第14話
翌朝、真壁悠は最悪の目覚めを迎えた。
ゴォン――。
遠くから鐘の音が聞こえる。
王都の朝を知らせる鐘だ。
本来なら、ただの生活音だったのだろう。だが今の真壁には違った。昨日の夜から、その音が妙に引っかかる。
低い。
重い。
そして、どこかズレている。
「(……気持ち悪い)」
布団の中で、真壁は顔をしかめた。
鐘の余韻が頭に残る。
音そのものではない。
鳴り方。
振動。
響きの噛み合わせ。
どこか一箇所だけ、うまく重なっていない感覚。
それがずっと耳の奥に残っている。
コン、コン。
扉が鳴る。
「起きているか」
ララ・バーンの声だった。
「……起きてます」
「入るぞ」
扉が開く。
今日のララは、いつもの訓練服ではなく軽装の騎士服だった。動きやすさ重視の装備。腰には剣。肩には小さな革袋。鐘塔点検だからだろうが、真壁には「戦闘になる可能性があります」にしか見えない。
「顔色が悪いな」
「鐘が気持ち悪かったです」
「……やはり分かるのか」
ララは少しだけ眉を寄せた。
真壁は寝台から起き上がる。
「鐘塔って、どれくらい古いんですか」
「王都西倉庫街の警報塔は百年以上使われている。途中で何度か補修されているが、最近は鳴りが悪いらしい」
「百年」
嫌な予感しかしない。
古い。
補修されている。
鳴りが悪い。
それだけで、真壁の頭の中では「ズレているもの」が大量に想像できてしまう。
「……今日、見るだけで帰れません?」
「原因次第だ」
「ですよね」
机の上には朝食が置かれていた。
肉は少し増えている。
真壁は無言でララを見た。
「神ですか」
「騎士だ」
「最近、その返しに安心感を覚えてきました」
「慣れたな」
「嫌な慣れです」
だが肉はうまかった。
結局、人間は飯で多少の恐怖をごまかせる。
◇
西倉庫街は、南街区とはまた違う空気だった。
木箱。
荷車。
麻袋。
積み上げられた樽。
倉庫と運搬の街。
人通りは多いが、商店街ほど雑多ではない。働く人間の動きが多く、皆どこか急いでいる。荷車の車輪が石畳を鳴らし、縄が軋み、金属金具が揺れる。
「(うるさい……)」
真壁はまた左手で右手を押さえた。
この世界、どこへ行っても何かがズレている。
だが、その中でも一際うるさいものがあった。
鐘塔だ。
倉庫街の中央付近。
石造りの細長い塔。
上部に大鐘が吊られている。
朝日を受けた鐘は黒ずみ、表面には細かな傷と補修跡が走っていた。
そして――。
ゴォン。
定時の鐘が鳴る。
真壁は顔をしかめた。
「……ああ」
ズレている。
音が。
鐘そのものではない。
吊り具。
支柱。
鐘を撞く内部機構。
全部がわずかに噛み合っていない。
響きが割れている。
「見えるか」
ララが聞く。
「見えたくなかったです」
真壁は本気で言った。
鐘の音が、視覚みたいに感じる。
揺れが広がる。
石塔の内部を振動が走る。
その中で、一箇所だけ嫌な引っかかりがある。
「……中です」
「内部か」
「たぶん、鐘を支えてるところ」
ララは鐘塔管理人の老人へ視線を向けた。
「中へ入る」
「は、はい。ですが最近、上階は危険で……」
「危険?」
真壁が嫌そうな顔をする。
老人は苦い顔で頷いた。
「鐘が鳴るたび、塔が揺れるんです。前はこんなことなかった。最近は上の梁から砂も落ちてきますし……」
「それ、かなり駄目なやつでは?」
「だから点検依頼を出したんです」
真壁は帰りたくなった。
鐘塔の中は薄暗かった。
狭い螺旋階段。
積もった埃。
湿った石の匂い。
そして、上から伝わってくる鈍い振動。
ゴォン……。
鐘が鳴るたび、塔の中で空気が震える。
「(無理だろこれ)」
真壁は階段を上りながら、本気でそう思った。
壁のひび。
歪んだ鉄杭。
軋む木板。
全部が見える。
全部が「もう限界です」と叫んでいる。
「真壁」
前を行くララが声をかける。
「無理なら止まれ」
「止まったら帰れます?」
「それとこれとは別だ」
「ですよね……」
鐘のある最上階へ着く。
そこで、真壁は息を止めた。
「……うわ」
ひどかった。
鐘を吊っている太い梁。
それを支える金属枠。
鐘撞き機構。
全部がズレている。
しかも、ただ古いだけではない。
無理やり補修されている。
違う年代の金具。
違う木材。
無理に繋がれた継ぎ目。
それらが全部、悲鳴みたいに見える。
「……これ、いつ落ちてもおかしくないです」
真壁が小さく言った。
管理人の顔が青ざめる。
「そ、そんなに……」
「鐘を鳴らすたび、全部に負荷が偏ってます。特にここの梁」
真壁は一点を指差した。
「中、割れてる」
ララが目を細める。
「見えるのか」
「音が変です」
その時だった。
下の階から、誰かの声。
「おーい! 次の定時鳴らすぞー!」
管理人が顔色を変える。
「待て! まだ――」
遅かった。
ゴォン!!
鐘が鳴る。
瞬間。
真壁の世界が揺れた。
「っ……!」
鐘の振動。
梁の悲鳴。
歪み。
ズレ。
全部が一気に伝わってくる。
そして――。
ミシ。
嫌な音。
梁に亀裂が走る。
「下がれ!!」
ララが叫ぶ。
鐘が傾いた。
巨大な鉄塊が、支えを失いかける。
もし落ちれば、塔ごと崩れる。
下にいる人間も終わる。
「(ああもう!!)」
真壁の右手が上がる。
考える前だった。
止めたい。
ズレを。
崩れを。
この最悪な振動を。
――パツン。
音がした。
瞬間。
鐘の揺れが、止まった。
「……え」
管理人が固まる。
鐘は、空中で止まっていた。
いや、正確には違う。
吊り具全体の「ズレ」が、一瞬だけ正しい位置へ戻されていた。
負荷が分散する。
亀裂の広がりが止まる。
鐘の傾きが戻る。
「真壁!」
ララの声。
「離れろ!」
「でも、これ……!」
止め続けないと崩れる。
そう分かった。
真壁は歯を食いしばる。
右手が熱い。
鐘全体の振動が流れ込んでくる。
うるさい。
重い。
気持ち悪い。
だが、離した瞬間に落ちる。
「ララさん!」
「何だ!」
「支え!! 下から!!」
ララは即座に動いた。
塔内に積まれていた補修用の木材を蹴り上げ、鐘の支柱へ叩き込む。さらに騎士たちへ怒鳴る。
「全員下がらせろ! 塔周辺封鎖!」
下が騒がしくなる。
真壁は鐘を見続けた。
見たくない。
だが、目を逸らせない。
「(重い……!)」
今までで一番、負荷が大きい。
水門は流れだった。
だが鐘は違う。
巨大な重量と振動。
ズレを戻し続けるたび、全身が軋む。
「真壁!」
ララが叫ぶ。
「もういい、離れろ!」
「まだ駄目です!」
支柱はまだ不安定だ。
補強が足りない。
鐘が少しでも揺れれば、また崩れる。
「(あと少し……!)」
その時。
背後から、妙に楽しそうな声。
「おー、すげえ」
真壁は本気で殺意を覚えた。
「ヴォルフ!!」
「いやー、鐘まで止めるか普通?」
「手伝ってください!!」
「えー」
「えーじゃない!!」
ヴォルフは笑いながら近づく。
そして、傾いた補強材を一蹴りした。
ガンッ!!
木材が正しい位置へ噛み合う。
「そこ固定しろ!」
ララが騎士へ指示。
騎士たちがロープを巻く。
鐘の支柱が固定される。
負荷が分散する。
真壁は、その瞬間を感じ取った。
「……抜けた」
ズレが止まる。
振動が安定する。
真壁はその場に崩れ落ちた。
「……もう無理」
全身が重い。
指先が痺れる。
頭がガンガンする。
鐘の余韻がまだ脳に残っている。
ララが駆け寄った。
「真壁!」
「生きてます……たぶん」
ララは真壁の右手を見る。
微かに震えていた。
「無茶をしたな」
「そっちもです」
ヴォルフが笑う。
「いやー、いい顔してたぜ」
「あなた本当に嫌な人ですね」
「褒めてんだよ」
「だからどこがですか」
管理人が半泣きで頭を下げてくる。
「ありがとうございます……! 本当に、塔が落ちるところだった……!」
真壁は力なく手を振った。
「俺も落ちるかと思いました」
ララは鐘を見上げる。
完全修復ではない。
だが、崩壊は止まった。
応急処置としては十分すぎる。
「……ベルナールが喜ぶな」
ララが小さく呟いた。
真壁は絶望した。
「やめてください」
「何がだ」
「その言い方、次の仕事増えるやつです」
ヴォルフが肩を震わせる。
「ははっ、もう逃げられねえな、修理屋」
「俺はまだ認めてませんからね、その呼び方!」
「でも今日、鐘直したぜ?」
「応急処置です!」
「水門も鐘も止めてる時点で十分やばい」
真壁は反論できなかった。
鐘塔の外では、人々がざわついていた。
崩落しかけた鐘塔。
それを止めた謎の男。
噂はまた広がるだろう。
真壁悠本人の意思とは関係なく。
「……帰りたい」
真壁は心から呟いた。
だが、ララは珍しく少しだけ笑って言った。
「今日は帰る」
「本当に?」
「ああ。これ以上は動かさん」
真壁は、その言葉だけで少し救われた。
鐘の余韻が、まだ耳に残っている。
だが同時に、分かってしまった。
水門。
鐘塔。
どちらもただ古いだけではなかった。
この王都には、「ズレたまま動いているもの」が多すぎる。
そして自分は、それを見つけてしまう。
止めてしまう。
「(……静かな生活、どこ?)」
誰も答えてはくれなかった。




