第17話
騎士団宿舎の地下へ向かう階段は、思っていたよりも狭かった。
石造りの壁は湿っていて、手すり代わりの鉄棒には細かな錆が浮いている。足を下ろすたび、靴底から鈍い反響が返ってきた。地上の廊下で聞こえていた騎士たちの足音や話し声は、階段を数段下りただけで遠くなる。代わりに、奥の方から別の音が聞こえてきた。
シュー、という細い音。
時折、ゴン、と低い音。
そして、金属の内側を何かが走るような、微かな震え。
「……もう嫌な音してますけど」
真壁悠は、階段の途中で足を止めた。
先頭を歩くララ・バーンが振り返る。手には小さなランタン。光に照らされた銀髪が、地下の湿った空気の中で妙に硬く見えた。
「まだ設備室の手前だ」
「手前でこれなら中はもっと嫌ですよね」
「そうだろうな」
「否定してほしかった」
「嘘をついても仕方ない」
正論だった。正論はいつも真壁に優しくない。
後ろにはギルド設備管理部門の職員が二人ついてきている。昨日、書類を持って宿舎に来た若い職員と、蒸気設備を担当しているらしい中年の技師だ。技師は大きな工具鞄を肩にかけ、額に汗を浮かべている。階段を下りるだけで汗をかいているのではない。緊張しているのだ。
それがまた嫌だった。
専門家が緊張する現場に、素人の引きこもりを連れてこないでほしい。
「一応、確認なんですけど」
真壁は左手で右手を押さえながら言った。
「今日は確認だけですよね」
「ああ」
ララが答える。
「お前に無理な修復はさせない。状態を見て、危険と判断したら撤退する」
「本当に?」
「本当だ」
「じゃあ、俺が『危険です』って言ったら帰れます?」
「理由を聞く」
「理由を言えたら?」
「撤退を検討する」
「検討……」
真壁は深いため息を吐いた。
期待しすぎる方が悪いのかもしれない。
階段を下りきると、分厚い鉄扉があった。扉の表面には騎士団の紋章と、蒸気管管理区域を示す注意書きが刻まれている。真壁にはその文字が読めた。読めることにも、もう驚かなくなってきている。異世界の文字が読めることより、目の前の鉄扉の継ぎ目が微妙に歪んでいることの方が気になった。
「……この扉、少しズレてます」
真壁が言うと、中年技師がぎくりとした。
「分かりますか」
「見れば」
「最近、開閉が重くなっていたんです。蒸気圧の影響かと思っていたのですが……」
「扉の下側に負荷が寄ってます。蝶番じゃなくて、枠の方が沈んでる」
言ってから、真壁は口を閉じた。
しまった、と思う。
見れば分かる。分かるから言ってしまう。すると、また「使える」と判断される。この流れはもう何度も経験している。
案の定、技師の目が変わった。
ララがすぐに間へ入るように言った。
「記録だけにしろ。今は中を見る」
「は、はい」
技師が鍵を差し込み、扉を開ける。
重い音とともに、熱気が漏れた。
真壁は反射的に半歩下がった。
「うわ……」
地下設備室は、想像以上に広かった。
天井は低いが、奥行きがある。壁沿いには太い蒸気管が走り、床には細い管が何本も這っている。圧力計らしき丸い計器が壁に並び、いくつかの弁が赤や青の札で区別されていた。ところどころに水滴がつき、熱で白い湯気が薄く漂っている。
音が多い。
水門のような流れではない。
鐘塔のような響きでもない。
蒸気管の中を走る圧力。金属の膨張。弁の震え。接合部の微かな擦れ。熱せられた空気が逃げ場を探す音。それらが全部、壁の内側、床の下、管の奥で鳴っている。
見えないのに、見える。
それが最悪だった。
「……帰りたい」
「早い」
ララが即座に返した。
「いや、これ無理なやつです。見えないところがうるさい」
「見えないところ?」
「管の中です。音だけじゃなくて、圧が偏ってる感じがする」
中年技師の顔色が変わる。
「圧の偏り……。やはり、計器の不具合ではなく実際に内部圧が乱れているのか」
若い職員が紙にメモを取る。
真壁は嫌な予感がして、慌てて言った。
「俺は専門家じゃないですからね。感覚です。感覚」
「その感覚で鐘塔と水門と見張り塔を見抜いたのだろう」
ララが言う。
「味方のはずの人が逃げ道を塞がないでください」
「事実だ」
「事実が敵なんですよ」
技師は奥の大きな蒸気管へ近づいた。太さは真壁の胴ほどもある。赤茶けた鉄管で、何度も補修された跡があった。管の途中に大きな弁があり、その周囲だけ新しい金具で固定されている。
「異常が出ているのは、この主蒸気管です。兵舎と浴場、厨房の一部へ熱を送っています。数日前から圧が急に上がったり下がったりしていて、弁を調整しても安定しません」
「止められないんですか」
真壁が聞くと、技師は苦い顔をした。
「完全停止すると、兵舎全体の湯と暖房が止まります。短時間なら可能ですが、原因が分からないまま再稼働するのは危険です」
「じゃあ止めましょう。安全第一で」
「停止作業中に圧が跳ねる可能性があります」
「詰んでません?」
技師は何も言わなかった。
真壁はララを見た。
「これ危険です。帰りましょう」
「危険なのは分かった。だが、どこが危険か分からなければ止める手順も決められない」
「そういう流れになると思いました」
ララは少しだけ真壁を見る目を柔らかくした。
「無理はさせない。お前は近づかず、見える範囲だけで言え」
「見える範囲が多すぎるんですけど」
「では、順番に絞る。まず音だけを聞け」
「音だけ」
「目を閉じろ」
真壁は嫌々ながら目を閉じた。
視界が消える。
少しだけ楽になる。
だが、蒸気管の音は残る。むしろ、音だけになると流れが強調される。シュー、ゴン、コツ、カン。金属の中で圧力が押し合い、逃げ場を探し、どこかにぶつかっている。
真壁は眉をひそめた。
「……三つ」
「何がだ」
「変なところ、三つあります」
目を閉じたまま、真壁は指で方向を示す。
「手前の弁。奥の細い管。あと、床の下」
技師が驚いたように振り向く。
「床下?」
「はい。下で何か、詰まってるというか……戻ってきてる」
「排水戻りか?」
若い職員が呟く。
「いえ、蒸気設備の排水管は別系統です。床下にあるのは古い補助管で、今は使っていないはず……」
使っていないはず。
その言葉は、真壁にとってかなり信用できないものになっていた。
水門も、鐘塔も、見張り塔も、そういう「古い」「使っていない」「たぶん大丈夫」みたいな部分が大体駄目だった。
「その使ってないやつ、動いてます」
真壁が言う。
技師の喉が鳴った。
「確認します」
彼は床の点検板へ向かい、工具で金具を外し始めた。真壁はその手元を見ないようにする。金具の歪みが気になるからだ。ララの背中を見る。やはり、ララは静かだ。設備室の中で唯一、見ていて落ち着くものだった。
点検板が開く。
熱い湿気が吹き上がった。
「うわっ」
若い職員が後ろへ下がる。
床下には、古い細管が何本も通っていた。そのうち一本が赤黒く錆び、別の管と無理やり接続されたような形になっている。古い補助管。たぶん、昔の設備を更新した時、完全には撤去されなかったものだ。
そして、その管が震えていた。
微かに。
だが確実に。
「……気持ち悪い」
真壁は思わず呟いた。
「またか」
ララの声が低くなる。
「はい。またです」
真壁は額に汗を浮かべる。
「使ってない管に、圧が戻ってます。しかも、変な方向から」
「どこからだ」
「奥……いや、壁の中? 違う、下水じゃなくて……」
言葉にしづらい。
管の中を蒸気が走っている。だが、通常の流れではない。行き場を失った圧が、古い管を逆流している。そこに、何か細いものが絡んでいる。水門の詰まりとも、北門の魔物とも違う。もっと人工的な違和感。
「これ、誰か繋ぎました?」
真壁が聞く。
技師が硬い顔になる。
「そんなはずはありません。図面上、この管は封鎖済みです」
「でも繋がってます」
「どこと」
「……主蒸気管と、たぶん外のどこか」
設備室が静かになった。
ララの目が鋭くなる。
「外?」
「細い抜け道みたいなのがある。蒸気がそっちへ流れて、また戻ってくる。循環じゃないです。引っ張られてる」
「人為的か」
ララが言う。
真壁は頷きたくなかった。
だが、そうとしか思えない。
「たぶん」
その時だった。
壁の向こうで、カン、と音がした。
全員が振り向く。
続いて、シューッと蒸気が漏れる音。
技師の顔が青ざめる。
「圧が上がっている!」
壁の計器の針が震え始めた。
真壁にも分かった。
流れが変わった。
誰かが、外から引っ張った。
「まずいです」
真壁の声が震える。
「戻ってきてる。主管に圧がぶつかる」
「弁を閉める!」
技師が弁へ走る。
だが、ララが叫んだ。
「待て!」
遅い。
技師が弁を掴む。
瞬間、弁の周囲の金具が悲鳴を上げた。
「駄目!!」
真壁の声。
ララが技師を引き倒す。
直後、弁の横から白い蒸気が噴き出した。
高温の蒸気が壁へ叩きつけられる。
技師がいた位置を、白い刃のように通過していく。
「うわあああ!?」
若い職員が叫ぶ。
真壁は壁際へ下がろうとして、背中を石壁にぶつけた。
「だから帰りたかった!!」
ララが剣を抜く。
だが蒸気相手に剣は意味が薄い。
「真壁、見えるか!」
「見えたくないです!!」
「どこを止めればいい!」
「止めるのは危ない!!」
真壁は叫んだ。
止めたら駄目だ。
圧を止めれば、管が破裂する。
ほどくだけでも駄目だ。
流れを外せば、別の場所へ跳ねる。
これは戻すでもない。
逃がす。
圧の逃げ道を作る。
「抜かないと駄目です!」
「何をだ!」
「圧を! 外へ!」
言いながら、真壁は自分が何を言っているのか半分分かっていなかった。だが、感覚としてははっきりしている。絡まった流れをほどき、正しい出口へ逃がす。水門の時に似ている。ただし、今回は水ではなく高温の蒸気だ。失敗すれば、たぶん誰かが焼ける。
「できますか!?」
若い職員が叫ぶ。
「やりたくないです!!」
真壁も叫ぶ。
だが、やらなければまずい。
設備室の圧が上がっている。
壁の計器の針が限界へ近づく。
管の接合部が震える。
床下の古い管が、気持ち悪いほど強く鳴っている。
「(ああもう……!)」
真壁の右手が上がる。
ララが即座に言った。
「触れるな! 遠くから指示しろ!」
「無理です! 触らないと分からない!」
「火傷する!」
「たぶんします!」
「するな!」
「俺もしたくない!!」
叫びながら、真壁は床下の古い管へ近づいた。高温の空気で顔が熱い。目が乾く。右手が震える。
触る場所は見えている。
古い管と主管の歪んだ接続部。
誰かが無理やり繋いだ箇所。
そこを完全にほどくのではない。
一部だけ逃がす。
絡まった紐を全部切るのではなく、締まりすぎた輪だけを緩める。
「……ここ」
指先が触れる。
熱い。
だが、その前に反応が走る。
――パツン。
音。
床下の古い管が、わずかに震えた。
次の瞬間、壁の外側からゴォッと音がする。
蒸気が別方向へ抜けた。
設備室内の圧が一気に下がる。
噴き出していた白い蒸気が弱まる。
計器の針が、限界線から戻る。
「抜けた!」
技師が叫ぶ。
「主管圧、低下! 安定していきます!」
真壁はその場に座り込んだ。
「……熱っ」
右手の指先が赤くなっていた。
軽い火傷だ。
ララがすぐに膝をつく。
「見せろ」
「大丈夫です。たぶん」
「見せろ」
有無を言わせぬ声だった。
真壁は右手を差し出す。
ララは眉を寄せた。
「冷やす必要がある」
「それより、外……」
「外?」
「今、蒸気が抜けた先」
真壁は壁の向こうを見る。
いや、壁の向こうは見えない。
だが流れが分かる。
蒸気は外部へ抜けた。
そして、その先で何かに当たった。
「誰か、います」
ララの表情が変わる。
「敵か」
「分かりません。でも、今の抜け道、たぶん誰かが作った」
その瞬間、設備室の外から叫び声が聞こえた。
「侵入者だ!」
騎士団宿舎の廊下が一気に騒がしくなる。
ララが立ち上がる。
「真壁はここにいろ」
「絶対います」
「動くな」
ララは剣を抜き、外へ飛び出した。
真壁はその場に座り込み、右手を抱えた。
熱い。
痛い。
だが、それ以上に気持ち悪い。
今の接続。
誰かが作った。
蒸気管を、古い補助管へ繋ぎ、圧を不安定にし、限界で破裂させようとしていた。
偶然ではない。
明らかに、人為的だ。
「……本当に誰かやってるじゃん」
若い職員が青ざめて呟く。
真壁は返事をしなかった。
廊下の向こうで剣が鳴る。
足音。
叫び。
誰かが走る。
そして、聞き覚えのある軽い声。
「おー、逃げ足速いねえ」
ヴォルフだ。
真壁は頭を抱えた。
「なんでいるんだよ……」
だが、今はそれどころではない。
廊下から、ララの声が響く。
「止まれ!」
次に、金属がぶつかる音。
そして、壁の奥から遠ざかる気配。
逃げた。
誰かが。
真壁には分かった。
見えたわけではない。
だが、さっきの蒸気の抜け道と同じように、何かが引っかかりを残して消えていく感覚があった。
まるで、わざと「ここにいた」と教えるように。
「……気持ち悪い」
真壁は小さく言った。
しばらくして、ララが戻ってきた。
表情は険しい。
「逃げられた」
「誰ですか」
「顔は隠していた。騎士団の整備服を着ていたが、職員ではない」
「何しに来たんですか」
「おそらく、蒸気管を破裂させるためだ」
真壁は目を閉じた。
「やっぱり……」
ララは技師へ指示を飛ばす。
「設備を完全停止。宿舎内の蒸気使用を一時停止しろ。外部接続がないか全系統を確認。ギルドにも連絡を出せ」
「は、はい!」
若い職員と技師が慌ただしく動き始める。
ララは真壁の前に戻り、再び膝をついた。
「手を冷やす」
「それ今ですか」
「今だ」
彼女は持っていた水袋を布に含ませ、真壁の指先へ当てた。
冷たい。
じん、と痛む。
「……すいません」
「謝るな」
「でも、触るなって言われたのに触りました」
「触らなければ破裂していた」
「でも」
「結果だけで判断するな」
その言葉に、真壁は少しだけ苦笑した。
「俺がいつも言ってるやつですね」
「そうだ」
ララの声は静かだった。
「今回は、お前が正しい判断をした。危険だったが、必要だった」
「……褒めてます?」
「褒めている」
「痛いのであんまり嬉しくないです」
「それも当然だ」
その時、設備室の入口からヴォルフが顔を出した。
「いやー、惜しかったな」
ララの目が一瞬で鋭くなる。
「お前、どこから入った」
「窓」
「ここは地下だ」
「上の窓から」
「答えになっていない」
ヴォルフは気にせず、真壁の右手を見る。
「火傷した?」
「しました」
「いいね。ちょっと主人公っぽい」
「全然よくないです」
「でもさ、今ので確定だろ」
ヴォルフの声が、少しだけ低くなる。
「この街、誰かが壊してる」
設備室が静かになる。
ヴォルフは壁の配管を見る。
「あっちこっち、ちょっとずつズラしてる。水門も鐘も、北門も、今の蒸気管も。全部、同じ匂いがする」
ララが問う。
「お前は何を知っている」
「まだ何も。ただ、昔似たようなのを見たことがある」
「どこで」
「戦場」
軽い声ではなかった。
真壁はヴォルフを見た。
初めて、彼の顔から笑いが少し消えていた。
「兵站壊しだよ。橋を落とすんじゃなく、橋が落ちる寸前にする。水を止めるんじゃなく、必要な時だけ逆流するようにする。鐘を鳴らなくするんじゃなく、鳴った時に塔ごと壊れるようにする」
ララの顔が険しくなる。
「破壊工作か」
「そういうこと」
真壁はぞっとした。
誰かが、街を壊している。
大きく壊すのではなく、少しずつ。
壊れそうな状態へ。
真壁が気持ち悪いと感じるズレは、偶然の老朽化ではない。
仕込まれたもの。
「……俺、巻き込まれてます?」
真壁が聞く。
ヴォルフは笑った。
「もうど真ん中だろ」
「最悪だ……」
ララは真壁を見る。
「しばらく、お前を単独にはできない」
「元から単独じゃなかった気がします」
「監視を強める」
「やっぱりそうなる……」
「ただし」
ララは少しだけ声を落とした。
「お前を道具にはしない」
真壁は彼女を見た。
「今回の件は、騎士団とギルドの問題だ。お前一人に背負わせるものではない」
「……」
「だが、お前にしか見えないものがある。協力は求める。強制はしない。そう決める」
真壁は何も言えなかった。
協力。
嫌な言葉だ。
でも、強制ではない。
ララは少なくとも、そこを分けようとしている。
それが少しだけ分かる。
「……報酬は」
真壁は小さく聞いた。
ヴォルフが吹き出した。
ララも、ほんの少しだけ表情を緩める。
「当然、出させる」
「じゃあ、少し考えます」
「それでいい」
右手は痛い。
蒸気管は止まった。
侵入者は逃げた。
街を壊している誰かがいる。
真壁悠の静かな部屋は、また遠ざかった。
だがその一方で、彼は初めて思った。
壊れている街を全部直したいわけではない。
世界を救いたいわけでもない。
ただ、自分が寝ている部屋の下で、誰かに蒸気管を爆発させられるのは嫌だ。
その程度の理由なら、少しくらい動いてもいいのかもしれない。
「……でも今日はもう働きません」
真壁ははっきり言った。
ララは頷いた。
「ああ。今日は休め」
ヴォルフが笑う。
「明日は?」
「来るな」
ララと真壁の声が、珍しく重なった。
それだけが、その日唯一、少しだけ気持ちよかった。




