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第21話

 黒い装置を止めたあと、真壁悠はしばらく喋れなかった。


 騎士団宿舎地下の補助管理通路。湿った石壁。熱を帯びた蒸気管。焦げた金属の匂い。止まったはずの黒い装置は、弁の横で沈黙している。さっきまで微細に震えていた歯車も、もう動いていない。圧力計の針も安定している。設備としては、安全な状態へ戻ったのだろう。


 だが、真壁の頭の中だけは、まだ静かになっていなかった。触れた瞬間に流れ込んできた感覚が、残っている。


 蒸気圧。振動。弁の噛み合わせ。崩壊する順序。そして、それを組んだ人間の意図。


 今までの異常にも、悪意はあった。水門も、鐘塔も、北門の見張り塔も、蒸気管も、市場の昇降機も、旧配送管制所も、どれも人を巻き込むように仕掛けられていた。そこには明らかに誰かの手があった。


 だが今回の黒い装置は、違った。


 ただ壊すためではない。ただ事故を起こすためでもない。あれは、真壁へ向けて組まれていた。


 読めるか。止められるか。理解できるか。


 まるで、そう問いかけるように。


「……気持ち悪い」


 真壁は床に座り込んだまま呟いた。


 ララ・バーンはすぐそばで片膝をつき、真壁の顔色を見ていた。普段の硬い表情の奥に、はっきりした警戒がある。警戒している相手は、設備でも黒い装置でもない。真壁自身だ。


「真壁」


「はい」


「今、何が見えた」


 真壁はすぐには答えなかった。答えたくなかった。だが、黙っていても何も解決しないことくらいは、最近少しだけ学んでいた。黙れば楽になるわけではない。むしろ、頭の中で同じ感覚が何度も再生されるだけだ。


「……作った人の考え方、みたいなやつです」


 ララの目が細くなる。


「考え方?」


「正確には分かりません。でも、装置の作り方が……喋ってるみたいで」


「喋る?」


「言葉じゃないです」


 真壁は指先を見る。まだ震えていた。


「あの装置、弁を壊すだけならもっと簡単にできたと思うんです。釘でも楔でも、圧を逃がさないようにしておけばいい。でも、あれは違った。少しずつズレ続けて、気づいた人間が止めようとしたら、別のところへ負荷が跳ねるようになってた。しかも、完全に外すと危ない。でも、正しい一点だけほどけば止まる」


 ララは黙って聞いている。


「……問題みたいなんです」


 真壁は顔をしかめた。


「解けるように作ってある。でも、普通の人には見えない。たぶん、俺みたいにズレを見るやつじゃないと分からない」


「お前を想定している、ということか」


「はい」


 認めたくなかった。だが、そうとしか思えない。


「たぶん、向こうは俺に見せたいんです。自分はこう壊せる。お前ならどう直す。そう言ってる感じがする」


 ララの表情が、さらに険しくなった。


「対話のつもりか」


「そういう感じです」


「ふざけているな」


 ララの声は低かった。


 真壁は少しだけ驚いた。怒っている。ララが。自分のために、というより、誰かが設備と人命を使って真壁へ語りかけていること自体に。


「……ララさん」


「何だ」


「俺より怒ってません?」


「怒っている」


 即答だった。


「お前がどう思うかは別として、これは挑発では済まない。人命を利用した接触だ。騎士として見過ごせるものではない」


「ですよね」


 真壁は少しだけ息を吐いた。自分だけが気持ち悪いと思っているわけではない。そのことに、少しだけ救われた。


 その時、通路の奥から戻ってきた騎士が報告した。


「団長、奥の通路に侵入者の痕跡があります。足跡は途中で途切れていますが、点検扉の鍵が一つ破られていました」


「逃走経路は」


「外部排気口へ繋がっています。ただし人が通るにはかなり狭いです」


 ララは立ち上がる。


「ヴォルフは」


「姿が見えません」


 真壁は嫌な顔をした。


「あの人、こういう時だけ自由ですね」


 返事をするように、頭上の配管の上から声が降ってきた。


「呼んだ?」


 全員が上を見る。


 ヴォルフが、太い配管の上に寝そべっていた。くたびれた外套。寝癖のついた髪。いつもの怠そうな顔。だがその目だけは、真壁と黒い装置を交互に見ている。


「……いつからそこに」


 ララの声が冷たい。


「最初から」


「降りろ」


「やだ」


「ここは騎士団管理区域だ」


「もう何回聞いたかな、それ」


 ヴォルフは配管の上からひょいと飛び降りた。着地音はほとんどない。真壁はそれを見るたびに嫌な気分になる。動きの中心が見えない。どこにも負荷が残らない。あれは相変わらず気持ち悪い。


 ヴォルフは黒い装置の前にしゃがみ込んだ。


「へえ。思ったより凝ってるな」


「触るな」


 ララが言う。


「触らねえよ。壊れた後の仕掛けに興味はねえし」


「何か分かるか」


「作り手が性格悪い」


「それは分かっている」


「あと、かなり寂しがり屋だな」


 真壁は顔をしかめた。


「寂しがり屋?」


「だってそうだろ」


 ヴォルフは黒い装置を指差す。


「これ、殺すためなら回りくどすぎる。壊すためなら遅すぎる。街を混乱させたいなら、もっと派手にやればいい。でも、わざわざ分かる奴だけが分かるように作ってる。つまり、見つけてほしいんだよ」


 真壁は黙る。


 ヴォルフの声は軽い。だが、内容は軽くない。


「見つけて、読んで、止めてほしい。自分の作った壊れ方を理解してほしい。で、返事がほしい。ほら、寂しいだろ」


「最悪な寂しがり方ですね」


「同感」


 ヴォルフは笑った。


「でもまあ、そいつから見りゃ、お前はやっと見つけた話し相手なんだろうな。壊れ方で喋れる相手」


 真壁の背筋が寒くなった。


 話し相手。嫌な言葉だった。自分はそんな会話をしたくない。壊れ方で語られても困る。こっちはただ飯を食って寝たいだけだ。


「……俺は返事しません」


「もうしてる」


 ヴォルフが即答した。


「止めた時点で返事だ。『読めた。こう直す』って返してる」


 真壁は何も言えなくなった。


 そうなのだ。止める。ほどく。戻す。それ自体が、相手への返答になっている。真壁が嫌々やったことも、犯人から見れば会話の続きになる。


「じゃあ、どうすればいいんですか」


 真壁は低い声で言った。


「見ても止めなきゃいいんですか。人が死にそうでも。設備が壊れそうでも」


 ヴォルフは少しだけ目を細めた。ララも真壁を見る。自分の声が思ったより強く出たことに、真壁自身が少し驚いていた。


「……俺、別に誰かと構造で会話したいわけじゃないんです。勝手に問題出されて、勝手に試されて、勝手に返事したことにされるの、すごく嫌なんですけど」


 言葉が止まらなかった。たぶん怒っていた。


「そいつが寂しいとか、理解されたいとか、そんなの知ったことじゃないです。だったら普通に手紙でも書けよって話で。人が死にそうな仕掛け作って、街を壊して、俺なら分かるだろって言われても、知らねえよって」


 地下通路が静かになる。


 真壁は息を吐いた。


「……すいません」


「謝る必要はない」


 ララが言った。


「今のは正しい怒りだ」


「また怒り認定された……」


「お前の言う通りだ。相手の事情が何であれ、人命を使った対話など認める必要はない」


 ヴォルフはしばらく真壁を見ていた。それから、少しだけ愉快そうに笑った。


「いいじゃん」


「何がですか」


「怒れるようになってきた」


「嬉しくないです」


「でも大事だぜ。壊す奴に怒れない修理屋は、ただの便利な道具になるからな」


 真壁は顔をしかめる。


「修理屋じゃないです」


「じゃあ、何なんだよ」


 ヴォルフが聞いた。


 軽い質問のようで、妙に逃げ場がなかった。


 真壁は答えられなかった。引きこもり。仮登録雑務員。ほどき屋。修理屋。便利屋。どれも嫌だ。どれも自分の名前ではない。ただ、真壁悠だと言えばそれで済むはずなのに、この世界では名前だけでいられない。何をするか、何ができるか、何を背負うかで呼ばれてしまう。


「……今は、疲れた人です」


 真壁は結局そう答えた。


 ヴォルフが吹き出した。


 ララもほんの少しだけ口元を緩める。


「それはそうだな」


「はい。なので休みたいです」


「それもそうだ」


 ララは頷いた。


「だが、その前に一つ確認する」


「嫌な流れ」


「黒い装置を回収する。危険な箇所は取り除いたか」


 真壁は装置を見る。見たくない。だが、見なければまた誰かが怪我をするかもしれない。


「……動く部分は止めました。圧を戻す仕組みも切れてます。でも、中心の歯車は残ってます」


「危険か」


「今は危険じゃないです。でも触りたくない」


「なぜだ」


「まだ何か、残ってる気がする」


 ララの目が鋭くなる。


「罠か」


「分かりません。罠というより……」


 真壁は言葉を探した。黒い装置の中心。停止した歯車。そこに、小さな違和感が残っている。機能ではない。構造でもない。もっと別のもの。


「……手紙」


 真壁は呟いた。


 ヴォルフの表情が少し変わる。


「へえ」


「たぶん、開けたら何か出る」


「物理的にか」


 ララが聞く。


「たぶん」


 騎士たちが構える。


 真壁は嫌々ながら、黒い装置へ近づいた。触りたくない。だが、このまま放置する方がもっと嫌だった。装置の中心部に、小さな蓋がある。普通なら分からないほど薄い継ぎ目。だが真壁には見える。


 ズレている。


 開けてほしいように。


「……開けます」


「待て」


 ララが真壁の腕を止める。


「危険なら私が開ける」


「俺じゃないと、たぶん壊れます」


「なら、私が支える」


 その言葉に、真壁は少しだけ止まった。


「支える?」


「危険があれば引く。お前は開けることだけ考えろ」


「……はい」


 ララがすぐ横に立つ。


 ヴォルフは少し離れた場所で見ている。


 真壁は指先を伸ばした。


 黒い装置の中心。小さな蓋。そこへ触れる。


 ――パツン。


 蓋が開いた。


 中から落ちたのは、細く巻かれた金属紙だった。


 爆発はしない。毒も出ない。ただ、紙が一枚。


 ララが布越しに拾い上げる。


 金属紙には、文字が刻まれていた。


 真壁には読めた。読めてしまった。


『やはり君は読める。次は、直してはいけないものを用意する』


 真壁の喉が鳴った。


 ララの顔が硬くなる。


 ヴォルフだけが、小さく口笛を吹いた。


「うわ。完全にラブレターじゃん」


「最悪なこと言わないでください」


 真壁は金属紙から目を逸らした。


 だが、もう遅い。文字は頭に焼きついている。


 直してはいけないもの。


 何だそれは。


 直したら駄目なもの。直すことで壊れるもの。直さない方がいいもの。


 考えたくないのに、考えてしまう。


「真壁」


 ララが声をかける。


「見るな」


「見ました」


「なら、考えるな」


「無理です」


 即答だった。


 ララは少しだけ苦い顔をした。


「だろうな」


 ヴォルフが笑う。


「次の問題は決まったな」


「決まってないです。俺は参加しません」


「でも、気になる」


「気になりますけど参加しません」


「無理だろ」


「無理じゃないです」


 真壁は強く言った。自分でも意外なほど、強く。


「俺、向こうの出す問題に乗りたくないです」


 ララが静かに真壁を見る。


 真壁は続けた。


「直してはいけないものとか言われても、知ったことじゃないです。向こうが用意した問題を、俺が律儀に解く必要ないですよね」


「その通りだ」


 ララが言った。


「こちらから主導権を取り返す必要がある」


「主導権」


「相手が用意した事故へ向かうのではなく、相手がどこにいるかを探る」


 ヴォルフがにやりと笑う。


「お、やっと攻める気になった?」


「お前は黙れ」


「ひどいねえ」


 真壁はララを見る。


「でも、どうやって探るんですか。俺、探偵じゃないですよ」


「お前は装置を読める」


「嫌な方向に便利ですね」


「装置の癖を読む。どこから部品を入手したのか、どんな工具を使ったのか、どういう手順で組んだのか。ギルドと騎士団の技師にも調べさせる」


「俺も見るんですか」


「見るだけだ。触らなくていい」


「本当に?」


「本当だ」


 真壁は怪しむ目をした。


 ララは少しだけ目を逸らす。


「……可能な限り」


「今ちょっと弱くなりましたよね」


「状況による」


「やっぱり」


 それでも、方向性は変わった。


 相手の問題を解くのではなく、相手を探す。事故を待つのではなく、仕掛けを作った場所を探る。


 それは少しだけ、真壁の心を楽にした。ほんの少しだけだが。


 その時、ヴォルフが金属紙を眺めながら言った。


「この文字、癖あるな」


 ララが見る。


「何か知っているのか」


「昔、似た彫り方を見たことがある」


「どこで」


「戦場の工兵部隊」


 また戦場。


 ヴォルフの口から出るその言葉は、いつも少しだけ重い。


「針みたいな工具で金属紙に刻むんだよ。火に強いし、水にも強い。命令書とか、起爆順序とか、そういうのに使う」


「その部隊名は」


「もうない」


「なぜ」


「全滅したから」


 通路が静かになった。


 ヴォルフは軽く言ったが、その目は笑っていなかった。


「ただ、生き残りがいないとは限らねえ」


 ララは金属紙を握りしめる。


「調べる価値はあるな」


「だろ」


 真壁は二人を見た。


 ララ。ヴォルフ。騎士と指名手配犯。普通なら並ばない二人が、同じ方向を見ている。


 それだけで、事態の厄介さが分かる。


「……俺、帰っていいですか」


 真壁は小さく言った。


 ララは頷いた。


「ああ。今日はもう休め」


「本当に?」


「本当だ」


 ヴォルフが笑う。


「明日は?」


「来るな」


 ララと真壁の声がまた重なった。


 ヴォルフは楽しそうに肩をすくめる。


「仲良くなってんじゃん」


「なってません」


 真壁は即答した。


 だが、ララは何も言わなかった。少しだけ、耳が赤かった。


    ◇


 その夜、真壁は自室で金属紙の文字を思い出していた。


 思い出したくないのに、何度も浮かぶ。


 直してはいけないもの。


 嫌な言葉だ。


 壊れているものを見れば、真壁は直したくなる。ズレているものを見れば、戻したくなる。揺れているものを見れば、止めたくなる。犯人はそれを分かっている。


 だから次は、その反応そのものを罠にする。


 直したら駄目。


 では、何ならいいのか。


 見ないことか。触らないことか。壊れたままにすることか。


「……無理だろ、それ」


 真壁は寝台に横になり、天井を見た。


 騎士団宿舎の天井には、やはり紐がない。


 四畳半の天井には、いつも紐があった。揺れていた。真壁はそれを止め続けた。止めることだけが、世界を静かにする方法だった。


 でもこの世界では、止めるだけでは足りない。


 ほどく。


 逃がす。


 戻す。


 読む。


 そして次は、直さない判断を迫られる。


「……嫌だな」


 小さく呟く。


 だが、その嫌さの奥に、別の感情がある。


 怒り。


 誰かを試すために人を巻き込む相手への怒り。


 それから、少しだけ。


 本当に少しだけ。


 読んでしまった以上、次は間違えたくないという気持ち。


 真壁は布団をかぶった。


「……でも明日は休む」


 それだけは、強く決めた。


 直してはいけないものが何であれ。壊す者の手紙が何を意味していようと。明日くらいは寝たい。


 そう願いながら目を閉じた。


 しかし窓の外、王都の夜のどこかで、小さな金属音が鳴った。


 カン。


 真壁は目を開ける。


「……聞こえなかった」


 無理やりそう言って、布団を頭までかぶった。


 今夜だけは、聞こえなかったことにした。


    ◇


 翌朝、真壁は本当に休むつもりだった。


 少なくとも、本人の中ではその予定だった。起きる時間も決めない。朝食だけは食べる。食べたら部屋へ戻る。布団に入る。何も見ない。何も聞かない。できれば一日中、天井だけを見て過ごす。


 それが計画だった。


 だが、現実はだいたい計画通りにならない。


「真壁、起きているか」


 扉の向こうからララの声がした。


 真壁は布団の中で目を開けた。


「寝てます」


「なら返事をするな」


「寝言です」


「昨日も似たようなことを言っていたな」


「成長がないので」


「入るぞ」


「休みでは?」


「休みだ」


「じゃあなんで来るんですか」


「休み方を確認しに来た」


 そんな確認があるのか。


 真壁が抗議する前に扉が開いた。ララはいつもの騎士服ではなく、軽装だった。剣はある。だが肩の外套はなく、髪も少し緩くまとめられている。完全に勤務中という感じではない。


 真壁は布団から半分だけ顔を出す。


「本当に休みなんですか」


「少なくとも、お前を現場へ連れていく予定はない」


「その言い方、現場じゃない何かはありそうですね」


「ある」


「やっぱり」


 ララは机の上に盆を置いた。朝食だった。パンとスープと肉。しかも、肉が二切れある。


 真壁は布団から起き上がった。


「神ですか」


「騎士だ」


「休みの日の騎士、優しいですね」


「食堂に頼んだだけだ」


「頼んでくれるのが優しいんです」


 言ってから、真壁は少し気まずくなった。


 素直に褒めたつもりだったが、口に出してみると妙に近い。ララも一瞬だけ目を瞬かせた。だがすぐに咳払いをして、いつもの調子に戻る。


「食べながら聞け。今日はギルド設備管理部門で、昨日の黒い装置の解析会議がある」


「はい行きません」


「行かなくていい」


 真壁はパンを持ったまま止まった。


「行かなくていいんですか」


「ああ。お前は休む。ただし、解析結果だけはあとで共有する」


「じゃあ今の話、俺関係ないじゃないですか」


「関係はある」


「嫌な関係ですね」


 ララは椅子に座らず、壁際に立った。


「金属紙の文字について、ヴォルフが言っていた戦場の工兵部隊を調べる。正式記録に残っているかは分からないが、騎士団の古い資料に当たるつもりだ」


「ヴォルフさんって、信用していいんですか」


「完全にはできない」


「ですよね」


「だが、嘘を言う理由も今のところ薄い」


「面白がって嘘つきそうですけど」


「それはある」


「あるんだ」


 真壁はスープを飲む。温かい。胃に優しい。最近、食事がちゃんと出るだけでかなり人間として回復することを実感している。


 ララは続けた。


「それと、お前に一つ聞きたい」


「休みの日の質問は有料です」


「報酬は食事に含まれている」


「世知辛い」


「昨日の金属紙、まだ覚えているか」


 真壁の匙が止まった。


 忘れたいのに、覚えている。


 文字。


 刻み方。


 線の深さ。


 金属紙の丸まり方。


 まるで、触れた時の感覚ごと頭に残っている。


「……覚えてます」


「その文字に、装置と同じ癖はあったか」


「癖?」


「作り手の癖だ。金属紙の刻み方と、装置の組み方に共通点があるか」


 真壁は顔をしかめた。


「そういうの聞かれると、思い出しちゃうんですけど」


「すまない」


 ララはすぐに謝った。


 それが逆に真壁を止めた。


 無理に聞き出そうとしているわけではない。必要だから聞いている。それが分かった。


「……ありました」


 真壁はゆっくり言った。


「たぶん、同じ人です」


「なぜ分かる」


「中心のズラし方が同じ」


「中心?」


「はい。歯車の刻印も、装置の内部歯車も、金属紙の文字も、全部ちょっとだけ中心から外れてるんです。でも、ただ下手なわけじゃない。わざと外してる。見た人間が気になるくらいに」


 ララの目が細くなる。


「つまり、癖ではなく意図か」


「たぶん」


「見せるためのズレ」


「はい」


 言っていて、真壁はまた気持ち悪くなった。


 見せるためのズレ。


 気づかせるための歪み。


 真壁のような人間が、無視できないようにするための小さな不快感。


「……やっぱり俺宛てじゃないですか」


「可能性は高い」


「最悪だ」


 ララは少しだけ沈黙した。


「今日は休め。だが、もし思い出してつらくなったら、呼べ」


「呼ぶって、どうやって」


「扉の外に騎士を置く」


「それ休みですか?」


「護衛だ」


「監視では?」


「両方だ」


「正直すぎる」


 だが、真壁は強く拒否しなかった。


 窓の外に金属片を置かれたばかりだ。騎士がいる方が、まだましだった。


 ララは部屋を出ようとして、扉の前で立ち止まった。


「真壁」


「はい」


「昨日、お前は『向こうの問題に乗りたくない』と言ったな」


「言いました」


「あれは良い判断だ」


「そうですか」


「ああ。お前は、直すことに引っ張られる。だからこそ、直さない判断も必要になる」


 直さない判断。


 また、その言葉が胸に残る。


「……俺、そんな判断できる自信ないです」


「だから一人で判断させない」


 ララの声は静かだった。


「私がいる。ギルドの技師もいる。必要ならヴォルフも使う」


「ヴォルフさんは使えるんですか」


「使えるものは使う」


「騎士団長っぽい」


「褒めているのか」


「一応」


 ララは少しだけ笑った。


「なら受け取っておく」


 扉が閉まる。


 部屋に静けさが戻る。


 真壁は机の上の朝食を見る。肉が二切れ。スープはまだ温かい。今日は現場へ行かなくていい。少なくとも今は。


「……休みだ」


 自分に言い聞かせるように呟く。


 しかし、頭の奥ではまだ金属紙の文字が残っている。


 直してはいけないもの。


 考えたくない。


 でも考えてしまう。


 真壁は肉を口に入れた。


 うまい。


 少しだけ、世界がましになった。


    ◇


 昼前。


 真壁は部屋で本当に何もしようと試みていた。


 これは簡単そうに見えて、意外と難しい。


 前世では、何もしないことなど得意中の得意だった。四畳半の部屋にいて、動画をぼんやり眺め、時々紐を打ち、腹が減ったら何かを食べる。それだけで一日が過ぎた。


 だが今は違う。


 何もしようとしないと、余計な音が聞こえる。


 廊下の足音。


 遠くの訓練場の掛け声。


 石壁の向こうの配管。


 窓枠の小さな軋み。


 全部が以前より気になる。


「……静かって、難しかったんだな」


 真壁は寝台に仰向けになりながら呟いた。


 四畳半は静かだったのではない。


 知っている音だけでできていたのだ。


 冷蔵庫の唸り。


 車の遠音。


 蛍光灯の紐。


 隣室の生活音。


 全部、知っている。だから無視できた。


 この世界の音は、まだ知らないものばかりだ。


 だから全部が不安になる。


 コン。


 窓が鳴った。


 真壁は飛び起きた。


「来たな!?」


 窓の外にいたのは、ヴォルフだった。


 逆さまにぶら下がっている。


「元気じゃん」


「帰れ!!」


「休みだろ?」


「休みだから帰れって言ってるんです!」


 ヴォルフは器用に窓枠へ腰かけた。真壁は窓を閉めようとしたが、ヴォルフの足が挟まって閉まらない。


「足どけてください」


「やだ」


「ララさん呼びますよ」


「呼べば?」


 真壁は扉の方を見た。


 呼ぶべきだ。


 だが、呼ぶと騒ぎになる。


 休みが崩れる。


 それは嫌だ。


「……何しに来たんですか」


「暇つぶし」


「最悪の理由」


「あと、お前の顔見に」


「もっと最悪」


 ヴォルフは笑った。


「昨日の手紙、効いてる?」


「効いてません」


「嘘下手」


「効いてますけど、言いたくないんです」


「正直だな」


 真壁はため息をつき、椅子に座った。ヴォルフは窓枠に座ったまま、部屋の中を見回す。


「何にもねえ部屋だな」


「そこが良いんです」


「物が少ない方が落ち着く?」


「はい」


「壊れるものも少ないしな」


 真壁は黙った。


 ヴォルフは、こちらの嫌なところをすぐ突いてくる。


「……あんたさ」


 ヴォルフが不意に言った。


「犯人に似てるって思ったろ」


 真壁の顔が固まる。


「……何で分かるんですか」


「顔」


「俺そんな顔に出ます?」


「出る。あと、そりゃ思うだろ。構造を読む奴と、構造を壊す奴。鏡みたいで気持ち悪いよな」


 真壁は視線を落とした。


 それは言われたくなかった。


 でも、そう思った。


 犯人は、どこをズラせば全体が壊れるかを知っている。真壁は、どこをほどけば全体が戻るかを見てしまう。方向が違うだけで、見ているものが似ている。


「……嫌なんですよ」


「だろうな」


「俺と同じだと思われるの」


「同じではねえよ」


 意外な言葉だった。


 真壁は顔を上げる。


 ヴォルフは窓枠に肘をつき、外を見ていた。


「お前は、止めたいから見る。そいつは、壊したいから見てる。同じ構造を見てても、目的が逆だ」


「……でも、見えてるものは似てる」


「だから何だよ」


 ヴォルフは真壁を見る。


「剣を持ってる奴が全員同じか? 火を使う奴が全員放火魔か? 構造が見えるからって、壊す奴と同じになるわけじゃねえだろ」


 真壁は何も言えなかった。


 ヴォルフに正論を言われると、妙に腹が立つ。だが、少しだけ救われてもいた。


「……ヴォルフさん、たまにまともなこと言いますよね」


「いつもまともだろ」


「それはないです」


「ひでえな」


 ヴォルフは笑った。


「まあ、犯人はそう思わせたいんだろうな。お前と俺は同じだって。だから壊れ方で話しかけてくる」


「やっぱり最悪ですね」


「そういう奴は大体、最悪だ」


 ヴォルフの声が少しだけ低くなる。


「昔、いたよ。そういう工兵が」


「戦場の?」


「ああ。橋を落とす前に、わざと支柱を一本残す。城門を壊す前に、開けられる余地を残す。敵の技師に向けて、『お前なら分かるだろ』って傷を残す奴」


「……その人が犯人ですか」


「さあな。そいつは死んだはずだ」


「はず」


「戦場の死体確認なんて、信用できねえからな」


 真壁は嫌な顔をした。


「その人、名前は?」


 ヴォルフは少し黙った。


 そして、窓の外へ視線を向けたまま言った。


「針工師アルゴ」


 名前が出た瞬間、部屋の空気が少し変わった気がした。


 真壁はその名前を知らない。


 だが、ヴォルフの声色で分かった。


 ただの昔話ではない。


「アルゴ……」


「針みたいな工具で、何でも少しずつズラす奴だった。戦場じゃ嫌われてたよ。派手な破壊じゃなく、あとから効いてくる壊し方ばっかりする。飯倉庫の扉が三日後に外れる。井戸の滑車が一週間後に落ちる。橋が軍列の真ん中で沈む」


「最悪じゃないですか」


「最悪だよ」


 ヴォルフは笑っていなかった。


「でも、腕は良かった」


「褒めるんですか」


「腕だけな。性格は終わってる」


 真壁は小さく息を吐いた。


 針工師アルゴ。


 ズレた歯車。


 金属紙。


 直してはいけないもの。


 嫌なピースが少しずつ繋がっていく。


 そして、繋がってほしくなかった。


「……その人が生きてるとして、何で王都を壊すんですか」


「知らねえ」


「そこ大事では?」


「大事だな。でも俺は知らねえ」


 ヴォルフは肩をすくめる。


「ただ、もしアルゴなら、目的は単純な破壊じゃない。あいつは壊す相手を選ぶ。壊れ方を見せたい相手を探す」


「じゃあ、やっぱり俺が」


「かもな」


「最悪だ……」


 真壁は頭を抱えた。


「俺、戦場の工兵とか関係ないんですけど」


「向こうから見たら関係あるんだろ。二十年紐打って構造見えるようになった変な奴なんて、そりゃ珍しい」


「その説明やめてください。人生が惨めに聞こえるので」


「実際かなり変だし」


「知ってます」


 その時、廊下側の扉が開いた。


 ララだった。


 部屋の中を見て、窓枠のヴォルフを見て、一瞬で表情が硬くなる。


「……また窓か」


「やあ」


「降りろ」


「今いい話してたとこ」


「降りろ」


「はいはい」


 ヴォルフは窓の外へするりと出て、なぜか数秒後には普通に廊下側から入ってきた。


 真壁は思わず言う。


「どういう移動してるんですか」


「近道」


「怖い」


 ララはヴォルフを無視して、真壁へ視線を向ける。


「今、何を話していた」


 真壁はヴォルフを見る。


 ヴォルフは軽く手を振る。


「言っていいぜ。減るもんじゃねえし」


「針工師アルゴ、という名前を聞きました」


 ララの表情が変わった。


「アルゴ?」


「知ってるんですか」


「名前だけは。十数年前の北方戦役で、複数の砦を内部崩壊させた工兵の名だ。公式記録では死亡」


「公式記録では」


「そうだ」


 ララの声が重い。


「もし生きているなら、大問題だ」


 真壁は遠い目をした。


「大問題しか来ないですね最近」


「同感だ」


 ララはヴォルフを見る。


「なぜもっと早く言わなかった」


「確証がなかった」


「今はあるのか」


「半分くらい」


「低いな」


「でも、金属紙の刻み方と、装置の性格はかなり近い」


「性格で判断するな」


「工兵は性格が仕掛けに出る」


 ヴォルフの言葉に、ララは反論しなかった。


 真壁も、分かってしまった。


 仕掛けには、作った人間の癖が出る。


 それはもう見てしまった。


「ララさん」


「何だ」


「俺、今日休みですよね」


「ああ」


「この話、休みにする内容じゃなくないですか」


「そうだな」


「じゃあ今日の俺、休めてなくないですか」


 ララは少し黙った。


「……肉を増やす」


「神」


「騎士だ」


 ヴォルフが笑った。


「買収されてんじゃん」


「されてません。正当な慰謝料です」


「便利な言葉だな」


    ◇


 その日の午後、真壁は結局、部屋から出なかった。


 ララは約束を守った。


 現場へは連れて行かなかった。調査会議にも呼ばなかった。黒い装置の解析にも立ち会わせなかった。真壁は騎士団宿舎の部屋で、与えられた昼食を食べ、少しだけ眠り、起きて、また天井を見た。


 だが、完全な休みではなかった。


 頭の中に、針工師アルゴという名前が残っている。


 ヴォルフの昔話も。


 ララの表情も。


 金属紙の文字も。


 全部が残る。


 真壁は、逃げるのが得意だったはずだ。


 嫌なことから目を逸らし、面倒から距離を取り、人生をできるだけ狭くして生きてきた。そうすれば、傷つく量も、失敗する量も、怒る量も減る。


 でも今は、狭い部屋にいても外が入ってくる。


 音として。


 振動として。


 情報として。


 誰かが置いた金属片として。


「……四畳半に戻っても、同じかな」


 ふと、そんなことを思った。


 もし今、前の部屋へ戻れたとして。


 天井から垂れる紐を見たら、自分は以前と同じように打てるのだろうか。


 それとも、紐の付け根や蛍光灯の劣化や、天井板の歪みが気になってしまうのだろうか。


 冷蔵庫の音を聞いて、コンプレッサーの異常を感じてしまうのだろうか。


 換気扇の揺れを見て、軸のズレを直したくなるのだろうか。


「……嫌だな」


 戻りたいのに。


 戻っても、もう同じではないかもしれない。


 それが、一番嫌だった。


 夕方。


 ララが夕食を持ってきた。


 本当に肉が増えていた。


 真壁は無言で手を合わせた。


「神」


「騎士だ」


 いつものやり取り。


 だが、ララは今日は椅子に座った。


「少し話していいか」


「仕事じゃなければ」


「仕事ではない」


「じゃあどうぞ」


 ララは少し考えた。


「お前は、元の部屋に戻りたいと言う」


「はい」


「それは、元の生活に戻りたいという意味か」


 真壁は肉を噛む手を止めた。


 難しい質問だった。


「……前は、そうでした」


「今は違うのか」


「分かりません」


 正直に言った。


「戻りたいです。あの部屋は、俺の場所だったので。でも、もし戻っても、今みたいに色々見えるなら、もう前みたいには暮らせない気がして」


「……」


「それなら、俺はどこに戻りたいんだろうなって」


 ララは黙って聞いていた。


 真壁は自嘲気味に笑う。


「すいません。変な話しました」


「変ではない」


「そうですか」


「ああ。帰る場所が変わることはある」


 真壁はララを見る。


「ララさんにもあるんですか」


「ある」


 ララは少しだけ遠くを見るような目をした。


「騎士団に入る前、私にも家はあった。そこが私の帰る場所だと思っていた。だが、騎士になってからは違う。戻ることはできても、帰る場所ではなくなった」


「寂しい話ですね」


「そうだな」


 ララは認めた。


「だが、新しい場所ができることもある」


「騎士団ですか」


「ああ」


 真壁は部屋を見回した。


 石造りの壁。簡素な机。椅子。寝台。窓。余計なものは少ない。ここは四畳半ではない。だが、少しずつ知っている音が増えている。


 廊下の足音。


 食堂の匂い。


 ララのノック。


 遠くの訓練場。


 まだ落ち着くとは言えない。


 でも、完全に知らない場所でもなくなってきた。


「……ここを帰る場所にするには、労働が多すぎます」


 真壁が言うと、ララは少しだけ笑った。


「それは改善の余地がある」


「本当ですか」


「努力する」


「努力目標だ」


「そうだ」


 真壁も少しだけ笑った。


 その夜。


 真壁は久しぶりに、金属音ではなく、ララのノックの音を思い出しながら眠った。


 完全に安心したわけではない。


 針工師アルゴ。


 直してはいけないもの。


 ズレた歯車の印。


 それらはまだ、頭の隅にある。


 でも、それだけではなかった。


 帰る場所は、もしかしたら一つではないのかもしれない。


 そんなことを考えながら、真壁は目を閉じた。


 そして眠りに落ちる直前、ふと呟いた。


「……でも明日も休みたい」


 それだけは、相変わらず本心だった。

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