4 名前のない黒い鴉
ノアは、ため息をついた。
高い木の上。風が吹くたび、葉擦れの音がそばで鳴る。葉の隙間からは大きな石造りの邸宅が見えた。
「邸の中にいると、息が詰まる……」
――ここなら、使用人や、屋敷の夫人の冷たい目も届かない。
青年は、しばらくは瞳を伏せて、葉の音に耳を澄ませていた。
やがて目を開けると、ふと、自分の手元に視線が引き寄せられる。
「あ……」
すぐ近くに、鳥の巣。
中には卵が数個入っていた。
ノアは辺りを見回すが、親鳥の姿はない。
――すぐ離れた方が……いいよね。
枝に手をかけて降りようとするが、指先が、巣に触れてしまった。
巣が傾き、滑り落ちる。
ノアは急いで手を広げて拾おうとするが、間に合わない。
――ぐしゃり……。
結局、巣は、地面に落ちてしまった。
ノアは木から降りると、ひっくり返った巣を覗き込んだ。
卵は割れ、どろりと中身が溢れてしまっている。
「あぁ……」
口を手で押さえ、小さく息を吐く。
その時――鳥の鳴き声。
ノアは振り返った。
艶づやとした羽根を持つ鴉が、大きな声をあげなからこちらへ向かってくる。
踵を返して、邸宅に走り出した。
小路を横切り、庭園を抜ける。
鴉のかん高い声が、いつまでも追いかけてきた。
鋭い嘴で、彼の髪を、肩をつつく。
「痛い! やめて!」
裏口の木の扉に手をかけ、滑り込む。
向こうでは、まだ鴉の鳴き声と戸をつつく音がしている。
やがて、音が止む。
ノアはそっと扉を開けて、外を確認した。
――鴉はもういない。
扉に背を預け、ノアは細く息を吐いた。
ふと顔を上げる。
使用人達の視線。
ひやりと腹の底が震えた。
彼らはノアと目が合うと、するりと視線を外す。
彼は、まだ動悸のしている胸を押さえながら、そっと扉を離れた。
彼らの視線から逃れるように、与えられた自室へ。
廊下の一番奥、日の差さない小さな部屋。
ベッドと書き物机、小さなクローゼットだけが並ぶ、使用人部屋と何ら変わらないようなその部屋に入ると、ノアはやっと、息をついた。
ベッドの縁に腰掛け、長いため息をついた。
鴉は、鳴かなかった。
落ちた巣のそばでじっとしていた。
割れた卵。
それを、ただ静かに見つめていた。
夜。
月が、静かに庭園の一角にある木立を白く照らしている。
鴉はふと、頭を低くした。
鈍い冷たい風が、その羽根を濡らしていく。
巣があったのとは別の樹上。
巣を壊した青年がいるのが見えた。
――あの男……。懲りずに……。
鴉は青年に近づいた。
闇に紛れる黒い羽根。黒い瞳。
風を切って彼に近づくが、葉擦れの音に紛れて、青年はそれに気づかずにいた。
彼の前髪が、ふわりと揺れる。
その隙間から覗いた横顔は、見るだけで胸が締め付けられる程に、ひどく寂しげだった。
鴉は不思議そうにそれを覗き込む。
彼の指先にわずかに爪先が触れ、青年がこちらに気づいた。
ゆっくりと、鴉の方へ顔を向ける。
「あぁ……君、あの時の鴉だね」
泣きたくなるほどに、やわらかい声。
青年の眉が下がった。
「本当に悪いことをしてしまった……。
――ごめんね。
謝っても許されないだろうけれど……」
鴉の視線が、どうしてか、青年から外せなくなる。
絹のような白金の髪に、深い翡翠の瞳。
白い肌に、異様に整った顔立ち。
切なげに細められた瞳に映り込んだ月は、耐え難いほどに澄んでいた。
青年は、ゆったりと視線を庭園に滑らせる。
瞬きをするたびに、瞳の中の月がかすかに揺れていた。
風が吹く。
それは庭園の草花を揺らし、かすかな甘い匂いが舞った。
やがて、月が真上に来る頃、青年は木からひらりと飛び降りて、邸宅の方へ歩いていく。
彼が草を踏む度に、青臭い匂いが立ち上った。風に揺らされた彼の髪に、月が溶けていく。
鴉は、視線を下げた。
ノアの部屋のカーテンが揺れている。
昼間でも薄暗い部屋。
鴉は、影に身を潜め、するりと部屋の中へ入りこんだ。
「夫人……あの……」
ノアが誰かに話しかけている。
話しかけられた女は応えることなく、隣にいた侍女に目配せをする。
侍女は軽く頭を下げると、手に持っていた箱を彼の部屋のベッドに投げるように置いた。
「明日はこれを着るようにと、奥様が仰せです」
「明日……誰かいらっしゃるのですか?」
「あなたの婚約者さまがいらっしゃいます」
ノアの顔色が悪くなる。
奥様と呼ばれた女は、ノアの頭の先からゆっくりと視線を下げて全身を確認した。
「決して顔や体に傷をつけないように」
熱のない声。
ノアは小さく「はい」と頷く。
「あなたにはそれしか価値がないのですから」
ノアの瞳が揺れた。
夫人は踵を返し、侍女は穢らわしいものを見るような視線をノアに向けてから、二人は狭い部屋を後にする。
扉が締まり、ノアはベッドの縁に腰掛けた。その弾みで、置かれていた箱が床に落ちる。
中から出てきたのは、最高級のウールやシルクを使った服。
今ノアが着ている目の粗いリネンとは大違いのものだった。
ノアは指先でそれを拾い上げると、大きくため息をつく。
「ここにも、僕を見てくれる人はいない……」
――カサリ。
物音に驚いてノアが振り向くと、カーテンの影にいる鴉に気づいた。
「……なぜそんなところに」
鴉は微動だにせずに、ノアを見つめている。
彼は、自嘲気味に、口元だけで笑った。
「ふふ……。見てたの?
……そうだよ。誰も僕とはまともに口を利いてくれないんだ」
持っていた服をベッドの上に放る。
「僕、売られるんだ」
鴉は、かすかに身じろぎをした。
日の入らない部屋であっても、彼の淡い金の髪は鈍く光を返していた。
彼は、壁に掛けられた鏡に視線を投げる。
割れて、欠けのある鏡。
「僕、きれいでしょ?
……本当はこの家の子どもじゃないんだ。
……きれいだから分家からここに引き取られて、ここの家の人間として、政略結婚の駒にされるんだよ」
鴉は、その翡翠の瞳を、ただ見つめた。
「お金持ちの未亡人と結婚するんだって。
――お金はあるけど、“色狂い”で“暴力的”だって、ここの家の人たちが言ってた。
政略結婚とは言ってるけど、売られるようなものだよね」
ノアは鴉の方を見る。
その翡翠の瞳は、静かで、沈むように深い色をしていた。
「……君の羽根、きれいだね。艶々してる」
鴉は小さく羽根を震わせる。
ノアはそっと息を吐くと、立ち上がり、部屋を出ていった。
きっとまた、彼はどこかの木に登る。
鴉はその粗末な木の扉を、静かに見つめていた。
翌日、ノアはほとんど出入りしたことのない邸宅のサロンにいた。
厚いカーテンは明け放たれ、大窓からは白い光が幾層にも重なって部屋を満たしている。
大きな花器に飾られた花々からは、甘ったるい強い香りが漂ってきていた。
ノアが座っていたダマスク柄の布張りのソファは、深く沈む。
自分の胸元に手を添えれば、慣れないシルクの高襟のシャツに、高級ウールのベストとフロックコート。
今日だけで、一体何度ため息をついたのか。
やがて、ノックもなく、扉が開く。
ノアはソファから立ち上がった。
扉の向こうにいたのは、中年の未亡人。
案内してきた夫人と侍女たちは部屋には入らず、未亡人の女一人だけが部屋の絨毯を踏んだ。
ノアを見るなり、彼女の真っ赤な唇がゆっくりと弧を描く。
「……これは、思った以上ねぇ」
ゆったりと彼に歩み寄ると、扇を閉じ、指先で彼の顎を持ち上げた。
ふわりと、すえた匂いが舞う。
「顔もいいし、従順そうじゃないの。
……長く楽しめそ」
ゾクリと、肌が粟立った。
ノアは瞳を伏せ、顔を背ける。
「あらぁ、嫌そうな顔もお上品だこと」
女はクスクスと笑った。
その声が、いやに耳に残る。
女がさらに手を伸ばして、ノアの首筋に触れようとした時――
羽ばたきの音。
驚いてノアが目を開けると、黒い羽根が部屋を舞った。
女が悲鳴を上げる。
未亡人は腕で顔をかばうようにして蹲り、声を聞きつけてきた使用人達が部屋に何人もなだれ込んだ。鴉を追い出そうと躍起になり、声がいくつも上がる。
鴉は使用人たちをつついては、嘲笑うように自由に部屋を飛び回った。
使用人が振り上げた手を紙一重で躱し、時折短く鳴きながら。
花器が割れ、ティーテーブルも音を立てて倒される。
使用人の一人が窓を開けると、間もなくして、鴉は悠々と外へ飛んでいった。
ノアは立ちつくし、呆然とそれを見ていた。
未亡人の女は立ち上がると、怒鳴り散らし始めた。聞くに耐えない暴言をいくつも喚き、部屋を出ていく。使用人たちが彼女の名を呼びながら、慌ててその後を追った。
ノアは、一人、残される。
部屋は、散々だった。
物という物が床に落ち、壊れてしまった物さえいくつもある。
足音が近づいてくる。
ノアが顔を上げると、開いたままだった扉の向こうに、夫人が立っていた。
刃物のような、鋭い視線。
「……この役立たずが」
ぽつりと言葉が落とされる。
ノアは目を見開き、肩を震わせた。
眉を寄せて息を呑み、彼は瞳を伏せる。
「……も、申し訳ありません」
震える声でノアが応えるも、夫人はすでに踵を返していた。
壊れたものだらけのサロン。
ノアは、その場に膝をついた。
夜。
月光が、静かに足元を這っている。
いつもの目の粗いリネンシャツに着替えたノアは、庭園を歩いていた。
小路を抜け、木立を見上げる。
そこにいたのは、闇に紛れるようにして枝に留まる鴉。
ノアの瞳がわずかに揺れた。
「……鴉さん!」
鴉は、静かにそれを見下ろした。
「僕を……庇ってくれたんだよね……?
ありがとう……」
影のように、鴉は動かない。
ノアはくしゃりと顔を歪めると、木に背を預けるようにして座り込んだ。
膝を抱え、顔を伏せる。
短い息が漏れた。
「もう……嫌だ……」
声が震えている。
「……僕なんて……消えてしまえばいいのに」
鈍い月明かりが、彼の髪を透かせている。
鴉はそれを、ただ見ていた。
◇
「母様、僕も何か手伝います」
ノアの兄弟たちは、父にくっついて狩りに出かけた。だが、幼いノアだけは、連れて行ってもらえなかった。
姉たちは母と、侍女も交えて刺繍をしている。
客人を迎えるために、テーブルクロスを新しくするのだと、楽しそうに話していた。
だから、ノアは母に声をかけた。
お喋りをしていた彼女たちは、一斉に口を噤んで彼を見る。
そして、顔を見合わせた。
母は作り笑顔で、ノアの方を向く。
「……あなたはいいの。お部屋に戻ってらっしゃい。
ほら……針で指を刺してしまうかもしれないでしょう?」
ノアは、眉を下げた。
それでも言葉を飲み込んだ。
「……はい」
ノアが部屋を出ると、閉めた扉の向こうから声がする。
「あの子はきれいだから……」
「使い道があるのよ」
「汚さないようにしないと」
「本家のご当主が興味を持たれて……」
押さえた笑い声。
ノアは廊下を駆け、自室に戻った。
ベッドに潜り込み、幼い彼は声を殺して泣いた。
◇
ノアは、立ち上がった。
庭園の向こうに建つ邸宅は、生家よりとても大きい。
月明かりがぼんやりと照らす小路を踏み、彼は部屋へ戻る。
まるで、自分の足音だけが、そこに沈殿しているみたいだった。
鴉は彼の背を見送った後、枝を飛び立った。
邸宅の開いた窓を見つけ、するりと中へ入り込む。
上階にある夫人の部屋。
そこにあった宝石箱を器用に嘴で開けると、大きな宝石のついたネックレスを選び、咥える。
そしてまた、飛び立った。
その姿は闇に溶けるようにして、じきに見えなくなった。
翌朝。
ノアの部屋の扉が乱暴に開けられる。
まだ眠っていたノアは、その音に驚いてベッドから飛び起きた。
「どこへやったんだ!」
使用人の突然の怒声に、ノアは肩を震わせる。
呆然としているノアに、苛立ちも隠さずに使用人は近づいた。
男の手が震える。短い呼吸。
使用人は彼の胸ぐらを掴んで手を振り上げた。
ノアはわけも分からずきつく目を閉じる。
「おやめ」
扉脇から夫人が声をかけると、使用人は舌打ちして彼を離した。
「おい、奥様のネックレスをどこへやった!」
「……ネックレス?」
使用人は苦々しく顔を歪める。
「お前が盗んだんだろう!」
「……え?」
夫人は、静かにノアを見据えていた。
それを見た彼は、やっと状況を察し、息を飲む。
顔を青ざめさせ、首を振った。
「ぼ……僕はやってません……。盗んだりなんか……」
ため息の音が、部屋に落ちる。
「……事を進めましょ。あの方に連絡して。
こんなもの、いつまでも置いておきたくないわ」
夫人が扉の向こうに去ると、使用人はノアの肩を強く押した。そして彼女の後を追って部屋を出ていく。
「待って……」
ふらつきながら、ベッドから慌てて降りるも、扉は目の前で閉ざされた。
指先が冷える。
ノアはそれを見つめ、力なく手を下ろすと、瞳を伏せた。
ため息が、溢れる。
その夜。
鈍い月明かりの下。
邸宅の車寄せに黒塗りの馬車が停まった。
慌ただしい足音がいくつも重なり、ノアの部屋の扉が開けられる。
ベッドの縁に腰掛けていたノアは眉を寄せて立ち上がった。
彼の部屋に入ってきたのは、夫人と、見知らぬ男たち。
男たちは光沢のあるスーツを纏い、姿勢正しく壁に並んだ。
夫人はゆったりと、ノアに歩み寄る。
「予定より早く、お前をあの方のもとに嫁がせることにしました」
ノアが夫人を見ると、彼女はにっこりと笑んだ。
その瞳には、一切の温度がない。
「とても高額な結納金を支払ってくださいました。
どうもありがとう。
きれいな顔の、お前」
夫人は口端を歪めて笑うと、踵を返して部屋を出ていった。
ノアの呼吸が、浅くなる。
壁際にいた男たちが前に出る。
彼らは丁寧に頭を下げた。
「では、お連れいたします」
一人が前を歩き、もう一人に背を押され、無理やり歩かされる。
建物を出て馬車の前まで来ると、さらに背を強く押されて、車内に押し込まれた。
外から、鍵をかけられる。
車窓は塞がれていた。
暗闇の中、軋む音がして、馬車が動き出す。
ノアは、馬車の床に座り込んだまま、震える息を吐きだした。
自分の膝に顔を伏せ、肩を震わせる。
膝が、涙でわずかに濡れた。
馬車が停まると、扉が開くなり腕を強く引かれて、ノアはどこかへと連れて行かれた。
幾人もの使用人に囲まれ、湯浴みをさせられ、服を着替えさせられる。
そうして彼は、部屋に押し込まれた。
背後から、鍵のかかる鈍い音。
部屋の中央にあるのは、天蓋付きの大きなベッド。毒々しいほどに艶のある赤い寝具。
厚いカーテンは閉め切られ、香が焚かれているのか、独特の甘い匂いがする。
喉が締め付けられる。
吐き気が込み上げてくる。
――カチャ……。
鍵が開く音がして、ノアは扉から離れた。
未亡人の女が入ってくる。
肌も透けそうなほどに薄いナイトドレスを纏った女は、ノアを見ると、ニィッと笑った。
女はゆっくりと、ノアに近づく。
「本当にきれいな男だねぇ」
女は唇を舐めた。
まるで狩りを楽しむかのように、女は笑っていた。
ノアは眉を寄せて、一歩下がる。
だが、壁が背に触れた。
未亡人の女が彼に身体が触れるほどに近づき、ノアは諦めるように短く息を吐く。
顔を背け、瞳を伏せた。
未亡人が彼の頬に手を伸ばした。
その刹那――
窓が音を立てて突然開く。
けたたましい鳴き声。
鴉の群れが部屋に滑り込んできた。
鴉たちは一斉に未亡人を取り囲む。
ノアは目を見開き、足が震えた。
その時、腕を強く引かれる。
「早くしな!」
ノアが顔を向けると、黒髪に黒い瞳の美しい妙齢の女性。
彼女はノアと視線を合わせると、不敵に笑んだ。
ノアは眉を寄せる。
「……鴉さん?」
彼女の口角がさらに上がった。
鴉の女はノアを引きずるようにして走り出すと、窓から外へ飛び出した。
「嘘! ここ三階だよ! 鴉さん!!」
ノアの悲鳴をよそに、近くの木に飛び移る。
「逃がすな! 誰かぁ!! 追え!!」
未亡人の女が声を張り上げている。
扉から使用人たちが流れ込むのが見えた。
「行くよ!」
腕をさらに引かれた。
ノアは息を呑み、その手を見つめた。
彼の瞳に、月が映り込む。
ノアは少しだけ口角を持ち上げると、その手を取り、彼女と共にまた飛んだ。
声にならない悲鳴が上がる。
ひたすら、走った。
ノアは光沢のある夜着のまま。スリッパは走っているうちに失くし、足元は裸足だった。
黒髪の女は細身のドレスだが、足を動かすたびに太腿が顕になっている。
背後からは、使用人たちの怒声と、鴉の鳴き声。
「か……鴉さんなんでしょ? あなた」
「そうさ!」
「なんで……人の姿に」
「あんたは……あたしと遠くへ行くんだよ!」
「……え?」
「いいから走んな!
舌噛むよ!」
有無を言わさず、とにかく走り続けた。
屋敷の門を抜け、石畳を駆ける。
――鴉の女は、昨晩のことを思い出していた。
「あんた、自分の気持ちも分かってないのかい」
街なかの小さな家に住む魔女の婆は、腰に手を当てて、にやりと笑った。
『……はぁ?』
「あたしはね、恨みだの腹いせだののために魔法は使わないんだよ。つまらないからね」
『……』
散らかったテーブルの上にとまった一羽の鴉を見つめながら、婆は言う。
「恋とか、そういうのが好きなのさ」
鴉は不服そうに羽根を震わせた。
「幸せにしておやり」
魔女婆はポケットにネックレスを押し込む。
そうして、ゆっくりと顔をあげた。
「それから――幸せにおなり」
『……何を言ってるんだよ』
魔女婆はしわしわの顔をさらにしわしわにさせて、ただ笑っているだけだった。
鴉の女が振り返った。
追手はもういない。
街は随分遠く。
道は土の道に変わり、その先には平原だけがあった。
「仲間が……手伝ってくれたみたいだ」
二人とも、呼吸が浅い。
少しずつ、走る速さを落とし、やがて二人は立ち止まった。
ノアは動悸のする胸を押さえ、眉を寄せて黒髪の女を見つめる。
鴉の女は手を伸ばして、ノアの顎を掴んだ。
「あんたは、あたしの大切なものを壊した。
その代償を、あんたは支払うんだよ」
ノアは悲しげに目を細め、頷く。
「……あたしはね、一人が嫌いなの」
黒い瞳は、まるで刃物のようにまっすぐだった。
だが、一度視線を外した彼女の瞳には、わずかな淡い熱が生まれる。
「……だからあんたは、あたしのそばにいるんだよ」
「……え?」
「あまっちょろくて、すぐ諦めちまう仕方のない男は、あたしのものになっちまいな」
ノアが戸惑い、その瞳を見つめ返す。
彼女は、ノアの夜着の襟元を強く掴んだ。
視線が交わる。
彼女の目が、彼の瞳と唇を迷うようになぞった。
やがて、少しだけ背伸びをした鴉の女は、ノアの口に唇を重ねた。
熱が触れ、視線が絡んだ。
短い呼吸を、そっと吐き出す。
ノアは顔を赤らめて、目を見開いた。
鴉の女は、遅れて、どこかあどけなく笑う。
「ほら、見て」
彼女はドレスの胸元に手を差し込むと、じゃらりと音を立てて宝石を取り出す。
「あんたを売ったあの女の宝石箱から、頂いてきたのさ」
ノアは宝石と、鴉の黒い瞳を見比べ、唖然と口を開く。
「……もしかしてネックレスもあなたが?」
鴉はウィンクをする。
「そのおかげであたしは、こんな別嬪になった」
ノアは言葉を失った。
「あたしは欲しいものは全部手に入れる。宝石も。この身体も。
……そして、あんたもね」
鴉の女がノアの頬に手を添える。
口端を歪めて不敵に笑むその瞳の奥には、静かな熱が灯っていた。
ノアはそれを静かに見下ろす。
そして、彼はふっと笑った。
「あなた、すごく悪い人じゃないか……」
「そうだろう?
あんた、悪いやつに捕まっちまったんだよ」
鴉の女が声を立てて笑うと、ノアもつられるようにして笑いだした。
朝焼けが、平原を赤く染めている。
妙齢の黒髪の女と、美しい青年が連れ立ってどこかへ旅立った。
――向かう先が、彼らにとって巣であったのか、檻であったのか、
知る者はいない。




