第13話
水門から戻る道中、真壁悠はずっと黙っていた。
話す気力がなかった。
服は濡れている。靴の中は気持ち悪い。袖からは南街区の排水路の匂いがする。ララ・バーンが咄嗟に引き上げてくれなければ、今頃あの濁流に足を取られていたかもしれない。実際には死んでいない。怪我もない。水門も結果的には直った。魔物も処理された。依頼は成功だ。
だが、真壁の心はまったく成功していなかった。
「(……もう水は嫌だ)」
視界の端で流れる排水を見ないように、真壁はひたすらララの背中を見て歩いた。彼女の歩き方は相変わらず静かだ。泥が跳ねた外套も、濡れたブーツも、彼女の輪郭を乱していない。真壁のように靴の中の感触に気を取られて歩幅が崩れたりしない。
その整い方が、今はありがたかった。
街はうるさい。南街区は特にうるさい。水音、金属音、人声、布が濡れて擦れる音。どれもこれも真壁の神経に触れてくる。だが、ララの背中だけは比較的静かだった。真壁はそこに視線を固定し、余計なものを見ないようにする。
「真壁」
ララが振り返らずに言った。
「気分は悪いか」
「悪いです」
「歩けるか」
「歩けます」
「なら、ギルドまで行く。そこで報告と報酬の交渉をする」
「交渉って言葉、最近ありがたく聞こえるようになってきました」
「正当な報酬は必要だ」
「ララさん、そういうところは信用できます」
「他は信用できないのか」
「訓練時間の見積もりとかは信用してないです」
「それは妥当だ」
認められた。
真壁は少しだけ力なく笑いそうになったが、靴の中がぐちゅりと鳴ってすぐに笑えなくなった。
ギルドに着いた時、入口付近にいた冒険者たちが一斉にこちらを見た。
水に濡れた真壁。
泥のついたララ。
護衛の騎士たち。
そして、後ろから運ばれてくる水門の壊れた部品と、絡まっていた異物の入った樽。
目立たないはずがなかった。
「……また何かあったのか」
「南の水門だろ」
「あいつ、今度は何をやったんだ?」
ひそひそ声が耳に入る。
真壁は肩を丸めた。
「(何もやりたくなかったんだよ……)」
受付嬢が真壁たちの姿を見て、表情を変えた。
「お戻りですね。水門は――」
「結論から言えば復旧した」
ララが言う。
「ただし、依頼票に記載されていた単なる歯車不良ではなかった。水門内部に魔物の死骸と異物が詰まり、水流が歪んでいた。その歪みに水棲魔物が寄っていた。現場で四体を確認、三体を討伐、一体は真壁が水流を修正したことで排出された」
受付嬢のペンが止まる。
「水流を……修正?」
ララは頷いた。
「真壁が詰まりの位置を把握し、水門の流れを一時的に分離した。その結果、詰まりが露出。除去に成功した」
「水流を分離」
受付嬢は真壁を見た。
「……真壁さんが?」
「俺も信じたくないです」
真壁は濡れた袖を絞りながら言った。
受付嬢の奥から、設備管理責任者のベルナールが慌てて出てきた。眼鏡が少しずれている。
「水門が復旧したと聞きましたが、本当ですか」
「本当だ」
ララが報告書を渡す。
ベルナールはそれを読み、顔色を変えた。
「詰まりの主因が魔物死骸……? 水流の歪みに水棲魔物が誘引……。これは、ただの老朽化ではありませんね」
「そう見ている」
「他の水門も確認する必要があります」
真壁の右手が、ぴくりと動いた。
「……他の?」
嫌な単語だった。
ベルナールは真壁を見た。
「王都南側の排水系統は、似た構造の水門が複数あります。一つで同様の症状が出た以上、他の水門でも――」
「俺は行きません」
即答だった。
ギルドの空気が少し止まる。
真壁は、今回は言い切った。これだけは譲れなかった。水は嫌だ。濁流は嫌だ。水棲魔物も嫌だ。水門の気持ち悪い流れを見続ける仕事など、絶対に嫌だ。
ベルナールは困ったように眉を下げる。
「もちろん、今日すぐにとは言いません。ですが、真壁殿の確認能力は――」
「嫌です」
「報酬は危険手当込みで――」
「嫌です」
「護衛も増やします」
「嫌です」
珍しく、真壁の拒絶は速かった。
ララが横で少しだけ目を細める。
怒っているわけではない。むしろ、何かを確認するような目だった。
「ベルナール」
ララが口を挟む。
「今日はこれ以上、依頼の打診はするな。真壁は水門で強い負荷を受けている。制御面でも精神面でも休息が必要だ」
「しかし、放置すれば――」
「それは分かっている。だが、消耗した状態で動かして事故が起きれば本末転倒だ」
ベルナールは黙った。
ララの声には、騎士団長としての重さがあった。ギルドの設備責任者であっても、簡単には押し返せない。
「……承知しました。では、今日は報告処理と報酬精算のみで」
「そうしてくれ」
真壁は、心の底からララを拝みたくなった。
「ララさん」
「何だ」
「今のは本当に助かりました」
「必要な判断だ」
「神ですか」
「騎士だ」
いつもの答えだった。
だが、その声が少しだけ柔らかかった気がした。
◇
報酬は増えた。
通常の点検補助分に加えて、水門復旧、魔物発生時の緊急対応、詰まり原因の特定、簡易結界具ではない設備への異常干渉確認。項目が増え、説明を聞いているだけで真壁は少し疲れたが、袋に入った銅貨の重みははっきり増していた。
「(……命の危険込みだと重いな)」
嬉しい。
嬉しいが、複雑だった。
稼げるということは、また頼まれるということでもある。頼まれるということは、断る努力が必要になる。真壁はその努力が苦手だ。さっきは水門への強烈な嫌悪感が勝ったから断れたが、報酬や食事をちらつかされたら、次も断れる自信はない。
ギルドの隅で、ララが受付嬢と追加報告をしている間、真壁は銅貨袋を握りながら椅子に座っていた。
濡れた服は簡単な乾燥魔術で乾かしてもらった。便利だった。便利だったが、魔術師が唱えた時、空気の熱の流れが妙に見えてしまい、真壁は目を逸らした。見れば気になる。気になれば触りたくなる。触ればたぶん、魔術がほどける。そう思うと、目を開けているだけで疲れる。
「よう、修理屋」
軽い声。
真壁は顔を上げる前から嫌な顔になった。
「……今、一番会いたくない人が来た」
テーブルの向かいに、ヴォルフが座っていた。
いつ座ったのか分からない。気配がなかった。相変わらず、くたびれた外套に寝癖のついた髪。眠そうな目。だが、その目の奥だけが楽しそうに光っている。
「水門、やったんだって?」
「見てたんじゃないんですか」
「途中まではな。濁流で流されかけるとこ、いい顔してたぜ」
「最低ですね」
「褒めてんだよ」
「どこがですか」
真壁は銅貨袋を少しだけ引き寄せた。盗られるとは思わないが、近くに置いておきたい。
「で、どうだった?」
「何がですか」
「気持ち悪いほどけ方」
真壁は黙った。
言葉としては嫌だった。
だが、その表現は正しかった。
あの水流は、気持ち悪かった。水なのに、ただ流れているだけではなかった。どこかで詰まり、歪み、引っかかり、ほどけかけていた。その違和感が、目に残っている。
「ああいうの、放っておけねえだろ」
ヴォルフが言う。
「放っておきたかったです」
「でも止めた」
「止めないと死にそうだったので」
「それだけか?」
真壁は答えなかった。
ヴォルフは肘をつき、楽しそうに真壁を見る。
「お前さ、逃げたい逃げたい言うわりに、目の前で変に壊れてるもん見ると、逃げねえよな」
「逃げたいです」
「体は?」
「……」
「ほら」
腹が立つ。
だが、否定できないのがさらに腹立たしい。
真壁は逃げたい。心から逃げたい。だが、気持ち悪いズレを見てしまうと、止めたくなる。放っておいたらもっと悪くなると分かると、触りたくなる。たとえそれが水門でも、結界具でも、魔物が絡んでいても。
自分の性質が、少しずつ見えてきている。
それが嫌だった。
「……俺は、ただ静かにしたいだけです」
真壁は小さく言った。
ヴォルフは目を細める。
「じゃあ、世界中うるさかったらどうすんの?」
「嫌なこと言わないでください」
「この世界、けっこううるさいぜ」
「知ってます」
「壊れてる場所も多い」
「知りたくないです」
「でも見える」
「……」
真壁は銅貨袋を握りしめる。
ヴォルフの言葉は、軽いのに重い。冗談のように言って、逃げ道を塞いでくる。彼と向き合うと、真壁は自分が避けているものを見せられる気がした。
ララが戻ってきた。
「ヴォルフ」
声が低い。
ヴォルフは面倒そうに手を振る。
「怖い騎士さん来た」
「ギルド内で揉め事を起こせば、即座に拘束する」
「できるならな」
「試すか」
空気が張る。
真壁は慌てた。
「やめましょう。ここギルドですし、俺の報酬精算まだ完全に終わってないので」
「そこなのか」
ララが少し呆れたように言う。
「そこです。大事です」
ヴォルフは笑った。
「じゃ、今日は帰るわ。水門の次、楽しみにしてるぜ」
「次はありません」
「あるって」
「ないです」
「あるある」
腹立つほど軽い声を残して、ヴォルフは立ち上がった。ララが目で追う。ギルドの何人かも見ている。だが、彼は人混みに紛れるようにして、するりと消えた。
真壁は深く息を吐く。
「……あの人、出禁にできないんですか」
「したところで入ってくる」
「最悪だ」
「同感だ」
ララは真壁の向かいに座った。
少し珍しいことだった。
「水門の件だが」
「嫌です」
「まだ何も言っていない」
「水門という単語が出た時点で嫌です」
「今日はもう行かせない」
真壁は少しだけ顔を上げた。
「本当ですか」
「ああ。少なくとも今日は休め」
「神ですか」
「騎士だ」
ララはそう言ってから、少しだけ表情を緩めた。
「ただ、明日以降も完全に無関係ではいられないだろう。王都の設備に異常があるなら、放置すれば市民に被害が出る」
「……分かってます」
真壁は渋い顔で言った。
「分かってるんですけど、嫌なものは嫌です」
「それも分かる」
「分かってくれます?」
「ああ。お前は怖がっている。だが、それでも必要なら動いてしまう。そういう性格だ」
「嫌な性格ですね」
「悪い性格ではない」
真壁は言葉に詰まった。
悪い性格ではない。
そう言われると、どう返せばいいのか分からない。
自分は怠惰だと思っていた。逃げ続けてきた人間だと思っていた。働かず、外に出ず、部屋の中で紐を打ち続けていただけの男だ。それなのに、必要なら動いてしまう性格と言われると、どこか落ち着かない。
「……買い被りです」
「かもしれない」
ララは素直に認めた。
「だが、私は見たものを判断している。お前は水門で逃げなかった。いや、正確には逃げたかったのに、手を出した」
「それ、褒められてるんですか」
「半分は」
「残り半分は?」
「危険だと思っている」
「ですよね」
真壁は肩を落とした。
ララは続ける。
「だから、今後は条件を決める」
「条件?」
「お前が依頼を受ける場合、まず私が内容を確認する。危険度が高いものは断る。水、魔物、結界、動く機構が絡む場合は、事前準備なしに触らせない。報酬交渉は私が同席する」
「めちゃくちゃ助かるんですが、俺、完全に管理されてません?」
「管理ではなく保護だ」
「その違い、まだ分かってません」
「そのうち分かれ」
「また慣れろ系だ」
だが、正直ありがたかった。
真壁は交渉が苦手だ。断るのも苦手だ。報酬を上げろと言うのも苦手だ。ララが同席するなら、かなり助かる。管理されている感じはある。あるが、今の真壁は一人で生きていけるほどこの世界に慣れていない。
「……お願いします」
真壁は小さく頭を下げた。
ララは少しだけ驚いた顔をして、それから頷いた。
「ああ」
◇
その日の夕方。
真壁は騎士団宿舎の部屋で、乾いた服に着替え、机の上に銅貨を並べていた。
報酬の確認。
前世で家賃収入を眺めていた頃ほどではないが、金を数える行為には安心感がある。銅貨一枚、二枚、三枚。食事何回分か。屋台の肉なら何本分か。もし宿が必要になった場合、何日分になるか。
「(……足りないな)」
現実は厳しい。
だが、ゼロではない。
それだけで昨日よりはましだった。
扉がノックされる。
「真壁、入るぞ」
ララだった。
「どうぞ」
ララは盆を持っていた。
夕食。
しかも、肉が少し多い。
真壁の目が輝く。
「ララさん」
「何だ」
「本当に神ですか」
「騎士だ」
「騎士ってすごいですね」
「肉を増やしたのは食堂だ」
「食堂も神です」
ララは少しだけ笑った。
盆を机に置く。
「食べながらでいい。明日の話をする」
真壁の輝きが鈍る。
「明日……」
「ベルナールから正式に依頼予定が来ている。南街区の他の水門ではない」
「本当ですか」
「ああ。まずは王都内、西倉庫街の古い鐘塔だ」
「鐘塔」
「緊急時に鳴らす警報鐘だ。最近、鳴りが悪いらしい。機構点検のみ。水はない」
「魔物は」
「王都内だ」
「虫は」
「可能性は低い」
「ヴォルフは」
「来る可能性が高い」
「最悪だ」
真壁は頭を抱えた。
だが、水門よりはましだ。
鐘塔。
鐘。
音。
真壁はそこで嫌な予感を覚えた。
「……鳴りが悪い鐘って、うるさそうですね」
「鳴らなければ静かだ」
「鳴らすんですよね、点検だから」
「おそらく」
「やっぱり最悪だ」
ララは真面目な顔で言った。
「だが、お前なら原因を見つけられる可能性が高い」
「そういう期待、心に重いです」
「無理なら断る」
「……本当に?」
「ああ。今日決めただろう。危険や負荷が大きい場合は、断る」
真壁は少しだけ黙った。
ララがそれを覚えていてくれたことに、妙な安心があった。
「じゃあ、見てから決めます」
「それでいい」
食事を始める。
肉がうまい。
今日の水門の恐怖が、ほんの少しだけ薄れる。
窓の外は暗くなっていた。王都の夜。遠くで鐘の音がする。たぶん、明日向かう鐘塔とは別の鐘だろう。低く、重く、街に広がる音。
真壁はその音を聞いて、少しだけ顔をしかめた。
音が、ほんのわずかに歪んで聞こえた。
「……」
気のせいだと思いたかった。
だが、たぶん気のせいではない。
ララが真壁を見る。
「どうした」
「……今の鐘」
「鐘?」
「ちょっと、気持ち悪い音でした」
ララの表情が変わった。
「明日の鐘塔か?」
「分かりません。でも……」
真壁は窓の外を見た。
夜の王都に、もう一度鐘の音が響く。
ゴォン。
低い音。
その奥に、小さなひび割れのような違和感。
「……何か、ズレてます」
翌日の依頼が、ただの点検で済まないことを。
その時の真壁は、もう半分くらい察していた。
だから彼は、肉をもう一切れ口に入れながら、心の中で静かに泣いた。
「(……やっぱり、明日も働くのか)」
静かな生活は、まだ遠い。




