第12話
南街区の朝は、北側とは違う匂いがした。
湿っている。
石畳の隙間から上がってくる水気。排水路を流れる濁った水の匂い。洗濯場から漂う石鹸の残り香。市場の残飯。人の生活の「使い終わり」が集まる場所の匂いだった。
「(……苦手なやつだ)」
真壁悠は、鼻を少しだけつまみたい衝動を抑えながら歩いていた。
朝だというのに、南街区はもう動いている。洗い場で桶を打つ音。水路に板を渡す音。魚を捌く音。昨日までの北門付近や外縁とは違う種類の騒がしさだ。
そして何より――揺れている。
水が揺れる。
布が揺れる。
縄が揺れる。
桶が揺れる。
排水の流れが、ずっと視界の端で動き続けている。
「(うるさい……)」
視覚的にうるさい。
止めたい。
止めたくない。
止めたらたぶん怒られる。
真壁は左手で右手を押さえた。
「真壁」
横からララ・バーンの声。
「発動しそうか」
「街全体が揺れてます」
「視線を上げろ。屋根を見る」
言われて顔を上げる。
屋根は動かない。
少し楽になる。
「……助かります」
「今日は水門だ。水を直視するな」
「無理では?」
「無理でもやる」
「やっぱり労働じゃないですか」
「依頼だ」
言い換えただけだった。
ギルドの設備管理責任者ベルナールからの正式依頼――南街区排水門の点検補助。
昨日の中継小屋と同じく「危険度低」と書かれていた。
そして昨日と同じく、真壁はその評価を信用していない。
「ララさん」
「何だ」
「昨日、外縁は危険度低でした」
「そうだな」
「魔物出ました」
「出たな」
「今日も危険度低です」
「そうだな」
「帰っていいですか」
「まだ始まっていない」
やはり駄目だった。
水門は、街の外れに近い低地にあった。
石で組まれた大きな水路が集まり、その先に鉄製の門が設置されている。門の向こうは地下水路へ続き、王都の外へ排水する仕組みらしい。門の上には巻き上げ用の機構、横には操作用の歯車と鎖がある。
見た瞬間、真壁は顔をしかめた。
「……あー」
うるさい。
とにかく、うるさい。
水の流れ。
門の振動。
鎖のたわみ。
歯車の噛み合わせ。
全部がズレている。
全部が「ここを触れ」と主張してくる。
「見るな」
ララの声が飛ぶ。
「見ました」
「では視線を外せ」
「外したら仕事になりません」
「一瞬だけ見て、戻せ」
訓練と同じだ。
真壁は深呼吸した。
見る。
一瞬だけ。
情報を取る。
戻す。
「……門の軸、ズレてます。水の圧で片側に負荷かかってます」
視線をララの背中へ戻す。
「鎖、一本だけ伸びてる。歯車も噛み合ってないです。あと……」
言葉が止まる。
「どうした」
「……気持ち悪いです」
「どこがだ」
「全部ですけど……特に、水の流れ」
ララは水門を見る。
彼女にはただの濁流に見える。
だが真壁には違う。
流れが均一ではない。
渦がある。
細かい引っかかりがある。
まるで、どこかで「ほどけている」ような感覚。
「(これ、ただの水じゃない……?)」
その時だった。
後ろから軽い足音。
「お、やってるやってる」
真壁は反射的に振り返った。
「来た……」
ヴォルフだった。
昨日と同じく、くたびれた外套を揺らしながら、手をポケットに突っ込んで歩いてくる。
「お前、来るなって言っただろう」
ララの声が低くなる。
「聞いてたよ。でも来た」
「帰れ」
「やだ」
会話が成立しない。
真壁は頭を抱えたくなった。
「なんでいるんですか」
「言ったろ。気持ち悪いほどけ方、見に来た」
ヴォルフは水門の方を見る。
「どう? もう見えた?」
真壁は黙った。
見えている。
見えてしまっている。
水の中に、違和感がある。
流れの中に、明らかに「異物」が混ざっている。
だが、それは目で見える形ではない。
流れそのものが、どこかで引っかかっている。
「……ララさん」
「何だ」
「これ、ただの水門じゃないです」
「どういうことだ」
「水の中に、何かあります」
ララの表情が変わる。
「魔物か」
「分かりません。でも……」
言葉を選ぶ。
「流れが、ほどけてます」
ヴォルフが笑った。
「それだ」
最悪だった。
「楽しそうに言わないでください」
「だって面白いだろ」
「面白くないです」
水門の前に立つ。
水が流れる。
濁っている。
中は見えない。
だが、見える。
流れの「ズレ」だけが、はっきり見える。
そこを触れば――止まる。
いや、違う。
止まるだけではない。
何かが出る。
そんな予感がする。
「真壁」
ララの声が鋭くなる。
「触るな」
「分かってます」
だが、指先が熱い。
気持ち悪い。
止めたい。
整えたい。
「(無理だろ、これ……)」
その時、水門が軋んだ。
ギィ、と低い音。
歯車が一瞬だけ滑る。
水の流れが乱れる。
そして――
濁流の中から、黒い塊が浮かび上がった。
「来るぞ!」
騎士の声。
次の瞬間、水を割って何かが飛び出した。
細長い体。
ぬめった皮膚。
口が裂けている。
目がない。
水蛇のような魔物だった。
「うわぁ!」
真壁が叫ぶ。
魔物は水門の縁に絡みつく。
もう一体。
さらにもう一体。
流れの中から、次々と現れる。
「三体……いや四!」
ララが剣を抜く。
「下がれ、真壁!」
「もう下がってます!」
真壁は壁際へ逃げる。
だが目は離せない。
魔物が動く。
水が揺れる。
流れが乱れる。
全部がうるさい。
「(やめろ……やめろ……)」
ララが斬りかかる。
銀閃。
一体の胴が断たれる。
だが残りが水門に絡み、鎖を締め上げる。
歯車が悲鳴を上げる。
門がさらにズレる。
流れが乱れる。
ほどける。
ほどける。
ほどける。
「(ああもう無理だ)」
真壁の右手が上がる。
止めたい。
全部。
このうるさい流れを。
この気持ち悪いズレを。
「真壁、待て!」
ララの声。
だが、止まらない。
――パツン。
音がした。
だが、今回は小さくなかった。
水門全体に、何かが走った。
流れが、止まる。
一瞬だけ。
完全に。
魔物の動きも止まる。
次の瞬間――
水が割れた。
「な……!」
ララが目を見開く。
流れがほどけたのだ。
水そのものが、層のように分かれ、内部に溜まっていたものが露出する。
黒い塊。
絡み合った何か。
水草でもない。
泥でもない。
もっと生々しいもの。
「……これ、原因です」
真壁が震える声で言う。
水門の内部に、魔物の死骸と異物が絡み合って詰まっていた。流れが歪み、その歪みに引き寄せられて、さっきの水蛇型の魔物が集まっていた。
「詰まりを、ほどいたのか……?」
ララが呟く。
「たぶん」
真壁は息を荒げる。
「でも……」
問題はそこではない。
流れを止めた。
そして、ほどいた。
その結果――
溜まっていた水が、一気に動く。
「来るぞ! 離れろ!」
騎士の叫び。
次の瞬間、濁流が解放された。
ゴォッ、と音を立てて水が流れ出す。
水門を叩き、地面を打ち、全員を飲み込もうとする。
「うわあああ!」
真壁が叫ぶ。
逃げる。
だが間に合わない。
その瞬間――
ララの手が、真壁の腕を掴んだ。
「こっちだ!」
強引に引かれる。
体が浮く。
水が足元を掠める。
壁際の高い位置へ押し上げられる。
濁流が通り過ぎる。
数秒。
いや、もっと短い。
だが永遠のように長かった。
やがて、水は落ち着いた。
流れが安定する。
魔物の気配は消えた。
詰まりも、なくなっている。
静かになった。
「……」
真壁はその場に座り込んだ。
「……死ぬかと思った」
心臓が痛い。
呼吸が荒い。
ララが手を離す。
「無事か」
「無事じゃないですけど、生きてます」
ララは水門を見る。
流れは正常。
歯車も、鎖も、先ほどより安定している。
「……結果としては、修復だ」
「結果だけ見ないでください」
真壁は本気で言った。
「途中、完全に事故でした」
「否定はしない」
ヴォルフの笑い声が響く。
「ははっ、いいじゃん」
真壁が睨む。
「何がいいんですか!」
「気持ち悪いほどけ方、見れたろ」
「見たくなかったです!」
「でも止めた」
「止めたくなかった!」
「嘘だな」
ヴォルフは楽しそうだった。
「お前、あの流れ、ずっと気になってただろ」
「……」
否定できない。
あれは無理だ。
見たら止めたくなる。
「これが外だよ、修理屋」
ヴォルフが言う。
「壊れてるもんは、だいたい動いてる」
真壁は何も言えなかった。
静かな雑務。
安全な修理。
そんなものは、ここにはない。
壊れたものは、動いている。
動いているものは、壊れている。
それを触れば、何かが起きる。
「……ララさん」
「何だ」
「俺、帰りたいです」
「帰る」
「本当に?」
「ああ」
ララは真剣に頷いた。
「今日はここまでだ」
真壁はその言葉に、少しだけ救われた。
だが同時に、分かってしまった。
これは終わりではない。
始まりだ。
水門は直った。
だが、同じような場所が他にもある。
ベルナールの言っていた「外縁設備」。
それら全部に、同じような「気持ち悪いほどけ方」があるかもしれない。
そして自分は、それを見てしまう。
触ってしまう。
止めてしまう。
「(……無理だろ、これ)」
真壁悠の静かな生活は、さらに遠ざかっていった。
それでも――
「……今日の報酬、増えますか」
その一言だけは、しっかり言った。
ララは小さく息を吐いた。
「増やさせる」
「ありがとうございます」
それが、今の彼にできる精一杯の抵抗だった。




