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5 名前のない月の精霊


 クララは小さなバルコニーに立ち、夜空を見上げた。

 夜空には、欠けのない満月。


「お月様、今日もきれいね」


 彼女が手を差し出すと、淡い月光がその手のひらを柔らかく照らす。

 クララは小さく笑った。


「今日も、聞いてくれる?」


 まるで、彼女の言葉に応えるかのように、月の光が揺らぐ。


「おじいさんの手紙を代筆したの。

 温かくて、でも少し……不器用さんなのよ。

 遠くに住む息子さんを、大切に大切に思ってるの。

 どうか、食べ物に困りませんように。

 どうか、体を壊しませんように。

 どうか……、ずっと幸せでいてくれますようにって」


 クララの周りを光の粒が踊るように舞った。


「思いが、伝わるといいわね」


 柔らかい月の光は、彼女の周りだけを照らし出している。

 クララはバルコニーの柵にもたれ、月を仰いだ。


「……本当にあなたは、美しいわね」


 うっとりと、小さく息を吐く。

 誰にも届かない、彼女だけの言葉。


 白い月光は、彼女の頬をやんわりと撫でた。





 別の日。

 その日もクララは夜のバルコニーにいた。手を差し出し、その手のひらに光を受ける。


「今日はね、盲目の少年の手紙を代筆したの。遠くで暮らすお兄さんへ。

 元気でいますか?

 無理はしていませんか?

 母さんと僕は元気です……って。

 きっとお互いが大切なのね。

 優しい気持ちに、つい、嬉しくなってしまったの」


 手のひらの光を、反対の指先でなぞるように触れる。


 クララはふと、自分の右側を見た。

 何もない空間。 石畳と、隣家の壁だけが見える。

 だが、彼女はふわりと笑んだ。


「……ねぇ。もしかして、そこにいるの?

 いつも私を見守ってくれる――誰かさん」


 光が舞う。

 まるで、喜んでいるかのように。

 彼女だけを、ひときわ明るくて温かい光が包み込む。


 クララは頬を緩めて、何もない、光だけの空間を見つめた。



 ◇



 月の晩だけ。

 僕は彼女に会いに行ける。

 姿を持たないから、彼女の周りを、ただ漂うだけ。

 

 それでも、なんだか嬉しい。

 彼女のそばにいるだけで、温かい気がするから。


 僕の光はきっと冷たいはずなのに、彼女は、喜んでくれる。

 彼女は、どうしてか、僕に気づいてくれる。


 触れていたい。

 彼女の美しい言葉、美しい心。

 

 月の光が太陽に隠されてしまうと、僕も帰らなければならない。


 ずっとここにいられればいいのに……

 朝なんか、来なければいいのに……


 明日の夜も、晴れるかな。

 僕は君の隣に、いられるかな。


 また、会いに行くよ。 君のところへ。



 ◇



 代筆屋の扉が開く。

 澄んだベルの音が響き、クララは入り口に向かった。


「こんにちは。お手紙の代筆をご希望ですか? それとも――」

「……手紙を」

「はい。では、こちらへ」

 

 客がクララの後をついて歩く。

 木床を踏んで向かうのは、狭い部屋。

 代筆屋が筆を執るための机と、客が座るための一脚の椅子。

 小さな窓。

 それしかない部屋だ。


 椅子に腰掛けたのは、黒いローブの老婆だった。

 彼女はフードを指先で払うと、クララを見て、しわしわの顔をさらにしわしわにして微笑んだ。

 クララもにっこりと笑んで返す。


 クララは机に向かうと、便箋と封筒を取り出し、インク壺にペン先を浸した。


「どなたへのお手紙ですか?」

「あんたに夜だけ会いに来る不器用なやつにさ」

「……え」


 クララは老婆を見る。

 彼女の瞳は滲むような金色。

 珍しい不思議な色の瞳をしていた。


 老婆はしわがれた声で小さく笑う。


「願いを叶えたいなら、あたしのところへ来い。そう書いておくれ」

「……そう……ですか。分かりました」


 クララは少し悩んだが、老婆の言う通りに便箋に書いた。

 宛先は―― “夜だけ会いに来る不器用な方へ”


 ――住所もないけれど……。本当にこれでいいのかしら……。


 読み上げて確認すると、老婆は満足げに頷き、少し多めの銀貨を置いて部屋を出ていった。

 木床を踏む軋んだ音。続いてベルの音が響く。


 クララは便箋を封筒に入れ、封蝋を垂らした。

 手渡す相手もいない手紙を、 クララは鞄に丁寧にしまう。


 窓を見上げた。

 

 ――雲がない空。

 ――今日も、“誰かさん”は来てくれるかな。

 

 少しだけ目元を和らげると、また、ベルの音。

 次の客を迎えに、彼女は席を立った。





 夜。

 クララは小さなバルコニーに立ち、手紙の封を開け、手紙を取り出した。

 ふわりと、月明かりが彼女を包み込む。


「……あのね、きっとあなた宛ての手紙なの。

 聞いてくれる?

 黒いローブのおばあさんから。名前は伝えなくてもいいって言われたのだけど……」


 広げた手紙の上をかすかに光が走る。


 “読んでみて”

 ――そう、言われた気がした。


「“願いを叶えたいなら、あたしのところへ来い”」


 顔を上げる。


「……それだけ。これで……本当に合ってるのかな」


 手紙を丁寧に畳んで封筒に戻すと、彼女は羽織っていた上着のポケットにそっと入れた。


 月光は青白く、クララの足元を照らす。どこか、揺らぐように。

 やがて、気を取り直したように、彼女をやわらかい光がまた包み込む。


 クララは自分の右隣を見た。

 

「……そこにいるの? “不器用な方”」


 温かい風が、そっとクララの頬に触れる。


「そう……いてくれているのね。温かいもの。なんとなく……分かるわ」

 

 柵にもたれて、何もない空間を見つめる。

 “不器用な方”も、隣に並んで、こちらを見ているような気がした。


「ふふ……嬉しい」


 どうしてか、胸が温かくなる。

 もっと一緒にいたい。


 姿も声も、誰であるかも、何も知らないのに。

 なぜか、クララはそう思った。





 代筆屋の部屋。

 その椅子に座った少女は、透明な涙を落としていた。


 クララはそっと彼女にハンカチを差し出す。それに気づいた少女は顔を上げて小さく首を振るが、クララは優しく笑んで「どうぞ」と声をかけた。少女は頭を下げると、クララのハンカチを受け取り、目元に当てた。


 クララは、書き上げた手紙にそっと視線を落とす。

 そうして、少女が泣き止むまで、クララは静かに、寄り添うようにして待った。





 夜。

 クララはいつものようにバルコニーに立った。手を差し出すと、手のひらが淡く光に染まる。


「今日も……聞いてくれる?」


 返事をするように、光の粒が舞う。


「今日はね、離れ離れの恋人に贈る手紙を書いたの。

 ――“愛してる”ってたくさん書いたわ……」


 柵に肘をつき、月を見上げた。


「会いたいのに……会えないんですって……。

 時間が経てば一緒に暮らせるって話してたわ。

 早く一緒になれるといいわね……。

 ……幸せになって欲しいわ」


 クララは小さく息を吐く。

 指先を差し出すと、まるで指輪のように彼女の指を光が包む。


「ふふ……きれいね」


 クララは手を引き寄せると、そっと口づけた。


「私も……。少しだけ、あなたに会ってみたいわ……」


 ぽつりと、言葉が溢れる。

 月光が、水のように漂った。

 

「ふふ……なんてね。

 嘘よ。そばにいてくれるだけで、じゅうぶんだわ」


 月光は青白いまま、彼女の肩に触れる。


 クララは両腕を伸ばした。

 誰かを抱き締めるように。


 その腕は、空を探していた。

 



 

 ある日。

 雨上がりの夜。まだ街は雨の匂いを手放さずにいた。


 雲の隙間から、月が覗く。


「……いる? 

 不器用な……あなた」


 手を差し出すと、鈍い光が彼女の手に触れた。


「今日はね、……別れの手紙を書いたの」

 

 柵にもたれて朧月を見つめる。


「でもあの人、まだ彼女を愛してるみたい。

 嘘をたくさん並べて、さようなら……って。

 きっとどうしようもない理由があったのよ……」


 光がそっと、彼女を包み込んだ。

 優しく、柔らかく。

 ただ、彼女に寄り添うように。


「ねぇ……不器用なあなた……。

 こんなに近いのに……私はあなたの言葉がわからないの」


 一瞬だけ、光が眩しく瞬いた。

 だがそれも、すぐに青白く揺れる。


 クララが手を伸ばすと、その手が包まれた。

 頬に、温かい風が触れる。


 “ここにいるよ”

 ――そう伝えようとしているかのように。


「……あなたの言葉を聞いてみたいわ」


 触れられた頬に、手を添えた。

 温かいのに、胸が締め付けられる。

 触れられて嬉しいのに、苦しい。


「……なんて、ごめんなさい。私、わがままね」


 クララが俯く。

 光は、彼女の周りを舞った。もどかしそうに。


 ――でも、雲が月を隠してしまう。


 光は、彼女から、離れてしまった。


 クララが顔を上げる。

 厚い雲。


 また、雨が降るのかも知れない。



 ◇



 なぜ……。

 どうして、僕は触れられないんだろう。


 胸が引き裂かれそうだ。

 あの子のそばにいたいよ。

 でも、僕の言葉は彼女には届かないんだ。

 伝えたい言葉は、たくさんあるのに。


 君は優しいね。

 君の言葉はとてもきれいだよ。

 君のことが、大好きだよ……。


 伝えたいよ。

 君に、僕の言葉を、伝えたいのに……。


 なぜ……?

 どうして……?



 ◇



 月光が街を彷徨う。

 雲に隠され、また現れては、街に落ちてくる。


 月光の弱い夜の街。

 濡れた石畳を、黒いローブを纏った老婆がゆっくりと歩いていた。彼女はふと顔を上げる。

 薄い雨の中、フードを払った。


「……いたいた。こんなところにいたのかい」


 光が揺れる。


「全く……。

 精霊は力があるくせに不器用で嫌いだよ。

 “来い”とちゃんと伝えてもらっただろうに」


 驚いたように、老婆の足元で月光が鈍くちらつく。 

 老婆はそれには構わず、軽く指先を振った。

 

「ほれ……幸せにおなり」

 

 彼女に、見られた気がした。


「早く行ってやんな」


 彼は、ふと動きを止めた。


 ――何かが、違う。

 

 思わず胸に手を当てる。

 

「……ん?」


 初めての感覚に、驚く。


 彼は、おそるおそる自分の手を見た。


 そこにあるのは、震えている人間の指先。 


 青年は目を見開いた。

 手で、髪に触れ、顔に触れ、身体に触れる。

 彼は、口を大きく開けて、老女を見た。


「悪くない顔だよ。

 自信持って彼女のもとに行ったらいいのさ」

「あ、ありがとう……」

 

 初めて聞く自分の声。

 彼は喉に、震える指先で触れた。


 指先が、温かい。


「……声があるよ!」

「当たり前だろう」


 青年は両手を大きく広げた。

 

 雲の隙間から落ちてきた月光が、彼の手元に集まる。

 青年はそれを手に持つようにすると、そっと、老婆へ差し出した。


「……月の祝福を……あなたに」


 老婆は顔をくしゃくしゃにして、小さく笑った。


「ありがとうよ……」


 青年は踵を返す。

 雲が風に押され、月を顕にした。


 月が照らす石畳。


 青年は、駆け出した。

 ただ一人のもとへ。





 石畳を打つ彼のブーツの音が、街に響く。


 喉が焼ける感覚。

 浅くなった呼吸に、彼は胸を押さえた。


 ―――走るとは、こんなにも苦しいものなのか……。


 視線が探す。


 石造りの建物の二階。

 小さなバルコニー。


 ――……いないのかな。


 青白い月光が、その手すりの上を滑っていた。


 その時――

 バルコニーの扉が開く。


 部屋から、彼女が出てきた。

 クララは濡れた手すりに手をつき、空を見上げた。


 青年は足を止め、思わず、顔をくしゃりと歪めた。


 ――出てきてくれた。


 瞳を伏せて、深く息を吐きだす。

 もう一度顔を上げ、彼女をまっすぐに見た。


「ク……クララ!」


 クララは、ゆっくりと声の方を向いた。

 遅れて、目を見張る。


「僕だよ。……わかる?」

 

 鼓動が耳のそばで鳴る。


「クララ……。僕……」


 クララはバルコニーの柵に足をかけ、そのまま飛んだ。


「……えぇ!?」


 青年は慌ててそれを抱きとめる。

 よろけかけ、それでも倒れず、彼女を抱きしめた。


「会いに来てくれたのね……」


 耳のそばで落ちる、彼女の声。

 温かい体温。

 初めて感じる、彼女の香り。


 思わず強く抱きしめた。


「……会いに来たよ」

「……嬉しい」


 青年はクララを離すと、その瞳を覗き込んだ。

 榛色のやわらかい瞳。

 その瞳に映っている、青年。


 いつも、彼女の瞳に映るのは月だけだった。

 

「……映ってる」


 クララは淡く笑う。


「……あなた、月みたいな、きれいな瞳なのね」

「何色?」

「灰銀……きれいな色」

「髪は?」

 

 クララの指先が、青年の髪に触れる。


「澄んだ銀色」

「……やっぱり、人とは違うのかな」


 青年が自分の髪に触れる。


「それでもいい。会いに来てくれた。それだけで……」


 青年はもう一度、クララを抱き締めた。

 クララも、彼を強く抱き返す。


 ずっと、触れたかった。

 ずっと、言葉を交わしたかった。

 夢じゃないと、互いに確かめるように。





「……見て」


 クララの視線を辿る。

 東の空が、わずかに白くなっている。


「夜が明けるわ……。

 あなたはいつも……夜にしか現れなかったわよね?

 ――もう……帰ってしまうの?」


 青年は、空からクララへ視線を滑らせた。

 小さく首を振る。


「……わからない」


 クララの瞳が潤み、じわりと涙が溜まる。


「クララ……泣かないで」

「また……会えるわよね?」


 青年は答えられず、彼の目も潤んだ。


「……わからない」


 彼女の頬を、涙が伝う。

 それを青年は指先で拭うが、彼の瞳からも涙が溢れた。


「会えるって……言って」

「嘘になっちゃうかもしれない」

「それでもいい」

「やだよ。君に嘘はつきたくない」


 青年はクララを強く、胸に抱きすくめた。

 

 逃げないように。

 離れないように。


 ――どうか……。


 


 

 やがて、金色の光が、街をそっとすくう。

 夜を押し出すように。

 ゆっくりと、藍を金に取り替えていく。


 青年は顔を上げた。

 

 月が、太陽に隠される。


「クララ……。朝だよ」


 クララも、彼の腕の中で顔を上げた。


 見つめ合い、互いの頬に触れる。


「……消えないのね」


 どちらからともなく、顔を寄せた。

 唇が、そっと重なる。

 

 ゆっくりと離れれば、今度は呼吸が触れる。

 額を当て合う。


 確かな体温。ここにいる証。


「そばにいる」


 青年の言葉に、クララは小さく頷いて返す。


「君の言葉を、僕にもっと聞かせて。

 僕の言葉も、クララにあげる」

「たくさん……たくさんあげるわ」


 視線が、そっと絡まる。


「こういうとき、なんて言ったらいいのかな」

「愛してるって言うの」


 青年は、小さく笑った。


「……愛してる」

「ふふ……私も」


 街が、目覚め始める。

 それでも二人は、共にいる。




 

 夜。

 小さなバルコニー。

 いつも一人で空を見上げていた彼女の隣には、彼がいる。

 寄り添いながら、二人は、たくさん話をする。


 雨の日も、曇りの日も。

 朝が来ても。

 彼は、そこにいる。



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