……」
職員は机に図面を広げた。
中央広場の地下配管詳細図。噴水だけではなく、周辺の排水路、古い雨水管、地下倉庫へ伸びる支線まで描かれている。
真壁は見た瞬間、目を細めた。
「……あ」
「何か分かりますか」
「ここ、駄目です」
即答だった。
職員が震える。
「ど、どこですか」
「この地下倉庫へ行く支線。今は使ってないですよね」
「はい。旧祝祭備品倉庫です。現在は閉鎖中のはずです」
「閉鎖中、信用できないランキング一位ですね」
「すみません……」
「いや、あなたが悪いわけじゃないです」
真壁は図面の支線をなぞる。
「噴水を直すと、予備経路へ水が行く。そのあと、こっちの旧支線へ圧が逃げる。閉鎖されてるなら、普通はそこで止まる。でも、たぶん閉鎖が少し開いてる」
「それだと、水が旧倉庫へ」
「流れます」
職員の顔が青ざめる。
「旧祝祭備品倉庫には、王都祭で使う花火薬と油紙の古い在庫が……」
真壁は固まった。
「火がつくやつ?」
「管理上は安全処理済みのはずですが」
「その“はず”やめません?」
真壁は深く息を吐いた。
「つまり、噴水を直すと、旧倉庫が浸水する。そこに水だけならまだいい。でも、油とか薬とかが流れ出す可能性がある。で、広場に人が戻ったあとに……」
「有毒な煙、あるいは火災の危険が」
職員が震えた声で言う。
「最悪だ……」
真壁は思わず呟いた。
直してはいけないものではない。
その意味が見えてきた。
噴水そのものは直していい。だが、噴水だけを直すと別の場所が壊れる。壊れる場所は、もっと危険なものに繋がっている。
直すべきは噴水ではない。
全体の流れだ。
「ララさんに伝えてください」
「はい!」
「噴水は触らない。旧祝祭備品倉庫を先に開けて、中身を確認。支線を完全に閉じるか、逆に安全な排水先へ逃がす。あと、火気厳禁。たぶん、油か薬剤がある」
「分かりました!」
職員は図面を抱えて走っていった。
真壁は椅子に座ったまま、しばらく動けなかった。
行かずに済んだ。
でも、頭の中ではもう現場が見えていた。
水の流れ。
予備経路。
旧支線。
倉庫。
油紙。
火災。
全部が繋がってしまった。
「……これ、休みじゃないよな」
声が虚しく部屋に落ちる。
◇
夕方前。
ララが戻ってきた時、彼女の外套には少しだけ水の跡がついていた。髪もわずかに乱れている。戦闘になったわけではないだろうが、かなり動いたのは分かった。
真壁は机から顔を上げる。
「どうでした」
「お前の読み通りだった」
「うわ」
当たってほしくなかった。
ララは椅子に座った。珍しく少し疲れているように見える。
「噴水の予備経路に細工があり、水流を旧祝祭備品倉庫へ逃がすようになっていた。倉庫内には古い油紙と発火性の薬剤が残っていた。安全処理済みの記録は虚偽だった」
「虚偽」
「誰かが台帳を書き換えている」
「内部犯確定じゃないですか」
「かなり濃厚だ」
真壁は頭を抱えた。
「もうやだ……」
「だが、お前のおかげで被害は出なかった」
「それはよかったですけど」
「広場を封鎖した上で、倉庫を先に処理した。噴水はまだ止めていない。全体の経路を洗い直してから修復する」
「ちゃんと直さない判断できたんですね」
「ああ」
ララは真壁を見る。
「お前が言ったからだ」
「……」
「直すべきではない箇所を見誤らなかった」
真壁は少しだけ目を逸らした。
感謝されるのは重い。だが、今回に関しては少し違った。自分が現場へ行かずに、図面だけで被害を止めた。直接触らずに済んだ。直さない判断ができた。
それは、少しだけ救いだった。
「……なら今日はもう休みですね」
「ああ」
「本当に?」
「本当だ」
ララは机に小袋を置いた。
「報酬だ」
「行ってないのに?」
「助言料と危険回避手当だ」
真壁は袋を見た。
重い。
命の危険価格ではない。たぶん、知識料に近い。現場へ行かずに得た報酬。これなら比較的健全なのではないか。そんなことを一瞬考えて、すぐに危ない思想だと気づく。
「……これに慣れると、頭だけで働かされますね」
「そうなる可能性はある」
「否定して」
「だが、現場へ行くより負担は少ない」
「それはそう」
真壁は袋を受け取った。
「神」
「騎士だ」
いつもの返し。
少し安心する。
その時、窓の外から声がした。
「いやー、今日は冴えてたな」
真壁は反射的に怒鳴った。
「帰れ!!」
ヴォルフが窓枠に座っていた。
ララは疲れたように目を閉じた。
「お前、本当に窓を何だと思っている」
「入口」
「違う」
ヴォルフは笑いながら部屋へ入ろうとしたが、ララの視線を受けて窓枠に留まった。珍しく少しだけ遠慮したらしい。
「で、ほどき屋。どうだった? 直さない修理は」
真壁は顔をしかめた。
「変な言い方しないでください」
「でも、そうだろ。今回は触らず、直さず、壊させなかった」
「……まあ」
「それ、かなり大事だぜ」
ヴォルフはいつもの軽い調子で言った。
「修理屋ってのは、何でも直しゃいいわけじゃねえ。直した瞬間に別の場所が壊れるなら、まず全体を見なきゃならねえ」
「俺、修理屋じゃないんですけど」
「今の発言だけなら完全に修理屋だろ」
「違います」
ララが静かに口を挟む。
「だが、ヴォルフの言うことにも一理ある。お前は今日、直さないことで被害を防いだ」
「……直さないことで」
「ああ」
真壁は窓の外を見る。
夕方の王都。遠くで鐘が鳴る。以前より少しだけ整った音に聞こえる。それが自分のせいなのかどうかは分からない。
「嫌ですね」
「何がだ」
「できることが増えてます」
「そうだな」
「逃げ道減ってません?」
「減っているな」
「そこは励ましてください」
ララは少しだけ笑った。
「だが、一人で背負う必要はない」
「それは最近、ちょっと信じてます」
言ってから、真壁は少しだけ気まずくなった。
ララも一瞬だけ目を伏せた。
ヴォルフがにやにやする。
「仲良くなってんなあ」
「帰れ」
ララと真壁の声が重なった。
ヴォルフは楽しそうに笑った。
◇
その夜、真壁は報酬袋を机の上に置き、しばらく眺めていた。
現場へ行かなかった。
戦わなかった。
誰にも触れなかった。
水にも、装置にも、仕掛けにも触れなかった。
それでも、事故を防いだ。
これは良いことなのかもしれない。少なくとも、身体は楽だった。火傷もしない。濁流にも巻き込まれない。鐘も止め続けない。魔物の気持ち悪い接続もほどかない。
ただし、頭は疲れた。
図面を見るだけで、流れが見える。壊れ方が見える。被害が広がる順番が見える。それはそれで、かなりきつい。
「……でも、現場よりはましか」
正直な感想だった。
真壁は寝台に横になる。
天井を見る。
紐はない。
四畳半には紐があった。揺れるものが一つあって、それだけを止めればよかった。今は違う。街全体が揺れている。止めるべきものと、止めてはいけないものと、直すべきものと、直さない方がいいものがある。
面倒だ。
ものすごく面倒だ。
だが今日、真壁は一つ学んだ。
全部に触らなくてもいい。
見て、考えて、誰かに伝えるだけでも、防げることがある。
それは、少しだけ救いだった。
「……明日も図面だけならいいな」
自分で言って、嫌な未来を想像してしまう。
明日も仕事がある前提になっている。
「いや、休みたい」
慌てて言い直した。
窓の外で、夜風が小さく鳴る。
今日は金属音は聞こえなかった。
少なくとも、真壁は聞こえなかったことにした。
そして目を閉じる。
眠りに落ちる直前、彼はぼんやり思った。
直さないという修理。
嫌な言葉だ。
だが、少しだけ自分に合っている気がしてしまった。
それがまた、何より嫌だった。




