第16話
真壁悠は、その日の夜、本気で逃亡計画を考えていた。
騎士団宿舎の自室。
机。
椅子。
狭い空間。
薄い毛布。
窓。
壁。
静かだ。
少なくとも、外よりは。
「(……やっぱり部屋が一番だろ)」
真壁は椅子に座り、机へ突っ伏したまま真剣に考えていた。
最近、自分の生活がおかしい。
異世界転移した。
これはまだいい。
よくないが、もう起きたことだ。
問題はその後だ。
気づけば騎士団宿舎に住み。
気づけばララ・バーンという騎士団長に監視され。
気づけばギルド設備管理部門に顔を覚えられ。
気づけば鐘塔を止め。
水門をほどき。
地下魔物を解体していた。
「……なんで?」
誰に聞くでもなく呟く。
前世の自分は、もっと静かな生き物だったはずだ。
家。
パソコン。
紐。
動画。
最低限の会話。
それだけで生きていた。
なのに今はどうだ。
水流を分けた。
鐘を止めた。
魔物の接続をほどいた。
完全におかしい。
「(しかも最近、普通に期待され始めてるし……)」
そこが一番怖かった。
役に立たない人間として生きるのは楽だった。
期待されない。
頼られない。
放っておかれる。
だが今は違う。
鐘が壊れれば真壁。
設備がズレれば真壁。
気持ち悪い流れがあれば真壁。
完全に便利屋ルートへ入っている。
「……嫌すぎる」
その時。
コン、コン。
扉が鳴る。
真壁は机に伏せたまま答えた。
「働きません」
「まだ何も言っていない」
ララだった。
「入るぞ」
扉が開く。
今日のララは珍しく、騎士服ではなく私服に近い軽装だった。黒いシャツに簡素な上着。剣はある。剣はあるが、普段より空気が柔らかい。
真壁は少しだけ顔を上げた。
「……休みですか」
「半休だ」
「騎士団長って半休あるんですね」
「ない時もある」
「今日はあるんだ」
「お前が倒れかけたからな」
真壁は少し黙った。
北門見張り塔。
地下蛇型魔物。
鐘への異常共鳴。
思い出しただけで頭が痛くなる。
「……すいません」
「謝る必要はない」
ララは机へ袋を置いた。
真壁の目が細くなる。
「報酬ですか」
「一部追加分だ」
「神」
「騎士だ」
最近、この流れが完全に定着していた。
ララは壁へ寄りかかる。
「真壁」
「嫌です」
「逃げる話ではない」
「最近、先に否定しとかないと危ないので」
「その警戒は正しい」
認められた。
真壁は嫌そうな顔をする。
「で、何ですか」
「お前、最近眠れているか」
真壁は少し止まった。
「……どうしてです?」
「鐘の後から、顔色が悪い」
「……まあ」
隠せない。
実際、あまり眠れていなかった。
目を閉じると、鐘の振動が残る。
水流のズレが浮かぶ。
地下蛇の気持ち悪い接続が頭に残る。
見たくない。
だが、一度見えてしまったものが消えない。
「夢を見るか」
ララが聞く。
「……揺れてます」
「何がだ」
「全部」
真壁は小さく言った。
「街が揺れてる夢です」
ララは黙った。
真壁は続ける。
「鐘も、水も、人も、全部ズレてて。俺、それ見てるんです。止めなきゃって思うんですけど、どこ触っても別のとこが揺れて……」
そこで言葉が止まる。
「……意味分かんないですよね」
「いや」
ララは静かに言った。
「分かる」
真壁は少し驚いた。
「分かるんですか」
「お前は、世界を“構造”で見ている」
ララはゆっくり言葉を選ぶ。
「普通の人間は、鐘なら鐘だけを見る。水なら水だけを見る。だが、お前は繋がりを見ている。どこへ負荷が流れ、どこがズレ、どこが崩れかけているか」
「……」
「だから、見えすぎるんだ」
真壁は黙った。
ララは続ける。
「そして、お前はそれを放置できない」
「したいです」
「頭ではな」
「……」
「だが体が動く」
否定できなかった。
嫌だった。
本当に嫌だった。
放っておけばいい。
逃げればいい。
だが、壊れかけたものを見ると、気持ち悪い。
止めたくなる。
整えたくなる。
それはもう、かなり深い部分の反応だった。
「……ララさん」
「何だ」
「俺、もう普通の雑務だけして生きるの無理ですかね」
ララは少し考えた。
「可能だとは思う」
「本当に?」
「ただし」
「ただし?」
「お前が“見ない”ならだ」
真壁は顔をしかめた。
「無理ですね」
「そうだろうな」
ララは即答した。
真壁は机へ突っ伏す。
「終わった……」
「終わってはいない」
「静かな生活が終わりました」
「元から始まっていない」
「やめてください。今ちょっと傷つきました」
その時だった。
コン、コン。
再び扉。
真壁が真顔になる。
「嫌な予感」
「私もだ」
ララが扉へ近づく。
「誰だ」
「ギルドです!」
真壁が椅子から落ちそうになった。
「帰ってください!」
「まだ話してません!」
「もう嫌なんです!」
ララが扉を開ける。
そこにいたのは、ベルナール直属の若い職員だった。手には大量の書類。
見た瞬間、真壁は死んだ目になった。
「……何ですか」
職員は少し困った顔をした。
「ええと、設備管理部門より正式報告です。北門見張り塔の件を受け、王都設備異常案件が一時的に急増しておりまして」
「聞きたくない」
「各地から『音が変』『揺れる』『門が重い』『水路が逆流する』などの報告が――」
「やめてください」
真壁は本気で耳を塞いだ。
ララの目が細くなる。
「急増?」
「はい。今まで軽微として放置されていた案件が、北門見張り塔の件を機に再調査され始めまして……」
真壁は絶望した。
「俺のせいだ」
「正確には、お前が可視化した」
ララが言う。
「今まで見過ごされていた歪みが、表面化した」
「最悪です」
職員は恐る恐る書類を差し出した。
「それで、優先度の高い案件だけでも確認をお願いできないかと……」
「嫌です」
「報酬は」
「聞きます」
即答だった。
ララが小さく息を吐く。
「現金だな」
「生きるためです」
職員は慌てて説明する。
「い、いえ! すぐ全部ではありません! まずは確認だけです! あと今回は王都外ではなく、騎士団設備も含めた内部点検で!」
「騎士団設備?」
ララが反応した。
「はい。北側兵舎地下の蒸気管設備です。最近、圧が不安定で……」
真壁の顔が引きつる。
「蒸気」
嫌な予感しかしない。
水。
圧力。
金属。
絶対ろくでもない。
「……ララさん」
「何だ」
「逃げません?」
「どこへ」
「山奥とか」
「お前、虫が苦手だろ」
「終わった……」
逃げ場がない。
職員は書類をめくる。
「あと西門倉庫の昇降機異常、東市場の冷却設備不良、旧地下通路の振動――」
「多い!!」
真壁が叫んだ。
「なんでそんな壊れてるんですかこの街!!」
職員は困った顔で答える。
「王都ですから」
「答えになってない!」
ララが書類を受け取る。
目を通す。
真剣な顔。
「……多いな」
「ですよね!?」
「老朽化だけではない」
ララが低く言う。
「異常の出方が似ている」
空気が少し変わる。
真壁も顔を上げた。
「似てる?」
「振動。圧力異常。共鳴。接続部への偏荷重」
ララは書類を並べる。
「水門も鐘塔も、北門も同じだ。“一部だけ”に負荷が集中している」
真壁は黙った。
それは、分かる。
全部同じ感じだった。
どこか一箇所だけ、変にズレている。
そこから全体が壊れかけていく。
「……誰か、やってる?」
真壁が小さく言った。
職員が青ざめる。
「そ、それは……」
「可能性はある」
ララが静かに言った。
「偶然にしては、広がり方が異常だ」
部屋が静かになる。
真壁は嫌な汗をかいた。
ただ壊れてるだけじゃない。
誰かが意図的に。
あるいは、何かが。
街の“ズレ”を増やしている。
「……俺、帰っていいですか」
「ここがお前の部屋だ」
「じゃあ引きこもります」
「無理だろうな」
ララが即答した。
真壁は泣きそうになった。
「なんでですか」
「お前、もう気になっている」
「……」
「誰がやっているのか」
「……」
「なぜズレが増えているのか」
「……」
「放置すると、どうなるのか」
全部、気になっていた。
嫌になるくらい。
真壁は顔を覆う。
「俺、こういう主人公体質じゃなかったはずなんですけど……」
ヴォルフの笑い声が、窓の外から聞こえた。
「ははっ」
真壁が顔を上げる。
窓の外。
いつの間にか、ヴォルフが窓枠に座っていた。
「怖っ!?」
「お前、やっぱ面白えな」
「入ってこないでください!」
「まだ入ってねえよ」
「窓にいる時点で怖いです!」
ヴォルフは笑う。
「で? 気づいた?」
「何がですか」
「街が壊れ始めてる」
真壁の背筋が冷える。
ヴォルフは、楽しそうに言った。
「しかも、かなりデカい規模で」
部屋が静まり返る。
ララの視線が鋭くなる。
「何を知っている」
「さあ」
「ヴォルフ」
「でもさ」
ヴォルフは真壁を見る。
「これ、もうお前しか見えねえだろ?」
真壁は、即座に首を振った。
「嫌です」
「でも見える」
「嫌です」
「でも気になる」
「嫌です!!」
ヴォルフは楽しそうに笑った。
ララは深く息を吐く。
そして真壁へ視線を向けた。
「……まずは蒸気管設備だ」
「始まった……」
「今日は確認だけにする」
「本当ですか」
「ああ。お前をこれ以上消耗させる気はない」
真壁は少しだけ黙った。
ララの言葉は、本気だった。
それが分かる。
だから余計に逃げづらい。
「……ララさん」
「何だ」
「俺、本当にただの引きこもりだったんですよ」
「知っている」
「なのに、なんでこんな……」
ララは少しだけ考えた。
それから静かに言った。
「壊れたものを見てしまう人間は、時々いる」
「……」
「だが、お前は“直せる側”だった。それだけだ」
真壁は何も言えなかった。
外では夜の鐘が鳴る。
ゴォン――。
以前より少しだけ、音が整って聞こえた。
それがたぶん、一番問題だった。




