第10話
翌朝、真壁悠は自分の右手を見つめながら、深刻な顔で考えていた。
この手は、いったい何なのか。
水滴を消した。埃を消した。蜘蛛の糸を断った。魔物の関節を外した。肉の筋をほどいた。薬草の状態を見分け、害虫の群れを黒い粉にした。壊れかけた警備装置を止め、部品ごとに分けた。
並べてみると、かなりひどい。
だが、真壁の中では、少しだけ整理がつき始めていた。
「(壊してるんじゃない。……たぶん)」
寝台の上で膝を抱えながら、真壁は自分に言い聞かせるように考える。
壊す、という言葉は違う気がした。少なくとも、自分がやりたいことではない。壊したくて触れているわけではない。邪魔な揺れを止めたい。引っかかる部分を外したい。混ざっているものを分けたい。気持ち悪いズレを、正しい場所へ戻したい。
だから、壊しているのではない。
分けている。
ほどいている。
整えている。
「(……いや、結果的に壊れてる時もあるけど)」
そこが問題だった。
自分の中の感覚と、周囲から見える結果が一致していない。真壁が「ちょっと整えた」と思っても、相手からすれば「装置がバラバラになった」だったり、「虫の群れが消滅した」だったりする。たぶん、そこが怖がられる理由だ。
もっとも、真壁自身も怖い。
自分で自分の手を信用できない人間が、他人から信用されるはずもなかった。
コン、コン。
扉が鳴る。
真壁は反射的に右手を引っ込めた。
「起きているか」
ララの声だった。
「起きてます」
「入るぞ」
扉が開く。ララ・バーンは今日も朝から整っていた。銀の髪はきっちりまとめられ、訓練用の服に軽い外套を羽織っている。腰の剣はいつも通りの位置。彼女が部屋に入るだけで、部屋の空気がまっすぐになる。
「体調は」
「右手が怖い以外は普通です」
「なら問題ない」
「だいぶ問題あると思うんですけど」
「自覚があるなら昨日よりましだ」
ララは机に朝食の盆を置いた。硬いパン、温かいスープ、薄切りの肉。昨日と似た内容だが、今日は肉が少しだけ厚い。
真壁は肉を見て、目を細めた。
「……肉が増えてる」
「昨日の雑務報酬の一部を食費に回した。訓練と作業で消耗しているからな」
「ララさん、神ですか」
「騎士だ」
真壁は真剣に頭を下げた。
「ありがとうございます」
「食べろ。今日は外へ出る」
真壁の手が止まった。
「……外?」
嫌な単語だった。
「どこの外ですか」
「王都の外だ」
さらに嫌な単語だった。
真壁はパンを持ったまま固まる。
「俺、急に体調悪くなってきました」
「食欲はあるようだが」
「食欲と労働適性は別です」
「仕事の話だ」
「やっぱり労働じゃないですか」
ララはいつものように否定しなかった。
それが逆に怖かった。
「ギルドから依頼が来ている。昨日の道具倉庫整理で、お前の仕分け能力が使えると判断された。今回は王都外縁にある古い中継小屋の点検補助だ」
「中継小屋」
「街道沿いにある倉庫兼休憩所だ。冒険者や騎士団の巡回隊が使う。しばらく放置されていたが、北側の森で魔物の動きが増えているため、再利用することになった」
「点検って、具体的には」
「扉、窓、備品、貯蔵棚、簡易結界具の状態確認。使えるものと使えないものを分ける。昨日の倉庫整理に近い」
近い。
その言葉は少しだけ安心できる。
だが王都の外という部分がすべてを台無しにしていた。
「魔物とか出ます?」
「可能性は低い」
「可能性はあるんですね」
「外だからな」
「じゃあ嫌です」
「報酬は昨日の倍だ」
真壁は黙った。
倍。
飯が増える。宿代にもなる。今後もし騎士団宿舎を追い出された時のため、金は絶対に必要だ。前世で家賃収入にすべてを委ねていた男にとって、定期的な収入がない状態は精神衛生に悪すぎる。
だが外。
王都の外。
魔物の可能性。
真壁はパンをかじりながら、真剣に考えた。
「……ララさんは来ますか」
「ああ。監督兼護衛として同行する」
「他には」
「ギルドから作業員が二名。騎士団から護衛が二名」
「戦闘はその人たちが?」
「本来ならな」
「本来なら、って言わないでください」
「絶対とは言えない」
ララは正直だった。
そこは信用できるが、安心はできない。
真壁は肉を見た。
厚い。
昨日より厚い。
「……行きます」
結局、食欲が勝った。
自分でも情けないと思うが、生きるとはそういうことだった。
◇
王都の北門を出る時、真壁は少しだけ足を止めた。
門が大きい。
分厚い石壁の間を抜ける通路は、街の内側とは別の冷たさを持っていた。衛兵が立ち、荷馬車が通り、冒険者らしき一団が装備を確かめている。外へ出る人間たちの顔には、街中では見ない種類の緊張があった。
「(……みんな、外が危ないって分かって出てる顔だ)」
帰りたい。
しかし、背後にはララがいる。横にはギルドの作業員が二人。さらに騎士が二人。さすがにここで「やっぱり無理です」と言って引き返す空気ではなかった。
「真壁」
ララが声をかける。
「無理なら言え」
「じゃあ無理です」
「そうか。では進むぞ」
「今の確認、意味ありました?」
「言える状態か確認した」
「言えても帰れないんですね」
「帰るほどの無理ではないと判断した」
「厳しい」
門を抜ける。
王都の外は、広かった。
空が広い。道が広い。視界が抜ける。街中のように建物が迫ってこない代わりに、どこまでも逃げ場がないように感じる。草の匂い、土の匂い、遠くの森の青い匂い。音は少ないはずなのに、真壁には落ち着かなかった。
四畳半は狭いから安心できた。
外は広すぎる。
「(広いのも無理だな……)」
真壁は自分の許容範囲の狭さに少しだけ呆れた。
街道を歩く。
馬車の轍が残る道。ところどころ小石があり、草が生えている。遠くには森が見える。ララは真壁の少し前を歩き、護衛の騎士二人は左右に散っている。ギルドの作業員は工具箱を持ち、慣れた様子で歩いていた。
そのうちの一人、丸顔の男が真壁に話しかけた。
「あんたが噂の仕分け屋か」
「その呼び方、もう広まってるんですか」
「昨日の解体場と倉庫の話、けっこう有名になってるぜ。素手で魔物をバラして、虫の群れを粉にしたって」
「悪意ある要約ですね」
「違うのか?」
「違う……と言い切れないのが嫌です」
丸顔の男は笑った。
「俺はモットだ。こっちはニル。今日はよろしくな」
「真壁です。できれば静かに終わりたいです」
「外仕事で静かに終わる日は少ねえな」
「帰りたい」
もう一人の作業員、細身のニルが苦笑する。
「大丈夫ですよ。中継小屋は街道沿いですし、魔物が出るような場所じゃありません」
「その言葉、物語だと危険なやつですよ」
「物語?」
「いや、なんでもないです」
ララが振り返る。
「警戒は怠るな。最近、森の浅い場所で小型魔物の目撃が増えている」
「やっぱりいるじゃないですか」
「可能性があると言った」
「その可能性が怖いんです」
真壁は右手を左手で押さえながら歩いた。
外には揺れるものが多い。草。枝。葉。遠くの旗。作業員の腰に下がった工具。騎士のマント。全部が風で動く。全部が小さくズレる。触れたいほどではないが、視界に入るだけで落ち着かない。
ララの背中を見る。
安定している。
やはり、彼女は静かだった。
「ララさん、歩くの上手いですね」
真壁がぽつりと言うと、ララは少しだけ振り返った。
「昨日も言っていたな」
「外だと余計に分かります。周りが揺れるので」
「それは、お前の認識の方が特殊だ」
「でしょうね」
その会話を聞いたモットが目を丸くする。
「騎士団長に歩くの上手いって、すげえ褒め方だな」
「褒めてます。一応」
「一応って」
ララは何も言わなかった。
ただ、耳の先が少しだけ赤くなっているように見えた。
◇
中継小屋は、街道から少し外れた場所にあった。
石造りの基礎に木の壁。屋根は一部が沈み、窓板は片方外れかけている。扉は閉まっているが、金具が錆びている。周囲には背の低い草が生え、古い井戸と薪置き場があった。
「……壊れてますね」
真壁は小屋を見ただけで、肩が重くなった。
視界がうるさい。
屋根の沈み。柱の歪み。扉金具の錆。窓枠のズレ。壁板の浮き。全部が気になる。全部が「ここだ」と主張してくる。
「真壁、深く見るな」
ララの声。
「もう見えました」
「では視線を外せ」
真壁はララの背中を見る。
落ち着く。
しかし仕事にならない。
モットが扉を調べる。
「蝶番が駄目だな。こりゃ交換か」
ニルが屋根を見上げる。
「雨漏りもありそうです」
ララは周囲を警戒し、騎士二人に配置を指示した。
「真壁。まずは扉だ。使えるか、交換が必要か判断しろ。ただし触れる前に言葉で説明しろ」
「はい」
真壁は扉を見る。
木そのものはまだ使える。だが蝶番が錆びて、軸が歪んでいる。無理に開けると、片側だけに負荷がかかって板が裂ける。
「木は使えます。金具が駄目です。開けるなら、こっち側を支えないと板が割れます」
「モット」
「了解」
モットが工具を出し、扉を支える。ニルが錆びた金具に油を差す。
「開けてみるぞ」
ギィ、と嫌な音がした。
真壁は顔をしかめる。
「(うるさい……)」
手が出そうになる。
左手で右手を押さえる。
ララが見ていた。
「止めたな」
「止めました」
「よし」
小さく褒められた。
ちょっとだけ嬉しいのが、嫌だった。
扉が開く。
中は埃っぽかった。
古い棚、壊れた椅子、空の樽、補修用の板、簡易結界具らしき金属の柱。床には枯葉が入り込み、壁際には小動物の糞らしきものもある。
「……掃除からですね」
ニルが言う。
「掃除」
真壁はその単語に少しだけ安心した。
掃除なら分かる。
戦闘よりずっといい。
だが、すぐに問題が発覚した。
簡易結界具が壊れていた。
小屋の四隅に立てる金属柱のうち、一本の根元が歪み、内部の細い線が切れかけている。魔力を流すための道具らしいが、真壁には魔力は分からない。ただ、構造として気持ち悪いことだけは分かった。
「これ、使えますか」
モットが聞く。
ララが結界具を見る。
「私は専門ではない。だが破損しているのは分かる」
全員の視線が、真壁に向いた。
「……俺を見る流れ、やめません?」
「分かるか」
ララが聞く。
真壁は嫌々ながら結界具を見る。
金属の外枠。内部の芯。細い導線のようなもの。切れかけた箇所。負荷が集まっている場所。そこを外せば完全に壊れる。逆に、そこを少しだけ戻せば繋がるかもしれない。
「……たぶん、ここがズレてます」
指を差す。
「触るなよ」
「分かってます」
真壁は手袋をはめたまま、慎重に近づいた。
「触るなと言われた直後に近づくな」
「見ないと分からないんです」
「見るだけだ」
「はい」
見る。
気になる。
直したい。
止めたい。
いや、これは止めるではない。
戻す。
「(……戻せる?)」
その感覚は初めてだった。
今までは、ほどく、分ける、外す、止めるだった。だが目の前の結界具は、完全に壊れてはいない。ズレているだけだ。接続が切れかけているだけだ。なら、ほどくのではなく、噛み合わせを戻せばいい。
「ララさん」
「何だ」
「これ、壊さずに戻せるかもしれません」
ララの目が少しだけ変わった。
「できるのか」
「分かりません。やったことないです」
「危険は」
「たぶん、失敗したら壊れます」
「爆発は?」
「それは分かりません」
ララは少し考え、周囲に下がるよう指示した。
「真壁。無理ならやめろ」
「はい」
真壁は結界具の前にしゃがんだ。
右手を伸ばす。
左手を添える。
触る。
ほどくのではない。
外すのではない。
揺れを止めるのでもない。
ズレを、元の場所へ。
「(……ここ)」
――パツン。
音はした。
だが、壊れなかった。
金属の内部で、何かが小さく噛み合う感触があった。切れかけていた線が、正しい溝へ戻る。緊張が抜ける。結界具の表面に刻まれた紋様が、淡く光った。
「……ついた」
ニルが呟く。
ララも目を見開いた。
「修復したのか」
「たぶん」
真壁は自分の手を見た。
壊していない。
分けてもいない。
戻した。
「(……こういうのも、できるのか)」
少しだけ、嫌ではなかった。
怖い手だと思っていた。勝手にほどいて、壊して、消してしまう手だと思っていた。だが今は、壊れかけたものを戻した。
それは、少しだけ救いだった。
「すごいですよ、真壁さん!」
ニルが興奮気味に言う。
「これ、専門の技師を呼ばないと駄目だと思ってたんです!」
「いや、たまたまなので……」
「たまたまで結界具は直りませんよ」
「俺もそう思います」
モットが笑う。
「こりゃ追加報酬もんだな」
「本当ですか」
真壁の表情が少し明るくなる。
ララはその横顔を見ていた。
「(ほどくだけではなく、戻すこともできる)」
それは大きな発見だった。
危険性だけではない。
有用性が、さらに広がる。
真壁本人がそれを望むかどうかは別として。
◇
作業は順調に進んだ。
真壁は直接触れすぎないよう注意しながら、小屋の中の壊れた物を見分け、使える物を分け、結界具の残り三本を確認した。一つは問題なし。一つは汚れを落とせば使える。一つは内部が完全に砕けていて修復不可。
「これは駄目です。芯が割れてます」
「部品取りは?」
「外枠とこの小さい金具は使えます」
「助かる」
モットとニルはすっかり真壁を頼るようになっていた。
それが少し怖い。
だが、魔物の死体を触るよりはずっといい。薬草の仕分けよりも、さらに感覚がはっきりしている。壊れた道具や結界具は、真壁にとって読みやすかった。どうズレているか、どこが外れているか、どこを戻せばいいか。
まるで、四畳半で紐を見ていた時の延長だった。
ただし、今は揺れを止めるだけではない。
形を戻す。
それができる。
「(……仕事としては、悪くないかも)」
真壁は少しだけそう思った。
静かな小屋。壊れた道具。最低限の人数。戦闘なし。追加報酬の可能性あり。
理想に近い。
もちろん、外にいる時点で完全な理想ではないが、それでも今までの依頼よりはだいぶましだった。
その油断が、よくなかった。
小屋の外で、護衛の騎士が声を上げた。
「ララ様。森側に反応」
空気が変わる。
ララが即座に剣へ手を伸ばす。
「数は」
「小型が三、いや四。こちらへ向かっています」
真壁は固まった。
「……小型って」
「小型魔物だ」
「帰れますか」
「今は無理だ」
「ですよね」
モットとニルが工具を片付け、壁際へ下がる。騎士二人が小屋の外へ出る。ララは真壁を振り返った。
「小屋の中にいろ。絶対に外へ出るな」
「出ません。むしろ床下に隠れたいです」
「それでいい」
「いいんだ……」
ララは外へ出た。
真壁は小屋の中に残された。
心臓が鳴る。
外から、草をかき分ける音が聞こえる。低いうなり声。騎士の号令。剣が抜かれる音。
「(無理無理無理無理)」
真壁は壁際に後ずさる。
その時、小屋の中の結界具が淡く光った。
さっき直した一本だ。
他の三本と共鳴し、小屋を囲むように薄い膜が張られる。簡易結界。たぶん、小型魔物の侵入を防ぐためのもの。
「(……おお)」
少しだけ安心した。
自分が直したものが機能している。
外では、魔物が姿を現したらしい。
ぎゃあぎゃあと甲高い声がする。ゴブリンほどではないが、それに近い小鬼のような声。ララの剣が走る音。騎士たちの足音。戦闘は短いように思えた。
だが、一匹だけ、結界の隙間へ回り込んだ。
小屋の裏。
窓の下。
真壁は、その気配に気づいてしまった。
「……え」
窓枠の外に、小さな影。
緑がかった皮膚。尖った耳。黄色い目。
小型魔物が、窓の隙間から中を覗き込んでいた。
目が合った。
「……」
「ギィ」
魔物が笑ったように見えた。
真壁の頭が真っ白になる。
「ラ、ララさん」
声が小さい。
出ない。
魔物が窓枠へ手をかける。
結界があるはずだ。
だが、窓枠の金具が古い。さっき確認していなかった場所。そこに小さなズレがある。結界具から伸びた薄い膜が、そのズレのせいで一部だけ弱くなっている。
見える。
最悪なことに、見えてしまう。
魔物はそこを本能的にこじ開けようとしていた。
「(そこ、駄目だろ……)」
真壁の右手が動いた。
今度は、魔物ではない。
窓枠でもない。
結界のズレ。
そこへ、触れる。
――パツン。
薄い膜が、正しい形へ戻った。
同時に、窓へ手をかけていた魔物の指が結界に弾かれる。
「ギャッ!?」
魔物が悲鳴を上げて後ろへ倒れた。
その声にララが反応する。
次の瞬間、窓の外で銀閃が走り、小型魔物の気配が消えた。
静かになる。
真壁はその場にへたり込んだ。
「……死ぬかと思った」
扉が開き、ララが駆け込んでくる。
「無事か!」
「無事です。心は無事じゃないです」
「何があった」
「窓から来ました。あと、結界の隙間がズレてたので……戻しました」
ララは窓枠を見る。
結界は、正しく機能している。
「……戦わずに防いだのか」
「戦いたくなかったので」
真壁は心底そう言った。
ララは少しだけ黙り、それから剣を収めた。
「良い判断だ」
「褒められてます?」
「褒めている」
「じゃあ、追加報酬あります?」
「ギルドと交渉する」
「ありがとうございます」
現金だった。
◇
帰り道、真壁はぐったりしていた。
初めて王都の外へ出て、古い中継小屋を点検し、結界具を修復し、小型魔物に窓から覗かれ、結界のズレを戻して防いだ。
雑務ではなかった。
少なくとも、真壁の知る雑務ではない。
「……ララさん」
「何だ」
「これ、外仕事って毎回こうなんですか」
「毎回ではない」
「たまには?」
「たまにはある」
「もう外出たくないです」
「だが、お前の力は外で役に立った」
「役に立つと仕事が増えるので、あまり嬉しくないです」
ララは少し笑った。
「お前らしいな」
真壁はその笑みを見て、少しだけ不思議な気分になった。
ララは怖い。厳しい。訓練を労働ではないと言い張る。だが、最近ほんの少しだけ表情が柔らかくなることがある。それが分かるくらいには、真壁も彼女を見るようになっていた。
「今日は、よくやった」
ララが言った。
真壁は少し黙った。
「……どうも」
褒められるのは慣れない。
だが、悪くはなかった。
その時、街道脇の木の上から、軽い声がした。
「おー、やってんじゃん」
真壁の肩が跳ねる。
ヴォルフだった。
枝の上に寝転がり、片手をひらひら振っている。
「なんでいるんですか!」
「見に来た」
「暇なんですか!」
「暇だよ」
ララの手が剣へ伸びる。
「またお前か」
「今日は邪魔してねえだろ」
「存在が邪魔だ」
「ひどいねえ」
ヴォルフは真壁を見る。
「結界のズレ、戻したな」
「見てたんですか」
「見てた」
「助ける気は?」
「なかった」
「最悪だ」
「だって、お前なら何かすると思ったし」
真壁は絶句した。
ヴォルフは笑う。
「壊すだけじゃなくて戻せる。いいじゃん。ますます面白い」
「俺は全然面白くないです」
「次はさ」
ヴォルフの目が細くなる。
「動いてる敵相手に、それやってみようぜ」
「嫌です」
「即答好きだな」
「絶対嫌です」
「まあ、すぐ機会来るって」
嫌な予言だった。
ララが一歩前に出る。
「真壁を巻き込むな」
「俺が巻き込まなくても、勝手に巻き込まれるだろ。そういう手だ、そいつのは」
ヴォルフは枝の上で起き上がる。
「じゃあな、修理屋」
「また変な呼び方増えた……」
「ほどき屋より良くね?」
「どっちも嫌です」
ヴォルフは笑いながら、木々の向こうへ消えた。
真壁は深くため息を吐いた。
「……ララさん」
「何だ」
「あの人、どうにかならないんですか」
「どうにかしたいとは思っている」
「思ってるだけですか」
「簡単にどうにかできる相手ではない」
「でしょうね……」
王都の門が見えてくる。
真壁は、少しだけ安心した。
街の中はうるさい。人も多い。匂いも強い。だが、外よりはましだ。少なくとも窓から魔物が覗き込んでくる可能性は低い。
今日の仕事は終わった。
報酬も出るはずだ。
飯も食える。
それで十分。
そう思いたかった。
だが、真壁は知ってしまった。
自分の手は、ほどくだけではない。
分けるだけでもない。
壊れかけたものを、戻すこともできる。
そして、その力はたぶん、この世界では静かな雑務だけに収まらない。
「(……嫌な予感しかしない)」
真壁の予感は、珍しく当たっていた。
この中継小屋での一件が、後に「王都外縁設備修復依頼」という名の連続依頼へ繋がり、彼をさらに外へ連れ出すことになる。
もちろん、本人はまだ知らない。
今の真壁悠に分かっているのは、ただ一つ。
「……今日の晩飯、肉増えないかな」
命の危険と引き換えにした労働の対価として、それくらいの希望は許されるはずだった。




