表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

13/30

第13話


 水門から戻る道中、真壁悠はずっと黙っていた。


 話す気力がなかった。


 服は濡れている。靴の中は気持ち悪い。袖からは南街区の排水路の匂いがする。ララ・バーンが咄嗟に引き上げてくれなければ、今頃あの濁流に足を取られていたかもしれない。実際には死んでいない。怪我もない。水門も結果的には直った。魔物も処理された。依頼は成功だ。


 だが、真壁の心はまったく成功していなかった。


「(……もう水は嫌だ)」


 視界の端で流れる排水を見ないように、真壁はひたすらララの背中を見て歩いた。彼女の歩き方は相変わらず静かだ。泥が跳ねた外套も、濡れたブーツも、彼女の輪郭を乱していない。真壁のように靴の中の感触に気を取られて歩幅が崩れたりしない。


 その整い方が、今はありがたかった。


 街はうるさい。南街区は特にうるさい。水音、金属音、人声、布が濡れて擦れる音。どれもこれも真壁の神経に触れてくる。だが、ララの背中だけは比較的静かだった。真壁はそこに視線を固定し、余計なものを見ないようにする。


「真壁」


 ララが振り返らずに言った。


「気分は悪いか」


「悪いです」


「歩けるか」


「歩けます」


「なら、ギルドまで行く。そこで報告と報酬の交渉をする」


「交渉って言葉、最近ありがたく聞こえるようになってきました」


「正当な報酬は必要だ」


「ララさん、そういうところは信用できます」


「他は信用できないのか」


「訓練時間の見積もりとかは信用してないです」


「それは妥当だ」


 認められた。


 真壁は少しだけ力なく笑いそうになったが、靴の中がぐちゅりと鳴ってすぐに笑えなくなった。


 ギルドに着いた時、入口付近にいた冒険者たちが一斉にこちらを見た。


 水に濡れた真壁。


 泥のついたララ。


 護衛の騎士たち。


 そして、後ろから運ばれてくる水門の壊れた部品と、絡まっていた異物の入った樽。


 目立たないはずがなかった。


「……また何かあったのか」


「南の水門だろ」


「あいつ、今度は何をやったんだ?」


 ひそひそ声が耳に入る。


 真壁は肩を丸めた。


「(何もやりたくなかったんだよ……)」


 受付嬢が真壁たちの姿を見て、表情を変えた。


「お戻りですね。水門は――」


「結論から言えば復旧した」


 ララが言う。


「ただし、依頼票に記載されていた単なる歯車不良ではなかった。水門内部に魔物の死骸と異物が詰まり、水流が歪んでいた。その歪みに水棲魔物が寄っていた。現場で四体を確認、三体を討伐、一体は真壁が水流を修正したことで排出された」


 受付嬢のペンが止まる。


「水流を……修正?」


 ララは頷いた。


「真壁が詰まりの位置を把握し、水門の流れを一時的に分離した。その結果、詰まりが露出。除去に成功した」


「水流を分離」


 受付嬢は真壁を見た。


「……真壁さんが?」


「俺も信じたくないです」


 真壁は濡れた袖を絞りながら言った。


 受付嬢の奥から、設備管理責任者のベルナールが慌てて出てきた。眼鏡が少しずれている。


「水門が復旧したと聞きましたが、本当ですか」


「本当だ」


 ララが報告書を渡す。


 ベルナールはそれを読み、顔色を変えた。


「詰まりの主因が魔物死骸……? 水流の歪みに水棲魔物が誘引……。これは、ただの老朽化ではありませんね」


「そう見ている」


「他の水門も確認する必要があります」


 真壁の右手が、ぴくりと動いた。


「……他の?」


 嫌な単語だった。


 ベルナールは真壁を見た。


「王都南側の排水系統は、似た構造の水門が複数あります。一つで同様の症状が出た以上、他の水門でも――」


「俺は行きません」


 即答だった。


 ギルドの空気が少し止まる。


 真壁は、今回は言い切った。これだけは譲れなかった。水は嫌だ。濁流は嫌だ。水棲魔物も嫌だ。水門の気持ち悪い流れを見続ける仕事など、絶対に嫌だ。


 ベルナールは困ったように眉を下げる。


「もちろん、今日すぐにとは言いません。ですが、真壁殿の確認能力は――」


「嫌です」


「報酬は危険手当込みで――」


「嫌です」


「護衛も増やします」


「嫌です」


 珍しく、真壁の拒絶は速かった。


 ララが横で少しだけ目を細める。


 怒っているわけではない。むしろ、何かを確認するような目だった。


「ベルナール」


 ララが口を挟む。


「今日はこれ以上、依頼の打診はするな。真壁は水門で強い負荷を受けている。制御面でも精神面でも休息が必要だ」


「しかし、放置すれば――」


「それは分かっている。だが、消耗した状態で動かして事故が起きれば本末転倒だ」


 ベルナールは黙った。


 ララの声には、騎士団長としての重さがあった。ギルドの設備責任者であっても、簡単には押し返せない。


「……承知しました。では、今日は報告処理と報酬精算のみで」


「そうしてくれ」


 真壁は、心の底からララを拝みたくなった。


「ララさん」


「何だ」


「今のは本当に助かりました」


「必要な判断だ」


「神ですか」


「騎士だ」


 いつもの答えだった。


 だが、その声が少しだけ柔らかかった気がした。


   ◇


 報酬は増えた。


 通常の点検補助分に加えて、水門復旧、魔物発生時の緊急対応、詰まり原因の特定、簡易結界具ではない設備への異常干渉確認。項目が増え、説明を聞いているだけで真壁は少し疲れたが、袋に入った銅貨の重みははっきり増していた。


「(……命の危険込みだと重いな)」


 嬉しい。


 嬉しいが、複雑だった。


 稼げるということは、また頼まれるということでもある。頼まれるということは、断る努力が必要になる。真壁はその努力が苦手だ。さっきは水門への強烈な嫌悪感が勝ったから断れたが、報酬や食事をちらつかされたら、次も断れる自信はない。


 ギルドの隅で、ララが受付嬢と追加報告をしている間、真壁は銅貨袋を握りながら椅子に座っていた。


 濡れた服は簡単な乾燥魔術で乾かしてもらった。便利だった。便利だったが、魔術師が唱えた時、空気の熱の流れが妙に見えてしまい、真壁は目を逸らした。見れば気になる。気になれば触りたくなる。触ればたぶん、魔術がほどける。そう思うと、目を開けているだけで疲れる。


「よう、修理屋」


 軽い声。


 真壁は顔を上げる前から嫌な顔になった。


「……今、一番会いたくない人が来た」


 テーブルの向かいに、ヴォルフが座っていた。


 いつ座ったのか分からない。気配がなかった。相変わらず、くたびれた外套に寝癖のついた髪。眠そうな目。だが、その目の奥だけが楽しそうに光っている。


「水門、やったんだって?」


「見てたんじゃないんですか」


「途中まではな。濁流で流されかけるとこ、いい顔してたぜ」


「最低ですね」


「褒めてんだよ」


「どこがですか」


 真壁は銅貨袋を少しだけ引き寄せた。盗られるとは思わないが、近くに置いておきたい。


「で、どうだった?」


「何がですか」


「気持ち悪いほどけ方」


 真壁は黙った。


 言葉としては嫌だった。


 だが、その表現は正しかった。


 あの水流は、気持ち悪かった。水なのに、ただ流れているだけではなかった。どこかで詰まり、歪み、引っかかり、ほどけかけていた。その違和感が、目に残っている。


「ああいうの、放っておけねえだろ」


 ヴォルフが言う。


「放っておきたかったです」


「でも止めた」


「止めないと死にそうだったので」


「それだけか?」


 真壁は答えなかった。


 ヴォルフは肘をつき、楽しそうに真壁を見る。


「お前さ、逃げたい逃げたい言うわりに、目の前で変に壊れてるもん見ると、逃げねえよな」


「逃げたいです」


「体は?」


「……」


「ほら」


 腹が立つ。


 だが、否定できないのがさらに腹立たしい。


 真壁は逃げたい。心から逃げたい。だが、気持ち悪いズレを見てしまうと、止めたくなる。放っておいたらもっと悪くなると分かると、触りたくなる。たとえそれが水門でも、結界具でも、魔物が絡んでいても。


 自分の性質が、少しずつ見えてきている。


 それが嫌だった。


「……俺は、ただ静かにしたいだけです」


 真壁は小さく言った。


 ヴォルフは目を細める。


「じゃあ、世界中うるさかったらどうすんの?」


「嫌なこと言わないでください」


「この世界、けっこううるさいぜ」


「知ってます」


「壊れてる場所も多い」


「知りたくないです」


「でも見える」


「……」


 真壁は銅貨袋を握りしめる。


 ヴォルフの言葉は、軽いのに重い。冗談のように言って、逃げ道を塞いでくる。彼と向き合うと、真壁は自分が避けているものを見せられる気がした。


 ララが戻ってきた。


「ヴォルフ」


 声が低い。


 ヴォルフは面倒そうに手を振る。


「怖い騎士さん来た」


「ギルド内で揉め事を起こせば、即座に拘束する」


「できるならな」


「試すか」


 空気が張る。


 真壁は慌てた。


「やめましょう。ここギルドですし、俺の報酬精算まだ完全に終わってないので」


「そこなのか」


 ララが少し呆れたように言う。


「そこです。大事です」


 ヴォルフは笑った。


「じゃ、今日は帰るわ。水門の次、楽しみにしてるぜ」


「次はありません」


「あるって」


「ないです」


「あるある」


 腹立つほど軽い声を残して、ヴォルフは立ち上がった。ララが目で追う。ギルドの何人かも見ている。だが、彼は人混みに紛れるようにして、するりと消えた。


 真壁は深く息を吐く。


「……あの人、出禁にできないんですか」


「したところで入ってくる」


「最悪だ」


「同感だ」


 ララは真壁の向かいに座った。


 少し珍しいことだった。


「水門の件だが」


「嫌です」


「まだ何も言っていない」


「水門という単語が出た時点で嫌です」


「今日はもう行かせない」


 真壁は少しだけ顔を上げた。


「本当ですか」


「ああ。少なくとも今日は休め」


「神ですか」


「騎士だ」


 ララはそう言ってから、少しだけ表情を緩めた。


「ただ、明日以降も完全に無関係ではいられないだろう。王都の設備に異常があるなら、放置すれば市民に被害が出る」


「……分かってます」


 真壁は渋い顔で言った。


「分かってるんですけど、嫌なものは嫌です」


「それも分かる」


「分かってくれます?」


「ああ。お前は怖がっている。だが、それでも必要なら動いてしまう。そういう性格だ」


「嫌な性格ですね」


「悪い性格ではない」


 真壁は言葉に詰まった。


 悪い性格ではない。


 そう言われると、どう返せばいいのか分からない。


 自分は怠惰だと思っていた。逃げ続けてきた人間だと思っていた。働かず、外に出ず、部屋の中で紐を打ち続けていただけの男だ。それなのに、必要なら動いてしまう性格と言われると、どこか落ち着かない。


「……買い被りです」


「かもしれない」


 ララは素直に認めた。


「だが、私は見たものを判断している。お前は水門で逃げなかった。いや、正確には逃げたかったのに、手を出した」


「それ、褒められてるんですか」


「半分は」


「残り半分は?」


「危険だと思っている」


「ですよね」


 真壁は肩を落とした。


 ララは続ける。


「だから、今後は条件を決める」


「条件?」


「お前が依頼を受ける場合、まず私が内容を確認する。危険度が高いものは断る。水、魔物、結界、動く機構が絡む場合は、事前準備なしに触らせない。報酬交渉は私が同席する」


「めちゃくちゃ助かるんですが、俺、完全に管理されてません?」


「管理ではなく保護だ」


「その違い、まだ分かってません」


「そのうち分かれ」


「また慣れろ系だ」


 だが、正直ありがたかった。


 真壁は交渉が苦手だ。断るのも苦手だ。報酬を上げろと言うのも苦手だ。ララが同席するなら、かなり助かる。管理されている感じはある。あるが、今の真壁は一人で生きていけるほどこの世界に慣れていない。


「……お願いします」


 真壁は小さく頭を下げた。


 ララは少しだけ驚いた顔をして、それから頷いた。


「ああ」


   ◇


 その日の夕方。


 真壁は騎士団宿舎の部屋で、乾いた服に着替え、机の上に銅貨を並べていた。


 報酬の確認。


 前世で家賃収入を眺めていた頃ほどではないが、金を数える行為には安心感がある。銅貨一枚、二枚、三枚。食事何回分か。屋台の肉なら何本分か。もし宿が必要になった場合、何日分になるか。


「(……足りないな)」


 現実は厳しい。


 だが、ゼロではない。


 それだけで昨日よりはましだった。


 扉がノックされる。


「真壁、入るぞ」


 ララだった。


「どうぞ」


 ララは盆を持っていた。


 夕食。


 しかも、肉が少し多い。


 真壁の目が輝く。


「ララさん」


「何だ」


「本当に神ですか」


「騎士だ」


「騎士ってすごいですね」


「肉を増やしたのは食堂だ」


「食堂も神です」


 ララは少しだけ笑った。


 盆を机に置く。


「食べながらでいい。明日の話をする」


 真壁の輝きが鈍る。


「明日……」


「ベルナールから正式に依頼予定が来ている。南街区の他の水門ではない」


「本当ですか」


「ああ。まずは王都内、西倉庫街の古い鐘塔だ」


「鐘塔」


「緊急時に鳴らす警報鐘だ。最近、鳴りが悪いらしい。機構点検のみ。水はない」


「魔物は」


「王都内だ」


「虫は」


「可能性は低い」


「ヴォルフは」


「来る可能性が高い」


「最悪だ」


 真壁は頭を抱えた。


 だが、水門よりはましだ。


 鐘塔。


 鐘。


 音。


 真壁はそこで嫌な予感を覚えた。


「……鳴りが悪い鐘って、うるさそうですね」


「鳴らなければ静かだ」


「鳴らすんですよね、点検だから」


「おそらく」


「やっぱり最悪だ」


 ララは真面目な顔で言った。


「だが、お前なら原因を見つけられる可能性が高い」


「そういう期待、心に重いです」


「無理なら断る」


「……本当に?」


「ああ。今日決めただろう。危険や負荷が大きい場合は、断る」


 真壁は少しだけ黙った。


 ララがそれを覚えていてくれたことに、妙な安心があった。


「じゃあ、見てから決めます」


「それでいい」


 食事を始める。


 肉がうまい。


 今日の水門の恐怖が、ほんの少しだけ薄れる。


 窓の外は暗くなっていた。王都の夜。遠くで鐘の音がする。たぶん、明日向かう鐘塔とは別の鐘だろう。低く、重く、街に広がる音。


 真壁はその音を聞いて、少しだけ顔をしかめた。


 音が、ほんのわずかに歪んで聞こえた。


「……」


 気のせいだと思いたかった。


 だが、たぶん気のせいではない。


 ララが真壁を見る。


「どうした」


「……今の鐘」


「鐘?」


「ちょっと、気持ち悪い音でした」


 ララの表情が変わった。


「明日の鐘塔か?」


「分かりません。でも……」


 真壁は窓の外を見た。


 夜の王都に、もう一度鐘の音が響く。


 ゴォン。


 低い音。


 その奥に、小さなひび割れのような違和感。


「……何か、ズレてます」


 翌日の依頼が、ただの点検で済まないことを。


 その時の真壁は、もう半分くらい察していた。


 だから彼は、肉をもう一切れ口に入れながら、心の中で静かに泣いた。


「(……やっぱり、明日も働くのか)」


 静かな生活は、まだ遠い。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ