第19話
東側市場の昇降機事故から戻ったあと、真壁悠は騎士団宿舎の自室で、机の上に両手を置いたまま固まっていた。
右手は、まだ熱を持っている気がした。
実際には火傷をした蒸気管の時ほど痛むわけではない。市場で触れたのは、直接の金属ではなく、地下の駆動軸に噛まされた異物の「引っかかり」だった。距離もあった。触ったというより、見えてしまったズレに指先を合わせた、という方が近い。
それでも、感触は残っている。
ガン、と外れた金具。ふっと軽くなった負荷。補助滑車へ分散していく重さ。落ちかけていた昇降台が、ぎりぎりのところで安定へ戻る瞬間。
あれは、たぶん成功だった。
人は死ななかった。
作業員たちは助かった。
市場も大きな被害を受けなかった。
報酬も、たぶん出る。
だが、真壁の胃はまったく軽くならなかった。
「……試されてるって、何だよ」
誰もいない部屋で、ぼそりと呟く。
ララ・バーンは市場で言った。
犯人は、真壁が修復していることを把握し始めているかもしれない。
つまり、蒸気管や昇降機はただの破壊工作ではなく、真壁を現場に引きずり出し、その反応を見るための罠でもある可能性がある。
「(いや、やめろよ。俺で実験するなよ)」
真壁は机に額を押しつけた。
意味が分からない。
なぜ自分なのか。
ついこの間まで、四畳半で紐を打っていただけの男だ。社会から逃げ、外へ出ず、面倒なものをすべて避けてきた人間だ。それが異世界へ飛ばされた途端、街の設備を壊す謎の相手に試されている。
展開が急すぎる。
人生のテンポが合わない。
「(もっと序盤は、薬草仕分けとか、倉庫整理とか、そういうのでいいだろ……)」
現実は、読者に優しくない。
いや、読者ではない。自分だ。
コン、コン。
扉が鳴った。
真壁は顔を上げずに言った。
「今日はもう働きません」
「働けとは言っていない」
ララの声だった。
「入るぞ」
扉が開く。
ララはいつもの騎士服ではなく、軽装だった。だが腰には剣がある。完全な休憩モードではない。つまり、嫌な話がある。
真壁はその判断に、もう少し自信を持ち始めていた。
「嫌な話ですね」
「必要な話だ」
「ほら」
ララは机の向かいに座った。手には数枚の紙。地図と報告書だ。真壁は見たくなかったが、見えてしまう。赤い印。線。番号。嫌な情報の気配がする。
「市場の昇降機から回収された金具の解析が終わった」
「早くないですか」
「ギルドの設備管理部門が総出でやっている」
「俺のせいで忙しくなってません?」
「お前のせいではない。破壊工作をしている者のせいだ」
ララはきっぱり言った。
そう言われると少し楽になるが、完全には楽にならない。
「で、何が分かったんですか」
「金具は市販品ではない。鐘塔、水門、北門、蒸気管、それぞれの現場から見つかった異物と材質が近い。すべて、同じ工房、あるいは同じ技術体系で作られている可能性が高い」
「技術体系」
嫌に本格的な話になってきた。
「つまり、犯人は設備に詳しい人間ですか」
「おそらくな。しかも王都の古い構造を知っている。新しい図面ではなく、旧設備の名残や封鎖済みの経路を利用している」
「内部犯?」
「その可能性もある」
ララの声が低くなる。
「ただし、騎士団、ギルド、王都工務局、古い設備に関わった退役技師、外部工房。候補が多すぎる」
真壁はため息を吐いた。
「そういうの、ララさんたちで頑張るやつじゃないですか」
「そうだ」
「俺、帰っていいやつじゃないですか」
「お前にも関係がある」
「ですよね」
分かっていた。
聞きたくなかっただけだ。
ララは地図を広げる。王都の東西南北に赤印が散っている。これまでの現場だ。そのうちいくつかは真壁が直接関わった場所。残りは報告だけが上がっている異常地点。
ララは赤印を指で結んだ。
「市場の昇降機まで含めると、異常地点は円を描くように広がっている」
真壁は地図を見る。
確かに、そう見える。
水門、鐘塔、北門、蒸気管、東市場。
王都の中心から少し外れたあたりを、ゆるく囲むような配置。
「……包囲?」
真壁が呟く。
ララの視線が上がった。
「そう見えるか」
「いや、なんとなくですけど。街の中心を直接狙うんじゃなくて、周りから変にしてる感じ」
「私も同じ見方をしている」
嬉しくない一致だった。
「中心には何があるんですか」
「王城、中央広場、行政庁舎、大聖堂、上水制御塔」
「重要そうなのばっかりですね」
「重要だ」
ララは地図の中央を指す。
「もし周辺設備を不安定にしたまま中心部へ負荷を流せば、一斉に障害が起きる可能性がある」
「一斉に」
「水、警報、蒸気、物流。全部が同時に乱れれば、王都は混乱する」
真壁は顔をしかめた。
嫌な話だった。
ただの事故ではない。
街を少しずつ壊す。
外側から、内側へ。
「……それ、普通に大事件じゃないですか」
「大事件だ」
「俺、関わる規模じゃなくないですか」
「本来ならな」
「本来ならって言葉、嫌いになりそうです」
ララは小さく息を吐いた。
「だが、犯人はお前を意識している可能性がある」
「そこが一番嫌です」
「市場の仕掛けは、明らかにお前の介入を見越していた。完全に落とすのではなく、ぎりぎりで止められる余地を残していた」
「試験問題みたいに言わないでください」
「実際、そう見える」
真壁は顔を覆った。
「俺、問題解くの苦手なんですけど」
「解いた」
「解きたくなかったです」
ララは少しだけ口元を緩めたが、すぐに表情を戻した。
「だから、次は待つだけでは駄目だ」
「嫌な流れですね」
「こちらから読む」
「読む?」
「次に仕掛けられる場所を予測する」
真壁は顔を上げた。
予測。
それは少しだけ意外な言葉だった。
今までは、異常が起きてから呼ばれていた。水門が変だ、鐘が鳴りにくい、蒸気圧が乱れる、昇降機が暴走する。真壁はそのたびに現場へ行き、嫌々ながら見て、触って、止めてきた。
だが今回は違う。
壊れる前に見つける。
真壁の中で、嫌な感覚と少し違うものが生まれた。
「……壊れる前なら、まだ怖くないですかね」
ララが頷く。
「そうだ。事故が起きてからでは負荷も大きい。お前の負担も増える。なら、仕掛けが作動する前に見つける方がいい」
「俺の負担を気にしてくれるんですね」
「当然だ」
即答だった。
真壁は少しだけ言葉に詰まった。
当然。
ララはそう言った。
利用するだけなら、壊れるまで待って真壁を現場に投入すればいい。その方が効果は分かりやすい。報酬も出る。真壁の力も試せる。
だがララは、そうしない。
真壁が壊れる前に止めようとしている。
それが、少しだけ分かる。
「……じゃあ、何を見るんですか」
真壁は聞いた。
ララは地図上の赤印を指した。
「異常地点を線で結ぶと、次に狙われる可能性が高い場所がいくつかある。特にここ」
指先が止まる。
王都中央寄り、西南の境界。
「旧配送管制所。今はほとんど使われていないが、地下の配送路と市場の昇降機、いくつかの倉庫へ繋がっている」
「地下の配送路」
「古い時代、王都内で物資を運ぶために使われていた小型軌道だ。今は一部だけ倉庫用に残っている」
真壁は嫌な予感で顔をしかめた。
「軌道って、レールとか車輪とかあるやつですか」
「ああ」
「絶対うるさいやつじゃないですか」
「だろうな」
「帰っていいですか」
「まだ行っていない」
ララは地図をたたむ。
「今日は下見だけだ。動いていない施設を見る。危険なら即撤退する」
「今日なんですか」
「明日では遅いかもしれない」
「そう言われると断りにくいんですよ」
「分かっている」
「分かってて言ってますね」
「そうだ」
ずるい。
だが、正直だった。
真壁は椅子の背にもたれ、天井を見た。
静かな部屋。
狭い空間。
本当なら一日中ここにいたい。
だが、もし次の仕掛けが本当に旧配送管制所にあるなら。
それが動き出したら。
市場の昇降機みたいに、人が閉じ込められるかもしれない。
蒸気管みたいに、爆発するかもしれない。
鐘塔みたいに、落ちるかもしれない。
「……確認だけ」
真壁は小さく言った。
「危なかったら帰ります」
「約束する」
「報酬は」
「出させる」
「じゃあ行きます」
「現金だな」
「それも分かってて言ってますよね」
「そうだ」
◇
旧配送管制所は、西南倉庫街の奥にあった。
今まで行ったどの現場よりも、地味な建物だった。石造りの低い倉庫。錆びた鉄扉。壁にかすれた管理番号。表には人通りも少なく、近くの倉庫番が時折荷物を運ぶだけだ。
「ここ、今は使ってないんですよね」
真壁が聞く。
ララは頷いた。
「正式には休止中だ。ただし、地下配送路の一部は倉庫間連絡に使われている。完全な廃墟ではない」
「完全な廃墟の方が諦めつくんですけど」
「諦めるな」
「諦めたい」
同行しているのは、ララ、真壁、ギルド設備管理部門の若い職員一人、そして騎士二名。ヴォルフはいない。少なくとも見える範囲には。
それが逆に不気味だった。
「……今日、あの人いませんね」
真壁が小声で言うと、ララは周囲を見た。
「見えないだけかもしれない」
「怖いこと言わないでください」
「警戒はしている」
鉄扉を開ける。
中は暗かった。
埃の匂い。
古い油の匂い。
金属の錆びた匂い。
床には細いレールが走っていた。小型の荷台を動かすための軌道らしい。壁には操作盤があり、いくつものレバーと歯車、今は止まっている表示板が並んでいる。
見た瞬間、真壁は眉をひそめた。
「……ここ、静かじゃない」
若い職員が驚く。
「え? 稼働していませんが」
「動いてないのに、うるさいです」
ララが真壁を見る。
「何が見える」
「レール」
真壁は床を指す。
「使われてない部分と使われてる部分が、変に繋がってます。あと、奥の操作盤。そこだけ新しい傷がある」
若い職員が慌てて操作盤へ走る。
「本当だ……。封印板が外されています」
ララの目が鋭くなる。
「誰かが触ったな」
真壁はレールを見る。
細い線。
荷重の流れ。
車輪の跡。
そして、使われていないはずの枝分かれ。
「……これ、どこへ繋がってるんですか」
職員が図面を広げる。
「ええと、この枝線は旧中央倉庫方面です。現在は閉鎖済みのはずですが……」
「閉鎖済み、信用できないランキング上位ですね」
「すみません……」
「いや、あなたが悪いわけじゃないです」
真壁はゆっくり歩いた。
レールの近くへ。
触らない。
見るだけ。
揺れてはいない。
だが、ズレている。
動き出す前のズレ。
「……ララさん」
「何だ」
「ここ、まだ事故になってないです」
「ああ」
「でも、もう仕掛けられてます」
ララの表情が変わる。
「どこだ」
「たぶん、操作盤と枝線。荷台が動いたら、閉鎖済みの方へ流れるようになってる」
若い職員が青ざめる。
「そんな……。もし倉庫用の荷台が切り替わったら、旧中央倉庫方面へ勝手に走ることになります」
「その先は」
「廃路です。壁で塞がれているはずです」
真壁は嫌な予感がした。
「壁で塞がれてると、どうなるんですか」
「速度次第では衝突します。荷台も積み荷も壊れますし、人が乗っていたら……」
全員が黙る。
真壁は深く息を吐いた。
「……やっぱり試験問題じゃん」
ララが聞き返す。
「試験問題?」
「これ、まだ起きてない事故ですよね。仕掛けだけされてる。見つけられるか試されてるみたいです」
言ってから、真壁は自分で嫌になった。
本当にそうだ。
今回は事故が起きていない。
だが、起こせる状態になっていた。
真壁が見つけるかどうかを、誰かが見ている。
「……ヴォルフさん、います?」
真壁が周囲を見る。
返事はなかった。
だが、遠くで小さく金属が鳴った。
カン。
全員が振り向く。
奥の暗がり。
誰かがいた。
いや、正確には影だけが動いた。
ララが剣を抜く。
「誰だ!」
返事はない。
代わりに、操作盤の奥で歯車が動いた。
ガコン。
レールの切替装置が作動する。
「まずい!」
職員が叫ぶ。
奥から、小型荷台が動き出した。
誰かが起動したのだ。
空荷ではない。
上に木箱が積まれている。
しかもその中から、かすかに人の声がした。
「おい! 何だこれ!」
「出してくれ!」
真壁の血の気が引く。
「人いるじゃん!!」
「倉庫番か!」
ララが走る。
騎士たちも追う。
荷台はレールに沿って加速する。切替装置は、封鎖された枝線へ向いている。このまま行けば、旧中央倉庫方面の壁へ突っ込む。
「止める!」
騎士の一人がレバーへ手を伸ばす。
「駄目!!」
真壁が叫ぶ。
レバーは罠だ。
止めれば、ロックが噛む。
荷台の後輪だけが止まり、前側が跳ねる。
積み荷が崩れる。
人が潰れる。
「止め方まで仕掛けてある!」
ララが顔をしかめる。
「ならどうする!」
「曲げる!」
「何をだ!」
「流れを!」
真壁は走った。
レールの切替部。
そこに全部が集まっている。
枝線へ誘導するための金具。
本線へ戻すためのロック。
無理やり追加された小さな楔。
そこだ。
あれを外せば、本線へ戻る。
だが、タイミングを間違えれば脱線する。
「(最悪だ……!)」
荷台が近づく。
車輪の音。
ガラガラガラガラ。
うるさい。
速い。
怖い。
「真壁!」
ララの声。
右手が上がる。
触る場所は見えている。
だが遠い。
一瞬しかない。
「……そこ!!」
――パツン。
楔が外れた。
切替金具が跳ねる。
レールの向きが戻る。
荷台の車輪が、ギリギリで本線へ入る。
ガタンッ!!
大きく揺れる。
木箱が崩れかける。
ララが飛び込み、荷台の側面を押さえた。
騎士たちも加わる。
荷台は速度を落とし、壁の手前で止まった。
中から倉庫番らしき男が二人、震えながら這い出してくる。
「た、助かった……!」
「何だったんだ今の……!」
真壁はその場に膝をついた。
「……確認だけって言ったじゃん」
誰に言うでもなく呟いた。
ララが周囲を見回す。
「犯人は」
「奥です!」
騎士が叫ぶ。
暗がりの奥で、影が走る。
ララが追おうとした瞬間、別の方向から軽い声がした。
「そっちじゃねえよ」
ヴォルフだった。
天井近くの梁に座っている。
「逃げたのは囮。本体はもう外」
ララが睨む。
「いつからいた」
「最初から」
「なぜ黙っていた」
「見たかったから」
「お前……」
ララの声に怒気が混じる。
ヴォルフは肩をすくめる。
「でも、ほら。ほどき屋、ちゃんと読めたじゃん」
真壁は顔を上げた。
「読めた?」
「事故が起きる前に仕掛けを見つけた。動き出してからも、止めるんじゃなくて流れを戻した。成長してんじゃん」
「嬉しくないです」
「でも事実だ」
ヴォルフは暗い管制所の奥を見る。
「犯人も、たぶん見てたぜ」
その言葉で、真壁の背筋が冷える。
「見てた?」
「ああ。お前が解くところをな」
ララが低く言う。
「やはり試しているのか」
「そうだろうな」
ヴォルフの声が少しだけ真面目になる。
「しかも今ので、向こうも分かったはずだ。こいつは“起きた事故”だけじゃなく、“起きる前の事故”もほどけるって」
真壁は自分の右手を見た。
まただ。
できることが増えている。
増えたくないのに。
静かに生きたいだけなのに。
見える。
読める。
止められる。
それがどんどん証明されてしまう。
「……最悪だ」
心から言った。
ララは真壁の横に立つ。
「だが、今回は人を救った」
「それ言われると反論しにくいんですよ」
「事実だ」
真壁はうつむいた。
倉庫番たちは助かった。
それはよかった。
本当に。
でも、自分が何かを助けるたび、次の面倒が近づいてくる。
「……ララさん」
「何だ」
「俺、これからもっと試されます?」
ララは少し沈黙した。
それから答えた。
「おそらくな」
「正直すぎる」
「だが、一人ではさせない」
真壁は彼女を見た。
ララの表情は硬い。
だが、声はまっすぐだった。
「犯人が試すというなら、こちらも読む。お前一人に解かせるつもりはない」
ヴォルフが梁の上で笑う。
「俺もいるしな」
「お前はいらないです」
「冷たいねえ」
真壁は深く息を吐いた。
旧配送管制所の中は、まだ油と錆の匂いがした。
助かった人間がいる。
逃げた犯人がいる。
見ていたヴォルフがいる。
隣にはララがいる。
そして、真壁の右手は、また一つ「できてしまった」感触を覚えている。
「……帰りたい」
真壁は呟いた。
ララは言った。
「今日は帰る」
「本当に?」
「ああ。約束した」
それだけで、真壁は少しだけ救われた。
静かな部屋へ帰れる。
少なくとも今日は。
だが彼はもう分かっていた。
次の問題は、きっとすぐに来る。
そして自分はたぶん、また見てしまう。
壊される前の音を。
◇
管制所を出る頃には、外の空気がやけに冷たく感じられた。
別に冬ではない。むしろ昼前の倉庫街は、荷運びの人間たちの熱気と馬の匂いでむっとしている。だが、地下に近い管制所の中で油と錆と古い木材の匂いに包まれていたせいか、外へ出た瞬間、真壁は少しだけ息がしやすくなった。
それでも、楽にはならない。
助け出された倉庫番二人は、騎士たちに支えられながら震えていた。怪我は軽い。だが荷台の中に閉じ込められ、壁へ向かって走らされた恐怖は、しばらく抜けないだろう。
真壁は、その二人を見ないようにした。
礼を言われるのが怖かった。
責められるよりはいい。もちろん、助けてくれてありがとうと言われる方が、怒鳴られるよりずっといい。だが、感謝は感謝で重い。期待と似た重さがある。自分が何かをできる人間だと認識されるたび、次に逃げる理由が一つ減っていく気がする。
「真壁さん!」
しかし、逃げる前に呼ばれた。
倉庫番の一人だった。年は三十前後。顔色はまだ悪いが、真壁を見る目にははっきりした熱がある。
「ありがとうございました。あのままだったら、本当に死んでました」
「……いや、俺はその、たまたまなので」
「たまたまでも助かりました」
「それは……まあ、よかったです」
真壁は視線を逸らす。
もう一人の倉庫番も頭を下げた。
「荷台が分岐へ入った時、もう終わったと思いました。壁にぶつかるって分かってたのに、どうにもできなくて」
「……怖かったですよね」
真壁は思わず言った。
自分でも意外だった。
倉庫番は少し驚いた顔をして、それから頷く。
「怖かったです」
「ですよね」
真壁は小さく息を吐いた。
「俺も怖かったです」
その一言に、倉庫番二人はなぜか少しだけ笑った。馬鹿にする笑いではない。張り詰めたものが緩むような笑いだった。
「助けた人も怖かったなら、まあ、怖くて当然ですね」
「当然です。あんなの怖いです」
真壁は真顔で言った。
ララが横で少しだけ目を伏せる。笑ったのかもしれない。だが、すぐにいつもの表情へ戻った。
「二人は医務室へ。後で事情を聞く」
「はい」
騎士に連れられ、倉庫番たちは離れていった。
その背中を見送りながら、真壁は少しだけ胸の奥が変な感じになった。
助けてよかった。
それは本当だ。
だが、助けられる自分になってしまったことが怖い。
矛盾している。
けれど、その矛盾こそが今の真壁だった。
「悪くない顔してるじゃん」
頭上から声が降ってきた。
ヴォルフだった。いつの間にか建物の庇に寝転がっている。
真壁はすぐ嫌な顔をした。
「余韻を台無しにしないでください」
「余韻あったのか」
「今ちょっとありました」
「そりゃ悪い」
「絶対思ってないですよね」
「思ってない」
正直だった。
ララがヴォルフを見上げる。
「お前はなぜ追わなかった」
「犯人?」
「ああ」
「追っても逃げられた。あいつ、逃げ道を用意してたからな」
「知っていたなら言え」
「言ったじゃん。そっちじゃねえって」
「もっと早くだ」
「俺、騎士じゃねえし」
ララの眉が動く。
ヴォルフは怠そうに起き上がり、庇の上で片膝を立てた。
「でも、一つ教えてやるよ」
空気が少し変わった。
真壁も、嫌々ながら顔を上げる。
「犯人、たぶん一人じゃねえ」
ララの目が鋭くなる。
「根拠は」
「逃げ方が分担されてた。操作盤を動かした奴、荷台に人を閉じ込めた奴、外で見張ってた奴。最低三人」
「見たのか」
「気配だけな」
「なぜ捕まえなかった」
「俺が捕まえたら、話聞く前に壊れるかもしれねえだろ」
軽い調子だったが、真壁は笑えなかった。
たぶん冗談ではない。
ララも同じ判断をしたのか、少しだけ沈黙した。
「組織的な破壊工作か」
「だろうな。しかも、そいつらは設備だけじゃなく、人の動きも分かってる。今日の倉庫番二人も、偶然乗ってたわけじゃねえかもな」
真壁の背筋が冷えた。
「……どういう意味ですか」
「お前を動かすには、人を危ない目に遭わせるのが一番早いってこと」
真壁は言葉を失った。
ララの声が低くなる。
「ヴォルフ」
「怒るなよ。俺がやったわけじゃねえ」
「分かっている」
「でも相手はたぶん分かってるぜ。お前らがどう動くか。騎士さんは人命優先。ほどき屋は、見えちまったら手を出す。なら、次からも人を置くだろうな。罠の中に」
吐き気がした。
設備だけではない。
人も部品のように配置されている。
真壁を動かすための要素として。
「……最低だ」
真壁は小さく言った。
自分でも驚くくらい、低い声だった。
ヴォルフの目が、ほんの少し細くなる。
「怒った?」
「怒ってないです」
「嘘だな」
「……気持ち悪いだけです」
本当は怒っているのかもしれない。
だが、怒り慣れていない真壁には、それを怒りとして扱う方法が分からなかった。ただ、胸の奥が重くて、指先が冷たくて、頭の中のどこかがずっとざらざらしている。
人を使う。
設備を壊す。
事故に見せる。
そして真壁を試す。
壊れ方が、あまりにも気持ち悪い。
「ララさん」
「何だ」
「次、もし同じようなことがあったら」
真壁は少し言葉に迷った。
「先に、人を逃がしたいです」
ララは真壁を見た。
「設備よりもか」
「はい」
「当然だ」
即答だった。
「お前が言うまでもない。人命が最優先だ」
「……ですよね」
「だが、お前がそれを先に言ったことは覚えておく」
「覚えなくていいです」
「覚える」
真壁は困ったように顔をしかめた。
ヴォルフが庇の上で笑う。
「いいじゃん。ちょっと主人公っぽい」
「それが嫌なんです」
「でも似合ってきたぜ」
「似合いたくない」
真壁は本気で言った。
◇
騎士団宿舎へ戻る途中、ララは真壁に一度だけ休憩を取らせた。
西南倉庫街から騎士団宿舎までは、歩けばそれほど遠くない。だが、今日の真壁は明らかに消耗していた。身体ではなく、頭と神経が疲れている。ララもそれを分かっているらしく、途中の小さな広場で足を止めた。
噴水のある広場だった。
真壁は噴水を見た瞬間、顔をしかめる。
「水……」
「見なければいい」
「音がします」
「では離れるか」
「いや、大丈夫です。たぶん」
真壁は噴水から少し離れた石段に座った。
水音はする。だが、水門ほどではない。噴水の流れは比較的整っている。見続けると気になるが、視線を外せば耐えられる程度だった。
ララは隣ではなく、少し前に立った。
周囲を見張れる位置。
だが、真壁から遠すぎない距離。
その配置に、真壁は少し慣れてきていた。
「ララさん」
「何だ」
「俺、怒ってます?」
ララは少しだけ振り返った。
「なぜ私に聞く」
「自分だとよく分からないので」
「……怒っているように見える」
「そうですか」
「ああ」
真壁は自分の手を見る。
「昔から、あんまり怒らないようにしてたんですよ」
「なぜだ」
「怒ると面倒になるからです」
ララは黙って聞いている。
「怒っても、何か変える力がないと、ただ疲れるだけじゃないですか。親に怒っても、学校に怒っても、会社とか社会とか、そういうのに怒っても、結局何も変えられないし。だったら最初から怒らない方が楽で」
「それで部屋にいたのか」
「まあ……それだけじゃないですけど」
真壁は苦笑した。
「でも、今回のはちょっと気持ち悪いです。俺を試すために、人を乗せたまま荷台を走らせたかもしれないって。そういうの、何か……嫌です」
「それは怒りでいい」
ララが言った。
真壁は顔を上げる。
「怒りでいいんですか」
「ああ。誰かが人を道具のように扱った。それを不快に思うのは自然だ」
「……」
「お前は自分の感情に理由を求めすぎる」
真壁は少し黙った。
「理由ないと不安なんですよ」
「理由があっても不安だろう」
「それはそう」
ララはわずかに笑った。
真壁も、少しだけ肩の力が抜けた。
噴水の音がする。
だが今は、それほど嫌ではなかった。
「怒っていいなら」
真壁は小さく言った。
「俺、ちょっと怒ってます」
「そうか」
「はい」
「なら、その怒りで暴走するな。使い方を考えろ」
「急に訓練みたいにしないでください」
「大事なことだ」
「分かってますけど」
ララは真壁の右手を見た。
「お前の手は、感情に引っ張られる。嫌悪、恐怖、不快感、そしておそらく怒りにも」
「……ですね」
「なら、怒った時ほど止まれ」
「難しいです」
「だから練習する」
「また訓練」
「必要だ」
真壁は深く息を吐いた。
「でも今日はもうやりません」
「やらせない」
「本当ですか」
「ああ。今日は帰ると言った」
その約束を、ララは守る。
真壁はもう、それを少し信じられるようになっていた。
◇
宿舎へ戻ると、ギルドから報酬の仮支払いが届いていた。
真壁は、机の上に置かれた袋を見てしばらく黙った。
「……多い」
「人命救助と設備損壊防止。危険手当込みだ」
ララが説明する。
「これ、また命の危険価格ですよね」
「そうだな」
「慣れるとまずい」
「慣れるな」
「はい」
真壁は袋を開け、銅貨と銀貨を確認した。
銀貨がある。
銀貨。
登録料として最初に必要だった、あの銀貨。
少し前まで一枚も持っていなかったものが、今は報酬袋の中に入っている。
「……正式登録できちゃいますね」
真壁が呟くと、ララが少し反応した。
「するのか」
「しません」
「即答だな」
「正式登録したら、正式に仕事振られるじゃないですか」
「仮登録でも振られているが」
「言わないでください」
それでも、銀貨の重みは特別だった。
この世界で生きるための入口。
昨日までは遠かったもの。
今は、手の中にある。
喜んでいいのか、怖がるべきか分からなかった。
その時、窓の外から軽い声がした。
「登録しとけよ」
真壁は即座に窓から離れた。
「また来た!!」
ヴォルフが窓枠の外にぶら下がるようにしていた。
ララが剣に手を伸ばす。
「窓から入るなと言ったはずだ」
「まだ入ってねえよ」
「屁理屈だ」
ヴォルフは笑いながら、片手で窓枠にぶら下がったまま真壁を見る。
「正式登録しといた方がいいぜ。これから仕事増えるから」
「最悪の営業やめてください」
「あと、犯人の名前もそのうち必要になる」
ララの動きが止まる。
「何か掴んだのか」
「名前じゃねえけど、印なら」
「印?」
ヴォルフは懐から小さな金属片を投げた。
ララが受け取る。
薄い金具。
そこには、小さな刻印があった。
歯車のような円。
その中心に、一本の針。
「市場の仕掛け近くに落ちてた」
ヴォルフが言う。
「たぶん、わざと残したんだろうな」
真壁はその刻印を見た瞬間、嫌な感じがした。
形が気持ち悪い。
歯車の中心が、わずかにズレている。
わざとだ。
完全な円ではない。
中心がほんの少しずれている。
見ているだけで、直したくなる。
「……これ」
真壁が言う。
「犯人のマークですか」
「さあな」
ヴォルフは笑った。
「でも、お前宛てっぽいよな」
「嫌です」
真壁は即答した。
だが、目を逸らせなかった。
歯車。
針。
ズレた中心。
それはまるで、真壁に向かってこう言っているようだった。
見えるなら、直してみろ。
真壁は拳を握った。
怖い。
嫌だ。
面倒だ。
だが同時に、胸の奥で小さな怒りがまだ残っていた。
人を道具にして、街を壊して、こちらを試す何者か。
そいつが残した、気持ち悪い印。
「……ララさん」
「何だ」
「これ、見てると腹立ちます」
ララは静かに頷いた。
「なら、覚えておけ」
「はい」
真壁は頷いた。
嫌だった。
ものすごく嫌だった。
でも、覚えた。
ズレた歯車の印。
それを見た瞬間の気持ち悪さを。
そして、自分が少しだけ怒っていることを。
その夜、真壁悠は久しぶりに、ただ逃げたいだけではない感情を抱えたまま眠ることになる。
もっとも、寝る直前に考えていたのは結局、
「……銀貨、使わず貯めとこう」
という、極めて現実的なことだった。




