第11話
第11話、完成版。
本文文字数:6897字
改行抜き文字数:6233字
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第十一話 修理役なんて聞いてない
王都に戻った時、真壁悠が最初に感じたのは安堵だった。
人が多い。匂いも多い。石畳の音も、荷車の軋みも、露店の呼び声も、相変わらずうるさい。街の中に入った瞬間、情報量は一気に増えた。外縁の街道よりもずっと騒がしい。普通に考えれば、静かな森道から人混みへ戻る方が疲れるはずだった。
だが、真壁にとっては違った。
壁がある。
門がある。
人がいる。
衛兵がいる。
少なくとも、窓の外から小型魔物が黄色い目で覗き込んでくる可能性は、森沿いの中継小屋より低い。絶対ではない。絶対ではないが、低い。それだけで、今の真壁には十分だった。
「(……王都、うるさいけど安全だな)」
そう思った直後、真壁は自分の感覚が少しずつおかしくなっていることに気づいた。
昨日までは、王都の通りを歩くだけで無理だった。人混みも、匂いも、視線も、全部が怖かった。それが今は、「外よりはまし」と思っている。
慣れたのか。
壊れたのか。
どちらにせよ、あまり認めたくない変化だった。
隣を歩くララ・バーンは、相変わらず背筋が伸びている。外縁の中継小屋で小型魔物と遭遇し、結界具の修復と戦闘を終えた後だというのに、歩き方に乱れがない。乱れていないどころか、朝よりもさらに静かに見える。騎士団長というのは体力の単位が違うのだろう。
一方の真壁は、ほとんど戦っていないのに疲れ切っていた。
精神が削られた。
小屋の窓から覗き込んできた魔物の顔が、まだ頭に残っている。黄色い目。尖った耳。窓枠にかかった指。あれが結界の隙間をこじ開けようとしていた瞬間、真壁は本気で死を覚悟した。実際には結界のズレを戻しただけで済んだが、それは結果論である。怖かったものは怖かった。
「ララさん」
「何だ」
「今日の仕事、雑務って言いましたよね」
「ギルドの分類上は雑務だ」
「魔物が出ました」
「外縁ではあり得る」
「結界具を直しました」
「あれは有用だった」
「窓から魔物が覗いてきました」
「防いだな」
「俺の中ではもう雑務じゃないんですけど」
ララは少しだけ考えた。
「では、外縁設備点検補助だ」
「名前を変えたら何かよくなるわけじゃないです」
「だが実態には近づいた」
「近づかないでほしいんですよ、そういう実態に」
真壁は肩を落とした。
ギルドの前に着く。
扉を見るだけで、少し胃が重くなる。昨日よりはましだが、入りたい場所ではない。中には人がいる。声がある。視線がある。そして、依頼がある。
「報告だけだ」
ララが言った。
「すぐ終わる」
「その言葉、最近信用できなくなってきました」
「努力はする」
「努力目標なんですね」
真壁は渋々、ギルドの扉を開けた。
昼過ぎのギルドは、朝よりも賑わっていた。冒険者たちが依頼から戻り始める時間らしく、受付前には数人が並び、酒場側では早くも酒を飲んでいる連中がいる。真壁が入った瞬間、いくつかの視線がこちらへ向いた。
以前のような嘲笑ではない。
興味。
値踏み。
噂の続きを待つ目。
「……また見られてる」
真壁は小声で言った。
「昨日よりは好意的だ」
「見られる時点で好意的じゃないです」
「慣れろ」
「またそれだ」
受付嬢は真壁とララに気づくと、すぐに立ち上がった。
「お戻りですね。中継小屋の状態はいかがでしたか」
ララが報告書を差し出す。
「扉と屋根に軽度の破損。備品は一部再利用可。簡易結界具四基のうち一基は完全破損、一基は真壁が応急修復した。現地で小型魔物四体と遭遇。騎士団が三体を処理、残る一体は結界の隙間から侵入を試みたが、真壁が結界の歪みを修正して防いだ」
受付嬢の手が止まる。
「……結界の歪みを、修正?」
「そうだ」
「真壁さんが?」
「そうだ」
受付嬢が真壁を見る。
真壁は視線を逸らした。
「……たまたまです」
「たまたまで結界具は直らないと思います」
「俺もそう思います」
最近、この会話を何度もしている気がする。
受付嬢は報告書を読み進めるたびに、表情を変えていった。最初は事務的な確認。次に驚き。最後に、明らかな計算の目。
真壁はその目が嫌だった。
人間が「この人、使える」と判断した時の目だ。前世ではほとんど見られたことがない目だが、だからこそ怖い。役に立つと、仕事が増える。仕事が増えると、静かな時間が減る。これは危険な流れだった。
「少々お待ちください」
受付嬢は奥へ走っていった。
真壁の顔が曇る。
「ララさん」
「何だ」
「この『少々お待ちください』は、嫌なやつじゃないですか」
「おそらくな」
「否定してほしかった」
「嘘はつかない」
しばらくして、受付嬢は一人の男を連れて戻ってきた。
昨日の処理場主任でも、倉庫担当でもない。年配の男で、眼鏡をかけ、上等だが実用的な服を着ている。いかにも事務方の責任者という雰囲気だった。
「君が真壁悠殿か」
「殿はいらないです」
「私はギルド設備管理部門の責任者、ベルナールだ。中継小屋の結界具を応急修復したと聞いた」
「応急というか、ズレてたのを戻しただけです」
ベルナールの目が鋭くなる。
「どのように」
「どのように……と言われても」
真壁は困った。
見えたから触った。
それ以上の説明がない。
「線がズレていて、そこが気持ち悪かったので、戻しました」
「気持ち悪かった」
「はい」
「魔術式を読んだわけではない?」
「魔術、分からないです」
「道具師としての訓練は」
「ないです」
「では、感覚で結界具の異常箇所を把握し、感覚で戻したと?」
「言い方は嫌ですけど、そうなります」
ベルナールは、受付嬢と顔を見合わせた。
「……ララ殿」
「何だ」
「騎士団として、真壁殿の身柄を預かっているという理解でよろしいか」
「保護と監視だ。身柄という言い方は不適切だ」
「失礼。しかし、ギルドとしても正式に協力を依頼したい」
真壁の肩が跳ねた。
「協力」
嫌な単語だった。
ベルナールは続ける。
「王都外縁には、中継小屋以外にも古い結界杭、街道灯、警報鐘、備品倉庫が点在している。近年の予算不足で、修繕が後回しになっていたものが多い。今回の一件で、外縁設備の再点検が急務となった」
「急務……」
「真壁殿の能力があれば、通常なら専門技師を呼ぶ必要がある箇所の選別が可能かもしれない。修復まで可能なら、なおありがたい」
「俺、専門技師じゃないです」
「もちろん承知している。正式な修繕は技師が行う。ただ、使えるもの、使えないもの、応急処置で済むものを見分けるだけでも、大幅な時間短縮になる」
ベルナールの言葉は丁寧だった。
だが、真壁には聞こえた。
仕事が増えます。
外へ出ます。
あなたは役に立ちます。
逃げられません。
「……ララさん」
真壁は助けを求めるように横を見る。
ララは静かに考えていた。
「危険がある」
「承知しています」
ベルナールは即答した。
「護衛はギルド側でも出します。必要であれば騎士団と共同で」
「真壁の制御はまだ不安定だ。過度に連れ回せば、事故の可能性がある」
「では、まずは王都内の設備からでどうでしょうか。外縁ではなく、街区内の古い倉庫、街灯、排水門、結界補助具。危険度は低いはずです」
真壁は少しだけ顔を上げた。
王都内。
外ではない。
魔物はたぶん出ない。
「報酬は」
自分でも驚くくらい自然に聞いていた。
ベルナールは微笑んだ。
「通常の雑務より上乗せします」
真壁は黙った。
金は必要だ。
飯にも宿にも、いずれ必要になる。騎士団宿舎にいつまでもいられる保証はない。ララは食事を用意してくれているが、それに甘え続けるのも怖い。借りが増える。借りはいつか労働として返せと言われる。だったら、自分で少しでも稼いでおいた方がいい。
だが、仕事が増える。
役に立つと、また増える。
真壁は深い葛藤の末、聞いた。
「……危険度は本当に低いですか」
「王都内ですから」
「虫とか出ませんか」
「倉庫なら可能性はあります」
「魔物は」
「普通は出ません」
「普通じゃないことが最近多いんです」
ベルナールは少し困ったように笑った。
「ララ殿が同行するなら、より安全でしょう」
視線がララに向く。
ララは真壁を見た。
「私は同行する。少なくとも、制御が安定するまではな」
「ララさんの仕事、増えてません?」
「増えている」
「すいません」
「謝ることではない。必要な判断だ」
真壁は少しだけ黙った。
ララは、真壁を利用しようとしているわけではない。少なくとも、本人はそう言った。だが現実として、彼女は真壁のそばにいる時間が増えている。騎士団長の仕事だってあるはずだ。自分のせいで、彼女の生活も乱れている。
それが、少し重かった。
「……じゃあ、王都内なら」
真壁は小さく言った。
「危なそうならすぐ帰るって条件で」
ベルナールの顔が明るくなる。
「ありがとうございます。ではまず、南街区の古い排水門から――」
「今日ですか?」
「可能なら」
「無理です」
即答だった。
ベルナールが固まる。
「え?」
「今日はもう外縁行って、魔物見て、結界直して、疲れてます。無理です。明日以降にしてください」
言い切った。
ララがわずかに目を見開く。
真壁は自分でも驚いていた。断った。仕事を。ちゃんと。理由をつけて。逃げるためとはいえ、はっきり言った。
ベルナールは少し考え、頷いた。
「分かりました。では明日の午前で調整しましょう」
「午前……」
朝が仕事で埋まった。
真壁は悲しい顔になったが、今日ではないだけましだった。
◇
ギルドを出ると、夕方の光が王都の屋根を赤く染めていた。
真壁は銅貨袋を握りしめながら、深いため息を吐く。
「……また仕事が増えた」
「断れたのは良かった」
ララが言う。
「断れたって言うんですか、あれ」
「今日すぐではなく、明日にした。お前にとっては大きな前進だ」
「前進した結果、明日の午前が潰れました」
「収入は得られる」
「それはそうですけど」
真壁は複雑だった。
役に立つことは、少しだけ嬉しい。報酬が出るのも嬉しい。修理や仕分けのような作業が、戦闘よりはずっとましなのも確かだ。
だが、その先に待っているのが「仕事が増える未来」なのは、やはり嫌だった。
「ララさん」
「何だ」
「俺、これ、このままだと便利屋みたいになりません?」
「すでになりかけている」
「否定してほしかった」
「だが、お前の力は戦闘よりもそちらに向いている」
「それは……まあ、そうかもしれないですけど」
「ならば、そこから制御を覚える方がいい。人を傷つけるより、物を直しながら学ぶ方が安全だ」
ララの言葉に、真壁は黙った。
それは、正しい。
嫌だが、正しい。
魔物と戦う訓練より、道具を直す方がいい。剣を避ける訓練より、結界具や扉や倉庫を見分ける方がいい。何より、壊れかけたものを戻せた時、少しだけ嫌じゃなかった。
「……修理か」
真壁は呟いた。
自分にそんな大層なことができるとは思っていない。だが、ほどく、分ける、戻す。それらが壊れたものを扱う行為に繋がるなら、戦うよりはずっとましだ。
「お前は、壊すより直す方を望んでいるのだろう」
ララが言った。
真壁は彼女を見た。
「……分かります?」
「見ていれば分かる。壊した時のお前は嫌そうな顔をする。戻した時は、少しだけ安心した顔をする」
「そんなに顔に出ます?」
「出る」
即答だった。
真壁は自分の頬を触った。
「……気をつけます」
「隠す必要はない」
「ありますよ。世の中、顔に出ると仕事が増えるんです」
「それは否定できないな」
少しだけ、ララが笑った。
真壁は、その笑顔にまた少し驚いた。
ララは最初、ただ怖い騎士だった。監視者で、訓練を命じる人で、剣を抜く人だった。今も怖い。だが、最近は少し違う。言葉の硬さの奥に、こちらを見ている感じがある。
それが安心なのか、別の面倒なのかは、まだ分からない。
「飯を食って戻るか」
ララが言った。
「騎士団の食堂ですか」
「嫌か」
「肉が多ければ嫌じゃないです」
「交渉しておく」
「神ですか」
「騎士だ」
そのやり取りも、少し慣れてきた。
だが、二人が騎士団宿舎へ向かって歩き出した時、屋根の上から軽い声が降ってきた。
「便利屋ねえ。いいじゃん」
真壁の肩が跳ねる。
ララの手が剣へ伸びる。
屋根の上に、ヴォルフが寝転がっていた。
夕日を背に、くたびれた外套を風に揺らしながら、面白そうにこちらを見ている。
「また出た……」
真壁はうんざりした声を出した。
「お前、暇なんですか」
「暇だって言ったろ」
「暇なら働いたらどうですか」
「働くくらいなら寝る」
「そこだけはちょっと分かるのが嫌だ」
ヴォルフは笑った。
ララが低く言う。
「何の用だ」
「用ってほどじゃねえよ。ほどき屋が、修理屋になりそうだなと思ってさ」
「その呼び方全部嫌です」
「でも、お前は壊すより直す方が好きなんだろ」
真壁は黙った。
ヴォルフの目は、こういう時だけ嫌に鋭い。
「ならさ、試してみたいと思わねえ?」
「思いません」
「即答すんなよ」
「あなたの試すは絶対危険なので」
「正解」
「ほら」
ヴォルフは屋根の上で起き上がる。
「王都の南に、古い水門がある。明日行くんだろ?」
真壁とララの空気が変わる。
「なぜ知っている」
ララの声が低くなる。
「聞こえた」
「盗み聞きだろう」
「聞こえる場所にいただけ」
「屁理屈だ」
ヴォルフは気にしない。
「あそこ、ただの排水門じゃねえぜ」
「何を知っている」
「さあな」
ヴォルフは笑った。
「ただ、直すなら気をつけろよ。あそこは、ほどけ方がちょっと気持ち悪い」
その言葉に、真壁の指先が冷えた。
気持ち悪いほどけ方。
嫌な表現だった。
「……行きたくなくなった」
「行くだろ。報酬出るし」
「見透かさないでください」
「分かりやすいからな」
ララは屋根を睨む。
「ヴォルフ。明日、現場に近づくな」
「それは無理」
「なぜ」
「面白そうだから」
ヴォルフは立ち上がった。
「じゃあな、修理屋。明日、楽しみにしてるぜ」
「俺はしてません」
「してるって。お前、もう気になってる」
真壁は何も言えなかった。
確かに、少し気になっていた。
気持ち悪いほどけ方。
それが何なのか、知りたくない。でも、知ってしまった。言葉が頭に残った。見たくない。だが、見たら止めたくなるのだろう。そういう自分を、もう少しずつ理解し始めている。
ヴォルフは笑い、屋根の向こうへ消えた。
ララはしばらくその方向を見ていたが、やがて剣から手を離した。
「明日の依頼、警戒を強める」
「キャンセルは?」
「しない」
「ですよね」
「だが、危険と判断すれば即撤退する」
「本当に?」
「本当だ」
ララの声は真剣だった。
真壁は少しだけ安心した。
少しだけだ。
「……ララさん」
「何だ」
「俺、修理屋になるつもりないですからね」
「分かっている」
「便利屋にもなりません」
「努力しろ」
「そこは否定してください」
「明日の働き次第だな」
「最悪だ……」
真壁は夕方の通りで肩を落とした。
雑務で生きていけるかもしれない。
そう思ったばかりだった。
だが、雑務はいつの間にか修理になり、修理はいつの間にか設備点検になり、設備点検にはヴォルフが絡み、何やら「気持ち悪いほどけ方」をする水門が待っているらしい。
静かな仕事など、どこにもない。
少なくとも、この世界で真壁悠がそれを手に入れるまでには、まだかなり遠そうだった。
それでも、今日の晩飯には肉が増える。
今の彼には、それだけが唯一の救いだった。




